第4話 幸せの真実

第四章

4-1

 気づくと、窓から差し込む光の位置が上にずれていた。

 脱ぎ捨てたエプロンが影みたいに落ちた。

 季節は秋のほうに近づきつつあった。

「ねえ、ママ」

 菜緒が和室でアイロンをかけているところに娘の杏奈が入って来た。

 つい先ほど学校から帰ってきたばかりだ。

 制服姿の杏奈は、アイロン台の向こう側に座り、両手をついて、身体を前に倒して菜緒の顔を覗き込むようにしながら言った。

「何?」

 菜緒からは、座っているら杏奈のきれいな丸い膝が見える。

 杏奈はスタイルがいいのでミニスカートが似合うが、時に、女の菜緒から見ても生々しく感じることがある。 

「今度の土曜日、パパ帰ってくるんだよね」

 杏奈の言葉の中には迷惑そうな響きが含まれていた。

 夫は広島に単身赴任している。当初はお互い寂しいということもあって、1か月に1回以上の頻度で東京の自宅に帰ってきていた。しかし、交通費がバカにならないこともあり、徐々に回数を減らしてもらって、数か月に1度帰京する程度になった。

 ところが、今度は夫が仕事の忙しさを理由に全然帰って来なくなってしまった。昔『亭主元気で留守がいい』というCMのフレーズが話題になったように、夫がいない生活に慣れてしまうと楽で良いのだが、あまりに帰京が遠のくと、それはそれで夫が浮気でもしているのではと余計な心配が生まれてしまった。

 そこで、最近では菜緒の都合がつく時に身の回りの世話と様子見を兼ねてこちらから現地に行っている。今のところ、夫に怪しいところは見当たらないが…。

 そんな夫から今週の土曜日に帰ると電話があったのである。

「そうよ。それより、そのスカート短か過ぎない?」

 菜緒にはそのことが気になった。杏奈の通う私立高校ではスカートの長さは校則で決められている。学校内ではみんなその校則を守っているようだが、学校外ではそれをたくし上げ短くしている子もいると聞いている。

「そんなことないから」

「そう?」

「そうだよ。あのさあ、そういうことじゃなくて」

「じゃあ、何なのよ」

「私、、その日は理恵んちに泊まりに行くから」

 杏奈は高校生になった頃から父親のことを避けるようになっていた。きっと生理的なもので一時的な感情だろうと、それほど心配はしていないのだけど…。

「杏奈に会いたいのもあって帰って来るのよ、パパ」

「だから嫌なんじゃない」

 言葉の欠片を無愛想な表情に閉じ込めている。

「何よ、その言い方。というか、なんでそんなにパパのことが嫌なの?」

「嫌なものは嫌なの」

 苛立ちを眉根に浮かべて杏奈が言った。

「そんなの理由になってないでしょう」

 思わず言葉が強くなってしまった。

 杏奈は一瞬怯んだような顔を見せたが、すぐに冷めた表情を作って言った。

「もういい?」

「もういいって、どういうことよ」

「話は終わりだから」

 早くこの場を去りたいという気持ちが見え見えだった。

 最近、杏奈の考えていることがわからなくなっていた。子供らしい快活さと大人びたところが同居しているのは、この年齢の特徴だとわかっているが…。杏奈は、何かに苛立っているようだった。

 母親として杏奈の苛立ちの原因を知りたいと思った。いや、母親として知らなくてはならないと思った。学校で何かあったのではないかと、いろいろ訊いては見たが『何もない』と強く否定されてしまい、何とも判断できないでいる。一度担任の中松という名の男性教師に相談してみようと考えたこともあるのだが、菜緒は中松をあまり信用していない。一学期の終わりに行われた三者面談の時に、中松は横柄な口の利き方をしたし、菜緒を見る目が気持ち悪かった。それに言動が非常に軽い。もし、杏奈のことを相談したとしても、それを平気で杏奈本人に話してしまいそうで怖い。

 それにしても、最近の女子高生の中には父親のことを好きと公言する子も多いと聞くのに、杏奈はなぜあれほどに父親のことを嫌うのだろうか。

ーもしかしてー

 一瞬、硬質な不安と悲しみがうねりのように押し寄せてくる。しかし、今の杏奈にこれ以上追及してもかえってこじれるだけと諦める。

「わかったから、勝手にしなさい」

 杏奈を見ず、アイロン台の洗濯物に目を落としたまま言う。

「は~い」

 嫌なことから解放されて楽になったとでもいうように明るい声で言って部屋を出て行った。杏奈の背中を見ながら、菜緒は胸を締めつけられるような懐かしさを感じていた。

 再びアイロンがけに戻りながら、菜緒は自分の高校時代を思い出しながら杏奈の苛立ちの理由を考えてみる。しかし、自分の家は特殊だったため、一般的な解答にはたどり着けない。

 自分にとっての父親は、嫌悪の対象にはならない代わりに、好きという感情を持てるほど近しい存在でもなかった。学者だった父は厳格だったし、大半を研究室で過ごす生活を送っていた。たまに家に帰って来ても、寡黙で母とでさえあまり会話をしていなかった。

