5.睦月の裡に眠る
「――邪魔をするぞ」
ノックの音もそこそこに、唐突に扉が開いた。
カツカツとヒールの音を立てながら入室したのは、背の高い女性だった。
年の頃は30歳前後だろうか。細身の体にぴったりと合わせた黒いマーメードラインのドレスの上に、同じく黒い上着を羽織っている。一見、パーティにでも行くのかと思うくらい、やたらゴージャスだ。
「アミローネ?」
突然の乱入者に、アレクが眉を寄せる。
「どうしたんだ、いきなり」
その声に眉を険しく寄せ、女性はふんと鼻を鳴らした。
「今朝の件の回答が届いた」
手にした紙の束をばさりと振って、彼女は言う。
「使いの者を寄こしても良かったのだが、うちの者が無礼を働いたと聞いたのでな」
そう言うと、女性は睦月の方に向き直る。
「そちらが噂の闖入者殿だな。私はアミローネという」
アミローネと名乗る女性は、睦月に声を掛けると頭を下げた。
「あ、はい……?」
「ミシレの長を務めているものだ。先ほどはうちの者が失礼したそうで申し訳なかった」
どうやら、あの湖畔の砦の責任者らしい。美人だが、とにかく語調がきつい。そして堅い。
「君を追いかけた連中は厳しく叱責しておいた。二度とあのような軽挙はしないだろう」
表情をピクリとも動かさずに言うところが怖い。さっきの門番たちは大丈夫だろうかと、睦月の方が若干心配になってしまった。
気圧されたようにうなづいた睦月に軽く笑みを返し、次いでアレクを横目で眺めてアミローネは目を眇める。
「それで、なぜまだここに留めているのだ。早く体に戻してやればよかろうに」
「そうは言うがな。原因もわからずに帰して、同じことが繰り返されたら困るだろ」
「日和よって。我が弟ながら情けないことだ」
「……あのなあ。俺の立場になってみろ、慎重にもなるだろうよ」
どうやらこの二人は姉弟らしい。ため息をつくアレクをアミローネが鼻で笑う。姉弟間の力関係は明白に姉に傾いているようだ。
「慎重? 柄でもないことを」
ハッと姉はにべもなく弟を切り捨てる。
「まあいい。ひとつだけ忠告しておいてやろう――48時間だ」
「48時間? 何がだ?」
「魂が本体を離れている時間が長ければ長いほど、身体に戻りにくくなる。その分水嶺だ。さらに、72時間を過ぎると、元に戻れたとしても差し障りが生じる可能性が高い」
「……わかった」
頷いて、アレクは睦月をちらりと見やる。睦月がこの世界にやってきてから、すでに数時間が経過している。友香とレオがその瞬間に立ち会っていたおかげで正確な時間がわかるのはありがたいが、そうのんびりしていられるわけでもないということか。
「ではな」
言うべきことは言ったとばかりに、アミローネは書類を弟の手に押し付けると、踵を返す。そのまま振り返ることないまま、ぱたんと扉が閉まるのを見送って、アレクがこちらを振り返る。
「さて――と。上限は48時間として、どうしたもんか」
「アミローネさんが言ったみたいに、先に帰したら駄目なの?」
「もし、第三者の意図的な関与があるなら、帰したところで同じことが繰り返される可能性がある」
「うちの部下を派遣するとか」
友香の言葉に、アレクは首を振る。
「明確な期限があるなら、それも有効だがな。不明確な脅威に人手を割き続けることは不可能だろ」
「そうね……」
「少なくとも、ある程度あたりがついた状態で帰した方がお互いのためだ。睦月にしたって、何度も救急車沙汰なんて嫌だろう?」
「それは確かに嫌だなあ」
「だよな――」
頷きながら、アレクはアミローネに渡された書類に目を落とした。
「睦月、悪いが先にこっちを済ませてもいいか?」
手にした書類を軽く掲げてアレクが首をかしげる。
「うん、別にいいよ」
「悪いな」
そう言って一枚目を捲った瞬間、アレクの眉根が寄せられる。そのまま無言でページを繰る彼を、睦月も他の面々も興味深げに眺めた。
ひとしきり最後まで目を通すとアレクは小さく息を吐く。それからゆっくりと部下たちに視線を向けた。
「今朝の件――光と闇の継承者の封印に関する幽界からの回答書だ」
「早いですね。今朝の会議の件でしょう?」
「ああ、情報開示請求してからまさかの半日と掛からずに回答が来た」
「これだけ早いと、むしろこちらが気付くのを待ちかねていたみたいですね」
自分の知らない話を始めた彼らを、睦月はぼんやりと眺める。
アレクも、ほかの面々も、表情が先程までとは違う。先ほどまでは睦月がいることを前提に、空気を作ってくれていたのだとわかる。
思わずため息が漏れた。アレクにしろ、佳架や友香にしろ、自分とそう変わらない年頃のはずだ。なのに、こうしてそれぞれが地に足をつけて仕事をしている。
進む方向さえ見えていない、ふわふわした自分とは、大違いだ。
「――まずバルドだが、やはり既に封印は解けているようだな。時期が来ると、自然に解けるようになっていたらし――」
聞き耳を立てているわけではないが、聞こえてくる言葉の中に、ひどく聞き覚えのある名があった――気がする。
