1 異世界トリップした僕のポジションについて
ふと目覚めたら、見知らぬ天井が目に入ったとき、ひとは何を思うだろうか。
まず真っ先に候補として上がるのは、旅行中だっけ? とか、どこかに宿泊したのでは、というところだろう。僕の職業柄、何者かに拉致された、ということもありうるのだが、ご丁寧にふかふかのベッドに寝かせられている時点で除外していいだろう。五感は正常に働いているし、手足も自由だった。
しかし天蓋付きのベッドなんて、三十路過ぎの男を寝かすには不似合いにも程があるのではないか。部屋の天井も高いし、宗教画のような絵が一面に描かれていて、まるでヨーロッパの城のようだ。ヴェルサイユ宮殿はごちゃごちゃしすぎてて好みではなかったけど、この天井はちょっとそれに近い気がする。
と、そんなことを暢気に考えていられたのは、寝ぼけていたおかげだろう。
しかしすぐに直前の記憶を思い出し、慌てて身を起こす。そうして目に入った部屋の内装は、まさしくつい先ほど連想したヨーロッパの城館……それも恐らく、中世から近世にかけてのアンティークもいいところなものだった。
恐ろしいことに、観光で見学した城館のような、何百年もの時を経た年季は感じられない。暗くて手近なものしか確認できていないが、ベッドフレームも天涯も、時代がかったものであるのに、新品同様に傷ひとつなかった。
カーテンをおろされているとはいえ、部屋の中は暗く、天井やベッドサイドのナイトテーブルを見ても電灯の類いはひとつもない。精々、部屋の暖炉の上に燭台があるくらいで、ざっと見た限り電化製品と言えるものがまったくなかった。
……都内に、こんな病院はないはずだ。
あったとして、気を失った警官が運び込まれるにしては、あまりに不似合いだろう。
「どういうことだ……、っ!?」
つぶやいて、耳を打った自分の声に驚き喉に手を添える。慣れ親しんだ喉仏がなく、つるりとなだらかな喉。声だって、子どものそれのように高く、とても自分のものとは思えなかった。
恐る恐る目の前にかざした掌は、白く柔く、そうして小さい。
「……っ!?」
もう一度、ぐるりと部屋を見渡す。壁際にチェストが置かれ、その上には洗面器と水差し。そうして丸い鏡が壁に掛けられている。
僕はベッドから飛び降りて、叩きつけるように壁に両手をついて鏡を覗きこんだ。
すると、どうだろう。
よく磨かれた鏡の中には、見知らぬ少年の姿があった。真っ青な顔色で、両の目を大きく見開いてこちらを見ている。赤味を帯びた金髪に、蜂蜜色の瞳。頰のラインや目鼻立ち、背丈から推測するに、年の頃は五、六歳といったところだろうか。今年小学生になったばかりの従姉甥と同じくらいに見えた。
そっと手を動かし、頰をつねれば、鏡の中の少年もまったく同じ動作をする。おもいっきりつねってみたが、きちんと痛い。
痛覚があるということは、夢ではないのか? 一体何が起こっているというのだ。
混乱する頭を抱え、その場にうずくまる。目に入る自分の身体は、先ほど鏡に映り込んでいた少年と同じ寝間着を着ていた。つまり、あれが僕、ということなのか。おかしいだろう。家具の大きさからして、身長だって一メートルちょっとくらいしかない。この三十二年、必死に鍛え上げてきた筋肉だって消えてしまった。
あり得ない。
こんなのは夢だ。そうに違いない。
とにかく、目を醒まさなくては。
ガンゴン壁に額を打ち付けても、痛いだけで悪夢から目覚める気配もない。
落ち着け、とにかく状況の確認からだ。
まずここがどこなのか調べなくては。着の身着のまま部屋を飛び出し、出入り口を探すため走り出す。窓がないせいで、廊下は真っ暗だ。石造りの重厚な建物は、漂う空気も冷たい。吐き出した息は白かった。東京はもうすっかり春になっていたというのに、まるで冬の朝のような冷え込みようだ。
絨毯の敷き詰められた廊下の突き当たりに、大きな木製の扉がある。いかにも頑丈そうな閂で中から施錠されていたものを、背伸びしてなんとか外す。ずっしりと重い閂は、子どもの腕力ではあけるだけで一苦労だった。
ぜぇはあと荒い息を整える間もなく、これまた重い扉を全身で体当たりするように押し開ける。
「ぎえっ」
あまりに勢いをつけすぎて、前のめりに石畳に転がってしまった。受け身もろくに取れないとは、なんという体たらくか。こんな姿、とても部下には見せられんぞ。大神警視に見られたりしたら、受け身百本の猛特訓が開催されること間違いない。
よろよろと立ち上がり、周囲を見渡す。
扉の先はテラスだった。この建物は高台に建っているようで、随分と遠くまで見晴らせた。
広がる空はよく晴れていて、明け方なのだろうか、空の一部がうっすら明るくなりつつある。遠くには濃い霧が立ちこめていて、茫漠とした丘陵地帯が広がり、右手に視線をずらせば急峻な山と黒々とした森がある。近くにはこの屋敷、いや、城だろうか。城の庭園が広がり、その向こうには赤茶けた屋根が並ぶ街がある。その街をぐるりと囲んでいるのは城壁だ。
……こんな風景を、僕は以前にも見たことがある。
ネルトリンゲン。ドイツにある、十四から十六世紀の中世の町並みを未だ残す城壁都市。眼下に広がる景色は、大学の卒業旅行であの街に滞在したときに見たものとそっくりではないか!