 そういう家庭に育ったから、菜緒は平凡なサラリーマンに憧れに近い感情を持っていたように思う。大学在学中は心理学を専攻し、その面白さにのめり込んだ。指導教授からは大学院進学を勧められ、一時は真剣にその道に進ことも考えたが、結局やめて普通のOLになった。父親と同じような人生を歩みたくないという思いが強かったからかもしれない。

 いつの間にかいろんなことを考えていたが、ふとある思いが湧いた。

 ひょっとして…

 杏奈は恋をしているのではないか。

 しかも、あまり人には言えないような…。

 だからいつも何かに苛立っている。

 そう思うと、それ以外にはあり得ないような気がするのだった。

 たとえば、中松ではない他の先生に恋しちゃったとか。

 どこかで出会った一回り以上年上の男に恋したとか…。

 気がつくと、辺りは暗くなり始めていた。慌てて残りのアイロンがけを済ませて電源を切る。食事の準備のためにキッチンに向かいながら、今週帰ってくる夫に杏奈のことを相談すべきかどうかを考えていた。


4-2

「今羽田に着いたから」

 夫から電話があったのは土曜日の午後4時半だった。

「だったら夕飯には間に合うわね」

 久しぶりに帰って来る夫のために、今日はすき焼きを考えていた。なぜなら夫が一番好きな食べ物だったから。

「一応本社に顔を出すけど、大丈夫だと思う」

「わかったわ。待ってる」

「うん。じゃあな」

 夫に会うのは、およそ半年ぶりである。今更別にドキドキ感はないけれど、やはり嬉しい。今日は、いつも行く近くのスーパーではなく、少し離れてはいるけれど品揃えが豊富な店まで足を伸ばすことにした。

 買い物カゴを取って店内に入って気づく。レイアウトが変わっていたのだ。少し戸惑うが、それはそれで新鮮だった。とりあえず、店内を一周するが、やはり商品の質は近くのスーパーより良い。なんだかウキウキしてきた。夫のための食材を探すというだけで買い物が楽しいと感じるなんて、なんて自分は単純なんだろうと思うけど、『幸せ』なんて案外そんな日常的なものなんだろうなどと哲学的?なことを思ったりもした。でも、本当は自分たち二人分ではなく杏奈の分も含めた3人分の買い物がしたかったと思う。

 家に帰って料理の準備をしているところに夫が帰宅した。

「ただいま」

 インターホン越しに聞こえる夫の声は心なしか疲れているようだった。

「お疲れ様」

 精一杯の優しさを込めて言ったが、夫の答えは砂を吐く貝のように味気なかった。

「うん」

 しばらくしてリビングに入って来た夫は、相変わらずの無愛想だった。それでも菜緒は自分の言葉が夫に浸透するように、感情を込めて言った。

「お帰りなさい」

「うん」

 どうやら菜緒の思いは夫には伝わらなかったようだ。夫は下げていた大きなバッグをソファーにドスンと置く。そして、開口一番言い放った夫の言葉に、菜緒は自分の感情のやり場に困った。

