蒼空に果てなく

.SHINNOSUKE2.0

第1話 緋に染まる空

緋色に燻る空が、黒煙を湛えて広がっていた。

既に尊き郷にかつての緑はなかった。炎に焙られた樹木が屹立する力を失い、斜めに崩れる。郷の象徴たる朱霧の砦は半ばが崩落し、まばらに点在する民家も、郷を覆う深緑の森でさえも、轟々と迫る炎の前に、抵抗の術を持たなかった。


朱霧の郷は、ここに滅んだのだ。


そんな事実を、命はしかし、冷静に受け止めていた。自分はこれほど薄情な人間だったのだろうか、と自問する。父母が命をかけて守り、育んだ郷。たくさんの笑顔に彩られたたった一つの郷。想いは万感のはずなれど、果たして彼女の思考は淡々と、事実のみを捉えていた。

そんな命の僅かな思慮さえも、突如として突き出された銀槍によって中断を余儀なくされる。鋭く突き出された槍の穂先を、身をひねって避ける。

「朱霧の一族だぞ、捕らえろ!」

「組み伏せろ!」

炎を避けてきたのだ、とすれば当然、その先には敵がいる。何のために炎に穴があいているのか、それがわからぬほどに命は愚鈍ではなかった。

銀閃が走る。半瞬遅れて、赤い渋きが緋色の空を彩った。幾度となく敵を斬った、ためらいもなく殺した。当たり前だ、戦の世だ。ただ、この流血の雨と、妙に柔らかい人の肉の感触には、慣れることはなかった。

「気をつけろ!鬼姫だ!」

その異名は、正直やめて欲しかった。鬼などというと、まるで怖い異形の怪物のようではないか。自分はいたって普通の女人だ。顔立ちも気立ても、良いとは思わないが、特に目立って悪くもないだろう。やがて一族の理によって嫁ぎ、子を産み、育てていく。そういう予定だと、自分では思っていた。少々剣術が使えるからといって、鬼呼ばわりは心外である。

苦笑を僅かに、命は自身を鬼と呼んだ中年の男を斬り殺した。首筋を撫でるように一撃。別に八つ当たりではない。一足で命を間合いに入れたこの男が悪いのだ。そして、害意を持って自分たちの行く手を塞ぐ者にかける情けを、命は知らぬ。というより、そんな余裕はない。背後に庇う存在を思えば、そんな情けをかける余裕など、あるはずがない。

「庇っているのが跡取りだ、必ずここで捕らえろ!」

押し寄せる敵の群れに、命は単身で突っ込んだ。こういう一騎当千の武辺者のような真似を、まさか自分がするとは思わなかった。男児のように英雄譚に熱狂した記憶もない。好き好んで死地に飛び込むなど、正気の沙汰とは思えない。自分はただ、のんびりと女らしく生きていたかっただけで、剣術はただの護身術だったはずだ。

「離れないで草若!続いて!」

声を出した。夢中だったので、よく考えれば名前を出したのは拙かったかもしれない。これで背中の年若い男が、彼女の弟でもあり、朱霧家の男で唯一の生き残りである草若丸であることが露になってしまった。でもまあ、そんなことは恐らく、どうでもいいことだろう。

二人、続けざまに斬った。具足の合間を縫って腿を斬り、跳ね上げた刀で別の男の首を薙いだ。横合いから突き入れてくる槍を腰をひねってかわすと、引き戻す刀を斜めにずらして眼底あたりを深くえぐる。剣術の師から、最後に貰った業物の刀がいまだ切れ味を保っていることに、命は感謝した。女の身である彼女に、具足で守られた偉丈夫を薙ぎ倒すような剛腕はない。刃の切れ味のみが寄る辺だったが、いずれにしても長くはもつまい。

攻囲を抜ける。弟はついてきていた。彼に振るわれた刀を、身体をひねって命が受けた。肩に痛烈な衝撃が走る。確実に刀で受けたが、衝撃は殺しきれない。女の身でまともに一撃を受ければこうなる。剣術をはじめてから、そんなことは十分に知悉している。左肩が上がらなかった。切り払うようにして膝裏を一撃し、横転させる。

「姉上!」

「いいから、進んで!」

弟はまだ、十を超えたばかりだ。守ってあげるのは、姉である自分の使命だと考えていた。そのためにこその剣術だったはずである。

追手を振り切って、森の中を抜ける。攻囲は厳重で、これは誘いの穴だ。反発が弱いほど、誘われている。だが、如何に鬼と呼ばれた彼女であっても、屈強な敵の真正面を斬り抜けるほどの力はない。手もなく、精一杯の抗いを続けるほかにない。


「あ……」


そうして彼女たちは、そこに出た。

森が切れて、そこに屹立するのは切り立った断崖。岩肌は荒々しく連なり、視線の遥か下には、大きな川が滔々と流れている。

もちろん、そんなことは知っていた。ここは彼女たちの郷、朱霧の郷だ。故にこそ、地理は知り尽くしている。だが、彼女たちはそこに出てしまった。知っていても、ここしか逃げ場はなかったのだ。

「姉上…」

不安ではなく、絶望に彩られた弟の声音。背中に迫る数多の鈍い輝き。時間はなかった。故に、迷うこともない。可能性の問題だ。戦場で迷いを見せる侍に、良い槍働きなどできるはずもない。

「しっかり掴まって、草若」

まあ私は、姫だけどね。でも、鬼だったかしら。

そんな下らない自虐的な思考とともに、弟を掴む。恐怖の声を上げる弟をしっかりと胸に抱いて。


命は、崖から飛び降りた。

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