2.隣り合う世界

「異常なし――っと」

 パチンと音を立てて手にした機械の蓋を閉め、中山友香は呟いた。それを上着のポケットにしまい、代わりに肩から掛けた鞄に手を突っ込んで携帯電話を探り出す。通話相手の名を呼ぶと、数度のコールも待たぬ内に相手が出た。席を外さず連絡を待っていたことが伺える。

『やあ、お嬢』

「レオ? さっきの件だけど、特に異常はなさそうよ」

 歩き出しながら、友香は話し出す。

 彼女が今いるのは、ある大学の構内だ。ちょうど他の仕事で出ていたところに、この同僚から「ついでの調査」を頼まれたのが、ほんの1時間ほど前のこと。指定された場所がこの大学で、その時友香のいた場所から目と鼻の先だったため、それならばと自ら足を運んだのだ。

『そうか、ならいいんだ。管轄外の仕事を頼んですまない』

「別にそんなの構わないけど。ちょうど近くにいたし」

 場所が大学というのも都合がよかった。友香自身の年齢が大学生のそれと変わらないため、潜入しやすいのだ。

「数値がおかしいって言ってたよね?」

『ああ、わずかだが空間が短時間に繰り返し揺れている』

「いつから?」

『2~3時間ほど前だな。波形が通常とは違うのと、徐々に強くなっているのが気になったんだが……』

 友香は首をかしげた。

 空間が揺らぐのはよくあることだ。波形のことは専門外なので友香にはわからないが、それが短時間に同じ場所で、しかも徐々に強まりながら繰り返されるというのは、人為的な操作である可能性が高いということなのだろう。

「何かしらね。場所なのか、それとも学生の中に何か紛れてるのか――」

 レオの言う「空間の揺らぎ」の原因が後者なら、友香の仕事の範疇になる可能性が極めて高い。とはいえ、今学内にいる人間だけでもかなりの数にのぼる。調べるのは簡単ではない。

「もうしばらくフラフラして様子見ておこうか?」

 空間が揺れるのはよくあることだ。友香が今いるこの人間の世界と、隣り合うもうひとつの世界――通話相手がいる側だ――との境界は意外と薄い。そのため時々、わずかな刺激で空間が揺れ、境界に穴が開いてしまうのだ。

 だが人為的な揺れとなれば、話は別だ。それは大抵、誰かが世界の境界に無理やり抜け穴を作る時に発生するものだからだ。自然にできる穴は大抵小さく、時間が経てば自然に修復されていく。だが人が故意に世界の境界に開ける穴はその目的上、必然的に大きくなりやすく、その分、空間に余分な負荷をかけることになる。しかもそうして強引に世界の境界を抜ける者は、大抵その先で問題を引き起こす。

 そうしたいわゆる「不法越境者」を取り締まり、彼らが起こす問題に対処するのが、友香の仕事である。

『そうしてもらえればこちらとしてはありがたいが、そちらの仕事は構わないのか?』

「ええ、今日は事後処理だけだか……」

 言葉が途切れる。


――――――?


 おかしな肌触りのようなものを感じたのだ。

 何とはわからないが、何かを五感が察知している。

『お嬢? どうかしたか』

 突然黙り込んだ友香に、レオが声をかける。

「何かしら……、待って」

 友香は足を止め、意識を集中させる。感覚を研ぎ澄まし、ちりちりと微かに皮膚を逆なでするような違和感の元を探る。同時に、上着のポケットから最前の機械を取り出した。空間の状態を計測する装置だ。

 先ほどは何の反応もなかったそれが、蓋を開いた途端にピピっと音を立てた。デジタル画面では数字が慌ただしく明滅し始める。

「数値が揺れ始めてる。レオ、そっちではどう?」

 電話の向こうには、もっと本格的な計測機器が設置されているはずだ。

『ちょっと待て……ああ、こちらも今感知した。同じ波形だ。さっきよりもかなり強い』

 電話の向こうで、レオの声が緊張を帯びる。

『そちらの様子はどうだ?』

「待って、……何か見えてきたわ。普通の穴じゃなさそうよ」

 友香の視線の先には、大学のグラウンドがある。学生たちがラクロスの練習をしているそのグラウンドに、プロジェクション・マッピングでも施されているかのように、何かがうっすらと現れつつあった。最初はうっすらとしていたが、徐々にはっきりと見えてくる。

