9 領都フレアローズ


 ガロリア皇国北部に位置するグローリア辺境伯領。その中心部であり、領主の城館が置かれた街が領都フレアローズだ。元は別の名前であったらしいが、城館のフレアローズ城の名にちなみ、いつの頃からかそう呼ばれるようになったという。

 北部最大の都市であり、城郭のすぐ近くにガロリア皇国を縦に横断する大河が通っており、北と南を結ぶ河川と接するフレアローズの街は北方の交易の中心地でもあり非常に栄えていた。

 フレアローズより北にもいくつか城塞都市はあるが、規模はぐっと小さくなる。


 僕らを乗せた馬車がまず向かったのは、富裕層を対象とした商店が並ぶ地区だ。

 寄り合いの馬車を停められる広場があったので、そこで馬車を停めてもらい、街を歩くことにする。エリスもロイも渋ったが、ディアナにとっては城の外を歩くのは初めてのことなのだと強調すれば、折れてくれた。

 本当にディアナ嬢が城下を歩いたことがないかは知るよしもないが、まだ齢六つということと身分を考えれば、あながち誤りでもないだろう。


 僕のこの町の最初の印象はネルトリンゲンだったが、オルレー河へと繋がる水路が至る所に張り巡らされ、小舟が行き交う様はどこかヴェネツィアを思わせた。

 通りには大ガロリア帝国時代から残るという石畳が敷かれており、思っていたより歩きやすい。それに、富裕層の住まうエリアであることもあってか、覚悟していたような臭気はなかった。


 乙女ゲーム「皇国のレガリア」は中世ヨーロッパ風ファンタジー世界が舞台、という触れ込みであったが、あくまで日本人の考える「中世ヨーロッパ風」であるので、本来の中世ヨーロッパとは随分違う。

 そもそも中世といっても千年くらいあるし、地域によって文化風俗も政治制度にもかなりの違いがあったので、ひとくくりにできたものじゃないからな。


 この世界は乙女ゲームの世界だけあって、華やかな宮廷文化があり、貴族制度もしっかりしているが、実際にそれらがヨーロッパの各地域で確立されていったのは近世に入ってからのことだ。社交界文化もしかり、貴族が文化教養を学び身につけることを推奨されるようになったのも、メディチ家の娘がフランスに嫁いで以降のことである。

 それまでは王侯貴族も食事は手づかみだったし、最悪テーブルに刻んだへこみに直接スープを注いでいたくらいだ。


 はっきり言って、そんな乙女ゲームは売れないだろう。いや、乙女ゲームじゃなくたって厳しいと思う。少年少女の夢ぶちこわしもいいところだ。

 僕だってそんな環境で生活するのは耐えられないので、この世界の文化レベルが近世……場合によっては近代に寄っているのはありがたいことだと思っている。


 できれば、どうせローマがモデルの帝国の後継国家だというなら、上下水道や公衆浴場も受け継いでいて欲しかったものだが……。かつてのヨーロッパのように、水に触れることが病の元だなどという迷信がはびこっていなかっただけありがたいと思うべきか。


 あれ、そういえばこの街、下水道はないけど、汚物の処理はどうしているのだろう? 中世の都市では側溝に捨てて、放し飼いにしていた豚に食べさせてたらしいけど、豚は見当たらないが……。

 江戸の街のように、近隣の農家が買い取るシステムでもあるのだろうか。

 図書室の本は歴史書や法律書、魔法書の類いが多くて、現在の都市のシステムに触れているものは少なかった。皆が当たり前に知っていることだから、書き記す必要がないためだろう。


 ――なんてことを考えながら歩いていたら、隣の大神警視から軽く脇腹を小突かれた。


「いてっ」

「きょろきょろするな、目立つ」

「は、申し訳ありません」


 小声で叱責を受け、首を竦めた。

 ケイン少年は実に可愛らしい子どもなので、そんな子が明らかに物珍しそうにきょろきょろと周囲を見回していたら確かに目立つだろう。実際、近くの物売りたちから微笑ましいと言わんばかりの視線を貰っていたのに気付いて、しくじったと反省しきりだ。


 まあ、目立っているのは僕のせいだけではないのだけれど。


「しかし、あなたがいるだけで目立たずにいるのは難しいかと思います」

「……わかっている。だからこそ極力目立たないよう行動しよう」


 大神警視も自覚しているようで、外套のフードを深く被りなおした。

 舌打ちしそうなほど苦々しい表情だが、それでも可愛らしくうつるのだから、ディアナは本当に顔の造作が飛び抜けて整っている。毎日温泉に浸かっているおかげで肌もむきたてのゆで卵のように白くつるんとしているし、髪も艶と輝きを増しているので、分厚いフードで隠していなければ立っているだけで人目をひいて仕方なかっただろう。


