第3話-プロローグ-3.赤目の勇者

「んぁ~、んゅう……」

 ぼんやりと間延びした、だらしないあくびを一つ。ルーチェ・ユスティニアはおそろしくだるそうに、のろのろとした挙動で布団から身を起こす。


「ふわはぁ、ふ……ぁ~、きつい。なんで世の中には朝があるんでしょう、消えてなくなればいいのに……」


 竜と自然を愛すべき聖女……の妹でありながら自然に向けて呪詛の言葉を吐き、藤椅子に腰掛けると、億劫げながらも危なげなく、慣れた手つきで長い銀髪を三つ編みに編んでいく。髪の手入れをしながら、同時に着替え。はしたなく足をばたばたさせてパジャマのズボンを脱ぎ捨て、あらわになった白い脚に修道衣のスカートを穿く。その挙措にどこにも昨日の凜とした少女の面影はなく、年相応にだらしない隙だらけの少女だった。


 一房の大きな三つ編みを決めて肩に垂らし、パジャマの上をぽいと放る。自分の、谷間が出来るどころかどこまでもあくまでもフラットな旨を眺めてうーん、とわずかに悄然とし、まあいいです、身体目当ての男なんて願い下げです。と気を取り直して修道衣に着替え。最後に白いケープを肩にかけると、心身が引き締められて顔つきも凜としたものになる。


 さて、昨日は追い返されてしまったわけですが……


 あの後、ルーチェと蓮純は狼藉者だったり国家反逆罪だったりの罪状を突きつけられ、下手すれば処刑、というところまで追い詰められた。なんとか釈放されたのは蓮純の上司・本多馨綋の尽力と根回しによるが、永安帝には完全に嫌われる……というか憎まれてしまった。人一倍プライドの高い永安帝を、囚人の前でKOしたのだから無理もないが。


 まあ、悪いのはあちらなんですけど。


 そこに関しては一切譲るつもりないし、当然謝るつもりもないルーチェ。とはいえ国の力を借りなければどうしようもないし、多少の譲歩は必要かなぁ、と思わなくもない。具体的には、女神に捧げる奉納舞を披露するぐらいはしなければならないだろうか。


 あの踊り、あんまり好きじゃないんですが……腰とか振らないといけないのがどうも……。


 女神に捧げる舞はどうにも男の情欲劣情をそそってしまうもので、ピュアな15歳の少女にそれを人に見せるのは拒否感がある。仕方ないからそれでもやるかー、と踏ん切りをつけるべく、瞑目(めいもく)して精神集中、心の中の葛藤に折り合いを付けるより先に、ホテル(旅籠)の仲居さんが来客を告げた。


「お客さんですよ、長身で髪の長い、えらい美男子さんです」


 あぁ、と思う。その外見的特徴でわからないほどルーチェは注意力も認識力も欠如していないし、そもそも彼女を訪ねてくる人間などほかにない。


「イザヨイさん」

「どうも、ユスティニア様」


 ルーチェがロビーに出ると、蓮純は隅っこに所在なげに佇立していた。本人の意識はともかく、周囲にむやみな威圧感のある美形だ、とルーチェは改めて思った。


 いいひとなんだけど、とにかく顔と声とが強面なんですよねー。


「国の支援はともかく、宰相府の資料から1級以上の冒険者のリストを持ち出してきました」


 挨拶もそこそこ、懐から分厚い紙束をとりだし、ルーチェに差し出す蓮純。ルーチェはそれを受け取り、ざっと目を通したが、すぐに渋面になり、ついで首をかしげ、そしてお手上げと頭を振った。


「あの、非常に助かるんですけど、わたくし、会話は出来ても読み書きは全然で……」

「あ……あぁ、そうでしたか。流暢(りゅうちょう)にアカツキ公用語を話されるのですっかり。ということは……私がご同行したほうがよいでしょうね」


 蓮純は一瞬だけ考えるそぶりを見せたが、すぐにそう結論づける。これにはルーチェのほうが慌てた。宰補の仕事はどうするのか、そんなに暇な立場ではないはずだ。


「それは問題ありません。2ヶ月の謹慎……職務停止を言い渡されましたので、しばらくは暇です。日銭稼ぎに職探しでもと思っていましたが、あなたに私が必要ならばちょうどいい」


