5 グローリア辺境伯家の内情
豪華な寝台で目覚めるようになって三日も経つ頃には、さすがに子どもの視線の高さにも慣れてくる。初めのうちは今までとの手足の長さの違いから、つい目測を誤っては足を縺れさせたり、手に取ろうとしたものに届かず指をぶつけてしまったりと小さなミスを繰り返していたが、それもようやくなくなった。
「ああ……、運動したいなぁ……」
書斎の窓から見上げた空は、とても高く澄んでいる。天気は快晴。グローリア辺境伯領は、地球で言えば中央ヨーロッパと北ヨーロッパの中間くらいの緯度にあるらしく、寒さは厳しく冬は晴れが少ない。しかし今日は良く晴れていて、寒いことは寒いが運動日和だ。そう思ったら、願望が口から勝手についてでていた。
日課の筋トレは、いつもの回数こなそうとしてすぐに無謀を悟った。ケイン少年の身体が未熟すぎて、スクワット百回で筋肉痛になってしまったのである。無理のない範囲で少しずつ増やしていくのが良いだろうと、日課のメニューは大幅に量を減らすことになった。
子どもの身体にあまり筋肉をつけすぎても、成長に良くないからな。うん。
「なんだ、運動不足か?」
「ええ、まあ。この三日、ずっと書物とにらめっこするかレポート書くかでしたし」
「ふむ。稽古に付き合ってやっても構わないが、このお嬢さんはドレスか寝間着しか持っていないようだからなぁ……。流石にドレスで組み手はまずいだろうし……」
「貴族のお嬢様なんですから仕方ないでしょう。というか、ディアナ嬢の身体で稽古なんてできるんですか?」
ガロリア皇国法律大全巻の五から顔を上げた大神警視も、実は運動不足を内心嘆いていたのかもしれない。稽古をすることには乗り気で、適切な衣類があれば嬉々として庭にでも飛び出しそうだ。
「夜に部屋で少し試したが、ディアナ嬢は運動神経は良いようだぞ。流石にこの年頃の子どもらしく筋力はないが、筋は良い」
「え、何やってんですか、警視……! ひとに見られでもしたら……!」
「問題ないだろう。この家の使用人達は子ども達にも極力関わらないようにしているようだしな」
さっぱりとした口調だが、口元には皮肉な笑みを浮かんでいる。
そうなのだ。
この三日間でなんとなく察したのだが、ケイン少年どころか、嫡室子であるはずのディアナすら、この広い屋敷の中で放置されているのである。
もちろん、衣食住に不便はないように世話はされているが、大勢居る使用人たちの誰も、必要最低限でしか接して来ない。彼らにも彼らの仕事があるのは当然であるが、子守もついていないのは流石におかしいだろう。
僕らとしては、自由に調べ物をできるのがありがたいことであったが、幼い子どもの育成環境としてはどうなのだと責任者を問い詰めたいところだ。
この場合の責任者は保護者であるはずのグローリア辺境伯その人であるはずだが、本人が不在では文句を言うこともできない。いや、いたところで、ケイン少年の立場を思えば僕が口を出すのも憚られるのだが。
しかし、それにしても……。
「……おかしな話ですよね。辺境伯はディアナ嬢を皇太子妃に、ケイン君を辺境伯家の跡取りにと考えているのでしょうに。それなら家庭教師は……まだ早いかも知れませんが、せめて子守をつけて躾を施すべきところを、完全に放置とは……」
手にしていた大ガロリア帝国建国史の本を机の上に置いて、僕はそっと嘆息する。
と、大神警視がバシッと大きな音をたてて分厚い法律書をとじた。その音に僕は驚いたが、大神警視は僕よりずっと愕然とした表情だ。
「君、まさかまだ気付いていないのか」
「えっ? な、何ですか?」
「……何ということだ。ここに来て三日だぞ? この三日何をしていたんだ」
「ええっ? な、何って、警視もご存知でしょう、一緒にこうしてこの世界について勉強をしてきたじゃないですか」
突然の上司からの詰問に、焦りが生じる。
え? 何だ? 僕は何か見落としているのか?