 メイド達を味方につけるために磨いた外見だが、隠密に行動したい時にはあだとなるとは。

 今日、僕も大神警視も、エリスに用意して貰った商家の子どもが着るような街着を着ている。フリルやレースが抑えめなので、大神警視にも着やすかったようだ。


「エリス、食料品や日用品を売っているお店はどこですか」

「食料品ですか? それでしたら、この時間ならまだ朝市が開かれてますので、そちらへ参りましょうか」


 エリスの案内で向かった朝市は、これもやはり比較的裕福な領民を対象にしているようだった。宿屋や酒屋など、まだ戸の閉まっている店の前に、移動式の屋台がずらりと並んでいる。この市は早朝からはじまり、正午には解散となるそうで、結構な賑わいだった。

 野菜、果物、穀物にチーズや乾し肉、解体した肉の固まりといった食料の他にも、酒樽や油の瓶などもある。香辛料も扱っているようで、胡椒や胡麻、砂糖も売っていた。


 ん? ……えっ!? 胡椒、胡麻、砂糖!? 酢漬けもあるから当然酢もあるよな!?

 そりゃあ他の食料と比べると、かなり高価だけど、市で売りに出る調味料が何故城で活かされてないんだ!


 僕が愕然としている間にも、大神警視はエリスとロイから情報を引き出すのに余念がない。


「エリス、ロイ。食料の相場を教えてください。このあたりのものは適切な値ですか?」

「ええ、そうですね……。香辛料やお砂糖は高価なものですし、どこでもあれくらいはしますね。でも、ええと……。穀物が少し値上がりしてますね……」

「まあ誤差の範囲っしょ。このあたりの市のはモノがいい分値が張るんで、俺らなんかだともっと南の区画の市に行きますけどね」


 護衛騎士はそれほど薄給ではないはずだが、それでも高いと感じるのがこのあたりの品ということだろうか。見た限り、確かに商品に痛んでいる様子はまったくないし、売り手の身なりもそう悪いものではない。

 小物や古着の屋台もあったが、そこで扱っている古着も、状態は悪くなさそうだった。


「区画によってそれほど値が変わるんですか?」

「城門に近い区画は平民がばかりなんで。果物一つでも、こっちとあっちじゃへたすると倍以上違うなんてこともありますよ」


 なるほど、デパートの食品売り場と激安スーパーくらいには差があるのだろう。


 どうやら数ヶ月前にフレアローズへやってきたエリスよりも、ロイの方が城下街には詳しいようだ。考えてみればエリスもまだ数回しか街に降りたことがないだろうから、ロイを連れてきたのはやはり正解だった。


 それから僕らは市を丹念に見て歩き、何が売っていて何が売っていないのかを確認していった。

 実際の歴史では、近世には砂糖や香辛料はだいぶ安価になって入手しやすくなっていたものだが、この世界ではまだ高価なものであるらしい。異世界転生ものでは砂糖が高価な場合、甜菜などを大規模栽培して砂糖を生産し大儲け――というのは定番だが、これなら可能性はありそうだ。

 問題は、甜菜の苗を見つけることができるかと、僕らは自由に采配できる農地を持っていない、ということだが、庭園を畑にしてしまったら怒られるだろうか。帰ったら大神警視に提案してみよう。


 朝市で軽食の販売もしていたので、鶏肉の串焼きや平たいパンに野菜とハムを挟んだものを屋台で購入し、広場のベンチに座って食べた。味付けはやはり塩である。まずくはないが、もっとこう、一応酢も辛子もあるんだから、やりようもあるだろうに。

 一応料理を趣味としてる僕にとっては、どうにか改善したいところだ。厨房で何か作ったら怒られるだろうか。カールさんに相談してみよう。


「……胡椒や砂糖を買って帰ってはダメでしょうか。調味料を増やしたいんですが……」

「ああ……。そろそろ味噌と醤油が恋しいな……」


 エリスとロイに聞こえないよう、こそこそとそんな相談をして、せめて食生活の改善のために目についた調味料や、見覚えのある果物、気になった果物類は全部買って帰ることにした。荷物持ち《ロイ》が居るのだし、馬車なのだから遠慮はいるまい。ロイが嫌な顔をしていたが、僕は見えないふりをした。