「は、はは……」
がくりと足から力が抜けて、その場にへたり込む。
「て、テーマパークか? ど、ドイツ村とか?」
日本国内にテーマパークは数あれど、流石にここまで本格的な城塞都市を再現したものなどなかったはずだ。だとしたら外国に連れ出された? いや、僕はパスポートなんて持っていなかったぞ。そうすると出国はどうしたのだろう。ああ、違う、違う! そうじゃないだろう、そもそもこんな知らない子どもの姿になっている時点で常軌を逸した事態に陥っているのは明白ではないか!
こんな、こんな……、まるで漫画やラノベで良くある異世界転生みたいな――……。
混乱を極めた僕の思考が、そんなあり得ない予想に行き着いた、そのとき。
「――起立ッ!!」
堂に入った号令が、朝焼けの空に反響した。
瞬時に脳は考えることをやめ、身体は僕の意思など介在する余地もなく勝手に反応を返す。
「ハイッ!」
「気をつけッ!」
「ハイッ!」
号令にあわせ、身体はその通りに動く。立ち上がり、後ろへ方向転換。そうしてビシっと背筋を伸ばし、踵を揃え、両手はまっすぐ降ろして腿に添える。
「休め!」
「ハイッ」
肩幅に足を開き、両手を背で組んで――そこで漸く、僕は我に返った。
そうして、目の前にいた人物を認識し、ぽかんと口を開けてしまう。
たった今、まるで警察学校の鬼教官を彷彿とさせる号令を発したはずの相手は、五、六歳ほどの見た目の少女だった。
ふわりと冷たい風が、緩く波打つプラチナブロンドをそよがせる。真っ白な陶磁器のような肌に、ほんのりとバラ色の頰。きゅっと引き結ばれた、珊瑚色の唇。きりりとつり上げられた柳眉も形良く、アーモンド型の眼は金色の睫がけぶる。瞳の色は深い海のような群青で、独特の光彩をしているのか比喩でもなく宝石のように光を弾き輝いていた。
――西洋人形よりもいっそう整った容貌の、美しい少女だ。
もちろん、こんな少女とは一度として会ったことなどない。
ないのだが、僕は知っていた。
この力強く射るような眼差しを、知っていた。
これはもはや理屈ではない。煌めく朝日に照らされながら、僕と同じ姿勢でこちらを見据える少女が誰であるか。染みついた警察官としてのカンが教えてくれる。
そう……この全身に降りかかるプレッシャーこそ、まさしく!
(めちゃくちゃ厳しい上官そのもの!)
「佐藤一馬警部補」
「はっ!」
「不測の事態とはいえ、狼狽えすぎだ。こんな時こそ冷静にならなくてどうする」
「はっ! 申し訳ありません、大神警視!」
当たり前のように、美少女の口から出てきたのは、この僕、佐藤一馬への叱責だった。顔立ちは知らない子どもでも、表情や口調、纏う気配は大神警視そのものである。
腰を折って謝罪し、顔を上げる。
はたして何の因果によってこんなことになっているのかは謎だが、ここに来て、僕はひとつはっきりと悟ったことがある。
もしもこれが、漫画や小説の中であふれかえっている異世界転生だとかトリップだとかであったと仮定しよう。
そう、もしも。
気付けば姿が変わっており、見知らぬ土地、見知らぬ場所に放り出されたならば。恐らくはその人物こそが「主人公」として物語の軸になることだろう。
ここにいるのが自分ひとりだったならば、僕もそう思ってしまったかもしれない。
だが生憎と僕はひとりではなく、この人がいるのならば、僕は決して、主人公ではない。
これがなんらかの物語であるならば、僕の役どころは「語り部」だろう。
あるいは、主人公の「助手」でもいい。シャーロック・ホームズシリーズで言えばワトソンのようなものだ。
では誰が主人公かといえば、もちろんこの人……。
大神蓮。
警視庁公安部公安第一課管理官。階級は警視。
完全無欠の完璧超人。
霞ヶ関の餓狼。
ひとり多国籍軍――等々。
様々な異名をあらゆるところでつけられ、時に畏れられ時に疎まれ、時に心酔されているキャリア組のスーパーエリート。
我が親愛なる、鬼上司様である。
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