僕が気付いていなくて、警視が気付いていることがあるだと? レポートは未完成の為まだ提出していないから、ゲーム知識を持っているのは僕だけなのに?
どうやら僕は、知らぬうちに何やら失態を犯してしてしまっていたらしい。
大神警視はじとっと僕を半目で睨んだあと、はあ、と溜息を吐いて緩く首をふった。
ううっ、上司の溜息とか心から辞めて欲しい。心臓に悪すぎる。たとえ見た目が将来絶世の美女間違いなしの幼女であっても、その「どうしようもねぇなコイツ」って眼差しで見ないでくださいすみません。
「……この時間なら、あそこがいいか。ついてきなさい」
「はぁ……?」
すっと立ち上がった大神警視は、書斎を出ると足音を殺して廊下を滑るように移動していった。それに僕もならい、極力気配も殺すようにする。大神警視の纏う空気が、尾行訓練の時のそれだったからだ。
このフレアローズ城はグローリア辺境伯領にある本邸で、皇国歴三三九年に建てられている。今が皇国歴五五〇年だから、築二百年以上の歴史を誇る、立派な城郭をともなった城だ。立地も山肌に這うように城があり、背は急峻なゴルウィック山。
辺境伯一家の居住区域は城の右翼側の東棟にあり、中央の庭園を挟んで左翼側の西棟には来客用の部屋や離れ、ダンスホールや礼拝堂があり、一つ目の外郭が囲っている。そこから輪を広げるように二の隔があり、使用人や騎士たちの宿舎や厩、訓練場や武器庫、薪や食料の備蓄庫などが置かれているのだ。三の隔からはぐっと範囲が広がり、近隣の有力な寄子貴族たちの屋敷街。四の隔からは領民の住まう城下町となっていて、それをぐるりと堅牢な城郭が囲っている。
……と、いうのは書斎にあった書物で仕入れた知識である。さすがに「皇国のレガリア」内でこんな細かな情報は出てこない。そもそもグローリア辺境伯領だって、ケインの回想シーンくらいでしか出てこなかったのだから、ファンブックにすら載っていないことだろう。
はっきり言って、家と言うには広大過ぎる。初日の情報収集時に一の隔内部はある程度把握したが、二の隔、三の隔となると未踏破だ。……と、いうのはどうやら僕だけであったらしい。
大神警視は迷いない足取りで一階に降りて、中庭に出た。ぐるりと裏手に回って見回りがいないことを確認し、使用人用らしき小径を抜けて二の隔へ。隔壁にそって植わっている灌木の茂みに身を隠しながらするすると進み、辿り着いた先はゴルウィック山に流れる小川に添って設けられた洗濯場だ。
一の隔の領主一家の居住区には使用人の姿もあまり見かけなかったのだが、洗濯場では十名ほどの洗濯婦たちが働いていた。
板で作られた足場にしゃがみ込み、冷たい川の水を利用しての洗濯は、さぞ辛いことだろう。白い吐息を吐きながら、洗濯婦達は愚痴をこぼしながら洗濯棒でシーツや衣類を叩いては汚れを落としていた。……洗濯板もないのかな?