 本当に、親切なんですよねぇ。この顔で全然優しそうに見えないんですけど。


 ルーチェは好意的にそう思いながら、蓮純の申し出を受け入れた。


・・

・・・


 食事を手早く済ませて、ルーチェの勇者捜しが始まった。蓮純とともに、紙束に記載された1級、あるいは特級冒険者のもとに足を運び、一人一人の「魂(アニムス)の色」をルーチェが見定める。アカツキ全土で互助会……西方的にギルドといった方がわかりやすいか、ともかくそういう組織……に所属している1級以上の冒険者は300人余、うち太宰在住のものは144人。それを片っ端から当たっていくが、なかなか「当たり」に巡り会わない。今日だけで30人以上に突撃したが、ルーチェの「聖女の資質(クアリテス・アテム・サンクトゥス)」に反応した相手は一人もいなかった。

「どうです?」

「いえ、駄目です。全然駄目、さっぱりです」

「おいコラクソガキ。誰がさっぱりだァ? ブッ殺すぞ?」


 蓮純の問いに頭を振るルーチェに、ランクは高くとも血気盛んなアカツキ気質は変わらない冒険者が怒ってすごむ。さっきからこういう事態が何度もあった。もともとの気質的に人をおもんぱかるところすくないうえ、姉を救うため焦っているルーチェは、いよいよ人に対して態度が悪くなっている。その都度に蓮純が威徳をもってなだめるが、ルーチェがアカツキ公用語を読めたとして、一人でこの作業に出ていたら絶対に衝突を起こして衛兵の世話になっているはずだ。


 それにしても蓮純の顔の広さと皆からの慕われぶりに、ルーチェは驚かされる。町人のほとんどが蓮純のことを知っている上に、さらにほとんどが蓮純のことを頼り、慕っている。ルーチェの知る限りここまで求心力のある人間は、姉・アーシェ・ユスティニアを置いてほかには存在しない。


・・

・・・


「ふぅ・・」

「疲れましたか? なんでしたら疲労回復の術式を施しますが」

「いえ、必要ありません。ありがとう・・ハスミ」

「? いえ、どういたしまして、ユスティニアさま」


・・

・・・


 たちまち夕方になった。

 60人以上に面通ししたが、やはり一人として反応する相手はいなかった。


 この書類の中には、いなそうな気がしますね・・


 漠然とそう思う。実際当たってみなければなんともいえないが、おそらくこの中にはいないだろうと半ば確信があった。


・・・


 今日は切り上げて解散、の話で落ち着くところ。

 場所は2等街区「葛城(かつらぎ)」と宗教街区「日之宮(ひのみや)」の境の隘路(あいろ)、艾川(よもぎがわ)に架けられた橋のそばの祠の前で、ルーチェはすさまじく心をひきつける波動を感じる。


 これは・・!


「ハスミ、解呪を! おそくこの周囲の空間は魔術的に隠蔽(いんぺい)されています!」


「……わかりました。『見はるかすもの、耳さときもの、鼻きくもの、汝らよく真実を見るもの。その見力をもて、我が前に真実を映せ。……開かれよ』」


 呪をくみ上げながら手印を切り、複雑な歩法を踏んで、最後に手刀を切って「力ある言葉」を解放。それまで奥まった隘路でしかなかった周囲の空間が砕け、かわりに奥行きのあるひらけた空間が広がる。


「やはり、ですね・・行きます」

「お供しましょう」


 二人は隠された道を、慎重かつ細心に歩いていく。


・・

・・・


 一歩進むごとに、プレッシャーが増す。10分も歩くと、それはもはや物理的な痛みを感じるレベルになってルーチェに襲いかかった。困難な状況に脂汗を浮かべながら、ルーチェはほとんど身体をひきずる体で進む。


・・・


 さらにもう10分。既にルーチェは限界に近い。喉はからからに渇き、瞳が眼窩(がんか)から飛び出しそうなほど。腹の中に灼けた鉄棒を突っ込まれて掻き回されるような不快感を覚え、耳鳴りは殴られるのと同じ威力。修道衣の下、下着は肌にぐっしょり張り付いていた。


