第2回

 そして、数時間後―――

「こんなモンなんに使うんだテメェ?」

 謎の男に命じられ、他隊士たちは、泉の要求した材料を求めて走り回らされた。

 並んだ材料の数々を見て、鍬の字とやらは、疑念に溢れた声を挙げる。

「卵に、砂糖に、どれも高級品だぜ」

 江戸期の頃、卵は現代の価格で一つ五百円ほど、砂糖に至っては、百グラム四千円ほどだったと言われている。

「んで……牛の乳ってオメェ……正気か?」

 この時代、日本ではまだ牛乳の飲用は一般的ではなく、「飲むと牛になる」と信じる者もいた。

「いや、かの信長公も愛飲してたって言うしな。それに、八代はちだい公方くぼう様は、牛の乳で作ったモンが好物だったって、聞いたことがあるぞ」

「マジすか?」

 男の言葉に、鍬の字は驚く。

(よく知ってるなこの人……)

 呆れたような、感心したような気分になる泉。

 近代日本の酪農の歴史は、八代将軍吉宗よしむねの頃に遡ると言われている。

 この当時、インドから輸入した乳牛が現在の千葉県で飼育されており、すでにチーズなども作られていた。

 かの「暴れん坊将軍」でお馴染みの将軍吉宗は、そのチーズが好物だったとか……

「農家の牛小屋に入って、メス牛から乳搾るの、大変だったんだぞ……」

 恨みがましい目で見る、鍬の字。 

 隊士たちの何人かは、慣れぬ働きに滑ってころんだのだろうか、泥とも、それとは異なる何かを体につけて、暗い顔になっている。

「そこらヘンはまぁいいとしてよ……これはどうするつもりだ?」

 鍬の字が指さしたのは、厳重に蓋をしてある小壺だった。

「花火屋何軒も回って、ようやく手に入れたぞ」

 それは、硝石しょうせき――火薬の原料となる石を粉にしたものである。

「まさかそれを食わせようってんじゃねぇだろうな?」

「違いますよ」

 いぶかしむ鍬の字に、泉は返す。

「これは……と、その前に……」

 硝石以外の材料をよく混ぜ、陶製の容器に入れ、中身がもれないように、しっかりと蓋をする。

「そして……」

 常温の水が入った桶に、いくらかの塩を入れ、さらに小壺の中の硝石の粉を全て投入する。

「おいお前!? なにもったいないことしてんだ!?」

 声を上げる鍬の字。

 硝石はその保存において、水気は厳禁である。

 なにせ火薬の原材料なのだ。湿気ってしまえば使い物にならない。

「そして……この中に、これを入れます」 

 だが泉は取り合うことなく、食材の入った壺を入れ、水の中で回転させる。

「なにしてんだよオメェ………」

 泉の行動の意味がわからず、怪訝な顔をする鍬の字であったが、男の方は、その行動の別の異様さに気づいた。

「ん……おい、これどうなってんだ?」

 桶の周囲に、わずかに霜が付き始めていた。

「おい鍬の字……今は……長月ながつきだよな?」

「え、ええ……」

 長月――旧暦の九月。新暦ならば、十一月の頭頃となる。 

 すでに冬は始まっているが、それでも、目に見えて氷が張るほどではない。

 それどころか、今日は日が強いので、日向に入れば暖かさすら感じる。

寒剤かんざい、だったっけな……ボクも詳しくは説明できないんですけど、化学変化ってやつです」

 特定の物質を組み合わせることで起こる化学反応。

 その中には、例えば鉄の酸化………いわゆる「サビ」を利用して発熱を起こす酸化熱というものがある。

 それを利用したのが、使い捨てカイロである。 同様に、硝石の中に含まれる硝酸ナトリウム、そして水と塩を加えることによって冷却現象を起こすこともできる。

 条件次第によっては、マイナス二〇℃まで冷却することが可能なのだ。

「水を凍らせるなんて……どこでそんな技を身に着けたんだよオメェ」

「はぁ、まぁ、いろいろと……」

 鍬の字に問われるも、「未来の世界で」とは言えない泉は、曖昧にはぐらかす。

 これも、父親に教わった方法である。


「電気もガスも止まっているから何も作れない? なら電気もガスも使わなければいい」


 泉の父は、とある山間のホテルで行われたパーティーにおいて、がけ崩れでライフラインの大半が失われた中、それでも平然と五十人分の料理を作り上げた。

(あのオヤジのおかげってのが癪に障るなぁ……)

