6 夢と魔法と温泉と
――おねがい、おねがいよ。
ぽろぽろと静かに涙をこぼしながら、その子は言った。
両手で顔を覆って、耐えきれないというように小さな身体を、もっともっと小さく縮こまらせて。
――わかってるわ、これは悪いことよ。いけないことなの。
――でも、わたしは知ってるの。その方がずっといいんだって。あなたのためにもそのほうがいいんだって。
まるで言い訳をするかのように、幼い声が言葉を重ねる。
――あのひとにとってはあなたもいらない子なのだもの。
悲しい言葉を、ひとつ、またひとつ。
――おねがいよ。どうかあなたのその力をわたしに貸してちょうだい……。
ぽろぽろと、涙が零れる。
溢れて零れて、溢れて零れて。
そうしてまろやかな白い頰をつたい落ちては絨毯にしみを作っていくのだ。
それがあまりにも悲しそうで、可哀想で、どうにか止めてあげたいと思うのに、どうしてやればいいのかわからない。
わかった、わかったよ。
泣かないで。
一緒にやるから。
僕ができることなら、手を貸すから。
だから――……。
か細く震える肩に伸ばした手は、見慣れた自分のものとまるで違う、小さな子どものそれだった。
***
ぱちりと目覚めて、真っ先に視界に飛び込んできたのは、空中に突き出された子どもの手だった。
まるで何かを掴もうとするかのように、僕は寝たまま手を伸ばしていたらしい。
朝から夢見が悪かったのか、何故だか悲しい気持ちで一杯だった。
泣いている子どもが居たような気がしたけれど、気のせいだろうか。
「……二葉かな」
ぽそ、と浮かんだ名前を口にして、ますます悲しくなる。
今頃妹はどうしているだろうか。
考えても詮無いことだと極力考えないようにしていたけれど、やはり妹のことは気に掛かる。
僕の家は両親と僕と、年の離れた妹の四人家族だった。二葉が産まれたのは僕が高校生の時で、両親が事故で逝ってしまってからは二人きりの兄妹として助け合って生きてきた。
もともと僕の仕事が仕事だから、万が一ということは常に考えていたし、そうした場合の対処法についても話し合っていた。遠方に住む伯父夫婦にも、僕に何かあったときは成人まで妹の面倒を見てくれるよう頼んでいたし、両親の残した保険金も手つかずで残っている。僕が死んでこの世界に転生してしまっていたとしたら、労災の扱いになるはずだから、少なくとも成人するまでの生活費や学費には困らないだろう。
だから問題はそこではなくて――……。
――お兄ちゃんは、いきなり居なくならないでね。
両親の葬儀の日、二葉は泣きすぎて腫れ上がったまぶたをそのままに、ぽつりとそうつぶやいた。
あの時僕は何と答えただろうか。
もちろんだ?
当たり前だろ?
いや、どれも違う。
言えなかったのだ、何も。
何故なら僕は、自分がいつ突然死んでもおかしくない仕事をしていると、自覚していたのだから。
そのことを――どこの部署で、どんな仕事をしているのか教えるわけにはいかないから。
交番のお巡りさんではなくても、交通課とか、生活安全課とか。世間がぼんやりイメージする「警察官」であるとしか、妹は思っていない。
そう思うように誘導したのは僕で、それが当然のことだった。
「……ごめんな」
今更、約束をしてやれなかったことを後悔するなんて、馬鹿げている。
守れないかもしれない約束なんて、するが意味がないと思っていたけれど。本当は、嘘でも言ってやるべきだったのかもしれない。
もちろんだと。
お前を置いて逝ったりしないと。
まだ手遅れではないと、そう信じたい。
――なんて、朝からナーバスになっていたその日。
よもや上司が温泉を掘り当てようとは。
このときの僕は欠片も思ってはいなかったのだった。
***
行儀作法をはじめとした家庭教師を招くために、必要なものが何かと言えば、伝手と金である。
本来なら、どちらもグローリア辺境伯家の子息子女が頭を悩ませる類いのものではないのだが、いかんせん、その子息子女からそれらを遠ざけているのが父親たるハンス・グローリア辺境伯(代理)とあっては、僕らにはどうにもならない。
