プロローグ

第1話 プロローグ-1.京師太宰

 春の宵。


 アルティミシア大陸九列国の一、暁天(アカツキ)皇国京師(けいし=王都)太宰(だざい)の夜は賑やかだった。商店は夜更なお蒸気灯をともし、繁華街には太宰市民、異邦人問わぬおびただしい人の波。娼館街からは男女の嬌声がひきもきらず。奇術師が鳩を出せば歓声、手品師が失敗しては罵声。家族連れがちいさな子供を街頭の似顔絵描きの青年の前に座らせれば子供は緊張に顔を赤くし、また別の場所ではカップルが最新科学の精髄、カメラに写された写真(白黒)に「おれってこんな顔だっけ?」「わたしもっとかわいくない?」と首をかしげる。スリが老婆から財布をひったくり、そのスリを追いかける城兵は鎧の重さに負け、荒い息を吐いて膝をつく。


 物流は右から左。武器が土地が物産が不動産が金が銀が米が酒が宝石が、そして冒険者たちが持ち帰った用途不明の【遺品】の数々が、そこかしこ大小の店で売買される。競り合う越えもまた、やむことはなかった。


世界でもっとも繁栄した都市・・そう呼ばれるのもあながち、アカツキ国民の自負と誇張のみのことではない。実際に900万の人口を有し、それらの民を餓えさせることなく養っていくだけの国力を有すると言うだけで、この国の巨きさは知れる。九列国のうちほかの諸国の国力は人口500万が精々で、しかも公共の福祉に国財を投資するだけの余裕がある国は精々南西の【神国】ウェルス、北西の【商国】ヴェスローディアぐらいのものだ。唯一国力においてアカツキをしのぐ、大陸最央の国【央国】ラース・イラでさえも、南の【法国】クールマ・ガルパからの難民すべてを受け入れるだけのキャパシティはない。


 すなわちアカツキは富める国、豊かな国なのだ。


 当然、もともと豊かだったわけではない。これは先代である33代皇帝、梨桜帝(りおうてい)こと暁重國(あかつき・しげくに)の手腕に拠るところが大きい。梨桜帝はそれまでの旧態依然たる重農主義国家であったアカツキを、工業主義、商業国家へと一転させた。国政の転換に関して貴族たち……ことに古い家であり王家の傍流筆頭である覇城(はじょう)家からは強い諫めと反発の声が上がったが、梨桜帝はそれらを無視して断行、自ら工房に足を運び、また諸国の商人らを招き歓待して通商ルートを開拓した。


 幸いなことにアカツキには貿易に強い物産(ものなり)があった。鋼と武器である。直北(ちょくほく)の桃華(とうか)帝国(ていこく)と直西(ちょくせい)のラース・イラ、この好戦的な二カ国と常に緊張状態にあったアカツキでは武器作り・・鍛冶(かじ)と鍛鉄(たんてつ)がさかんであり、ことに刀剣の冶金(やきん)技術と象嵌(ぞうがん)の細工はまさしく工「芸」品、と呼ぶに相応しいものだった。実際の武器としてもさることながら、好事家(こうずか)のコレクションとして高く売れた。


 そうして手にした巨額の金を、梨桜帝は私にせず惜しみなく国政に投資した。祖帝シーザリオン帝紀1798年、梨桜帝は諸外国に先駆けて近代総合病院とそれに併設される医学校を創設、それまで心得のある個人個人の専門技術、一子相伝の秘術であった医学を、体系付けされた学問として広く開いた。その功績は高く評価されてよい。また治水工事や商工業への投資は勿論(もちろん)、商業重視に舵(かじ)を取りながら農村を切り捨てることもせず、かれらにも手厚い福祉の手をさしのべた。ラース・イラの北、最北端の国【英国】エッダにある生活保護の制度を導入したのも梨桜帝である。


 そうして国の発展につくした梨桜帝が崩じた。1799年4月7日、68歳だった。あとを継いだのは継嗣暁政國(あかつき・まさくに)、今日はその即位式当日であり、本日付で政國は「永安帝」という冠を被る。即ち今夜の騒ぎは祭りの無礼講であり、賑わい盛んな太宰の町並みがより活発なのもその為だった。


