第3章 はじめてのクエスト ⑥

 クララを見つけられるか不安だったが、彼女を追うのは苦労せずに済みそうだった。視界はあまり効かないが、かろうじて足下は見える――その足下は、蔦は裂かれ、下草は踏み分けられ、彼女が進んだ経路を示してくれていた。


 しかしその跡があってなお、夜の森を進むのは困難だった。視界は悪く、一歩進む度に手足や顔に蔦、木っ葉が触れる。


 それらをかきわけて彼女が進んだであろう道をなぞり、数分――


 不意に視界が開いた。森の中に、ぽっかりと教室ぐらいのスペースが空いていた。そこに立つクララと、向かい合う大きな影。


「――クララ、無事か!」


「ナルミさん? セシリア姉も――逃げてくださいって言ったっじゃないすか!」


「見捨てられるわけないだろ!」


 クララに駆け寄り、彼女を背に隠すようにその影と向き合う。その瞬間、さっき嗅いだばかりの匂いが鼻腔をくすぐった。


 血の臭い。クララは負傷しているようだ。


「セシリア、クララを看てやってくれ!」


「はい!」


「下がれ、クララ――任せろ、治療するくらいの時間は稼いでやる!」


「無理っす、さすがにナルミさんでも一人じゃ――」


「クララ、こっちに――」


 俺について来たセシリアが、強引にクララの手を取って下がる。その時、そよいでいた風が一瞬激しく吹きすさんだ。木々の枝葉が揺れ、月明かりが森の中に差し込む。


「! こいつは、なかなか異世界してるな……」


 月明かりが照らしたそのシルエットのディテールに、俺は思わずそんなことを呟いた。剣を抜いて身構えるが、果たして俺はこいつとやり合えるのだろうか。


「初日からハード過ぎるだろ……恨むぜアトラ、もっとヌルいもんだと思ってたよ」


 そこに立っていたのは、二メートル強はあろうかという巨人だった。土色の肌に纏うのは毛皮のボロ。盛り上がった筋肉はクリフトンやレイモンドのそれと比較にならない。手に握る体のサイズに似合った巨大な石斧は手製に見える。見た目のイメージより器用なのだろうか。


「――食人鬼オーガ……そんな」


 戦慄く声でセシリア。その絶望的な声音でこの相手がどれほどのものか伝わってくる。


「さすがにナルミさんでも、まともにやり合うのは上手くないっす……」


「あー……向かい合ってりゃわかる。初心者向きの相手じゃないよな」


「シルバーのパーティかゴールドのタッグが欲しいとこっすね……」


「まさしくそんな感じだ」


 クララの言葉に頷く。こうして対峙しているだけで体力が削られる……そんな印象。殺気とでも言うべき圧が、森狼フォレストウルフと桁が違う。


「勇気と無謀を間違えちゃダメっすよ……逃げるが勝ちっす」


 絶え絶えに言うクララ。傷が痛むのか、苦しそうだ。


「相手が逃がしてくれるならそれも有りかもな……」


「グォォォオオオ……」


 獲物が増えて嬉しいのか、食人鬼オーガの口元が緩む。逃げ出したいのはやまやまだが、一歩でも退こうものなら奴は即座にあの手の石斧を振るってくるだろう。あんなものをまともに受けたらただじゃ済まない。


「ナルミ様、逃げましょう!」


 セシリアもクララと同意見だ。民主主義的にここは逃げの一手だろう。


「わかった。二人は先に森を抜けて街へ向かってくれ。俺も隙を見て追いかける」


「そんな! ナルミ様もご一緒に!」


「背中見せたら石斧の餌食だよ! 大丈夫、まともにやり合おうとは思わない。せっかく生き延びたんだ、早々に死にたくない」


 そう伝えるが、セシリアはまだ何か言いたいのか動こうとしない。


「早く行ってくれ。戦うならまだしも、逃げるだけなら一人で問題ない」


「――っ! 絶対ですよ! 森の外で待ってますから!」


 叫び、セシリアはクララを連れて今来た道を引き返す。よし、後は俺が少し時間を稼いで逃げ出すだけだ。


「グゥゥゥゥゥゥ……」


 獲物が減ったのが面白くないのか、食人鬼オーガはその場で足を踏みならし、低いうなり声を上げる。こいつ相手に時間稼ぎか……俺の命の危険が危なくてマッハと言った感じだが、


「やるしかないんだけどな」


 呟く。このまま死んだら苔に生まれ変わるのは間違いないだろうが、それは今はどうでもいい。俺がここで死んだことを知ったセシリアが、クララがどんな顔をするのか――


「ゥォォオオオオッ!」


 雄叫びを上げ、右腕一本で巨大な石斧を振り上げる食人鬼オーガ。大上段から振り下ろされる石斧――そいつを大きく後ろに飛んで躱す。


 刃先が地面を叩いた途端、土、ちぎれた蔦、木切れ――それらが爆散したかのように吹き上がる。その外見を裏切らない並外れた膂力だ。


 しかし今の動きを見る限り、森狼フォレストウルフほど動きは俊敏じゃない。回避に徹すればどうにかなりそうに思える。


 ――と考えたのがまずかった。


 食人鬼オーガは叩きつけた石斧を、体勢も変えずにそのまま横に薙ぎ払った。咄嗟のことで飛び退くことができず、反射で突き出した剣で受ける。石斧の刃先こそ俺の体に届かなかったものの、打たれた衝撃で俺の体は宙に浮いた。二、三メートルは飛ばされて泳ぐ足でなんとか着地する。


