皇国のレガリア~乙女ゲームの世界にトリップしたと思ったら、上司がラスボス令嬢だった件。

あいより碧

 第一章

序章


 まん丸に太った大きな月が、煌々と輝く夜だった。

 その晩のことを、僕は決して忘れることはないだろう。いや、忘れられないというのが正しいか。

 例えるならば、それは何か壮大な物語の幕開けにふさわしいような晩だった。そよと吹く風すらもなく、鳥のさえずりひとつ、虫の鳴き声ひとつない。不気味なほどに静かな、満月の夜。

 あまりに月が明るすぎて、屋敷を包囲する自分たちの姿すら目立っているのかもしれない。

 とはいえ、今更作戦を延期することはできないのは自明のことである。


 漸くだ。

 漸く、このときが来たのだ。


「――総員、突入」


 右耳につけたインカムから、怜悧な指示が届く。確固たる闘志を宿した声に鼓舞され、本作戦のために招集された部隊が屋敷へと突入した。



 ***



 屋敷の中は酷い有様だった。壁紙ははがれ、カーペットにはあちこちに黒々とした染みがついている。漂う臭いから、それが血であることは明白だ。仲間が何事かわめいているカルト信者たちを連行していく中、僕は上司の姿を探していた。

 本当なら……彼の階級ならば管理職として本部で指揮をとるだけでよかったはずだというのに、自ら陣頭指揮をとることを譲らなかった男は、未だ騒然としている屋敷の中、深部に位置する大ホールの中央に立っていた。


「大神警視」

「数が合わない」

「え?」

「我々が把握している幹部と、信者の数だ。全員拘束したはずだが、数名足りない。逃げたか、あるいは……」

「どこかに隠れているか、ですか?」


 屋敷の内部は何十という捜査官たちが探し尽くした。屋根裏に潜んでいたものさえ見つけ出したのだ。探していない場所はもうないはず。ならばこちらの動きを予測して、逃げた者がいるのかもしれない。


「すぐに周辺の封鎖を、」

「待て」


 屋敷の外へ出て部下に指示を出そうときびすを返した僕を、大神警視が短くとめる。彼の視線は大ホール中央に据えられたマリア像に向けられていた。高さ一メートルほどの台座の上に、成人女性の平均程度の高さの象。聖母マリアは幼子を腕に抱き微笑んでおり、その足下には薔薇の茂みが繊細な彫りであらわされている。

 大神警視は静かに台座に近寄ると、僕を呼んだ。


「佐藤くん、手伝ってくれ」

「は? はい、何を……あっ」


 警視に少し遅れて石像の前に辿り着く。台座の足下。床との接地面を見て、僕もやっとそれに気付いた。石像の向かって右側、台座のアウトラインに添うように、うっすらと傷がついている。何かがこすれてつけられたようなその線に添って二人がかりで台座を動かせば、案の定、石像の下に暗い穴があらわれた。


「……秘密は薔薇の下、か」

「地下室なんて図面にはありませんでしたが……」


 増築したか、隠していたか。暗い穴は、地下へ通じる階段だった。下に部屋があるのか、それとも外への通路か。

 大神警視は繋いだままの無線で何人か捜査員を呼び戻し、本部に残っている部下には検問を強化するよう指示を出した。そうしてスーツの内ポケットからペンライトを取り出し、先頭に立って階段を降りていく。カルト教団の総本山、隠された地下通路――。そんな怪しい場所へ降りるにも、一切の躊躇もない。


「あのぉ、警視」

「なんだ」

「せめて増田達の到着を待ってから降りた方がいいのでは? 何があるかわかりませんし……」

「ほんの数分の差だろうが、急ぐにこしたことはない。逃げた連中に自決でもされてはかなわんし、万が一人質がいたらコトだ」

「それはそうですが……」


 大神警視の気持ちはよくわかる。この屋敷を本拠地としていた連中は、秘密裏にとんでもない悪行を繰り返していたのだ。身の毛もよだつ『儀式』と称した拷問や暴行、強姦……。一度信者となったものは、連中から逃げられない。教団を抜けようとしたり、逃げようとすると、すぐさま捕まり儀式の贄にされてしまうのだ。内偵に送り込んだ捜査官も、既に二人犠牲になっている。連絡が途絶えた彼らは、もう生きてはいるまい。