 その後は高級な日用品や文具を扱う店で羽ペン以外の筆記具を探したが、生憎まったく見つからない。どうやらあれが主要な筆記具らしい。紙は普及しているようだが、まだ高価。そのくせ活版印刷は既に普及しており、書店に並ぶ本は全て活版印刷だ。図書室の本は活版のものもあったが、手書きの写本も多かった。となれば、かなり貴重品であったのだろう。


 一冊一冊がかなり高価なので、購入するものは富裕層ばかりだろう。新聞や大衆娯楽小説のような書籍はまだ発行されていないようだった。

 代わりに、書店や高級品を扱う店の壁などに、時折法律の変更や税についてなどの情報や、犯罪への注意喚起などが貼られている。文字を読める者が少ないせいか、文章も平易で、絵で表現しているものが多い。店の軒先の看板も、店名こそ文字で書かれているが、絵図の看板の方がずっと目立つように作られていた。

 時折立て看板に、似顔絵と数字、簡単な罪状の書かれた手配書が張られている。数字は、犯罪者に駆けられた賞金のようだ。やはり識字率はそう高くはないのだろう。


 それにしても、まともな筆記具が羽ペンしかないとはどういうことだろう。あれか? 普通のペンより羽ペンの方が見栄えがいいし、中世っぽいからか? そんなところのディティールを拘ってどうするんだ。

 せめて付けペンがあれば……!


 いや、待てよ。あれはガラスペンほど作るのに技術は要らないのではないか? 鍛冶師はいるのだから腕の良い者を探して作って貰うというのもありかもしれない。

 これもあとで警視に相談しよう、そうしよう。


 欲しいものがどんどん増えていくのは、この世界がそれだけ現代日本人にとって不便だということか。

 うーん、かなり裕福な貴族の子どもに入り込んでいてこれなのだから、異世界転生で庶民に転生してしまうと、衛生環境にそもそも耐えられないんじゃないだろうか。お城でのおまる生活でもかなりきついっていうのに……。


 大神警視なんて、トイレ事情に嫌気が差して、城と城下町の設計図を図書室で見つけてから、上下水道をどうにか整備できないかと設計図を書いているのを僕は知っている。なんでそんなもの書けるんだ、聞いたら、大学時代、イタリアで古代ローマの上下水道の設計図を見たことがあるとかで、それを参考にしているそうだ。


 あの人の頭の中は本当にどうなっているのかわからない。なんでそんな昔に見たものを覚えているんだ、おかしいだろう。

 金と権限があったら、あの人は躊躇いなく城の大改築に乗り出すのだろうな……。


 まあ、その前に元の世界に戻れるのが、僕らにとっては一番良いのだけれど。





 ***





 富裕層向けの区画を抜け、次に向かったのは平民が多く住む区画だ。そこでも市がたっているが、昼に近い時間となってしまったせいか、ひとはまばらだった。屋台に並ぶ商品もほとんど残っていないが、野菜や肉といった生鮮食品には少し痛みが見られ、売り子たちの服装も、随分くたびれている。


 北部で最も豊かな街だけあって、宿が集まる通りや、日用品や雑貨、パン屋などの集まった商店街は活気があった。

 できるだけ不躾にならないよう市の様子を確認しながら通りをゆっくりと歩く。


「売れ残りは痛んだものばかりみたいですね」

「あれでも庶民にとったらまだまだいけるってもんですよ」


 僕の感想に、すぐ後ろを歩いていたロイが苦笑した。なるほど、この世界ではあのくらいは痛んだうちに入らないのかもしれない。

 考えてみれば、防腐処理も冷凍保存も困難なのだから、僕らの基準よりずっとそのあたりは緩いのだろう。

 ロイは僕の発言について、世間知らずの金持ちの子どもの発言と受けとったようで、特に不審に思う様子もなかった。


「しかしこんなもん見て、何が楽しいんですかね? セント・ピオス通りの商店街とかの方がいいんじゃないっすか? 皇都で有名なドレスのデザイナーが店を出したって聞きましたけど」

「それは私も聞きました。とても美しい絹を扱うそうですわ。お嬢様。古着なんかよりドレスを新調なさるべきですわよ」


 ロイに対して良い感情を持っていないはずのエリスすら、即座に同意を示した。富裕層の集まる地区ならまだしも、庶民どころか貧民も多く居る区画を僕らに歩かせるのは不安が大きいようだ。比較的裕福な領民向けとはいえ、古着店で大神警視が男物のような衣類を求めたのも不満だったのだろう。

