竜の灯は泥河に流れ(短編版)

泡野瑤子

第1話

 その大樹は、四十年前の記憶と違わぬ姿をしていた。

 ピアトの豪商ロンデ・バストゥーダは、供の代わりに馬を二頭連れて街を出た。

 外周門を出た後、ウズハーン街道に沿って北東へ。緑の草原を切り裂く稲妻のごとき道を、馬の歩みで二日ほど進むとニタンガ川に突き当たる。

 ピアトはウズハーン王国随一の工業都市である。ニタンガ川はピアトの工場や家々から垂れ流される排水のせいで、いつでもどろどろと濁って悪臭を放っている。だがニタンガの石橋を渡らずに真東へ、街道から逸れて川の流れを遡り山中へと分け入れば、ピアトのどぶ川と合流する前の清流を見ることができる。

 ――彼らはこの川を、ジャガラ=チセと呼んでいたな。

 ロンデは麓の村に馬を預け、少年時代の記憶とともに道なき道を辿った。

 あれはまだロンデの髪が透き通るような金髪で、顔も身体も全くたるんでいなかった頃の話だ。四十年前、彼は川の上流にあるナティウ族の村里でふた月ほどを過ごしたことがある。この地にはかつて、王国の民とは異なる文化を有した部族が生活していた。ロンデが初めてここに来たとき、ナティウ族の人口はおそらく千人近くいたはずだ。

 当時でさえ、こんな山奥に人が住んでいるのかと驚いたものだ。いまではその面影すら消えようとしている。里の人々が踏み固めていた細道は、長い年月の中に埋もれていた。縄張りを他の部族に示すための看板には蔦がびっしりと絡まり、そこに描かれていた赤い悪鬼の絵柄はもう原形を留めていない。

 森が開けて、空から日差しが差し込んできた。かつて村里のあった場所に辿り着いたようだ。この地にはもう誰も住んでいないかのように思われた。事実、そこにあった木造の素朴な家々は放棄され、いまや朽ちて崩れ落ちているものばかりであった。

 それでもさらに山を登って、その先に少年の頃の記憶と同じ大樹がそびえ立っているのを見つけたとき、ロンデは長旅と登山の疲れを忘れて思わず駆け出した。

 その木は、ナティウ族の言葉で《屍竜樹ネグドラディ》と呼ばれていた。その名の通り、「竜の屍が木になったもの」である。

 樹はロンデの頭上で二股に分かれている。空に向かって真っ直ぐ伸びたほうには、角が生えた頭部があったのだろう。もう一方はしばらく山の斜面に沿って下向きに生長し、その尖端がわずかに高く盛り上がっている。いくつも伸びた太い根が、竜の尾を持ち上げたのだ。屍竜樹ネグドラディは、その名の通り竜の骸に巻きつきながら育ったはずだから、恐らく昔は竜とほぼ同じ形をしていたのだろう。だが目の前の奇妙な樹形を眺めていると、その太い樹幹の中に眠るのは、竜の骸骨ではなく空から落ちた三日月ではないかとも思える。

 ロンデが知っている伝説はこうだ。太古の昔、ナティウ族は竜の群れと心を通わせて暮らしていたが、竜はほかの人間たちからその血肉を狙われていた。ナティウ族は竜を守るために戦ったが、善戦空しく竜は徐々に数を減らし、ついに最後の一匹になってしまった。

 最後の竜は山深くに逃げ込んだため人に狩られることなく、人間よりもはるかに永い生命の旅路を全うすることができた。そしていまわの際に、こう言い遺した。

「ナティウの子らよ、最後までわれらのために戦ってくれたことを深謝する。われらは死してのちも、永遠にそなたらへの恩義に報い続けるであろう」

 竜は直立不動のまま死んだ。その屍の上に胡桃くるみの種が落ちた。人智を超えた力を持つ竜の屍肉は、土の代わりに若芽を育み、根を包んで養分を与え、ありふれた落葉樹を魔性の大樹へと変性させた。以来ナティウ族は屍竜樹ネグドラディを守り続け、屍竜樹ネグドラディはナティウ族に恵みを与え続けてきた。

 ロンデが見上げる屍竜樹ネグドラディのすがたは変わらない。ただ昔と違うのは、大樹の根方にひとつ、見覚えのないあばら屋が建っていたことである。

 製材されていない木を乱雑に組み上げただけの粗末な家で、入り口には扉どころか幕すらかかっていない。近づいてみると、中から規則正しいのみと槌の音が聞こえてきた。――ロンデの尋ね人は、いまもここに住んでいる。