「杏奈は?」

 夫が誰よりも好きなのは杏奈なのだ。

 誰よりも愛しているのは杏奈のことだ。

 そんなことは菜緒もわかっている。

 けれど…。

 夫のあまりにストレートな無神経さに、

 さっき買い物の時間を幸せと感じてしまったことが、ひどく惨めにさえ思えてしまった。

「ああ、あの子、友達の家に泊りがけで行ってるのよ」

 それでも菜緒は平静を装って静かに答えた。

「なんだよ」

 夫は落胆したというよりも、怒っていた。

 怒りたいのは菜緒のほうだった。

「ずっと前から決まってたんだって」

「そうか…」

 納得しているようには思えなかった。

「もう少しで支度できるから着替えてきたら」

「ああ。そうだな。そうするよ」

 ラフな格好に着替えた夫が戻ってきた。

「ビール飲むでしょう?」

「うん」

「おつまみ用意できてるから自分で冷蔵庫からビール持ってきてね」

「わかった」

 菜緒がおつまみをダイニングテーブルに持っていくと、夫は二人分のコップを用意してくれていた。

「菜緒も座って一緒に飲もうよ。二人きりだし、急ぐ必要もないだろう」

なにくわぬ顔で言われ、ささくれだっていた菜緒の心がサラサラと溶ける。

「そうね」

 困ったことに、自分はこの男のことを未だにどうしようもなく好きだ。

「じゃあ、改めてお疲れ様」

 菜緒の音頭で乾杯をする。

「いやあ、やっぱり自宅はいいよね」

 部屋全体を見回しながら、しみじみと言う。でも、夫がどういう意味を込めて言ったのかがわからない。言葉の下にある言葉を探る。

「そう?」

「だってさあ、自宅って、家族と時間を共有できるじゃないか」

 夫の口からこぼれ落ちた言葉は思いの外菜緒の胸に刺さった。

「そうね。それで、いつ頃こっちに戻れそうなの?」

 できるだけ早い機会にまた家族一緒に暮らしたいとずっと思っていた。だから、今回戻った夫に菜緒が一番訊きたかったことだ。

「う~ん。今日本社に寄って話を訊いたんだけど、2年後になりそうだ」

 夫は事実を淡々と言っているのだろうけど、落胆で身体の温度が下がっていく。

「2年後?」

 本当は来年に戻れるということになっていたので、また1年延びた形だ。

「うん」

 2年後というと杏奈は高校3年生になっている。杏奈の進学の問題もあり、1年延びたのは非常に微妙な感じだ。もちろん、夫もそれはわかっていて、だからこそ言い出しにくかったのであろう。

「それは確実な話?」

 再び延ばされたとしたら、わが家にとっては深刻な問題になるから、そこははっきりさせておきたかった。

「今回は間違いない。今日専務の確約をとったから」

これまで延ばされてきたことを払拭するように、不必要なまでに自信を持った言い方だった。

「そう…。わかったわ」

 夫はコップの中のビールを見つめたままだ。

 きっと、夫なりに思うことがあるのだろう。

 その答えはすぐにわかった。

「菜緒には迷惑ばかりかけてすまない」

 コップから目を上げ、まっすぐ菜緒の顔を見て、ひどく辛そうな顔をして言った。

 そこには、底抜けの善意しか見当たらなかった。

 夫の自分に対する愛情が溢れていて、胸が締めつけられる。

「あなたのせいじゃないから謝る必要はないわ」

「そうだけど、な」

 夫のコップの中のビールは、底のほうにわずかに残っているだけだ。

「もうこの話はやめましょう。今、食事を持ってくるから食べましょう」

 夫婦二人だけの食事はあっという間に終わってしまった。菜緒にとって、久しぶりの夫婦水入らずの食事は楽しいはずなのだけど、単身赴任で離れて暮らしているせいか、共通の話題が少なく思ったほど会話は弾まなかった。後片付けを終わってリビングに戻ると、夫は水割りを片手にテレビを見ていた。その横に菜緒も座る。

 以前なら自分にちょっかいを出してきた夫も、疲れているのか、それともすでに自分をそういう対象としてとらえられなくなっているのか、ぴくりともしない。かといって、自分から仕掛けるのは惨め過ぎてできない。

 今この場で離婚を切り出したら夫は動揺するのだろうか。それとも案外すんなり受け入れてしまうのだろうか。

 ついさっき、菜緒は夫の愛情を感じたはずなのだけど…。

 何年も離れて暮らしているせいか、夫のことが読めなくなっているし、ひょっとしたら浮気をしているかもしれないという不安も抱えている。今のところ、その兆候は見えてないけれど、遠くないいつか夫から離婚を切り出されるのではないかという気さえしている。でもそれは自分のプライドが許せない。だから今ここで自分のほうから離婚を切り出してみようかという気になったのだ。

「あっ、そう言えば」

 横に座る夫がこちらを向いて突然大きな声を出した。

 思わず菜緒は夫から身体を離す。

「何よ。びっくりするじゃない」

「ごめん、ごめん。急に思い出しちゃったもんで」

「何を?」

「専務のところがさあ」

 この人は何を言い出すのだろう。

「うん」

「離婚したんだって」

 打ち寄せる波の砕ける音が聞こえた気がした。

 ー待って、これは伏線ー

「そう…」

「そうって、お前驚かないのか?」

「所詮、人の家のことでしょう」

 内心、不安で不安でしょうがなかったが、不快な表情を作って強がってみせた。

「まあ、そうだけど。俺は熟年離婚なんて嫌だなあ。菜緒、お願いだから俺と一生過ごしてくれよ」

 夫はさりげなく言ったつもりだろうけど、後半の言葉には緊張が含まれていた。

 その緊張を自ら何でもないように装うためにか、隣に座る菜緒の腿あたりを2回ほど軽く触った。

「やめてよね。気安く触るの」

 突然夫の手に触れられた感触がまだ自分の腿あたりに残っていて、身体が反応しそうになっていることを夫は気づいているのだろうか?