庭木の影に隠れ、僕らは彼女たちのおしゃべりに耳をそばだたせた。
「……ああ、冷たいったら。旦那様は皇都へお戻りになったっていうのに、あの方々はいつまでいらっしゃるんだろうね?」
「そりゃあ、春が来るまでは居座るでしょうよ。ここにいりゃあ薪も使い放題。寒さに震えることもないからねぇ」
「春が過ぎても、夏が過ぎても、ずーっと居るつもりじゃあないかい? なんせもう、奥様どころか大奥様まで身罷られて、顔色を伺うお方もいらっしゃらないんだから」
どうやら彼女たちが抱えている大量の洗濯物は、ディアナ嬢やケイン少年ら領主一家のものではないようだ。もちろん、この三日に僕らが出した洗濯物もあるだろうが、明らかに大人用の下着やシャツが多くある。
洗濯婦たちから嘲笑と侮蔑を向けられているのは、どうやら一の隔の客間に滞在している客人たちのようだった。
来客用の棟は、そういえばまだ遠目に確認しただけで内部までは確認していなかったが……。なんてことだろう。実はこの城には、領主一家の客が滞在していたのか。
じっと話を聞いていると、どういった客がいるのかも見えてきた。
ハンスの弟であるグラスベリー子爵一家と、親しい友人だとかいうアルフィアス男爵夫妻。この二組の客は、ハンスがケインを連れてグローリア辺境伯領へ戻ってきた日からずっと滞在しており、ハンスが皇都に戻っても帰る気配もないという。名目は、三年前に病で母を、三ヶ月前に馬車の事故で祖父母を喪ったディアナと、養子となったばかりのケインの子どもふたりだけで居るのを気の毒に思い、親戚として寄り添うため……らしいのだが。
おかしいな? 僕らがここへ来て三日、一度たりともその「親戚」にも「父の友人夫妻」にも会ったことがないぞ。
「せめてシモンズ様かエルダ夫人がいらっしゃればねぇ。あの方々ならあんな図々しい連中、とっとと追い出してくれただろうに」
「旦那様もわかりやすいったらないよね。大旦那様と大奥様が身罷られたとたん、大旦那様の遺言状振りかざして、腹心のお二人を無理矢理辞めさせるなんてさ」
「新しい家令も家政婦もみーんな余所から連れてきたもんだから、分家の方々は怒り心頭らしいよ」
「妙な話だよ。大旦那様は旦那様を嫌ってらしたのに、領主代行に指名なさるなんてさ……。あたしはてっきり……」
「やめときな、めったなこと言うもんじゃないよ。神殿の大神官様がお認めになったんだから……」
「そりゃそうだけどねぇ。モリー夫人がぼやいてたらしいけど、あの家政婦、お嬢様や坊ちゃんの世話もろくにせずに、ずっとお客様に侍ってるって聞いたよ。あんまりじゃないか、まだあんなにお小さいのに」
「アルフィアス男爵もどんな腹づもりなんだかね。旦那様のお手つきを押しつけられた可哀想なやもめ男かと思ったら、夫人と一緒に居座るなんて」
え、と僕は驚きに口をあんぐりあけてしまった。
領主代行って、どういうことだ?
それに……まさか、愛人を客として滞在させているのか? 自分の不在時にまで?
年かさの洗濯婦たちに混ざって、まだ若い女が「そうなの?」と口を開く。どうやら彼女はこの話は初耳であったらしい。
「ああ、ミーナはあの頃はまだ居なかったっけ。あの女、奥様付きの侍女だったんだよ。それがどんな手使ったか旦那様の愛人に収まってたってわけ。幸い孕む前に大奥様が気付いて別れさせたんだよ」
「あの時も大騒ぎだったけど、今に比べりゃましだったよね。西棟じゃあの女、まるで女主人みたいに振る舞ってるって話だよ」
「まさか本当にあの女が女主人になるなんてこと、ないわよね?」
「それは無いでしょ、一応既婚者なんだしね。そもそも旦那様は皇都に愛人囲ってるじゃないか。連れて帰ってくるとしたらそっちだろうよ」
「どっちにしろろくでもないねぇ。大旦那様たちは厳しい方々だったけど、いい主人だったってのに」
やれやれと溜息をつき、現在の主人らをこき下ろす洗濯婦たち。そこで垂れ流されている情報に、僕は開いた口がふさがらない。
ほんの少しの立ち聞きで、ここまでお家の恥部とも言える内情が知れるとは。城の内部であるからこそ彼女らも気がゆるんでいたのかもしれないが、それにしたって主家に対しての不平不満が溜まっていなければここまで赤裸々に口にはしないだろう。