 とはいえ、選り好みをしていられる事態ではなかった。

「そういや聞いたことがあるな……」

 驚きつつも、男が口を開く。

「十年前か……浦賀にペリーが現れた時、船上に役人たちが招かれ、そこで、『氷の浮かんだ飲み物』を供されたそうだ」

 黒船来航が一八五三年の六月――しかも船上である、本来なら、氷など手に入らない場所だ。

「なんでもエレキの力で氷を作った、と言われたそうだ。コイツの技も、それに近いものなんだろうさ」

「はぁ……兄ィは博識ですね」

「兄ィ言うな」

 二人がそんな会話をしている間も、泉は黙々と、桶の中の壺を回し続ける。

 冷却はドンドン進んでいき、水面に薄氷ができたかと思うと、それが重なり、小粒な氷まで浮かんできた。

「おい、オメェ……手が真っ白になってるぞ?」

「はぁ、このやり方だと、すっごく手が冷えるんですよね……」

 これが現代であれば、このやり方に即した専用の器具も存在する。

 その器具を用いれば、歯車とレバーを連動させることで、氷水の中に直接手を入れずとも冷却は可能である。

 だが少なくとも、それはこの時代の日本にはない。

「でも、細かくかき回さないと、均一に冷えないんですよね」

「なにを作ってんだ……」

 泉が何をしているか理解できない男たちは、皆一様に首を捻るが、そうしているうちに、ようやく、それは出来上がる。

「できました……どうぞ」

 桶の氷水から壺を取り出すと、中身を小皿に盛り、隊士たちに渡す。

 それは――アイスクリームであった。

「な、なんだこの色は!?」

 だが、ただのアイスクリームではなかった。 

 この時代の日本人は、乳製品の味に慣れていない。

 現代人なら気にならない「乳臭さ」も、鼻を曲げそうになるほど過敏に反応する。

 なので泉は、もうひと工夫し、材料を加えた。

「これは……抹茶か!?」

 茶店と名がつくならば、置いていて当然な、抹茶の粉を加えたのだ。

 日本でアイスクリームが普及するのはこの六年後、明治になってから横浜の馬車道で売られたのがきっかけとされる。それ以前には咸臨丸かんりんまるによって米国に遣わされた使節団が、歓迎会にて口にしたとの記録も残っている。