 踏ん張っていなかったことが功を奏した。まともに受け止めていたらどこか痛めていたかも知れない。


 早くこの場から逃げ出したいが、見た目よりは俊敏性があるところを見せられたばかりだ。このまま背を向けるのは恐ろしい。


 初撃のような大振りの攻撃に反撃して、そこから逃げに転じるか? 二撃目は反応するので精一杯だったが、大きく振りかぶる攻撃ならできるかもしれない――


 勇気と無謀を間違えちゃダメっすよ……逃げるが勝ちっす。


 頭の中で、クララが残していった言葉がリフレインされた。そうだ……森狼フォレストウルフを倒したことで俺は気が大きくなっているのかもしれない。今俺がすべき事はここから逃げること。セシリアとクララと合流し、三人で生還することだ。


 次の攻撃を躱したらそのまま逃げる――そう決めて、食人鬼オーガを睨みつける。交錯する視線。気圧されそうになるが、必死に自分を奮い立たせて踏み止まる。


 一瞬か、それとも数秒か、僅かな膠着の後――


「ァァァァアアアアアアッ!」


 食人鬼オーガが雄叫びと共に、再び石斧を振り上げた。ここで逃げたら追われてしまう。引きつけて、引きつけて、引きつけて――


 ――ここだっ!


 夜天に向いていた石斧が振り下ろされた瞬間、俺は素早く反転して駆けだした。地が穿たれる破壊音。俺は振り向かずに懸命に足を動かし続け、当たりをつけていた樹木と樹木の間に飛び込む。セシリアたちがこの場から逃げていった場所。


 飛び込んで見て、セシリア達がこの道ならぬ道を行ったことを――当たりが間違いでなかったことを確信する。来た時よりもいくらか通りやすい。お陰で視界の効きづらい森の中でも、躓かずに駆け足程度の速度は出せる。


「グォオオオオオオッ!」


 背後から、怒気しか感じられない咆哮が追ってくる。だが、ここまで来れば逃亡は成功だ。奴の巨体じゃ、この木立の間を追ってはこられまい――


 そう思って肩越しに振り返り――そして激しく後悔した。樹木に遮られて思うように俺を追えない食人鬼オーガが、苛立たしげに枝をへし折り体をねじ込んで追ってきている!


「ォォォォオオオオッ!」


「マジかよ、付き合ってらんないぞ、おい……」


 恐怖に駆られ、速度を上げる。木々の枝葉が顔を叩く痛みを無視し、可能な限り足を動かした。緑の匂いに咳き込みつつ、それでも足は止めずに――


 夢中で走り、森を抜ける。そこにいたセシリアとクララに心の底から安堵する。


「ナルミさんっ!」


「ナルミ様、お顔に血が――」


 どうやら枝葉で切ってしまったか。セシリアが心配そうに言うが、


「後だ後――奴が来てる! 逃げるぞっ! 多分振り切れてない!」


「ちょ、待ってくださいっす! 森狼フォレストウルフの剥ぎ取り、まだ全部終わってないっす!」


 俺の言葉にクララが待ったをかける。


「そんなことしてたのか? いいよ、そんなの!」


「でも! これだってナルミさんが命がけで自分たちを守ってくれた証っす! それがなかったことにされるのは嫌っす!」


 そう言う彼女の足下には、森狼フォレストウルフの死体と、胴から切り離された奴の頭部が一つ、転がっていた。気持ちは嬉しいが、これからあと五匹分その作業をしようってのか?


「一つありゃ十分だろ? 行くぞ!」


「でも――」


 反論しかけるクララだが――


「――ォォォォオオオオオッ!」


 森の奥から食人鬼オーガの雄叫びが聞こえてくる。


「ひっ――」


「クララ、ここに留まっては危ないわ、ナルミ様の言う事を聞いて?」


 奴への恐怖とセシリアの言葉で、クララは諦めたようだ。作業に使っていた剣を鞘にしまい、一つの首を抱える。


「よし、セシリアとクララは先に行け! 俺は殿を行く」


「ナルミ様――」


「大丈夫、一緒に逃げるよ。考えたくないけど、もしも追いつかれたら俺じゃなきゃ足止めできないだろ? だから俺が最後尾だ」


「ですが――」


「いいから足を動かしてくれ!」


 半ばやけくそで叫ぶと、セシリアとクララはまるで俺から逃げるように街に向かって駆けだした。これでいい――地平に見える街の外壁まで全速力が続く訳がない。だけどここでできる限り――奴が追うのを諦めるほど引き離さなければならない。なんせ身を隠す場所がないのだ。優しく説得している時間はない。


 俺は先を行くセシリアとクララの背を追って再び走り出した。


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