そろそろ良いだろう、と大神警視に手振りで促され、僕らは来たときと同様にそっと忍び足でその場を後にした。
***
「……面目ありません」
図書室に戻った僕は、がっくりとうなだれていた。
これは落ち込むなと言うのが無理だ。ほんの少しの立ち聞きでこれだけの情報が得られたというのに、それを見逃していたどころか、城館の最深部であるはずの領主一家の居住スペースで働く使用人の数が少ないことを疑問にすら思っていなかったのだから。
注意力散漫、鈍感過ぎると言われても仕方がない。
イレギュラーな環境に身を置いていたから、なんてのは言い訳にもならない。そのような状況だからこそ、過ぎるほどに注意深く周囲を観察して然るべきであったのに……。
「ディアナ嬢を皇太子妃にと推していたのは、祖父母でいらしたのでしょうか」
「恐らくな。ケイン君を養子として取る手はずを整えたのも前グローリア辺境伯であるディアナ嬢の祖父、アーネストだ。ケイン君は氏の弟であるグレイ伯爵セドリックの末子、マールベル男爵の子だな。アーネストには息子と娘がふたりずついたが、息子達はひとりは子どものうちに、もう一人は成人後まもなく亡くなっている。その為長女であったディアナの母、セレスティアが婿をとることになったわけだ」
本当は、セレスティアが男子も産めれば良かったのだろうが、ディアナを出産した後、産後の肥立ちが悪く床につきがちとなってしまったそうだ。そのため、セレスティアは夫の女遊びにあまり強く文句を言えなかったようである。
ここで重要なポイントとなるのが、この世界の財産相続法だ。
基本的には中近世のヨーロッパ同様、限嗣相続制である。これは、世襲相続の条件を明確に指定することで現在の所有者が勝手に財産を処分したり、相続争いが熾烈化するのをさけるためのものだ。欧米の小説で良く、顔も知らない遠い親戚からの遺産が突然転がり込むというものがあるが、明確に相続順が定められているためにそういったことが起こりうる。
かつてのヨーロッパでは、日本のように養子に相続させる制度はなく、養子相続という抜け道がなかったのだ。養子が後を継いでいるように見えるケースは、相続権を持つ親族を養子にしているというだけだ。また、キリスト教の教義的に庶子に相続権もなかった。
一口に貴族と言っても、英国貴族とフランスや神聖ローマ帝国を始めとした大陸貴族と様々で、地域によって制度は異なっていたはずだが、相続についてはそれほど地域差はなかったと記憶している。
この世界では英国貴族社会を基本にヨーロッパ各地の貴族文化が微妙に混ざり合っているようだが、相続制度についても、男子優先の長子相続が基本であるようだ。キリスト教の影響などないはずだが、庶子に相続権がないというのも法に明記されている。
そうして、ここが一番、異世界ならではのものであるが……。
この世界では、魔法が使える、魔力があるということが貴族の貴族たる証であると考えられているようだった。魔力のないものは貴族社会では居場所がない。そのくらい、魔力の多寡は重要視されるのだ。
その結果どういうことが起こるかというと……。
魔力がない、または極端に弱いものが長子であった場合、魔力の強い兄弟に跡目を譲らなくてはならないのだ。
更には、親戚の中でとんでもなく魔力の強い子どもが産まれた場合、その子を高位の爵位を持つ家が養子として引き取ることが常識になっている。そうして引き取られた子が本家の跡目を継ぐことも許されるのだ。
ケイン少年はまさにこのケースである。
つまり、前グローリア辺境伯であるアーネストが亡くなった場合、その跡目を継ぐのはアーネストの娘、セレスティアの嫡子であるディアナか、高い魔力を認められ養子となったケインのどちらかということになる。しかしこの皇国の法律では、子どもが親の財産を継げるのは、十三歳以上と定められているから、そのような場合は近しい親族が後見人となり財産を代わりに管理することになるのだ。
「この国の相続制度を調べる前は、ディアナ嬢を皇族に嫁がせ、ケインを跡継ぎにと考えたのは祖父母かと考えていたが、そういうわけでもないのかもしれないな」