「何だよ、夫婦じゃないか。それより、さっきの返事は?」

「そんなの決まってるじやない」

 夫の顔を見て言う自信がなかったので、菜緒はテレビ画面を睨めつけながら、できるだけぶっきらぼうに答える。

「そうか…。それならいいんだけどさあ」

 夫の顔には重荷を降ろしたような安どの表情が浮かんでいた。

 ひょっとして、夫は夫で菜緒から離婚を切り出されるのではないかという不安を抱えていたのだろうか。そう考えると急におかしくなった。

「ふふふ」

「何笑ってるんだよ」

「別に」

 まだテレビを見ている夫をソファーに残し、菜緒は明日の朝食の下準備のためにキッチンに戻る。もう一度夫のほうを見ると、先ほどと同じ姿勢でテレビを見ている。

 そんな夫の顔を見ながら、菜緒は自分の『忘れられない恋』を思い出していた。


4-3

 歩道沿いに植えられた街路樹が影を作る道の先に、菜緒が今日から通う本社ビルがあった。今日からまっさらな日々が始まるのだけれど、菜緒には何もかもが現実感がなかった。

 履きなれないハイヒールに力を入れ、大きく息を吸って本社ビルをくぐる。

 合同の新入社員研修を終え、菜緒は職場となる販売促進部に配属された。

「今年入社しました大島菜緒と言います。よろしくお願いします」

 職場のみんなを前に挨拶した時の緊張は今でも忘れられない。まさに、透きとおった希望と夢の感触に心が踊っていた時だった。

 その年に販売促進部に配属された新入社員は菜緒一人だけだったので、みんなが興味津々の顔をして自分を見ていたのも覚えている。

 自分の席について荷物の整理などをしていた時だった。

「大島さん、よろしくね」

 見上げた菜緒を慈しむような優しい笑顔で迎えてくれたのは、新入社員の教育係の間宮淳也だった。

「あっ、こちらこそよろしくお願いします」

 立ち上がってペコリと頭を下げた。

「いいから座って」

 菜緒のことを眩しそうな顔をしながら制した間宮は、当時係長だった。年齢は菜緒より5つ上の28歳だった。学生時代はほとんど同世代の人間としか付き合ってこなかった菜緒にとって、間宮はすごく大人に見えた。それに、自分好みの顔をしていた。

 その日から、間宮は右も左もわからない菜緒に、仕事のイロハから職場に昔からある習慣とか、人との接し方とかまで教えてくれた。間宮のおかげで菜緒の仕事に対する緊張は少しづつ和らいでいった。

 中でも、菜緒が一番有難かったのは、ミスした時に、頭ごなしに怒るのではなく、理由とともに論理的に丁寧に指導してくれたところだった。菜緒の年代は怒られるということに慣れていないため、理由も説明されずに怒られるというのが一番辛いのだ。

ー優しい人ー

 そう思ったけど、それは自分が新人だからだと思っていた。でも、間宮が自分本来の仕事をしている時を見て、間宮は自分だけでなく、みんなに優しいことがわかった。ちょっと悲しかった。

 少しずつではあったけれど仕事に慣れてきて、周囲の人たちとも親しく会話できるようになっていた。特に、菜緒の隣の席に座る1年先輩の畑中恵とは親しくなっていた。彼女によれば、間宮は同期の中で一番早く係長になったという。それは、間宮の仕事ぶりを見ていても頷けた。

 そんな間宮から食事に誘われた。

 その日、菜緒は二度もミスを犯してしまった。ともに大きなミスではなかったけれど、菜緒はひどく落ち込んでいた。

「ミスは誰でも起こすことはある。だからそれ自体はしょうがない。だけど、なぜそのミスが起きたのか、起こしてしまったのか、原因をしっかり把握して、以後同じようなミスをしないようにすることのほうが大事」

 間宮がそう言ってくれたことで、いくらか心が軽くなった。でも、菜緒は二度もミスを犯してしまったことにショックを受けていて間宮の言葉もあまり入ってこなかったのも事実だった。

 そんな菜緒を見かねて食事に誘ってくれたのだとわかった。周りもそう見ていたようだ。でも、その時の菜緒の頭の中に、間宮に慰めてほしいという甘えがあったのも確かだ。だから、ついて行った。

 間宮が連れて行ってくれたのは、駅の近くにあるおしゃれな洋食屋さんだった。金曜日の夜だったせいもあり、半分以上の席がカップルで埋まっていた。

「おしゃれなお店ですね」

「そうだね」

「係長、よく来るんですか?」

「たまにだよ」

 間宮はそう言ったけど、菜緒はきっとよく来ているに違いないと思った。店での行動に慣れている感があったし、おしゃれな間宮に似合っていたからだ。

「カップル多くないですか?」

 身体を少し間宮に近づけて秘め事のように言う。

 一瞬間宮の男の匂いが鼻腔をくすぐりたじろぐ。

「金曜日の夜だからね。ちなみに僕たちもカップルだよ」

 さりげなく言われ、ふいに得体の知れない感情が波のようにやってきた。

「そんな…」

 間宮は軽い冗談のつもりで言ったのだろうが…。

 席に着くと間宮が注文する前に菜緒の顔をそっと見て言った。

「大丈夫? きっと一番疲れている頃だろうから」

 菜緒の気持ちを先回りしてやさしく包み込む。

 思わず間宮の瞳の奥底を見つめてしまう。

「大丈夫です」

 かろうじてそう言ったものの、涙が流れそうになってしまった。まさに間宮の言う通りだったからだ。職場に配属されて約2カ月。日々緊張の連続だったので肉体的にも精神的にもピークを迎えつつあった。

