lamp
「なに見てるの?」
ガニメデ──エウロパの二大都市衛星間を結ぶ人工軌道[フライバイ・ハイウェイ]の道半ば、暇を持て余したエレナ=エマーソンが問う。
「いや、何か光ってるなと思ってさ」
ぼんやりと小型高速艇の窓から外を見ていたニコライ=ミルセンは眠そうに答える。
「別におかしくもないでしょ、私たち満天の星空にいるのよ?」
「それはそうだ。でもほら、見てみなよ。あそこ」
手招きで促され、エレナは小さく溜め息を吐きつつ運転席側に身を乗り出して彼の指差す方向を注視する。
視界の遥か先、不愛想な大岩が光年単位で群れを成す小惑星帯。彼女はその中の瞬きをすれば見失ってしまいそうな一点に微かな橙色の光を見た。
「あれ……灯り? あんな遠く、よく見つけたわね。隣で退屈してるガールフレンドが目に入らないはずだわ」
流れるように放たれた皮肉に苦い笑みを返しつつ、ニコライは続ける。
「悪かったよ……でも多少は大目に見てくれると嬉しい。地球生まれの僕にとってはまだ、見るもの全部が珍しいんだ」
「冗談よ、キツめのね。それよりあれ、何なのかしら?」
少しは機嫌を取り戻したのか、微笑んだエレナが窓の外に視線を戻す。この掴みどころのなさは彼女の生来のものであり、エウロパ出身者の特徴でもある。
「ここからじゃ何とも言えないな。あんなところに中継基地があるなんて聞いたこともないし……もしかして、遭難?」
「……まさか。エンジンがダメになってても救難信号くらい出せるでしょ?」
「それは、そうだろうが……」
ニコライは言葉を濁すと、今にも視界から消えつつある光を深刻な表情で見つめる。エレナはまた一つ溜め息を吐き、まず彼に助け船を寄越すことにした。
「行ってみる?」
「……本気かい?」
「今晩夢に見そうな顔してるもの。それに、心配なさそうなら帰ってくればいいだけでしょ。AIのナビもあるんだし」
そう言って彼女は自席に戻る。決めるのはあなたよ、と視線で告げられたニコライは頷き、自動運転を解除した。
ゴツゴツとした火成岩に似た小惑星群の隙間を潜り抜け、光の発生源を探す。
ただでさえ遠い太陽光は無数に重なった岩石の層に遮られ、ヘッドライトを最高出力にしても辺りは薄暗い。
「この辺りだと思うんだけど……」
マニュアル運転で操縦桿から手が離せないニコライに代わって登録した座標と睨みあうエレナが唸り声をあげるが、眼前には行けども行けども似たような景色が広がるばかりであった。
「陰に隠れてるのかもしれないね。危険だけど……停止してヘッドライトを消してみよう」
小惑星帯と言っても少し目を離しただけで衝突するほど密集している訳ではないが、いつどこからデブリ化した岩石が飛んでくるか分からないという点では十二分に危険な場所である。ブレーキスラスターの使用ひとつとっても非常に勇気のいる決断であった。
慎重に周囲の状況を確かめ、消灯する。
闇が帳を下ろし、やがて二人分の心臓の鼓動が聞こえるほどの静寂が訪れた。
目を慣らすための数十秒間は永遠にも思え、二人は無意識の内に手を繋ぐ。
そして視界の隅、小さな岩石惑星の裏から一筋の光が漏れているのを見つけたニコライは思わず大声を上げ、飛び上がらんばかりに驚いたエレナの平手打ちを受けることとなった。
それから十数分後、目的地へと辿り着いた二人を出迎えたのはなんとも不思議な光景だった。
真っ暗な宇宙空間にたった一つ悄然と浮かぶ、無骨な金属製のカプセル。見た目の印象で言えばそんなところだ。
脱出ポッドの類かと近づいて見てみればどうやら何かの店であるらしく、暖かな光のイルミネーションで『lamp』と書かれた看板が目に入った。
カプセルの頂点には橙色の強い光を放つ探照灯が据えられており、店名の由来が容易に想像できる。
しばらくの間言葉を失っていた二人であったが、驚きと混乱はほどなくして好奇心へと変わった。
「こんなところに……なんのお店かしら?」
「コーヒーカップの絵が描いてある。カフェなのかな」
「本当に? 潜水艦か何かに見えるけど」
「何とも言えないが……どうする、行ってみるかい?」
その提案は魅力的であり、恐ろしくもあった。辺境などという言葉ではとても言い表せない宇宙の端に佇む謎の建造物。灯りこそ点いているものの、生命維持装置が機能しているかどうかも定かではないのだ。
しかし、どこまでも荒涼とした宇宙を健気に照らすこの光が何ものにも替え難い不思議な引力を放っていることもまた事実であった。
入口と思しきエアロックに船を横付けし、壁面にでかでかと印字された通信周波数をもとに交信を試みる。
意外なことに、返答は早かった。
「いらっしゃいませ。何名様でしょうか?」
低く落ち着いた、男の声。その変哲のない応対が目の前の光景とはまるで不釣り合いに思えて固まっていると、男は少し怪訝そうに続けた。
「……どうされました? もしや遭難を?」
「あっ、いや! すまない、二人だよ」
遭難者救助のために訪れたつもりが遭難者にされてしまった。慌てて質問に応えると、「かしこまりました」の言葉とともに気密扉が開く。