「ゲームのステータスで見る限り、ケインくんよりもディアナ嬢の方が魔力は若干強かったはずですからね。もしかすると、皇太子との婚約は皇室からの要望によるものだったのかもしれません」
「ありうるな。ディアナ嬢とケインくんだと、継承順位はディアナ嬢の方が上だ。他家に嫁ぐためには普通は継承権を放棄するものだが、場合によってはグローリア辺境伯領の領主を皇太子妃とすることができる」
こうして皇国の相続法とグローリア家の現状を加えて考えると、皇太子とディアナ嬢の婚約で利があるのは、どちらかというと皇室の方だと言えるだろう。
ふたりが婚約したのはいつだったか……。学園に入る前には既に婚約は成立していたのは間違いないのだが、そのあたりは明記されていなかった。
「家系図を見る限り、一応ハンスにも継承権はある。ハンスの父ダリウスは、アーネストの弟だ。……だが、既にディアナという嫡子がいる以上、ハンスに継承権がうつる可能性は極めて低い。ハンスに今後子ができたとしても、同様だろう。だからこそのアーネストの遺言状なのだろうが……」
大神警視の言う通り、ハンス・グローリアにとって、ディアナ嬢はグローリア辺境伯の後継者である方が都合がいいのだろう。魔力が高く、血筋も良く、大貴族の跡目となれば、彼女は方々から結婚の相手として狙われる。だが、莫大な財産を継いだ彼女に結婚されては困るのだ。それではその財産を、ハンスが好きに管理することはできなくなってしまう。
彼が贅沢な生活を気ままに続けるためには、後継者である娘、あるいは義息子の後見人となり、跡目を継ぐ子が成人するまで辺境伯代理として権限を握っている必要がある。
その期間が長ければ長い程いいのだから、子ども達に躾もせず、成長しても教育を施さず放置し、いつまでも「後見」が必要な状態であるのが望ましいのだろう。
「……不仲の婿のために、そんな遺言状を遺すものでしょうか」
「判断を下すには情報が足りんな。そこはおいおい調査しよう」
「はい」
僕らはハンスにも、アーネストにも会ったことがない。あくまでも断片的な情報をくみ上げて推測を重ねているだけだ。彼らには彼らの思惑や考えがあっただろうし、それを僕らが全て見通すことはできないだろう。
また、それをすることで僕らの目的が達成されるのかというと、そんなわけでもない。
だからこうして、この家の相続権や後継者について考えを巡らすこと自体が大きなお世話なのかもしれないが……。自分たちが動かす身体の持ち主に深く関わることだけに、知らん顔でいるわけにもいかない。
「乙女ゲームの世界だというが、随分と子どもに厳しい世界だな」
「……そうですね。考えてみれば、ある意味そうでなくてはいけないのかもしれません。ゲームの攻略対象者は、皆どこかしら心に傷を負っていて、それをヒロインに癒やされることで救われるわけですから」
「ケインもか?」
「ええ。この子は確か、義姉のディアナと折り合いが悪く、辺境伯家での立場も微妙で……。確か子どもの頃に死にかけるような大きな事件があったはずです」
「確かか」
「はい。ちょっと待ってください」
ケインルートの回想で確か、ケインが主人公にそんなことを言っていたはずだ。二葉がプレイしていたゲームの内容と、その時語っていた裏設定などの内容を必死に思い出す。
「確か、……養子になってしばらくして、男爵家の子どもなど跡取りにふさわしくないと、分家の子どもたちにいじめられて雪の中外に放り出されるんです。本当に跡取りにふさわしいほど魔力が強いなら、平気なはずだと言われて。幸い一命はとりとめましたが、高熱を出して生死の境をさまよって、それ以来周囲は敵ばかりだと警戒心の強い子に成長する……はずです」
「……なるほどな。ディアナ嬢とも折り合いが悪かったというが、初日はそうでもなかったようだから、何か諍いが起こったのだろうか」
「どうでしょう。そのあたりは詳しくは……」
もしかすると、ディアナ視点の内容が盛り込まれていると言うファンディスクでは、ディアナとケインの関係も詳しくわかったのかもしれないが、それについては僕も妹の感想を少し聞いたくらいだ。情報が少なすぎてなんとも判断しようがない。