「ほんとうに大丈夫?」

 今度は菜緒の顔を覗き込むようにして言う。

 これ以上はやめて。

 菜緒は自分の胸の内にひたひたと静かに溢れてくるものに戸惑う。

 自分の顔を見られたくなかったので、下を向いたまま答えた。

「はい」

「そう。それなら良かった。ところで、大島さんは苦手な食べ物ある?」

「いえ、ないです」

「それなら、今日の注文は僕に任せてくれる?」

「はい。お願いします」

 メニューを見ながら店員に次々注文する姿もなんかカッコいい。

「今日は何もかも忘れて楽しく食事しよう」

「はい」

「なんか硬いなあ。ここは職場じゃないんだから、もっとリラックスしていいんだよ」

「それは無理です。だって、間宮さん上司ですから」

「だから、それは職場での話ね。今は同僚の一人にすぎないから。あっ、わかった」

「何ですか?」

「大島さん、お酒好きなんだよね。畑中君から聞いたんだけど」

 畑中からそんな情報まで訊き出しているとは思わなかった。

「えっ、畑中さん、そんなこと言ってました」

「事実なんでしょう」

 畑中とは二度ほど飲みに行ったが、その時結構飲んだ覚えはある。

「まあ、そうなんですけど」

「よし。じゃあ、飲もう。僕もお酒は好きだし。飲めば少しはリラックスできるでしょう」

「そうかもしれないですけど…」

「ちなみに、泣き上戸とか、飲むと性格が変わるとかはないよね?」

「ないです、ないです。周りからは、ただ陽気になるだけって言われてます」

「いいね、いいね。僕と同じだ」

「えっ、そうなんですか。なんか嬉しい」

 最初はビールで乾杯し、その後は焼酎の水割り、最後は日本酒という順で飲んでいった。日本酒に移った段階で二人は相当酔いが回っていて、 菜緒もすっかりリラックスしていた。いや、リラックスレベルを超えていたかもしれない。

「間宮さんは結婚して何年なんですか?」

「えーと、今年で4年目かな」

「へえー、そうなんだ。奥さんとはどこで知り合ったんですか?」

「同期入社だったんだよ」

「えっ、間宮さんの奥さんって、うちの社員だったんですか?」

「そうだよ」

「驚き」

「別に驚くことじゃないよ。うちは社内恋愛禁止じゃないから、社内結婚も結構多いんだ」

「知りませんでした」

「だから、大島さんもその可能性あるかもよ」

 少なくとも同期入社の男性社員の中に思い当たる人はいない。

「私はたぶん無いと思います」

「そんなの断言できないでしょう」

「そうですけど。それで、奥さんのどういうところが好きだったんですか?」

 使っていないおしぼりをマイクのように間宮の口あたりに近づけて訊いた。

「あのさあ、その話題もう止めない?」

「何でですか?}

「こういう飲みの席であんまりしたくない話題だし、それに実はうち、あまりうまくいってなくてさあ」

「ええー、嘘」

 この時、菜緒は酔っていたせいもあって、間宮の言葉をそんなに深くは捉えなかった。

「嘘じゃないよ。だけど、せっかくなんだから、もっと楽しい話題にしようよ。そうだ、最近大島さん世代で一番人気があるガールズグループって誰だか教えて」

 その時、どんなガールズグループの名前を挙げたか忘れてしまったけれど、その日を境に間宮はすでに菜緒の内側に入り込んでいたように思う。その後も間宮は節目節目に菜緒を食事に誘ってくれた。あくまでそれは菜緒に対する指導や励ましのためであったと思うけど、菜緒のほうは次第に異性として意識するようになっていた。

 だが、二人の関係を深めることになったのは、菜緒の母親の病気について間宮に相談するようになってからだ。その時すでに父親は他界していたので、他に頼る人がいなかったこともある。菜緒の相談に間宮が親身になって応じてくれたことで、菜緒は精神的に崩れなくて済んだ。あの時、間宮が傍にいてくれなかったら、自分はどうなっていただろうか。

 結局、母は闘病の末亡くなったが、それでも菜緒が前を向けたのは間宮のおかげだ。

 気づいた時には、菜緒にとった間宮はなくてはならない存在になっていた。ただ、間宮にとって自分はどういう存在なのかがわからなかった。母親のことで頻繁に会っていた時の間宮は、菜緒に好意を寄せてくれているようにも感じた。しかし、母親のことがすべて終わり平常に戻った時、間宮の自分に対する態度は、むしろ素っ気ないものになっていた。間宮に奥さんがいるのだから、当然といえば当然なのだけど、菜緒は自分の気持ちをもてあましていた。