 そして。


 大きめの建物……玄道建築の修行場を思わせる、おそらくは道場……が見えた。その門前に、やや長めの短刀を持った1人の若者が待ち構えるように佇立(ちょりつ)する。


 まだ少年、といって良かった。ルーチェと歳はおなじくらいで15,6。薄茶のボサボサ髪、日焼けしてやや褐色を帯びた肌、体躯は192㎝の十六夜ほどではないが長身で、痩身の十六夜よりもがっしりしている。着衣は浅黄色の道着になにやら金糸で紋様を刺繍した前垂れ、そして腰帯。全体に逞しく、ルーチェや蓮純のような容姿端麗ではないが、覇気と烈気と鋭気に満ちた、凜然(りんぜん)たる顔立ちの少年だった。


 なにより異彩を放つのは、瞳。


 紅かった。


 血の赤(クリムゾン)。


 この大陸に置いて、魔の眷属、その徒のみがもつとされる身体的特徴。


 それが意味するところは・・、


「魔族・・?」

「混血(まざりもの)ですが。あなたは神徒のようで。……それで、どうします? この隠れ里に押しかけてまで、魔族を狩るという神徒のつとめを果たしますか?」


 半魔。この数千年年で暗黒大陸アムドゥシアスから移住した魔族の雄が、アルティミシア人の娘を犯して産ませた子ども。先天的に魔力という、聖女たちの神力の対極に当たる力を備え、両親からそれぞれの霊的素養を引き継いでその力はただの人間、ただの魔族とは比較にならない。ルーチェも蓮純も、半魔を相手にするのは初めてだったが、もう相対した瞬間にわかる。こいつは強い。


 ルーチェの返事を待たず、少年はやおらゆるゆると腕を差し上げる。短刀を手にした右手を大儀そうに、引き絞るようにして天頂まで上げたかと思うや、そこから峻烈(しゅんれつ)な勢いで振り下ろす。


 短刀がびゅっと伸びた。変幻自在の刃が、蛇のようにうねってルーチェを襲う!


 蛇腹……!


 ワイヤーで繋がれ縦横に踊る刀身を、ルーチェはステップと体捌きでかわしていく。1,2,3,4……全部で都合64刃、すべて回避!


 だがいやな気配は消えない、どころかいよいよに圧を高める。


「かわしましたか、そうでなくては!」


 少年が伸びた蛇腹を引き戻しつつ、高らかに謳う!


「暗涯(あんがい)の冥主! 兜率(とそつ)の主を喰らうもの、餓(かつ)えの毒竜ヴリトラ! 汝の毒の牙もちて、不死なる天主に死を与えん! ……焉葬(えんそう)・天楼絶禍(てんろうぜっか)ァ!!」


 霊讃。本質的に人間が持つ霊力も神力魔力も「自分のもの」ではない。精霊であったり悪魔であったり神であったり、そういった上位存在との契約に基づいて、契約神霊とのバイパスをつないで術を使う。そのために、神霊に意を届けるために必要な行為としてこの霊讃という呪文が必要とされるのである。この場合は魔神ヴリトラに誓願を立てているのだから「魔讃」というべきか。ならばルーチェのそれは「神讃」となる。


 ずぉ……ッ!!


 凄絶無比。途方もない魔力が収束され、打ち放たれる刃の軌道に沿って極大の魔力波が飛んだ。かわせない、と思った瞬間、飛び込んだ蓮純がルーチェを押し倒し、倒れながら庇う。刹那、空間がひしゃげ、漆黒の暴風が舞う。国風はさっきまでルーチェがいた場所を食い破り、消滅させた。