どうにか好意的な使用人達の伝手を辿って教師を見つけることができたとしても、雇うための金がないのだ。
そんなわけで、僕らの教師獲得計画はなかなかに難航していた。
一朝一夕ではどうにもならないと判断し、できることから始めることにしたわけだが、その第一歩が、味方につけられる人間を増やす、ということだ。
そもそもが、この子たちに好意的な使用人として、僕と大神警視が揃って認められる者が少ない。グローリア辺境伯領城館フレアローズ城一の隔右翼で働く者の中では特にだ。ここまで来れない下位の使用人らは、好意的とまではいかないが、同情的ではあった。
そんな中で一番良くしてくれるのがモリー夫人だ。初日に僕らを叱りながら食堂へと案内してくれたメイドである。
元々メイド頭だった彼女だが、新しい家政婦が来るや、メイド頭から一介のメイドへと降格されて、最近雇い入れられた侍女たちに使われる立場になっている。その為、大変多忙そうであるのだが、その合間にも僕らの食事時には何かと様子を伺いに来てくれていた。
今この一の隔で働いている者達の半分以上が、三ヶ月前に新当主となったハンスに雇われた者達で、それまで働いていた者達は解雇されるか、階級を落とされて二の隔で働いているらしい。新しく雇われた者が何をしているかというと、主に東棟の「お客様」の世話だというのが笑うしかない。
金策の元手は、話し合った結果、ディアナ嬢が祖父母か両親のいずれかから手渡されていた小遣いを使用することになった。
幼女の小遣いと侮るなかれ。彼女の書き物机の引き出しにしまわれていた宝石箱には、天鵞絨の巾着に金貨が数十枚ほど入っていたのだ。たしかゲームの中ではロアナ金貨と呼ばれていたもので、金貨一枚が銀貨一四枚に相当し、銀貨一枚で庶民が一ヶ月は生活できた、はずだ。
なにがしかの事業の元手にするには十分な資金だろう。
「何をするにも、やはり先立つものが必要だな。そして人手がいる。信用できる大人を味方につけねばどうにもならん」
というわけで、その資金で何をどうして教師を雇用できるだけの費用を捻出するか、というのは要検討することになった。もちろん、できるだけ多く金を稼いで、最低限使った分は巾着袋に戻すのは絶対である。
異世界転生ものならこの資金を元手に、現世知識を使って何かしら商品開発したり、金策に役立てるのだろうけれど、生憎そうそう都合の良いものは思い浮かばない。何せ世間と切り離されている状態なので、商品開発を依頼できる伝手も、そもそもの商材をさがすこともできない有様なのだ。
金策より先に必要なのは、子どもである僕らの代わりに動いてくれる成人した人物を味方につけることであった。
その為にまず大神警視がしたのは、屋敷中の人間と面通しをして、敵味方を判別することだった。
最初から好意的な人物はそれが継続するように、同情的な人物には味方になってもらえるように。幼気な幼女の外見と、毒親と断定していい親の所行を最大限利用して、下位から中位の使用人らの同情を勝ち得、何か困ったことがあればいつでも言ってくださいね、と向こうから声をかけてくれるまでになるのにかかった時間はたった三日である。
その間、庭師のジャックさんなどは大神警視の依頼で適当な板を削って洗濯板を作成してくれ、それを洗濯婦たちにプレゼントしたことで一躍時の人となっていた。なんでもジャックさんの思い人が洗濯係にいたらしく、大層感謝されたとか。
おかげで彼はすっかり、頼まれれば何でも買ってきますよ、作りますよ! といい笑顔で言ってくれるようになったほど。
……なのだが。
「いやー、そりゃあねぇ、中庭で魔法練習されて庭木焦がされちゃ困るとは言いましたけどねぇ……。だからって裏山で温泉掘り当てるって……。ウチのお嬢様、ちょっとおてんばが過ぎませんかねぇ……」
と、吹き出す熱湯の源泉を前に遠い目になっているジャックさん。
もちろん僕も同じ表情になっているのは言うまでも無い。
まずはできることから、ということで、僕らは人脈作りと平行して、独学での魔法の勉強も始めていた。
とはいっても魔法書を読み込んで、本に書いてあるとおりに実践するというものでしかないのだが、流石に室内では危険だろう、と庭で始めたのである。
