1.幻影の森

 待て、待ってくれ。

 訣別はまだ早い。和解の道はまだどこかにあるはずだ。だから――


「セ――――――――」


 *


「――――ルノ…………っ!」


 萩原睦月は、己の叫び声にはっと目を覚ました。

 何かを掴もうとするかのように、中空へと伸ばした手が視界に映る。夢の中の自分の動き、そのままに。


 ふう、と睦月は小さく息を吐いた。

 いつもの夢だった。物心ついた頃から繰り返し見る夢だ。同じ場面、同じ台詞。最後は自分の叫び声で目を覚ますところまで、いつも同じ。

「…………」

 無言で頭上に腕を伸ばし、スマートフォンをつかむ。画面上の時計に目をやった途端、睦月はガバッと勢いよく飛び起きた。

「9時!?」

 慌てて身支度を調え、睦月は階段を駆け下りる。大学までは片道1時間あまり。今から出ても、2限目の開始時刻ぎりぎりだ。

「あら睦月、珍しく早いじゃないの」

 音を聞きつけてリビングから顔を出した母の前を通り過ぎ、睦月は洗面所に駆け込んだ。

「今日ゼミ発表。って、昨日言ったじゃん」

 おざなりに返事を返しながら洗顔と歯磨きを手早く済ませ、鞄を肩にかける。

「そうだっけ? 朝ご飯――」

「2限に間に合わなくなるから! 行ってきます!」

 背後で母が何か言っていたが、聞き流して睦月は玄関を飛び出した。


 *


「お、萩原?」

 ゼミでの発表を終え、学生ラウンジの机に突っ伏していた睦月は、その声に顔を上げた。

「なんだ、岬か……」

 同じ学科の友人、岬孝允は睦月の顔を一目見るや、眉を寄せた。

「なんだよ、えらく疲れてんな」

「2限、ゼミ発表だったんだよ」

「で、徹夜ってか」

「いや、寝た。けっこうぐっすり」

「寝たのかよ! にしちゃ、顔色悪いな」

「んー、何かだるいんだよね。頭もぼーっとしてるし」

 ゼミが終わったあたりから、妙に頭がふらふらする。緊張から解放されて疲れが出たのか、それとも目眩か貧血か。とにかく妙な気分だ。効き目の強い風邪薬を飲んだ後の強制的な眠気にもどこか似ている。

「風邪か?」

「んー、どうかなー」

 頭を一振りして、睦月は鞄からペットボトルを取り出した。麦茶を一口飲むと、少し頭がすっきりとする、ような気がする。

「帰れば?」

「だって今日、就職ガイダンスあるじゃん」

 正確には、本格的な就職活動に入る前の準備段階にある学生を対象に、大学が開催する説明会である。ここ数年の就職市場の動向の説明だとか、就職活動が始まるまでに取っておくべき資格やそれに向けた課外講座の説明などが主な内容だ。参加しなくても支障はないが、進路の定まっていない身としては、それくらいは出ておかなければという妙な気負いがある。

「あー、ガイダンスね。おまえどこ志望だっけ?」

「んー、まだ何にも決めてない。てか岬こそ、もう決めてんの?」

「俺、いちおう教職」

「え、マジ? 教職とってたんだ」

 友人の意外な答えに、睦月は目を見開いた。

「おう。最初は念のため、ってくらいだったんだけどさ、バイトでカテキョやってみたら意外と面白いんだ、これが」

「へえー、そっかぁ……」

 呟いて、睦月は再びペットボトルの麦茶を含んだ。

「僕はまだ――何も考えてないや」

 大学に入って3年目。「就職」という言葉が現実味を帯び始める時期だ。まだ新学期が始まってひと月程ではあるが、早い者はすでに希望する業界について資料を揃えたり、資格の勉強を始めたり、実務経験を積むためのアルバイトをしたりと活動しているようだ。

 けれど、睦月はまだ進路を決めかねていた。漠然と、時期が来れば就職活動をして、多分どこかの商社にでも勤めるのだろう、くらいには考えていたが、実際自分は何をしたいのかと問われると、よくわからない。

 大学受験の時も、その前の高校受験の時もそうだった。結局最後は、周囲の流れに押されるようにして無難な志望校を決めただけで、自分が何をしたいかだとか何を好きなのかだとか、そういったことを深く考えたことはなかったなと、ぼんやりと思う。