「それから、セルノの魂の封印については、実際に状態を見に行くことになった」
ほらまた、その名も知っている――
なんだか、頭がぼんやりとする。靄がかかったように、思考がふわふわとしてまとまらない――そう、バス停に倒れこんだあの時とよく似た――
「――睦月? どうした?」
初めに気づいたのは、アレクだった。話を中断すると、足早に睦月の方に戻ってくる。
「睦月?」
顔を覗き込むようにして呼ばれる。答えようと思うのに、声が出ない。
思考だけではない。身体全体がまるで他人のもののように、指先ひとつさえ、ピクリとも動かすことができない。
「睦月、聞こえてるか?」
聞こえている。聞こえているし見えている。でも、答えることができない。
段々と意識も白い靄に囲まれて、眠りに落ちる直前のように――
そして――
誰かの声が。
*
睦月の様子がおかしい。
声をかけても、肩をたたいて呼びかけても、視線ひとつ動かない。
このわずかな時間にいったい何が起きたというのか。アレクの背を悪寒が這い上っていく。
「おい、睦月?」
何度目かに呼んだその声に、睦月がゆっくりと顔を上げた。
「!」
アレクが息を呑む。
顔を上げた睦月の顔には表情と呼べるものが一切浮かんでいなかった。彫像のような無表情。
「睦月?」
壊れ物を扱うようにそっと、アレクが声をかける。それに応じるかのように、睦月の視線がアレクを捉え、そしてゆっくりと口が開く。
「――セルノを復活させてはならぬ」
誰かが息を呑んだ。
睦月の口から出たその声は、しかし睦月自身のものとは似ても似つかぬ、壮年の男の声だった。
「セルノは世界を憎む者。故に決して復活させてはならぬ」
その言葉は、まぎれもなく彼らの世界の――それも古の言葉だった。
「……何者だ?」
低い声で、アレクは誰何した。この男の声こそ、睦月をこの世界に呼び込んだ人物の声だろう。
「セルノを阻止せねばならぬ。なれど我が声は彼に届かじ。我が力は分かたれ、この身は彼をとどむるに足らじ」
古の言葉を紡ぐ睦月の輪郭がわずかにぼやける。身体の周囲がほのかに白く光を発しているのだ。その光る輪郭が、ほんの一瞬、別の人物の形をとった。睦月よりも背が高く、髪の長い年かさの男だ。
「まさか――」
何かを口にしかけ、アレクは小さく首を振った。そして、改めて目の前の人物へと向き直る。
「……どうすれば、セルノを止められる?」
「彼の者の廟はもはや意味を成してはおらぬ。彼の力もまた秘匿されている」
「なら――」
「セルノを欲する者らを止めよ。叶わねば世は再び混沌が支配せん」
そう言うと、睦月は――いや、その輪郭は再び壮年の男の姿へと変わる。右手を握り、その手を胸に当てると、彼の身体がほわりと白く発光し、やがてそれは握ったこぶしへと収束していく。
「この若者に我が力の一部を与えよう」
そう言うと、男は拳を開く。そこには白く光る小さな珠があった。
「……!」
ビー玉ほどの小さな珠は、あたかも日の光が水の中を揺蕩うかのように、内部に白い光が揺らめいている。
「これは……」
「これは我が力の結晶。これを使えば、この若者にも我が力を使うことができよう」
「いや……、しかし――」
「セルノを止めよ。彼を復活させてはならぬ」
その言葉が終わるや否や、男の身体は白く発光し――光が終息した時には、睦月の姿に戻っていた。
「睦月……」
「…………何、今の」
自らの手を――その掌に載った白い珠を見つめながら、呆然と睦月は呟く。
「睦月か。大丈夫か?」
表情も声も元に戻っている。そのことにほっと息をついて、アレクは尋ねた。
「うん、でも――」
「睦月、今のやり取り、覚えてるの?」
「覚えてるも何も、全部見えてたし聞こえてたよ」
不思議な感覚だった。
自分の意識はぼんやりと白濁し薄まり拡散していく一方で、冷静に≪彼≫の声を聞き状況を観察する自分はそこに在る。明確に自分と≪彼≫とが別個の存在であるという自覚はあるのに、その境界はひどく曖昧で、ともすれば融けていきそうな。
「具合が悪いとか、不調は?」
「うーん……ない、と思う」
次々と周囲から繰り出される質問に帰しながら、睦月は先程聞こえた男の声を思い出す。
セルノを止めろと言っていた。
あれは。あの聞き覚えのある声は――――
「……なあ、睦月」
物思いにふける睦月に、アレクが改まった声で口火を切った。
「もしかしてだが――、バルド、あるいはセルノという名に聞き覚えはないか」
「え」
唐突な問いに、睦月の動きが止まる。
「指揮官?」
不思議そうな声を発したのは、レオと友香だ。だがそれ以上は何も言わず、睦月とアレクを交互に見やる。
「俺の勘違いかもしれないが――、どうだ?」
まっすぐに視線を向けられて、睦月は戸惑う。アレクが告げたふたつの名――特に片方は睦月にとって、もう一つの名前であるかのように馴染んだものだったからだ。
「……知ってる」
ゆっくりと頷くと、誰かが息を呑む音が聞こえた。
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