 だが抹茶アイスとなれば、間違いなく日本、いや世界で初めて世に出た瞬間であった。

「食って大丈夫なんスか……?」

 命知らずの剣客集団といえども、初めて目の当たりにする氷菓に、さすがにためらう。

「バカヤロウ、食えるモンで作ったんだ。毒ができるわけねぇだろ」

 戸惑う鍬の字に男は返すと、匙を使い、一口入れる。

 ちなみにこの時代、匙――スプーンは一般的ではなく、使用も主に医療用であった。

 材料を集めるついでに、そちらも人数分用意しておいてもらったのだ。

「ん………」

 しばし、はじめての感覚を探るように、味わったかと思ったら――

「な、なんだこりゃああ!!!」

 目を見開き、声を上げて驚く。

「口の中でサラリと溶けて、その甘味がこの上なく舌の上に広がっていきやがる……こんな……こんな感覚は初めてだ!?」

 剣客集団の棟梁格とは思えぬ、表現豊かな反応であった。

「なんていやぁいいんだ……口の中で涼風が突き抜けていきやがった!!」

 男の語彙は大変豊富であった。

「なんだ、なんなんだドチクショウ! 俺の舌が、まるでおかしくなっちまったみたいに踊ってやがる!?」

 生物の生態活動は、ことごとく、化学反応によってなされている。

 筋肉の動き、血管の収縮、そして味覚の受容もしかりである。

 そして、その動きが最も活発になるのは、体温と同じ温度――

 口に入れたアイスクリームは、最初、口内の温度を一気に吸収し、凄まじい冷却効果を生む。だが直に、体温によって温められ、アイスは溶けていく。

 そして溶けると同時に、冷却下では感じられなかった豊かな甘味が、波状攻撃を成すように襲いかかり、口内いっぱいに広がっていく。

 温度変化によってもたらされる、甘味と香の波、それは、氷菓など口にしたことがなかった時代の者たちからすれば、初めて感じる味覚の嵐であった。

「くっっはぁ!!」

 その場に膝を突く男。

「兄ィ!? そこまでスか!?」

 鍬の字からすれば、男がそんな様を晒すことは前代未聞だったのか、驚き、慌てふためいている。

「あ、兄ィと言うなっての……」

 震えながら男は、鍬の字や、他の隊士たちの手の中にあるアイスクリームを指差す。

「お、お前らも食ってみろ……食えば……わかる!」

「ええ……?」

 戸惑う隊士たち。

「食わねぇと殺す」

「「「「食べます!!」」」」

 男の命令に従い、全員、「ままよ」とばかりに口に入れる。そして――

「「「「くっっはぁ!!」」」」

 全員同時に、膝をつく。

「いいリアクションとるなぁ………」

 感心する泉。

 自分が作ったもので、ここまでいい反応を返してもらえると、ちょっと嬉しかった。

「りあく……なんだって?」

「あ、いえ、こっちの話です」

 男に尋ねられ、慌ててごまかす。

「まぁいいさ……ここまでされちまったら、認めざるを得ねぇ。こっちの負けだ」

「なら……」

「ああ、今日のところは引き下がる。それに――」

 男の目が、泉の手に向けられる。

「少なくともテメェが、手を抜いて食いもん作っている人間じゃねぇってわかったしな」

 氷水につけ続け、冷えて真っ白になった手を見ながら、男は言った。

「いえ、その、こちらこそ……失礼な口を……」

「謝るな。じゃあ……またな」

 最後に、思わせぶりな一言を残すと、男は背中を向け、店を出ていく。

「あ、兄ィ!?」

 そしてその後を、鍬の字やその他の隊士たちも追いかけていき、そのまま、彼らは立ち去って行った。

「はぁ………」

 一気に気が抜けて、その場に崩れ落ちる泉。

 洒落抜きで、命がけのやりとりをしたのだ。

 今さらその恐怖が体に上がってきて、震えが襲ってきた。

「泉ちゃん……アンタ……ナニモンや?」

 それまでただなすがままに状況を見守っていた店主が尋ねる。

「え~っと……」

 記憶がないと言っていた、行き倒れの若者が、この時代の日本人が知らない技術を見せつけたのだ、困惑しても無理はない。

「まぁその、いろいろと、あはは……」

 笑ってごまかす以外、泉はその場を凌ぐ手段を持たなかった。

「あ、えっと、ボクちょっと、裏の片付け行ってきますぅ!」

 そして、逃げ出すように、その場を離れることしか、思い浮かばなかった。

「……………」

 なので、店主の目に宿った不穏な光に、気づくことはなかった。


 そして、その日の夜――

「ぐぅ………」

 江戸時代、夜は早かった。

 なにせ照明が行灯あんどんやロウソクくらいしかない上に、それらが決して安くなかったので、用がなければさっさと寝るのが普通だった。

「すぴぃ………」

 昼間にいろいろあった反動で、気力も体力も底をついていた泉は、早めに床につき、眠りについていた――

「むぅ……?」

 なのだが、そこはやはり現代人。

 一週間程度の滞在ではまだ体が慣れていない。

 つい眠りが浅くなってしまい、なにかの物音をきっかけに目を覚ましてしまった。

「―――え?」

 そこで、その光景を見た。

 格子窓からわずかに入る月明かりに照らされた店主が、笑顔はそのままに匕首あいくちを逆手に取って、今にも自分に振り下ろそうとする光景を、見てしまった。

「なっ―――!?」

 冷水を浴びせられるよりも遥かに目の覚める光景に、寝ぼけ眼も吹っ飛び、泉は慌ててその場から、這いずるように逃げる。

「そらぁっ!!」

 店主の振り下ろした匕首が、ついさっきまで泉が眠っていた布団を貫いた。

「な……なに……してるんですか……オヤジさん?」

 なにかの悪い冗談だと思った。

 そんなわけはないのに。

 そうであろうと思い込みたくて、現実を受け入れられなかった。

「泉ちゃん……君、ナニモンや……?」

 店主の口ぶりは、昼間と変わらない。 

 変わらないのに、明らかに別物になっている。

 それは、昼間に現れた新選組たちがまとっていたものと同じ。

 人を殺そうとする明確な意思、殺気をはらんでいた。

「妙な格好して、妙な口きいとったから……なんや、なんかに使えるかと思ってかくもうたってたけど……」

 ゆらりと、店主は匕首を構え直す。

 持ち手とは逆の手を柄尻に置き、切っ先を泉に向ける。

 刺突の構え。間違いなく、相手の腹を貫くための構え。

「昼間のあの技……会津の犬どもの言うとったことが確かなら……あらぁ西洋の技術か……さてはオノレ、異国の回しモンか?」

「な……なに言って―――」

「まぁええ、どっちにしろ、死んどけ」

「ひっ!?」

 再び繰り出される刃。

 泉は悲鳴を上げ、逃げる。

(逃げなきゃ、逃げなきゃ……!)