 仲間や犠牲者たちの無念を晴らすためにも、必ずや教主も幹部も、犯罪に荷担した信者も、一人残らず捕縛する。そう意気込んで迎えたのが今日という日だ。

 灯りひとつない、石造りの階段を十数段降りたところで、細い通路に出た。大神警視がペンライトを消して懐にしまい、レッグホルスターから拳銃を抜く。それを見て、僕も同じく銃を抜いた。ずしりと重い鉄の塊は、嫌が応にも緊張を高めてくれる。


 どうか引き金を引くことになりませんように。

 いつだって、これを手にする度そう願うのだ。


 通路は暗い。しかし五十メートル程先に、オレンジ色の光が見える。柔らかく揺らめくそれは、人工の照明ではないだろう。

 音を立てないよう慎重に、息を殺して灯りのもとへと忍び寄る。かび臭い湿気った空気に、鉄錆びた臭いが混じっていた。


「――銀の鍵をこれに……。……、を――……幾万の薔薇の香……」


 女の声が、ぶつぶつと何かつぶやいている。誰かと会話をしているわけではないだろう。響く声は一人分。他に声を発する者はなく、動く者の気配もない。


「七つの柱はここに立ち、鏡は遙かをうつしださん――」

「動くな!!」


 高く大きくなっていく女の声を遮るように、大神警視が吠えた。先に飛び出した大神警視を追って、僕も通路から踏み出す。


 恐らく位置は、中庭の地下だろうか。円形の部屋は少し段差があり地面が低い。くるぶしまで水が溜まっていて、中央に祭壇がある。祭壇をぐるりと囲む壁に、等間隔をあけ倒れている人の姿。

 いずれも血を流し、ぴくりとも動かない。祭壇の両端に篝火が焚かれていたが、水が赤く染まっているのは炎の色ばかりのせいではなかった。


「……っ」


 なんということだ。倒れているのは、子どもや女性ばかりだ。喉を裂かれ、心臓に杭を打ち込まれている。腹の底からこみ上げてくる吐き気を、ぐっと堪えて祭壇に立つ女を睨んだ。僕と大神警視、それぞれに銃口を向けられて、驚き振り向いたのは三十代半ばほどの女だった。

 教主の娘であり、幹部の百目木真莉愛。

 彼女が驚愕を見せたのはほんの一瞬のことで、すぐにぎりりと目尻をつり上げ、早口で声を張り上げた。

 高くかざされたその両手に、握られていたものは――。


「大いなる月よ、満たせ、満たせ、鏡を満たせ!! 異界の門を開き、我が魂を導き給え――!」

「やめろ!」


 叫んだのは、僕と大神警視、どちらだったろう。両方だったかもしれない。

 百目木が両手に握った銀のナイフを振り下ろす。

 その刃先が彼女の心臓に突き刺さる直前、大神警視がその腕を掴んだ。けれど女性とは思えない尋常でない力で、ナイフは百目木の身体に突き刺さってしまう。心臓は逸れたが、肺を傷つけたのには違いない。


「っ、げほっ、……邪魔をするなぁ!!」


 百目木は叫び、警視の腕を振り払おうとする。加勢しようと水を蹴って駆けだしたが、祭壇に駆けつける前にそれは起こった。

 飛び散った百目木の血が、水で満たされた水面に落ちて波紋をたて――……。


「え、」


 足下から、赤い光の線が広がっていった。

 部屋全体に、瞬く間に広がった、強い光を放つ赤い模様。


 そうして。


「アハ、アハハハハッ、ハハッ!! やった! やったわ、門が開いた! 繋がった!!」


 狂ったように女が笑う。

 口からは赤黒い血を吐き出し、胸にナイフを突き立てたまま。

 おぞましい哄笑とともに、足下からの光がひときわ強くなる。目を焼くようなまばゆい光に、僕は強く目をつぶった。

 ぐにゃりと足下が歪むような、世界が崩れ落ちるような、なんとも形容しがたい違和感。脳髄をぐちゃぐちゃにかき混ぜられたかのような不快感。


 何か尋常ではないことが起こっているのは間違いなかったが、それを止める術がわからない。


 一体、あの女は、何を――……。






「これで――異世界転生して逆ハー作ってやるわぁ!!」










 …………なんて?



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