 かろうじてのタイミングでルーチェを救った蓮純に、少年は剣呑な視線を向ける。


「あなたも、神徒のお仲間ですか?」


 蓮純は小声でルーチェに告げた。静かな声だが、やや苛立っているようにも聞こえる。


「立てますか、ユスティニアさま? あれは危険すぎる、ここは退きます」

「いえ……問題、ありません!」


 跳ね起きるルーチェ。


 わかった。理解した。


 まさか魔族が、とは思ったが、間違いない。「聖女の資質」が明確に告げている。目の前のこの少年こそが、勇者だと。


「わたくしは貴方と戦うつもりはありません! 力をお借りしたいのです、勇者さま!」

「世迷い言を。それとも、それも神徒の策の一つですか?」


少年は聞く耳を持たない。神族への恨みがよほどに強いのか、完全にルーチェを敵と見なしている。再び短刀を振り上げ……


 言葉が通じないなら、力を証す! 少年のモーションの隙目がけて、矢のようにルーチェが走る。八字拳で制圧するつもりであり、間合いに入りさえすればどうにかなると踏んだ


 しかし少年は焦りもしない。ルーチェのその挙動は予想済みだと、くん、と手首の返しで蛇腹を引き戻す。


「くぁ、う!?」


 背中に刃が突き立つ。力が抜けて膝をつく。その鳩尾に遠慮も容赦もないつま先蹴りが入り、ルーチェは軽く浮かされ、吹っ飛んだ。


「ユスティニアさま!」

「おっと……邪魔はさせません」

「退きなさい。さもなくば命をもって購ってもらうことになる」

「どうやって? 人の力で、魔人の僕をどうすると?」


 弄(いら)う訳ではなく、あくまで事実を確認するように、少年は問う。


「こうやってです」


 蓮純はたばこを抜いた。指先で着火して紫煙を揺らす。


今回発動させたのは、眠りの法術、紫煙揺籃ではない。煙は少年の鼻腔に吸い込まれるのではなく、身体を拘束するようにまとわりつく。


「小技を……ん……? 力、が……?」

 急速に吸い上げられる魔力に、少年は愕然とする。こんなはずはなかった。神力も魔力も使えない、ただの法力使いに、存在の位からして人間や精霊に、こんなまねが出来るはずがないのだ。


「奪魂香雲(だっこんこううん)。任意の対象から力を奪い、奪った力を返還して任意の相手に渡す……普通の人間相手ではたいした力を抜けない、術として成立しない程度のものですが、あなたがた上位存在の力は、こちらが驚くほどに吸えますね・・、予想以上だ、こちらの器が壊れそうなほどに。……さ、ユスティニアさま、この力をお渡しします、存分にお使いください!」


 蓮純が声を朗と張り上げると、ルーチェの中に巨大な力の熾火(おきび)がくべられたように満ち足りる。


 力の吸収と譲渡、それがハスミの力……。そしてこの身にあふれる力、これが勇者さまの力。っ! 今度こそ力を証す、わかってもらうために、まずは倒す! よっし、やれる、やります!


「はいっ!」


「多少の力を吸われたところでっ!」


 少年が再び短刀を振り上げる。ルーチェも腕を勢いよく振り抜く。イメージ。少年の打つ力に、全力で自分の神力をぶち当てる!


「書、宝輪、角笛、杖、盾、天秤、炎の剣! 顕現して神敵を討つべし、神の使徒たる七位の天使! 神奏・七天熾天使(セプティムス・セーラフィーム)!」

「・・焉葬、天楼絶禍ッ!」

 謳われる神讃と魔讃、そして直撃する神力と魔力、二つの波動が真っ向から激突する。


天啓がひらめく。


 お前の旅の仲間は、この二人。三位一体、欠けてはならない。


 ……欠けるまえに、まずは満たす。


この少年を、力で服させる。


 それが出来ずして、【白き腕(かいな)の暴君】など倒せるものか。姉を取り戻せるものか。力を振り絞れ、ルーチェ・ユスティニア、お前の全力を見せてみろ!


「あぁぁぁぁぁぁーっ!!!」

「くあぁぁぁぁぁぁっ!!」


 ルーチェの覚悟に共鳴して、少年も身のうちに内包する魔力を高める。緊張の糸が高まり、互いの裂帛が交錯する。


 天を埋め尽くすばかりの光と大地を飲み込むほどの大闇がぶつかり合い互いを食(は)みあう。威力は拮抗し、互いに譲らない。


 驚異的なのは少年の方だ。ここ、女神グロリア・ファル・イーリスを頂点とした女神たちの世界アルティミシア大陸において、男子の霊的内在力は女子に大きく劣る。肉体的な力の優勢などまったく問題にならないほどに。


 にもかかわらず、少年はおそらくアルティミシアで有数の神力使いであるはずのルーチェの全力を受け止めて、逆に押し返しつつあった。


「くぁぅ……っ!?」


 ここまでか。勇者を仲間にするどころか、誤解を解くことも出来ぬままその勇者に殺されるのか。魔王の前に立てぬまま、姉に再び見えることもできぬまま。


 そんなことは許されない!! なにがあろうと、絶対に!!