魔法なんて使ったことも触れたこともなかった僕らだが、さすがは後のラスボス令嬢と攻略対象者である。初級魔術理論の本を覚えるまで読み込んで、書いてる通りに実践したら、着火という初歩の魔法に成功したのだ。
しかしそこで驚いてすっ飛んできたのが庭師のジャックさんである。
彼は丹精込めて整えた中庭に火をつけられてはたまらない、と城の裏でやるようにと言ってきたのである。そこは普通、危ないから辞めろと言うべきところなのだろうが、まだ若い彼は迂闊なところがあって、そこに思い至らなかったらしい。
雇い主の子どものやることを止めて文句を言われるのが嫌だったのかもしれないし、最初に成功させたのがただろうそくに火をともすだけの魔法であったから、というのもあったかもしれないが。
ともあれ、成功に喜んだ僕らは調子に乗ってあれこれ試した。
とくに大神警視は根っから天才肌の努力家である。
なんでもかんでもやればやっただけできる上に、できるまでやり続けるという根気もある。要領がいいのか、何事もコツを掴むのが速く、ちょっと教わっただけで玄人裸足になるような、そんなひとだ。それがラスボス令嬢の身体を操っているわけだから、上達速度は段違いだった。
あっという間に大きな火球を作れるようになり、それだけでなく水魔法、風魔法、土魔法もそれぞれ初級を試し……。
魔法の練習をするようになって、三日目のこの日、とうとう大神警視はやらかした。
探索魔法で土中の探索を行い、水脈を発見。
城の近くに水源があるのは良いことだろう、と掘ってみたらば――……。
派手な音をたてて、地中から吹き上がった熱湯。
硫黄の臭いと若干濁ったそのお湯は、恐らく、いや、間違いなく――温泉であった。
ぶしゅう、と吹き上がるお湯。立ち上る湯気。
日差しを浴びて、飛び散る飛沫がきらきらと輝く中、小さな虹が殺風景な裏庭にかかる。
それらを前に歓喜する幼女。
「見ろ、温泉だ! これでいつでも風呂に入れるぞ!」
ジャックさんの手前、僕の名前は呼ばなかった大神警視であるが、風呂への渇望はまったく隠せていなかった。いや、隠すつもりもなかったんだろうけど。
現代日本で生きてきた我々にとって、この城の衛生環境はあまりよろしいものではなかった。
特に風呂とトイレ。
大ガロリア帝国がローマ帝国をモチーフにしているのなら、公衆浴場や上下水道だってあってもおかしくないはずなのに、どちらも「かつてはそんなものもありましたね」状態で、トイレはおまるだし、風呂はお湯を沸かすのが大変なのでたまの贅沢扱いなのだ。
貴族だからこそ、望めば湯を用意してもらえるけれど、それだってあまり頻繁に頼むと不興を買いそうでできなかったくらいである。
それなので、こんなにも温泉が沸いて嬉しい、とアピールすることは重要である。
この温泉を活用して常時風呂に入れるようにする、という方向に持って行くためにも。
「とりあえず今日は五右衛門風呂でいいな?」
「土管もドラム缶もないのでダメだと思います!」
その後数日かけて、城の裏手に土魔法で穴を掘り、そこを固めて、庭師のジャックさんに造園仲間を呼んで貰って露天風呂を造り、視線避けの屋根やら脱衣場やら身体を洗う場所を設けて貰ったのだった。
かかった資材や費用は、ネグレクト親父の財布からである。
子守はさっさと解雇したハンスだが、領地にはほとんど戻ってこないので、庭園の整備費として計上しておけばそうそう気付くまい。
「子ども達の健康のためだ。必要経費と割り切ってもらおう」
見た目だけは子どもらしく、満面の笑顔で言い切った大神警視であったが、もちろん自分が入りたい、以外の狙いもあった。
入浴のルールをきっちり決めて、大ガロリア帝国式浴場と嘯いた露天風呂を使用人にも開放した結果、ごく一部を除いた使用人たちの好感度をがっちり爆上げすることに成功したのである。
……温泉を毎日一番堪能しているのが大神警視と僕であるのは、間違いないのだけれど。
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