 このままでは殺される。

 店を出て、そして――

(どこに逃げろっていうんだよ……!)

 夜闇の京の町……いや、この時代のこの日本のどこに、泉の行く場所があり、助けてくれる人がいるというのか。

 居やしない、そんな者は。

「うわああああっ!!」

 それでも、「死にたくない」という、生物として至極根本的な本能で走り、店を出て、道を走る。

 寝起きで、履物すら履いていない。

 裸足で、土の道を走る。

「待たんかいコラァ!」

 背後から、店主の殺気立った声が追いかけてくる。

 走る泉。背後からは店主の駆ける音もついてくる。

「いやだ……いやだ……」

 泣きそうになりながら、真っ暗な道を走る。

 さっきまで見えていた月の光は、雲に隠れて見えなくなった。

 こんなにも、世界は暗かったのかと思う闇の世界。

 電気の光に満ち溢れた現代では、感じることのない世界。

「ひぃっ!」

 何かにつまづき、その場に倒れる。

「手間かけさせんなや、このダボが!」

 そして、追いついた店主が、再び匕首を振り上げる。

(死ぬのか……ボクは、こんなところで死ぬのか……?)

 呆然としながら、静かに、絶望が染み込むのがわかった。

「いやだ……死にたく……ない……!」

「やかましい!」

 最後の命への執着の言葉も、無惨に踏み潰される。

「やっぱり、こうなったか」

 だが、その時、声が一つ増えた。

「がっ――――!?」

(え……?)

 同時に、月を覆っていた雲が流れ、再び月光が落ちる。

 その時見えたのは、匕首を持った店主の腕が斬り落とされ、地面に落ちる光景であった。

「なっ………」

 何が起こったかわからない泉の目に、その男の姿が映る。

 昼間現れた、あの男だ。

 振る舞われたアイスクリームを、ずいぶんと反応良く味わった、あの男である。

 その男の手には、アイス作りに使った氷よりもなお冷たい輝きを放つ、刀身があった。

「やはりウチの監査方は優秀だ。やっぱりテメェ、黒だったじゃねぇか」

「おの……犬がぁ!」

 店主は、痛みと驚きの泡を口から吹き出しながらも、男に向き直ろうとするが、刹那、顔面に刃が叩きつけられる。

「ぐぼぉっ………」

 その一刀がとどめとなって、店主は倒れる。

 だが、死んではいない。

 寸前で刃を返し、峰で叩きつけたのだ。

「兄ィ!!」

「兄ィと言うな! 鍬次郎!」

 道の向こうから、他の新選組隊士たちが駆けつけてくる。

 その中には、鍬の字――鍬次郎もいた。

「なんで……え……一体……?」

「ああ、こうなると思ってな、店の向かいの民家で張ってた」

 混乱している泉に、男は返す。

「言ったろ? この店主は、不逞浪士とつながりのある……いや、仲間だったのさ」

 たかが茶店に不逞浪士など――と、昼間の泉は思ったが、それは大きな間違いである。

 不特定多数の人物が訪れても不自然でない茶店は、アンダーグラウンドにある者たちの情報の仲介場所となることが多い。

 それどころか、その茶店の経営者自身が、そういった反社会的組織の構成員である場合もある。

 事実、慶応元年には、大坂南瓦町みなみかわらまちでぜんざい屋を営んでいた店主の正体が反幕集団の構成員であり、市中に火を放ち大坂城に攻め込もうと企んでいたことが発覚し、幕府方に捕縛される事件も起こっている。