 が、町の賑わいとは裏腹に、廷臣たちの顔は暗い。世間には明かされていなかったが、永安帝という男ははっきりいって痴呆(ちほう)だった。見た目にはよい。恰幅よく、美髯(びぜん)で、目元は凜々(りり)しい。父帝の治世が長きにわたったためすでに中年であることを除いてはそこそこの美男と言っていいが、問題は中身である。頭が鈍く、そのくせ利にはさとく、ひがみっぽく小人であり、荒淫と言っていいレベルの好色。ケチで癇癪(かんしゃく)持ちであり、執念深く、すぐ臣下に暴言を吐き、暴力を振るう。まったくもっていいところがなかった。


 せめて国主として国を率いる才能があればと言うところだが、皇太子時代に泊付けで出征した戦で……相手は桃華帝国でもラース・イラでもない、国境周辺に住まう草原国家テンゲリの、その一領邦だった……圧倒的国力差で戦術など無く一揉みに押しつぶせるはずであり、というかそれが強者の戦術というものである……その戦で、格好よく勝とうとして下手に策を弄し、西方の高名な将軍がなした困難な作戦を模倣、敵を包囲殲滅しようとするも高度な運用の駆け引きが出来るはずもなく失敗、翼が伸びきって本営が丸裸になったところを窮鼠(きゅうそ)となった敵の猛突撃に粉砕され、若き指揮官ハジルの水際だった用兵もあり目付の元老・元帥殿前都点検こと本多馨(ほんだ・かおる)は陣没、梨桜帝が息子のために用意した20万の軍はほぼ全滅し、政國自身も捕虜となった。梨桜帝がハジルに多額の財物と自らの土下座をもって釈放を嘆願しなければ、今、政國は永安帝として即位することなどできなかったはずである。


 にもかかわらず政國……永安帝はまったく懲りていなかった。彼に言わせれば「あのときの俺は完璧だった。命令通りに動かなかった兵が悪く、俺の意を正確に伝えなかった将が悪く、なにより俺の許可無く反撃してきた敵が悪い!」ということになる。永安帝とはそういう人間であり、それが王城の人々には身に染みているため、彼らはアカツキという国家の行く末に薄暗いものを禁じ得ない。


「王に、国主さまに面会を! 世界の危急なのです!」


 夜二更、凜々しくも可憐な声が、夜気を裂いて城下に響き渡る。それは一種の神韻(しんいん)を帯びた声。どうしようもなく聞くものの耳を惹きつける、暴力的なまでの吸心力を持った声だった。


「彼女」に最初に相対したのは城門を護る名もなき兵士であり、それゆえに長船(おさふね)奉也(ともなり)という名は、世界の趨勢になんら寄与したわけでもないが長く青史に残ることとなる。


 京城(けいじょう)柱天(ちゅうてん)の正門・白楼門(はくろうもん)前。長船の前に進み出た人影は、頭をすっぽり覆い隠していた青黒いフードをばさっと掻き上げ、素顔を晒した。


 美貌である。


 年の頃なら15、6。つややかな長い銀髪を三つ編みにして肩にかけ垂らした、青い瞳の少女だった。肌は透けるように白く、身ごなししなやかで優美、どう盛ってみても胸が薄いのは見るものによってプラスだったりマイナスだったりするだろうが、まずもって100人が見て100人とも美少女と断ずるであろう容姿の持ち主であった。


 背は低く、華奢で、可憐の一言に尽きる。まるでエッダの伝承にある妖精(アールヴ=エルフ)のようだが、妖精のように耳はとがっていない。目つきはややつり目で勝ち気なふう、ローブの下に来ているものはおそらく紺色基調の修道衣。門衛歴20年の51歳、各国貴賓の案内を何度もこなしてきた長船にはわかるが、ウェルスの上級神官がまとうものだ。


 その少女に息がかからんばかりの距離まで詰め寄られて、長船は動揺した。

「な、なん、……だい……お嬢ちゃん?」

 思わずどもる。目の前に立つ、自分の肩ほどの背丈もないいとけない少女。

 その威圧感に、完全に呑まれていた。


「わたくしはルーチェ・ユスティニア。神国ウェルスの【聖女】アーシェ・ユスティニアの妹です。先ほども言いましたとおり、緊急の用件があり罷(まか)り越しました。どうか陛下にお目通りを!」


 ルーチェと名乗った少女は、掴みかからんばかりの勢いで長船にくってかかる。大きくくりっとしてはいるがやや勘気の強そうな瞳を炯々と輝かせ、ほとんど睨むように長船を見上げた。


 とはいえだ。

 城に、ましてや皇帝陛下に会いたいと言われて、はいそうですかと通せるはずもない。一兵卒の権限でどうなるものでは、当然無いのだ。それにこの手の手合いが言う「一大事」が、客観的に見て本当に火急の用事であるという可能性も、この上なく低い。