 エリスは下位とはいえ貴族令嬢なのだ。主家の娘が古着、それも男物を何故欲しがるのか理解できないのも仕方ない。


「ドレスは間に合ってますから、そちらはいずれ。それより、あそこは? 随分多く人がいるようですが」


 大神警視が令嬢らしく丁寧な言葉でふたりに訊ねたのは、前方に広がる広場の混雑理由だった。


 いつの間にか城門近くまで来ていたらしい。


「あれは大神殿前の噴水広場です」

「ああ、あれが……」


 大神殿前の噴水広場は、領都フレアローズの観光名所の一つでもある。

 領都を縦横無尽に走る水路の始点とも言える船着き場を横手に眺められ、後ろには北部で一番歴史の古い大神殿を擁する広場。その噴水は、大ガロリア帝国時代から遺されたものだ。


 その噴水の正面には領都をぐるりと囲う城壁の正門がある。

 大きく開かれたその門のあたりは、荷馬車や商人、旅人など、たくさんの人でごった返していた。


 僕らは噴水の前で足を止め、ぐるりと周辺を見回した。


 ここまでゆっくり歩いてきて実に顕著に感じられたのが、浮浪者の増加だ。

 路地の隙間や家の裏手、通りの端にうずくまり、道行く人に物乞いをする者。救貧院の近くにはいっそうそういった者が多く集まっているようだが、不思議なことに、やたらと怪我人の姿が多いように思えた。

 城門にも、旅人や商人に混じって、明らかに身なりの貧相な難民のような人々の姿が目立った。


「……ロイ、このあたりの治安はどうなっているのですか」

「はぇ? あー、一、二ヶ月前まではそう悪くもなかったんですがねぇ……。俺も街まで降りたのは二週間ぶりっすけど、あきらかに浮浪者が増えてますね」

「何が原因か聞いてきてください」


 大神警視の指示に、ロイは少し困った顔をした。


「聞いてくるのはいいんすけど、そしたらお嬢様、この噴水の前から動かないでくださいよ。坊ちゃんも!」

「はい」

「わかりました」


 僕らが素直に頷けば、ロイはエリスに目配せをひとつしてから大股で城門へと向かっていった。

 その背中を見送って、僕と大神警視は噴水の縁に腰を下ろした。

 流石は北都で一番の観光スポットだ。噴水を囲うように人々が集まり、僕らのように縁に座ったり、神殿の階段に座って屋台の軽食を食べたりしている。

 実にのどかな光景だが、その中に混ざる物乞いや貧民の多さが気に掛かった。


 そのような状況で、かつ人が多い場所だからこそ、ロイは僕らの側を離れるのを内心嫌がったのだろうし、エリスも緊張した表情で周囲を警戒しているのが手に取るように伝わってくる。

 ぴりぴりとした空気が周囲にも伝わりそうな程だ。護衛ロイがいないから、今何かが起こったら、と内心心配しているのだろう。優秀な娘であるのは間違いないのだが、しっかりしてはいてもまだ経験豊富とは言い難い。


 その緊張をあからさまに見せてしまえば、多分……。


「エリスさん、大丈夫ですよ。すぐロイさんも戻ってきますから。ここに座って待っていましょう」

「いえ、私はこのままで大丈夫で……きゃっ!?」

「エリスさん!」


 どん、と。

 エリスに後ろからぶつかってきた小柄な影が、ぶつかった反動で尻餅をつく。


「いってぇ……」

「ああ、びっくりした。坊や、大丈夫?」

「こんなとこにつったってんじゃねぇよ!」


 転んだ少年を助け起こそうと屈んだエリスだったが、少年はその手を振り払い、大きな声で悪態をついて脱兎の如く走り出した。


 ――その一連の出来事を、見て。


「窃盗! 現行犯だ、追え!」


 大神警視が鋭く指示を出し、噴水の縁から飛び降りて駆け出す時には、僕も一緒に走りだしていた。


 それぞれ、真逆の方向へ。


 僕が追うのはあの少年。

 大神警視が追うのは、エリスの斜め後ろにずっと座り込んでいて、少年が逃げ出すのと同時に反対方向へ駆けだした物乞いの子ども。


 少年が駆け出すとき、後ろ手に投げ、物乞いの子どもが受けとったのは確かに、大神警視がエリスに預けた革袋だったのだから。

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