「え?」

 大きな湖と、その向こう岸に建つ石造りの城砦。

「ミシレ……」

 その風景は友香にとって見慣れたものだった。湖の名と、その名を冠した城砦の名が無意識に口をつく。

『ミシレがどうした?』

 電話の向こうでレオが問う。

「ミシレが見えるの。湖があって建物も。間違いないわ」

そちら人界こちら精界がつながっているのか? まさか』

「つながってるっていうより、重なってるみたいに見える。ねえ、変よ。こんな現象聞いたことない」

 通常、世界を隔てる穴は目に見えない。だから装置を使って空間の状態を計測し、穴の場所を探るのだ。

 しかし今回は違う。隣り合う世界が一部張り出して、もうひとつの世界に重なってしまったかのようだ。

 電話の向こうでレオが小さくうなる。彼にしても、おそらく見聞きしたことはないはずだ。

『人の姿は?』

「そちらの側には誰も見えない。こっち側は何人もいるけど、みんな見えてないみたい」

 足早に現場に向かいながら、友香は辺りを観察する。

 グラウンドでは依然としてラクロスの試合中で、誰も異変に気づいてはいない。

 だがグラウンドの手前、バス停のベンチにいた青年の様子がおかしいことに友香は気づいた。視線の向きと呆然とした表情から、どうやら湖が見えているようだと判断する。

「いや――見えてそうな人がいるわ。行ってみる」

 そう言っている間に、青年が不意に立ち上がり、引き寄せられるようにふらふらと湖の方へと歩き出すのが見えた。

 友香はさらに足を速めて青年の方へと向かう。

 あと10メートルほどのところまで近づいたその時、青年ががくりと地面に崩れ落ちた。そしてその体がほんの一瞬、淡く光ったかと思うと、体が二重写しのようにぶれる。

「え――?」

 ふわりと青年の身体から精神だけが起き上がり、体を離れてふらふらとした足取りで湖に向かっていく。

「待って、だめよ!」

 慌てて駆け寄るも、友香の手が伸びるよりも先に、うっすらと光を纏った青年の魂は空間の境界を越えてしまった。

 その途端――、するりと映像が途切れるように湖が消える。

 友香は倒れた青年の横に膝をつき、脈を診た。

 拍動を感じる。よかった、生きている。

『お嬢、どうした? 急に数値が元に戻ったが、そっちでは何が起きている?』

 レオの声に、通話中だったことを思い出す。

「人が一人倒れて――中身が」

 手早く青年の状態を確認しながら、友香が告げる。

「まるで引き寄せられるみたいに中身だけ抜けてそっちに行っちゃった」

『人間が? こちらに?』

「彼が渡った途端、空間も元に戻った。何なのこれ? まるであの人を通すためだったみたい」

『その人物が空間を揺らしていたのか?』

「わからない。呆然としてたし、少なくとも本人の意思ではないんじゃないかしら。でもとりあえず、確保だけはした方がいいと思う」

『そうだな、ミシレのどの辺りだ?』

「建物が湖の正面右手に見えたから湖の左岸うちらがわ。森の辺りだと思う。男性、年齢20歳くらい、多分学生。グレーのパーカーとジーンズ。名前は――人が近づいてきたから、後でわかったら連絡するわ」

『わかった。中身の方はこちらで確保しよう。お嬢は本体を』

「一応、救急車を呼ぶわ。人が近づいてくるから切るわよ」

 通話を切ると、友香は救急車を呼ぶために改めて電話の機能を切り替えた。


 *


 寒い。

 凍えるような寒さが、睦月の意識を覚醒に導いた。

「……?」

 目の前にはうっすらと靄が掛かっている。

 ぼんやりとした視界に映るのは、深い霧に包まれた森のようだ。


 ――……?


 前後の記憶が入り乱れ、錯綜する。

 何度も瞬きをくり返しながら、睦月は断片的な記憶を整理した。思い出せたのは、バス停のベンチに倒れ込んだところまでだ。


「…………あれ?」

 復元したはずの記憶と、現実の風景がどうしても結びつかない。自分は確か、大学正門前のバス停にいたのではなかったか。だが視界に映るのは、深い靄を湛える大樹の森だ。大学の裏にも小ぶりな森があるが、公園として整備されたそれとは似ても似つかない、原生林特有の異様な静けさと寒さに、睦月は無意識に両腕で自分の身体をかき抱いた。

「何だよ、ここ、どこ……」

 呟いた声は、しかし、途中で力無くしぼんだ。


 人の気配のしない森、余りにも静かな空気。

 せめて自分一人だけでも何か音を発していなければ、すぐに発狂してしまいそうな静謐。

 だが声を出せば、どこまでも白い靄が、彼の孤独をなおさら強調する。


「…………寒……」

 小さく、そう呟いて睦月は自分の体を抱く腕に力を込めた。

 氷のように冷えた両手で腕を擦るものの、冷え切った身体はすぐには温まりそうにもない。こんな場所にじっとしていたら、間違いなくすぐに凍えてしまうだろう。だが自分の居場所も分からないのに、見ず知らずの森の中を闇雲に歩いてどうにかなるものだろうか。

 しかし、そんな躊躇いと同時に、胸には確かな既視感がわき上がっていた。


 自分はこの場所を知っている。

 何故だろう? 懐かしい、この森――


「あ!」

 唐突に、睦月はポンと手を打った。

「そういえば、いつもの夢に出てくる森に少し似てるかも?」

 子どもの頃から繰り返し見る、あの夢にもこんな感じの森が出てくるのを睦月は思い出した。もしかして、あの夢のバリエーションなのかもしれない。

 そう思いいたるや、急激に気分が軽くなる。

「――よし!」

 大きな声とともに、軽く頬を叩くと睦月は顔を上げた。幸い、身体は軽い。先ほどまでの具合の悪さはすっかりなりを潜めている。

 冷静に考えて、こんな状況はありえない。ありえないということは、おそらくこれは現実ではないのだろう。もしかしたら自分はバス停前のベンチで寝入ってしまったのではないだろうか。だから、これは夢だ。

 夢だというなら――――

「このままじっとしててもしょうがない!」

 睦月は立ち上がり、右手の方角へ向かって歩き出した。

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