「わたしは……アーシェお姉様を・・!! 救うと誓ったんだッ!!」


力を振るう。だが足りない。どうしても及ばない。

 駄目なのか。やはり自分は姉の影でしかない出来損ないなのか。


 諦念(ていねん)が過(よ)ぎる。

 勝敗決した、かに見えたその一刹那。


「膝をつくな、前を向け! まだ腕もある、脚もある! なればやれることはいくらでもある! 手も足ももがれても、まだ牙がある! ここで膝を折るような惰弱が、この先の道を進むことは出来ないと知れ!」


 蓮純の、初めて聞く険しく、厳しい叱咤。


 そうだ! こんなところで、諦められない!

 崩れかけた膝に、力を込める。


 ズンッ! と震脚。ほとんどつんのめるようにして、前に踏み出す。力の激突する真ん中を突進してくるルーチェに、少年は驚嘆しつつも慌てることはない。右手に短刀、自分の放つ衝撃波を保ったまま、左手で迎え撃つ。薄打の技にしても、少年には自信があった。


 ルーチェは腕を突き出す……と見せて、誘い、身体を引く。


「っ!? しまっ・・」


 少年がついに動揺を見せる。八字拳の崩しの技法のひとつ、離山(りざん)だ。直接相手の身体を引っかけて崩すのが「釣魚」、フェイントで相手を誘って崩すのを「離山」という。少年は武術において達人と言っていいレベルにあり、それが逆に中途半端な腕前に過ぎないルーチェにうまく誘われたのは、無意識的な慢心があったとしかいいようがない。


 十六夜が少年から奪い、霊力に還元した魔力、それを今度は神力に変換して供給され、いまルーチェは過去に類を見ないほど絶好調だった。腕を高らかに天にかざす。今度は片手ではない。両手だ。


『創奏(そうそう)・創世天主(ヤーウェ・アドナイ)!!』


 喉も裂けんばかりの気を吐いて、振り下ろす。もはや光とすら認識出来ない、光の暴乱が顕現した。それは隠れ里全体を飲み込み、全てを破壊する勢い。力の手綱を握り損ねれば、ルーチェはただの破壊者として本当に隠れ里を破壊してしまうだろう。それほどの力の奔流を手に、しかし今のルーチェには力を暴走させないだけの余力と、笑みを浮かべる余裕すらあった。本来ならいつか魔王を前にしたときのために秘蔵しておいたとっておき。こんな旅も始まっていないところで使うのは惜しいかも知れない奥義だが、これを使う機会なんて今をおいてほかにそう無いだろう。そう思いながら、ルーチェは力を自在に振るう。


「くあぁ……っ!? く……そ……やはり、僕たちは狩られるのか……望まず、魔の血を、承けたというだけで……」


 悔しげに、膝つきくずおれる少年。勝利を確信するルーチェ。力を少しずつ、蛇口を締めるようにして絞っていく。「放つ」より「抑える」ほうが繊細で神経を要する作業だ。徐々に力を抑制していくうち、積み重なった疲労が肩にのしかかる。少年が完全に沈黙したのを確かめると、ルーチェもまた意識を手放した。


・・

・・・


 目を覚ますと、天井があった。

 布団に寝かされているらしい。らしいというのは感覚があまり無く、身体もほとんど動かせないためだ。スペアとはいえ聖女として、人間と言うより神霊に近い存在である彼女は、神力を使いすぎると一時的に存在が希薄になる。慣れたものだが、やはり不安ではあった。ここが何処かもわからないのだから当然だが。


 とんとん、


 控え目なノックの音がした。たぶんハスミだろうなとルーチェは思った。


 お礼をいわなくては。


 少年との戦いで諦めずに戦い抜けたのは、蓮純の檄のおかげだ。自分一人だったら勝手に自分の限界を決めて、諦めて、負けていた。まったく、ずいぶんとあの悪役顔のお兄さんに頼ってしまっているなと、ルーチェは苦笑した。だが悪い気分ではない。