 よって。


 これはまあ。どう追い払うか、だな・・。

 長船はそう結論づけ、この銀髪少女をどうあしらうかに思いを巡らす。


 しかし機先を制したのはルーチェ。


「わたくしを、追い払う算段ですか。……浅薄(せんぱく)! あなたのその判断、きっと世界を危機に導きます!」


 心を読んだように先んじる。びしりと指を突きつけ、自信満々に言い放つルーチェ。その声に詰められた力の強さ……声量とか、そういうことではなく、断固とした意思力……に、衛兵歴20年のベテラン、最近は帰るたびかみさんの愚痴を聞かされ、稼ぎの少なさをなじられ、せっかく入れた軍学校を勝手にやめて「神官になる」と宗教街区のパンフレットを読みあさる息子に手を焼く、それでも夜更けに一杯やるのを楽しみに生きている、善良かどうかはさておきまずもって平凡な兵士である長船奉也51歳は、新兵時代に教策(きょうさく)で打ち据えられたときのように震え上がった。


 こ、こえぇ~……、なんだこのガキ、ホントに堅気か? い、いや、だがこで退くわけにはいかねぇ、誇り高いアカツキの軍人として、異人の小娘ごときに……!


 ルーチェの強すぎる目力と言葉に乗せられる強制力に、長船は小柄な少女と目を合わせることも出来ず、屈しかける。なんとか軍人としての矜恃がかれを踏みとどまらせるものの、すでに内心、泣き顔であった。ルーチェとしてはと是非に中へ通してもらいたく、長船はいいからさっさと帰ってもらいたい。両者の意見は見事に平行線であり、そこを互いに譲れない以上、膠着であった。


そこにざりっと砂を踏む音。同時、長い影法師が夜の闇をさらに深くする。


「なにごとでしょう?」

 硬質な声とともに現れたのは、クリームブラウンの三つ揃えを見苦しくない程度に着崩した、長身蓬髪の青年。年の頃はルーチェより10歳ほど上。25,6歳。身の丈は190センチを越え、ぶわっと広がる乳白色の長髪は肩まで垂れる。瞳は切れ長、やや病的な白さの肌に、怜悧な姿貌。怜悧な風貌とあいまって、まとう雰囲気はまるでカミソリのごとしだ。少々悪役めいた苦みのある風貌ながら、またそこがいいと喜ぶ異性は多いだろう。


 その青年に向き直ると、ルーチェは一切の躊躇も物怖じもなしに口を開いた。


「この王城においてそれなりの地位ある方とお見受けします、

 わたくしはウェルスの聖女アーシェ・ユスティニアが妹、ルーチェ・ユスティニア。このたびは緊急かつ極秘の用件があり、どうかなにとぞ皇帝陛下にお取り次ぎのほどをお願いしたく!」


 慇懃(いんぎん)かつ丁寧な、洗練された所作と語り口だが、その言葉通りに遜(へりくだ)っているかといえばかなりの傲岸(ごうがん)ぶりである。これはルーチェの性格が悪いというわけではなく、そういう態度しか教わっていないためによる。


 基本的にルーチェの役割=「聖女アーシェのスペア」であり、そのため大事な道具として丁寧に扱われはするものの、あまり世間と交わる機会もなく、そのため絶対的経験不足から世間知がない。


 ルーチェ自身それを疑問にも不自由にも思わなかったため、彼女の「聖女の妹であり、特別に育てられた」という背景を知らない人間からすれば「やたら偉そうに振る舞う小娘」に見えてしまう。ゆえに。本質的に善良な少女なのだが、ルーチェ・ユスティニアはそういうところで損をしていた。


「ふむ……長船殿、でしたか?」

「は、はっ!?」

 水を向けられ、長船がビクゥ、と敬礼する。それも無理はない話で、この青年は名を十六夜(いざよい)蓮純(はすみ)、位階は「宰補(さいほ)」。宰相補佐官の意であり、簡単に言えば宰相の事務官、秘書官に当たる。それも蓮純の場合は筆頭宰相、本多馨綋つきだ。蓮純自身の地位はまだそこまで偉いわけではないが、筆頭宰相は蓮純を信任してそれ以外の宰補を置いていない。官僚登用試験をくぐり抜けて宰補に任官されただけで有能なのは知れるが、有望でもあった。20年間軍務にあってひたすら門衛でくすぶっている長船とは、そもそものモノが違う。