 時間だけが靄のように揺らめきながら進んでいく。

「大島さん、今日どうしたの?」

 久しぶりに間宮に食事に誘われた。

 割り切れぬ思いの菜緒は、割り切れない顔をしていたのだろう。

「えっ、何ですか」

 駅前の居酒屋は多くの客で賑わっていて、間宮の低めの声は聞き取りにくい。

「今日はどうしたのかなって?」

「どうしてですか?」

「何か思い詰めたような顔してるからさ」

 塞いでいる子供に問いかけるような、どこか頼りなげな声。

「そんな風に見えましたか?」

「見えたよ。お母さんのこと?」

 的外れな言葉に、お門違いな怒りが湧く。

「母のことはもう大丈夫です」

 自分のことをもっとわかってほしくて冷たく言い放つ。

「そう。それならいいけど。他に何かあれば聞くよ」

「間宮さんが最近冷たくなったことぐらいです」

 ひそかに胎動する何かが爆発する前に仕掛けてみた。

 鈍感な男には鈍感であることをわからせるしかなかった。

「ええー、変わってないと思うけどなあ」

 明らかに狼狽えている間宮。

 だが、肝心なことはまだ何もわかっていない。

「じゃあ、いいです」

 女性が男に使うこの言葉の威力を、菜緒はよく知っていた。

 母からこの言葉を言われた父親の落ち込みようは今でも菜緒の心に残っている。

「何、その言い方。僕、変わった?」

 案の定、間宮は果てのない夜の野原に取り残されたような不安な表情をしている。

「もう、大丈夫です。ほんとに」

 視野の片隅に間宮をとらえながら、かすかな酷薄さを顔に込めて、さらに突き放した。

「そう? そうならいいけど」

 身体に刺さった無数の棘の痛みを感じながらも、間宮は年上の男らしく何かを握り潰した。

「はい。もうこの話は終わりです。いつものように楽しく飲みましょう。ね、間宮さん」

「うん。そうだね」

 その後はいつもの通り、社内外の出来事や上司の話で盛り上がった。

 のっぺりとした蛍光灯が店内を照らしている。

 醤油と油の焦げた匂いが充満し、厨房からは時々白い煙が上がる。

 喧嘩しているのではないかと思われるほど大声で話す男たちの声が後のほうから聞こえる。

 中年女のグループから発せられる嬌声が耳に突き刺さって痛い。

 そんな地獄だか天国だかわからないような場所にいるからこそ、菜緒は何でも訊けるような気がしてきた。

「ちょっと訊いてもいいですか?}

 菜緒は前から気になっていたことを訊いてみた。

「何?」

「今日みたいに帰りが遅くなる時は奥さんに連絡するんですか?」

 これまでの経験で、間宮が奥さんのことを話題に出されるのを嫌がるのがおもしろくて、敢えて菜緒は時々この話題を出す。ところが、なぜかこの日は嫌がらなかった。それどころか、にやけた顔で答えた。

「そりゃあそうだよ。連絡しておかないと怒られちゃうだろ」

「何でそんなにやけた顔するんですか」

 からかうつもりがからかわれたような気がして腹がたった。

「どういうこと? 質問に答えただけだよ」

「いつもそんなヘラヘラした顔していませんでした」

「へらへらって。何を怒ってるの?」

 自分でも何に対して怒っているのかよくわからない。

「係長、私の気持ちわかっていますよね」

 ああ、ダメだ。

 自分は今地雷を踏みそうになっている。

 でも、もう止まらない。止められない。

 間宮はずっと前から菜緒の気持ちに気づいていたはずだ。

「……」

「答えていただけないんですね。私、係長のことが好きです。もちろん、係長に奥さんがいることもわかっています。それでも好きになっちゃったんです」

 禁断の一言を口に出してしまった。胸の中に留めておくつもりだったのに、間宮がついさっき見せた態度が菜緒を刺激してしまった。

「大島君…」

 お互い、次に言うべき言葉が見つからず沈黙が流れる。間宮は一人で酒を煽っている。 

 菜緒はただ間宮の次の言葉を待っていた。

「大島君が僕に好意を持ってくれていることはわかっていた。君の告白に乗じるみたいで嫌なんだけど、僕も君のことが好きになってしまった。でも、僕は結婚している」

「ですから、それはわかっています。それでもいいって言ってるんです」

「それでもいいって?」

「今のままでいいから付き合ってほしいんです」

「そんなのはダメだよ…」

 再び沈黙が流れた。菜緒は間宮も自分のことを好きだと言ってくれたことに満足していた。だから、もう何も言わなくてもいい。何かに耐えているような間宮の顔をただ眺めていた。

「あのさあ。前に僕ら夫婦がうまくいってないって話したよね。覚えてる?」

「覚えてますよ。でもそれは結婚してる人がよく言う台詞じゃないですか」

「でも、うちの場合、ほんとなんだ」

「係長、さっきもいいましたけど、そんなの私どうでもいいんです」

「君はそうだとしても、僕が嫌なんだ」

「だから?」

「うん。だから、ちゃんとけじめをつけるまで待っていてほしい」

「待つって、何をですか?}

「二人の関係をこれ以上深めるのをだよ」

「そんなの無理です。さっき私思い切って告白しました。係長も私のことを好きだと言ってくれました」

「それはその通りだよ」

「だったら、このままじゃ嫌です」

 今考えると、なんと大胆なことを口にしたのだろうと思うけど、その時は、話しているうちに間宮のことがさらに好きになっていってしまったのだ。好きで好きでたまらなくなっていて、思わず口に出した言葉だった。