 今も同じだ。取り立てて、自分からこれをしたいというほど希望も夢も、人に言えるような特技すらない。たいていの環境にはすぐ適応できるのが特技といえば特技だから、おそらくどんな職業でもある程度はなじむことが出来るだろうとは思う。とはいえ安易に決めてしまっていいのかと迷う気持ちも強い。何しろここでの職業選択は、おそらく睦月にとって今後の人生の大半を決定するものになるだろうから。

「まあ、まだ就活解禁まで時間あるしな」

「と思ってる間に乗り遅れそうだけどねー」

 苦笑交じりにそういった拍子に、ぐらりと睦月の上体が傾ぐ。蓋が開いたままのペットボトルから、わずかな麦茶が飛び散った。

「――――!」

 唐突な目眩が平衡感覚を狂わせる。かろうじて机に手をついて堪えたが、紗を掛けたように視界が薄ぼんやりと暗い。

「おい、萩原大丈夫か?」

「ん……、ちょっとくらっとしただけ。平気」

 右手で頭を押さえながら、睦月はゆっくりと顔を上げた。だんだんと、視野に光が戻ってくる。

「あー、びっくりした」

「おまえ……帰って寝れば? こう言っちゃなんだけど、ほんと顔青いぞ。ガイダンスの資料、おまえの分ももらっといてやるからさ」

「んー…………、そうしようかな。正直ちょっときついや」

「てか、一人で大丈夫かよ。下山できるか?」

 彼らの大学は、最寄り駅から徒歩30分、ひたすら坂を上がっていった小高い丘陵――学生たちには端的に「山」と呼ばれている―――の頂上にある。最寄りのバス停を通るバスは、1時間に3本だ。

「大丈夫大丈夫、いざとなったらタクシー拾うよ」

 睦月はふらりと立ち上がると、鞄を取り上げた。途端にぐらりと上体が傾ぐ。足に力が入らない。ひどくぬかるんだ地面を歩いているかのようだ。

「おいおい。駅まで送ってやろうか? 俺んちまで来ればバイクあるぜ」

 岬が下宿しているワンルームマンションは大学から目と鼻の先にある。だが、そこまで友人の世話になるのも申し訳ない。

「平気、へーき。じゃあね」

 心配そうな岬にひらりと手を振って、睦月はラウンジを後にした。


 正門前のバス停までの急な下り坂を、睦月はいつもよりも時間をかけてゆっくりと歩いた。3限の開始時刻まではまだ時間があるせいか、行き来する学生の数はまばらだ。真っ青な顔をしてふらふらと歩く睦月に目をとめる者もいない。

「――――」

 バス停に辿り着くや、睦月はベンチに崩れ落ちた。歩いているうちに目の前がだんだんと暗くなり、もはや立っているのも限界だった。頭から首にかけて、氷につけられたかのように冷えた感覚だけがある。

「ちょ……、マジしんどい……。保健センター行った方が良かったかな……」

 自分のものとは思えないくらい体が重い。睦月が弱気な声を漏らしてしまった、そのときだった。

《行かなければ……》

「?」

 誰かの声が聞こえたような気がして、睦月は重い頭を挙げて辺りを見渡した。

 誰もいない。

《……行かなければならない》

 気のせいかと思いかけた瞬間、再び声が響く。深みのある、壮年の男の声だ。

《……を》

「……え?」

 相変わらず周囲に人影はなく、しかし声は先ほどよりもはっきりと聞こえる。すぐ側で――、いやむしろ、頭の中で響いているかのように。

《力を貸してくれ――若者よ》

「……だれだよ、変ないたずらはよして――」

 そう言って辺りを見回した睦月の言葉が止まる。


 視線の先に、あるはずのない湖が広がっていた。


「え……」

 青々と豊かな水をたたえた湖の向こう岸には、石でできた古い城砦のような建物がそびえている。

「そんな――」

 睦月は具合が悪いのも忘れ、ふらりと立ち上がった。本来なら、そこには大学のグラウンドがあるはずだ。ついさっきまでラクロス部が昼の練習をしていたはず、なのに。

 一歩。

 そしてまた一歩……二歩、三歩。

 ふらふらと、意識すらしないまま。操られるように、睦月の体は幻影の湖へと近づき――そして。

 睦月の意識は、そこで途切れた。

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