「今、衛士の詰め所はあいているでしょうか?」

「は、はっ! 現在ほかの人員は警邏巡回(けいらじゅんかい)中でありますれば! ・・ということは、宰補さま、このガキの言うことをお聞きになるんで?」

「ええ、危急と称する話を無視したがために痛い思いをした、というためしは史上いくらでもあります。陛下のお耳に入れるかどうかはさておき、ひとまずすべて聞いておくべきでしょう・・なにか問題が?」

「いえ、そういうことならなにも・・」

「では、行きましょうか。ついてきてください、聖女様」

「訂正を。聖女はこの地上にたった一人、我が姉アーシェ・ユスティニアのみ、

わたくしは【聖印】を授かったわけでもない一布衣(ほい)に過ぎません」


 ルーチェはきまじめに訂正する。これとても余計な口だ。態度の硬さから、相手にけんかを売る風になってしまっている。だが蓮純は怒るでも眉をひそめるでもなく、軽く頭を下げて「それは失礼いたしました」と言うと、詰め所まで先導して余裕ある態度で椅子を勧めた。自分も自然な挙措であいた木椅子に腰かける。


「さて・・ではお聞かせいただきましょう」

 テーブルに手を置き、軽く指を組む蓮純。まるで女の手だな、とルーチェは思った。それくらいに蓮純の指は細く、しなやかで、およそ力仕事などしたことがないように見受けられる。冷徹で感情のうかがえない表情にも、ルーチェは好感を抱きづらい。とはいえ好悪の情で話をつぶすわけにはいかない、相手が宰補という地位ある人間なら隠す必要もない、一度固唾を呑み、のどを湿らせてからルーチェは語り出す。


「姉が、攫われたのです。……魔王オディナに」


 それは簡潔で、そして凄まじく重い宣告。聖女が魔王に攫われる、そのことがどれほど世界のバランスをゆがめる意味を持つか、この世界における【聖女】の重きを知るものなら、瞬時に理解できる話である。


 この世界は創世の女神グロリア・ファル・イーリスが創りたもうた。諸説あるが、龍神にして創世神・グロリアをあがめるウェルス法王庁、その総本山に伝えられる『創世記』にはそう記されている。創世の後、イーリスは霊峰の奥に身を横たえ、9大国を統べる9人の女神……主神を創造すると彼女らに地上の統治を任せ、眠りについた。以後一万年……あるいはそれ以上の……歴史の中で、イーリスに拝謁(はいえつ)叶った人間と言えば1800年前の【祖帝】シーザリオン、シーザリオン・リスティ・ザントライユのみだ。


 女神イーリスの力の残滓(ざんし)、神力。それを使うことが出来るのは9人の主神と、さらに主神の被造物である陪神(神と言うより天使に近い)のみ。その例外が【聖女】たちである。たち、といっても役職としての聖女はウェルス神聖王国の法王庁が認可した聖女ただ一人だが、実際には神力の使い手はこの世界に皆無ではない。そもそもがルーチェとて神力が使えるし、それゆえの「聖女のスペア」だ。


 彼女らはなんらかの理由で神々の力を受け継いだとされ、各国において聖女として神聖視、崇拝される。ヴェスローディアの「11の戦乙女(ヴァルキューレ)」や、アカツキにおいては「齋姫(いつきひめ)と五位の姫巫女」らがそれにあたる。また、彼女ら以外にも微弱な神力を帯びて生まれてくる人間もかくなからずいる……が。


 聖女の資質が顕現するのは基本的に女性のみ。


 これは「完全存在」である女神の似姿として欠損遺伝子体である男が相応しくないとされるため、と考えられているが、ともかくも普通、男性で神力を使える人間は存在しない。千年以上前にまでさかのぼれば女神を犯してその力を強奪、現在の【驕国】クーベルシュルトの基をつくった「山賊王」ゴリアテなど何人かの例外はいるが、そうした特殊な例外を除いて男の神力使いは存在しない。ウェルスの法王もアカツキの大神官も、神祇官(じんぎかん)であり審神者(さにわ)ではあるが神力の持ちあわせはない。彼らが持つのはあくまで「霊力」であり、最高位の術士であってもその力の密度は神力に数等劣る。というよりここに明記しておくべきであろうが、この世界アルティミシア大陸において男というものは霊的資質において女に大きく劣り、また基本的に女神崇拝が強く根付いていることもあって、両性の立場には大きな格差がある。端的に言って、女尊男卑(じょそんだんぴ)の風があるのだ。