「大島君…」

 菜緒はテーブル越しに間宮の手を握った。そして、その手を自分の顔に当てた。

「こんなに熱くなっています。横に行っていいですか?」

 間宮は言葉ではなく頷くことで答えをくれた。

 その日二人は一つになった。

 少し湿った空気を感じた初夏の夜だった。

 後先を考えない菜緒の行動が功を奏してしまったのだ。

 翌朝、街の外れのホテルの部屋で目を覚ました菜緒は、ぼんやりと幸せになるのを感じた。

 

4-4 

 その日から二人の濃密な不倫関係が始まった。

 一度関係を持つと男は変わるというけれど、間宮もその例にもれなかった。いや、そういう自分も変わっていたのかもしれなかったが…。

 たいていは間宮が自分の部屋に来て、終電に間に合うギリギリの時間まで過ごして帰って行く。最初の頃はそれでも十分満足していた。どんな言い訳をして自分のところに来ているのかわからなかったけど、来てくれて一緒に時間を過ごせるだけで幸せだった。

 しかし、人間の欲望には限りがないものらしい。次第に不満がたまってきた。うまくいってないと言いながらも、その奥さんの元へ帰る間宮が憎たらしい。

「何そわそわしてるわけ?」

 菜緒からすれば、自分のわけのわからない感情をこういう言葉で表すしかなかった。

「そわそわなんかしてないでしょう」

 そう答えた時の間宮の細面の神経質そうな顔が菜緒を余計に苛立たせる。

 今はさっきから窓を震わせている風の音さえ菜緒の神経を尖らせる。

「嘘。私が横を向いた時、腕時計を見てたじゃない」

 事実を指摘したまでだけど、自分でも嫌な女になっているという意識はあった。

 あなたが嫌な男になっているから、私も嫌な女になっているだけ。

「そういう人をひっかけるみたいなことやめろよ」

 男という生き物はいつでも正論を吐く。正論さえ言えば世界はまかり取るとでも言うように。

「何逆ギレしてるのよ」

 本当はこんなことを言い合いたいわけじゃないのに、このところいつもこうなってしまう。菜緒にとっては、帰ってしまった後も悲しいけれど、それより心がひりつくのは、帰る間際の間宮の落ち着きのない態度を見せられることのほうだ。

 その辛さを間宮はわかっていない。

 でも、実際に帰ってしまうと、菜緒はまだ間宮の残り香のする部屋で、くすぶる火種を集め、不安の影に怯えてしまうのだ。

「悪かったよ」

 開き直ったような、投げやりな言い方だった。

「もういい」

 唇は強く噛んだせいで血がにじんでいる。

 心にぴゅうと風が吹き抜ける。

 固く張っていた心が緩んで、自然に涙が出る。

 泣いたところで、何一つ本質は変わらないとわかっているのに…。

「ごめん」

 菜緒の涙を見て、慌ててとりなそうとする間宮。

「帰れば。時間でしょう」

 菜緒は精一杯の皮肉を盛り込んだ笑顔を作って言った。

 でも、毎回繰り返すつもりもないのに繰り返してしまう、このどうしようもない宿痾のようなものに菜緒自身も嫌気がさしていた。

「すまない。今度こそちゃんと話し合ってくるから」

 何度同じ話を聞かされているだろう。

 身体の中から急速に熱が引いていくのを感じる。

「……」

 すごすごと、だが解放された嬉しさを背中に見せて部屋を出ていく間宮。本当はその足に取りすがってでも引きとどめたいけど、菜緒のプライドがそれを許さない。

 時には出張と偽って菜緒の部屋に泊まりに来てくれたこともあった。でも、結局は家へ帰るのであり、長く居てくれた分だけ出ていかれる時が辛い。間宮が帰った後、無闇に広くなった空間を見つめ、菜緒は今度こそは終わりにしたいといつも思っていた。

 ただ、間宮が奥さんとうまくいってないのは本当だった。他部署で主任をしている飯村洋子と一緒に得意先企業に打ち合わせに行った帰りに飲む機会があり、その際に判明した。

 飯村洋子は仕事のできる女性で、菜緒にとっても憧れの存在であったため、一緒に飲めることが嬉しかった。職場外で、こうして二人で話すのは初めての機会だったが、飯村は明るくサバサバした性格でとても話しやすかった。最初は仕事の話をしていたが、飲み進めるうちに雑談になった。その中で、飯村のほうから間宮の話題を出してきた。飯村は間宮が菜緒の上司にあたることから話を聞かせようと思ったようだ。もちろん、飯村は菜緒が間宮と付き合っていることは知らない。飯村と間宮は同期だったことから、当時の間宮にまつわる面白いエピソードなどを聞かせてくれた。