「ま、問題はオメェもこいつの仲間かってことだったんだがな」

 泉を襲った店主は、隊士たちに運び出されている。

 男が店主を殺さなかったのは、慈悲の心からではない。

 この後、屯所に連行し、たっぷりと拷問をかけ、背後関係を吐かさせるのだろう。

「殺されかけてて……仲間ってことはねぇか。災難だったな」

 そう言って、男は軽く肩をすくめる。

「ん……どうした?」

 そして、殺されかけたショックだけではなく、もう一つ別の理由で動けないでいる泉の姿にようやく気づく。

「いえ、その……まぁ……えっと……」

 なにから話すべきかと、言葉を選びつつ、泉は男へと事情を話す。

「ほう?」

 要は、どこにも行く当てがない、頼る者も居ない、明日からどうやって暮せば良いのかわからない――ということを伝えた。

「ふむ」

 それを聞き終えると、男はなにかを思いついたのか、口端を歪める。

 昼間見た時と違って、今度は明確に「微笑んだ」のが、泉にもわかった。

「ちょうどいい、オメェ……ウチに来い」

「は? ウチって……その……」

「ああ、新選組にだ」

「いやいやいや、それは、無理でしょ!?」

 新選組と言えば、それこそ今しがた繰り広げられたように、不逞浪士を捕らえるべく、白刃を交える者たちである。

 対する泉はというと、自慢ではないが、刀など体育の授業で竹刀を少し握ったことがある程度、その出来も「悪くはないが良くもない」レベルである。

「ボク、弱いですよ……?」

「んなモン、見りゃ分かる」

「見て分かるんですか?」

 一流の剣客とあらば、相手の動きやわずかな所作だけで、どれほどの腕の持ち主か、おおよその見当がつくという。

「オメェは、見た所……武力はからきしだ。間違っても人を殺せる類の人間じゃねぇ」

「なら……なにをさせようっていうんです?」

「オマエができることはなんだ? それをやれっつってんだよ」

「まさか……料理人として雇うってことですか?」

「ああ……人斬り集団だからってな、人斬ってりゃいいだけじゃねぇ。勘定方に会計方、探索方に監察方、それにまかない方……そういうのが必要でな」

 頭をかきながら、男は言う。

「んで、ちょうど今ウチにはその賄い方がいねぇ。渡りに船だ」

「いや、でも、ええ………」

 ありがたい申し出ではあるが、どうしたものかと、わずかに躊躇する。

 なにせ、ついさっき、自分を助けてくれた者に殺されかけたところだ。

 そう簡単に新たな船に乗ってもいいものか、迷うのも当然である。

「それにオメェ……」

 少しだけ、男は背後に目を向ける。

 数メートル先には、彼の部下である隊士たちが待機していた。

 彼らに聞こえないように、男はささやくように言った。

「オメェを雇えばその……昼間食った、あの、あいすなんとか……か? そーゆーのが、また食えるってことじゃねぇか……その……なぁ?」

「は?」

 今しがた、息を吸うように人間を切り倒した男が、わずかに照れくさそうに、そう言ってのけた。

「あの……甘党なんですか?」

「ああ……」

 目をそらしつつ、男は応える。

「周りが酒飲みばっかだからよ、言い出しにくいんだがな……」

「そういえば、桜餅の違いとか、知ってましたもんね」

 しばし、なんとも形容しがたい空気が漂う。

(あ、この人……本物だ……)

 現代でも、一昔前までは「男は酒を呑めてナンボ」という風潮は根強かった。

 ましてや幕末の剣客集団、それこそ昼間に鍬次郎とやらが「菓子なんて女子どもの食うものだ」と言い放ったように、甘党は肩身が狭いのだろう。

 それこそ、菓子作りに長けた者と知って、賄い方にスカウトしてしまうほどに。

「なら……その……よろしくお願いします」

「決まりだな。じゃあ、ついてこい……オマエ、名前なんていうんだ?」

 そう言えば、まだ泉は名を名乗っていなかった。

「稲葉泉と言います」

「ほう? いい名じゃねぇか」

 男は少し笑い、腰の刀の柄に手を当てた。

「あの、それで……その……?」

「ああ、オレの名か?」

 男の名前も、泉は聞いていなかった。

「土方だ。新選組で、副長をやっている」

「へ――――!?」

 新選組副長、土方歳三――歴史は学校の授業レベルでしか知らない泉でも、名前くらいは聞いたことがある。

 鬼の副長と恐れられた、幕末日本を象徴する人物の一人である。

「なんだ? 名前くらいは知ってたか……ま、悪名の方だろうがな」

 泉の驚きを他所に、男――土方は、皮肉げに笑う。

 これが、稲葉泉……彼女の、「新選組厨房録」の始まりであった。

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