少しの間顔を見合わせた後、二人は覚悟を決めて降船の準備を始めた。
──恐る恐る足を踏み入れたエアロックの向こう側は、まさに別世界であった。
年季の入った木製のカウンターテーブルに質素なスツール、絶滅したと思われていた白熱電球の照明、革のソファー。
航宙艦としては極小サイズにも関わらず1Gの重力を再現する技術力を意識させないそのレトロな景観はもはやガニメデの田舎町にも現存しない、遥か彼方の地球に置き去りにされた遺物そのものであった。
「これは……すごいな。あのエアロックはタイムマシンだったのか?」
「これがカフェなの? こんなの見たことないわ」
壁に掛けられた大きな柱時計を眺めながらエレナが呟く。地球出身のニコライとしてもアンティークショップか博物館でしか見たことがないものばかりで、説明できるほどの知識はなかった。
ひとしきり内装についての感想を交わしていると、奥から一人の男が現れた。先程交信したのは彼で間違いなさそうだ。
「『lamp』へようこそ。どうぞお好きな席にお掛けください」
恭しくも嫌味のない、自然体な所作で着席を促され、二人はおずおずとカウンター席に着く。
「お飲み物は?」
渡されたメニューをまじまじと眺めてみたが、どうやら内容はごく普通のカフェと変わらないようだ。
「じゃあ……コーヒーを二つ」
「かしこまりました」
拍子抜けするほど普通なやり取りを終えると、彼は小さなミルを取り出して豆を挽き始めた。豊かな香りが室内を満たし、未知への興奮はやがて未経験の安息に姿を変えていく。
自然と口数は減り、豆を挽く音や湯を沸かす音、電球の微かなノイズ、バックで流れるジャズミュージックにただただ耳を傾けるだけのゆったりとした時間が流れる。
「ここ、いつからあるの?」
エレナが口を開いたが、いつものように痺れを切らしたわけではない。店内を彩る音の一つとしてそれが加わっただけである。
「そうですね……こんな場所なので具体的に何年とは言えませんが、もう随分前になります」
古めかしいサイフォンに熱い湯を注ぎながら店主が答える。
「どうしてここで店を?」
ニコライも質問を投げかける。
「先代は教えてくれなかったので、発端は分かりません。ですが、今も続けている理由でしたら」
「それは?」
「身体の芯まで凍える冬の夜。真っ暗な路地を歩いているときに、角を曲がった先でカフェの灯りを見つけたら……嬉しくはありませんか?」
「ああ……そうだね。ここはまさにそういう場所だ」
ニコライが大きく頷くと、店主は小さく微笑んでコーヒーを差し出した。
「人は星々を見えないハイウェイで繋ぎ、想像もつかないような遠出をするようになりました。その暗く長い孤独な旅路の中でせめてほんのひととき、温かな灯りと安らぎを。もちろん楽ではありませんが、そんな思いで続けています」
「……素敵ね」
エレナはすっかりここが気に入ったようだった。窓の外の星空を眺めながらカップに口を付ける彼女の表情は、店主の言葉をこれ以上ないほどに体現している。
気づけば二杯目のコーヒーと追加のチーズケーキも胃に収まり、想定していた滞在時間を大幅に過ぎていた。
「名残惜しいけど、そろそろ行こうか」
ニコライが席を立ち、エレナの髪に触れる。
「ええ、そうね。……店主さん、ありがとう。本当に心地良い時間を過ごせたわ」
「何よりです。外は寒いですから、風邪をひかないようお気をつけて」
道具の手入れをしていた店主が微笑み、目礼する。
電子通貨の会計を済ませて時計を見ると、どうやら二時間以上もリラックスしていたようだ。
「いやいや、すっかり時間を忘れてしまってたね。でも、得難い時間だった。……また来るよ」
ニコライが笑顔で手を振り、エレナの待つエアロックに向かう。
「いつでも歓迎いたしますよ。またのお越しをお待ちしております」
深く頭を下げる店主の姿が気密扉の向こうに消えるのを見届け、宇宙服に着替える。
「たまには寄り道もいいものだね」
「ええ。近いうちにまた来ましょう」
乗船のための減圧を待っている手持ち無沙汰な時間。ニコライがふと浮かんだ疑問を口にする。
「しかし、彼の先代はどうしてこんな見つけにくい場所を選んだんだろうね」
「あの人が分からないことを私たちが考えたって仕方ないでしょ。それに、大通りに出して行列なんて作られたらあの雰囲気は味わえないわ」
それもそうだ、と頷いたニコライだったが、続きの言葉は出なかった。
気密扉が突然開いたのだ。
その先にある筈の小型艇は忽然と姿を消しており、二人は宇宙空間に投げ出される。
急性の減圧症と呼気の結露で霞む視界の中、ニコライは全てを理解した。
こんな隠れた場所に店がある理由も、そのくせ強い光で所在を報せていた理由も、店主が中々姿を見せなかった理由も。
あの灯りは。
あの店は"疑似餌"だったのだ。
眼前で視野の外まで開いた口と幾重にも並んだ牙を眺めながら、二人は震える手を繋ぐ。
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