「まあ、こんな環境ですから、子ども同士で次第に関係が悪くなっていっても不思議はないと思いますけどね」
「そうだな。ここはまったく、健全な精神を育成できる環境とは言えんだろう」
ふう、と嘆息して、大神警視は椅子から飛び降りると、図書室の奥へと向かった。そうして数冊の分厚い本を重ねて持って戻ってくる。それらは今まで大神警視や僕が手に取っていた歴史書の類いとはまったく異なるジャンルの本だった。
「これは……。行儀作法の教本ですか」
「ああ。一番奥の書棚の端に紛れ込んでいた。まわりにあるのは哲学や神学の本ばかりだったから、随分異彩を放っていたぞ。他のと比べて真新しいしな」
「それは……」
「恐らく辞めさせられた子守か、家政婦の置き土産だろう」
「……」
貴族として、行儀作法は必須の教養であるはずだ。恐らく幼い頃から少しずつ教えられていくもので、ディアナやケインの年頃なら、本格的に家庭教師がつく前の、子守から手ほどきを受けている頃合だろう。けれど今この家で、ふたりにそれを教えるべき人物はいない。
ただ父親が教育に関心がなくて放置しているのなら、まだマシであったのだろう。
しかし現実には……。子守が追い出された、ということは……意図的に教育を受ける機会を奪われているのだ。
これらの教本をいかに読み込んだとしても、必要に満たないないのは門外漢の僕でも容易に想像がつく。それでもこの本を置いていった者は、何もないよりはマシだと、そう考えてこっそり隠していったのだろうか。子ども達が教本を見つけ、それを役立ててくれるようにと祈って。
「我々がやるべきことは、まずひとつに元の身体に戻る方法を探すことだが、次には学ぶことだと考えている」
ぽん、と机の上に置いた教本を軽く叩いて、大神警視は続けた。
「この世界の歴史、法律、文化。それだけでは不十分だ。もしも首尾良く我々が元に戻れたとして、その時この子達が窮地に陥るようであってはいけない。知識だけでは足りない。ただこなせるようになるのでも足りない。生活記憶として残るまで、徹底的に令嬢、令息としての所作を身体に叩き込む必要がある」
「所作、ですか……? しかし、それは……」
周囲に怪しまれないためには、それなりの言動をするように気をつけるべきではあるだろうけれど、身体に叩き込むとまで言われると……?
困惑する僕に、言葉で説明するだけでは足りないと判断したのだろうか。
「受け身」
「えっ」
ぬっと伸びてきた小さく華奢な手が、僕の襟首を掴む。
ぐるんと視界がひっくり返り、天井が見えた。
――投げられたのだ。
「……っ!」
反射的に、脳は受け身を取るよう身体に指示を出したが、考えずともできたはずのことが……できない。頭ではこう動けば良い、と理解しているのに、身体がついていかなくて、僕は実に中途半端な姿勢で柔らかなカウチの上に転がった。
ケインに怪我をさせないよう、大神警視が狙って壁際のカウチに投げたのだと理解したのは、弾みでずるりと絨毯の上に転げ落ちたあとのこと。
「どうだ」
「……身体が追いつきませんでした」
「だろうな。それは君の身体ではないのだから」
百聞は一見に如かず、百考は一行に如かずか。
いきなり投げなくてもとは思うが、ようやく僕も、大神警視が言いたいことが理解できた。
日々鍛え、鍛錬し、身に染みついた動きは身体が覚える。今の不意打ちだって、僕の本来の身体であれば、何を考えるまでもなく反射で身体が勝手に受け身を取っていただろう。
であるならば、そのくらいまで徹底的に身につけた行儀作法ならば、僕らが元の身体にもどって、子ども達がこの身体に戻った後にも身についているはずだ。
歴史や地理、文化史などの知識は失われてしまうだろうから、改めて彼らに勉強してもらうしかなかろうが、少なくとも貴族として最低限必要な所作ができていればまだやりようもあるはず。
だが、それほどまでに徹底的に覚えるとなると……。
「教師が必要だ。できるだけ、レベルの高い教師が」
教本だけでどうにかなるわけもないので、大神警視の指摘は実にもっともなものであった。
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