「はい、入って大丈夫ですよ」

「失礼します」


 スッ、と音がして、急に光が差し込んだ。襖(ふすま)が開いて隣の部屋の光が入ってきたらしい。よく見えないから、ただ眩しいという感覚しか無いが。


 十六夜が入ってきた。長躯を億劫(おっくう)げに少しかがめ、その背後には先の少年の姿がつづく。


「話は宰補さまから。神の徒が僕たちを狩りに来たのだと、勘違いしてしまいました。本当に悪いことをした、申し訳ない」


 少年はそう言うと、床に伏すルーチェによく見えるよう跪き、頭を下げた。これはあれか、アカツキの民の絶対的恭順を意味する、いわゆるドゲザか。ルーチェは少し面食らったが、どうせやめてくれと制すだけの体力も無かった。


「そういうの、やめてください」


 とだけ言うのが精一杯だ。少年はなお謝罪が足りないと言い募ったが、「それ以上は押しつけがましいですよ」と十六夜に諭され、しぶしぶと言った顔で頭を上げる。


「それで、宰補さまから聞きましたが、魔王退治・・ですか?」


「はい。ご同行、願えませんか……? と言うかわたし、絶対に同行してもらうつもりですけど」

 ルーチェは強い意思を込めて、そう言う。聖女のスペアとして人前では「わたくし」といっていた。それを改めてただの「わたし」で。


「……まあ、こちらにはいきなり襲いかかって殺そうとした非がありますからね。罪滅ぼしと思えば安いものか。……混ざりものではもとからこの国に居場所もないし、魔王を殺した勇者、になれば少しは皆から受け入れられるかも知れない……わかりました、引き受けます。ただ、すこし時間を。義父と弟子に別れを告げてきます……一生、会えなくなるかも知れませんから」


「そのくらいならいくらでも待ちますよ。というか、わたしが今、動けません。あなたのおかげでね」


 ルーチェがそう言って微笑むと、少年も引き込まれるように笑った。


「自己紹介が遅れましたね、僕は新羅狼牙(しらぎ・ろうが)。この隠れ里の道場『新羅江南流(しらぎこうなんりゅう)講武所』の養子で、講武所の師範代です。よろしく、ルーチェさん」


 ・・・


 かくして、彼女らの旅が始まる。


 1年後、ルーチェ・ユスティニアは紫煙の魔術師・十六夜蓮純と勇者・新羅狼牙とともにアルティミシア最北端、エッダから暗黒大陸アムドゥシアスに渡り、魔王オディナ打倒をなして姉たる聖女アーシェを救出する。


 その際、アーシェの口から明かされた神魔の真実について、ここでは秘すとして。魔王の玄室に厳かに、魔王自身よりも大事に奉るように寝かされていた銀髪の赤ん坊ノイシュ・ウシュナハ。新羅狼牙はこの赤ん坊を引き取り、改めて辰馬と名付けた。また、アーシェ・ユスティニアは幽閉帰還に凌辱され繁殖苗床とされて心を壊しつつあったが、彼女を妻に迎え、惜しみない愛情と献身を注ぐ。


 ルーチェ・ユスティニアは心を半壊させた姉をいたわり新羅家に通い詰めつつも、順調に十六夜蓮純と相思相愛の絆を育み、互いは想いを成就させて結婚。十六夜は帰国後も国政には戻らず、冒険者互助会を発展させたギルド制を発足させる。『非想院蓮華洞(ひそういんれんげどう)』のギルドマスターとして仕事に追われながらも、ルーチェとの時間はしっかり確保する愛妻ぶり。


 ……以上はルーチェ・ユスティニアの冒険譚であって、そうではない。本来の意義は別にある。これより16年後、新羅狼牙が魔王の玄室から連れ帰った赤ん坊、魔王と聖女の子にして勇者の系譜、新羅辰馬が始める一連の物語、後世【完全無比なる赤帝】あるいは【創神殺しの覇神、黒き翼の大天使】と呼ばれる人物の、長きにわたる叙事詩を綴るにあたってのほんの序章、世界への誘い口(いざないぐち)という役割が。


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