 ロンデは呼吸を整えて、おうい、と外から呼びかける。

 音が止まった。

 しばらく待ってみたものの、誰も出ては来ない。だが無下に追い払われることもなさそうだ。ロンデは入り口を勝手にくぐった。

 こもった臭気に、ロンデは思わず顔をしかめる。地面に直接絨毯が敷かれただけの床の上に、丸くて茶色いものがたくさん転がっていた。まるで林檎の大きさに育った胡桃の種のように見えるが、その殻の表面には繊細な波紋が彫り込まれている。

 ――《竜燭ムーリ》だ。

 鑿と槌を手にしていたのは、汚らしい風貌の男だった。もとは褐色の肌は垢じみて黒ずみ、伸び放題の髪や髭は黒よりも白のほうが多くなっている。彼は長年、この地で他人と関わらずに孤独に生きてきたのだと、ロンデは一目で察した。

「君は……ザカだな?」

 ロンデは里の言葉で尋ねた。

「僕だよ。ロンデだ。子どもの頃、ピアトへ向かう途中で仲間とはぐれて山へ迷い込んだのを、この里の人に助けてもらった。君にはずいぶん世話になった」

「……覚えているとも」

 ようやく返ってきた答えは、ひどくかすれていた。ザカにとっては人語を発するのも久しぶりなのだろう。

「ほかの誰が忘れても、私はな」

 旧友との再会にほころびかけていたロンデの頬が、また険しく引き締まった。

「ザカ。僕は、君を迎えに来たんだ」

「ソギにでも頼まれたのか?」

「そうだ」ロンデは頷いた。「君の息子に頼まれた。里を出てピアトで一緒に暮らすよう、君を説得してくれと」

「あいつも、分からんやつだな」ザカは吐息ばかりの笑い声を立てた。「おれは死ぬまで、ここを動く気はないと言ったはず」

 話は終わったと言わんばかりに、ザカはまた鑿と槌を振るい始めた。

 ザカが簡単に言うことを聞かないのは、ロンデの予想した通りだった。彼は豊かな王都の生活と愛する家族に背を向けて、ここに自らを縛り続けてきた男である。

 どう説得したものか考えあぐねて、ロンデは足元に転がる竜燭ムーリをひとつ拾った。《屍竜果ネグドルトゥ》――つまり屍竜樹ネグドラディの果実を乾燥させ、加工して作る灯具である。《彫りナンク》と呼ばれる職人が、硬い外殻に美しい彫刻を施して作るのだ。芯に点火すると殻の内側の脂が燃えて、彫り込まれて薄皮だけになった部分がほのかに色づいて実に美しい。ザカは、里で一番の彫り人ナンクであった。

 屍竜樹がナティウ族にもたらした恵みは多い。葉をすりつぶして獣脂と混ぜれば血止めの軟膏になるし、若芽は食糧にもなる。だがもっとも大きな恵みは屍竜果ネグドルトゥだ。その脂は、灯油が登場するまで、ウズハーン王国で最も一般的な燃料であった。

 屍竜果ネグドルトゥの脂を蓄えて一晩中燃え続ける竜燭ムーリは、かつて里の工芸品としてウズハーンの王侯貴族たちに珍重され、高値で取引されていた。だがいま足元に転がっている竜燭ムーリは、売り物にするために彫ったのではあるまい。本来、ナティウ族の人々にとっての竜燭ムーリは、儀式に用いるためのものである。たとえば村の長老たちが竜神に里の将来を問うとき、新たな夫婦の誕生を誓うとき、そして――死せる魂を弔い、迷わず竜神のもとで眠れるようにと祈るときに。

「ザカ。君は彼女のために、いくつ竜燭ムーリを彫った?」

「さあ、十を十回、それをまた十回、十回の十回を十回……商人ではないから、分からんよ。数え切れんくらい、たくさんだ」

「それだけ彫っても、……君の罪は、まだ許されないのか?」

 ザカは答えなかった。

「君がずっとここにいる理由なら、ソギから聞いている。でも、僕は君の口から聞きたい。教えてくれ、彼女のことを。……君も覚えているだろう。僕も彼女とこの里の人々に対して、大きな罪を背負っているんだ」

 ロンデが目を見開いて詰め寄ると、ザカは口だけでにいっと笑った。黄ばんでところどころ隙間の空いた歯が覗く。

「相変わらず綺麗な瞳だなあ、ロンデ。年を取っても、お前の瞳は青いもんなんだなあ。……まあ、そこへ座れ」

 その後ですっと笑みを消し「長い話になるぞ」と言った。

 ロンデは頷く。それを聞きたくて、はるばるここへ来たのだ。外の人間がもう誰も見向きもしない、この地にあった隠れ里のこと、そしてこの地に生きた人々の物語を。

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