 さておきそうしたわけで、聖女と言われる女性たちは人々の信仰のよすがとして、そして魔とその眷属に対抗しうる人間兵器として絶大な信望を、人々から受ける。神力を高めるのが信仰心というものであるとすれば、注がれる信仰の力により彼女らは各国の主神たちにも劣らない力を持つ現人神として存在する。それを害しうる存在など、神自身か魔王そのひとを連れてこなければならないだろう。


 魔王格といわれる存在は数体存在するが、それほどに隔絶した力の持ち主である聖女を攫うことが出来るとしたら。それをなしえる存在はごくごく限られる。


 その中で、ルーチェが口にのぼせたオディナという名前。それはおよそ想定の中の最悪最凶だった。


 ここ数年で暗黒大陸アムドゥシアスを統一した万魔の支配者。アルティミシアに侵攻戦を仕掛け、たちまちにエッダとヴェスローディアのほとんどを焦土に変えた「白き腕の暴君」。野心的なこの魔王はただ人間を根絶やすこと、そんな下らぬ思想の持ち主ではなく、もっと上等に悪辣(あくらつ)だった。


 人間の鏖殺(おうさつ)など彼は考えない。生かさず殺さず、恐怖と絶望で支配し、その黒い力を吸い上げることでどんどん力を増す。そういう意味で彼にとって自分を恐れ人間なる存在は絶対不可欠の、愛すべき虫けらだった。


 当然、彼に力を献ずべく、人間は殺されるよりむごい目に遭わされる。なじられ、打たれ、犯され、人間同士殺し合わされ、生皮をはがれ。必要に応じて間引かれる人間は可能な限り苦しむ時間を長引かされ、その様は遠見(とおみ)の魔具によって占領地の全人民に見せつけられた。


 もちろんオディナの圧政に蜂起したものも少なからずいるが、彼らは生きたまま時間をかけて脳改造を施され、魔王を憎む意志をもったまま魔王の名に忠実に人々を狩る猟犬という、もっとも憐れまれもっとも恐怖される存在に造り替えられた。


 とにかく、魔力が強いと言うだけでなく、人格的に最悪……とされる。いや、実のところ魔王を直接にみた人間というのがほとんど存在しないこの世界で真実がどうなのかは分からないが、すくなくとも善良で話の分かる人格者ではあるまい。


 もしかの魔王が聖女の神力を喰ったとしたら。


 普通なら神力と魔力は対極にあり、反発し合う関係にあって相殺し合う。問題はないはずであり、危惧する最悪の事態とはならないはずだ。


 しかし、とルーチェは軽く頭を振る。


 目の前で最愛の姉を攫っていった魔王は、すでにそこへの対策を済ませてあると言っていた。二つの力をあわせて最強の力、創世神を殺せる『盈力(えいりょく=ゲアラッハ)』を造出して世界を変革する、それを止めたければ追ってこいとそう告げた。


 盈力とはよくいったもので、本来創世神から闕けた力、神力と魔力という「半月」を掛け合わせ、融合させ、「満月」盈力にする、そういうことか。確かにその力であれば、創世神も殺せるかも知れない。そうなれば魔王オディナは創世神イーリスをしのぐ力を手にすることになり、そのタチの悪さは人間へ無関心な創世の眠れる女神よりはるかに凶悪であるといえる。


「なるほど、確かに一大事ですね……悪鬼の王が聖女様を喰らうこと、断じて阻止しなくては……」


 喰らう、ということについて少々、蓮純にせよルーチェにせよ道程と処女であったから少々の誤解がある。別に魔王は聖女アーシェを頭からバリバリいくつもりなどない。それよりもっと悪逆で、背徳なやりかた……つまりはまぐわいにより子をなすつもりであったのだが、二人はそこのところ完全な誤解をしていた。


「当然です!」


眉間のしこりをほぐすように額を捏(こ)ねる蓮純がふと呟くと、ルーチェは気勢を上げた。当然と言えば当然のこと、なによりも誰よりも敬愛する姉を、魔王だろうがなんだろうが喰われてたまるものか。


「それで、わたくしがこの国に来たのは・・」


 1拍、溜めて。


「魔王殺しの勇者はこの国、この太宰の町にいる、そう星詠み(ほしよみ)に出たからです」


 凜と居住まいを整え直すと、聖女の妹ルーチェ・ユスティニアはそう告げた。

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