「それで、これは内緒の話なんだけどさあ」

 間宮の昔のエピソードが一段落したところで、飯村が急に声を潜めて話し始めた。

「間宮君のところ、うまくいってないらしいのよ」

 うまくいってないのを悲しんでいるのか、喜んでいるのかわからない謎めいた表情だった。人は、いや特に女性は他人の幸せ話より不幸話のほうが好きなのではないかと菜緒は思っていたが、飯村もそうなのか。

 間宮と同期ということは間宮の奥さんとも同期ということである。しかも、というか当然ながら、飯村は奥さんのほうと、より仲が良かったという。その奥さんと先日電話で話す機会があり、その際聞かされたという。

「そうなんですか…」

 心の中は粟立っていて、興味津々だったが、余計なことは言えなかったので、そう答えた。

「今話し合いをしている最中らしいんだけど、ひょっとしたら、あの夫婦別れることになるかも。でも、もし、そんなことになったら奥さんがかわいそうよね」

 まだどうなるかもわからないのに、飯村の顔には憐憫の表情が浮かんでいた。さっきまで飯村に感じていた怜悧さが嘘のように崩れていく。でも、今自分の心の中を覗けばきっとざらついているのだろう。

 別れるとなると奥さんのほうが同情されがちだけど、一概にはそうは言いきれないのではないかと菜緒は思う。もちろん、これは自分が今置かれている立場を思うからである。でも、ここは一応同意しておく。

「そうですね」

 あまり関心なさそうな素振りを見せておいたが、間宮から聞かされていた話が本当だとわかって、間宮を信じてみようかという気持ちになった。

 その日から半月後、飯村の話が本当であったことを裏づける話が間宮からあった。

「妻がようやく離婚を真剣に考えてくれることになった」

 鼓動が早鐘のように打ちつける。

「本当?」

 信じたいけれど、間宮の言葉の軽さが信じ切ることを許さない。

「もちろん、まだまだ話を詰めないといけないんだけどね」

「そうよね。少し前に進んだのは嬉しいけど、まだまだ全然よね。私が一番心配しているのは、奥さんが私のことに気づいているんじゃないかっていうこと」

「それは大丈夫だよ。まったく気づかれてない」

 あまりにも単純な言いように、むしろ不安しか感じられない。

「そう…。それを信じたいけど…」

「とにかく、もうちょっとだから、待ってて」

「わかった」

 不安はあったけど、間宮の言葉を信じることにした。しかし、それから二遊間後にやってきた間宮から、思ってもいなかったことを告げられた。


4-5

 カーテンを開けて空を見上げると、赤い月がぽっこりと埋め込まれているのが見えた。それが、人の運命を吸い込んでしまう強い力を持っているようで怖かった。

 その日の間宮は部屋へ入って来た時から様子がおかしかった。

「なんか落ち着きがないんだけど」

「うん。大事な話がある」

 菜緒の頭の中には、先ほど見た赤い月が浮かんでいた。

 二人にとって大事な話と言えばあのことしかない。今日はその話をするためにだけやって来たようだ。さっきから背広を着たままなのが、そのことを表していた。しかし、間宮の表情を見る限り、明るい話ではなさそうだ。

「ふ~ん。どんな話?」

 わざと笑顔で言ってみる。

「子供ができた」

 壁に空いた穴のような空洞な目をした間宮。

 自分はこの世のあらゆる負の気分を吸い込んでしまった。

 自分たちは、そういう行為をする時、しっかり避妊していた、はずだ。

「えっ?」

 胸の中の言葉は重すぎて喉を上がって来ない。

「妻に子供ができてしまった」

 景色がゆっくり歪み、

 幸福な光景に思えた二人の時間に強い影が差した。

 室温がどんどん下がっていく。

「どういうこと?」

 自分の声は水中をゆっくりと浮上するあぶくのようだ。

「どういうことって…」

「ついこの間、離婚の話が進んでいるって言ってたよね。それなのに子供ができた。ということは奥さんと、そういうことをしてたっていうことだよね。しかも、私との時はしっかり避妊していたのに、奥さんとの時は避妊してなかったんだ」

 心の中がぐらぐらと煮立つような怒りが湧いてくる。

 一方で菜緒は、頭の中で逆算をしていた。

ーあの時だー

ー妙にヘラヘラしていた、あの時だー

「酒に酔っていて、その流れで…」

 菜緒は、間宮の肩越しに見える空を睨みつけながら言った。

「そんな言い訳やめてよ。きっと奥さん、私たちのことに気づいていたのよね」

 奥さんは確信犯だと思った。とっくに私たちのことに気づいていて、最後の手段を使ったのに違いない。一度だけ見せてもらった写真の中の奥さんの、ふうわりとしてはかなげな姿が目に浮かんだ。

「そんなことないと思うけど…」

 男って、どうしてこんなに見方が甘いんだろう。

「そうに決まってるじゃない。奥さんはまだあなたのことを愛してるのよ。だから、離婚する気なんてなかったのよ」

「そんなことないよ」

 そう言って、間宮は菜緒の肩に触れようとした。こういう時に、そいう行動をとれば許してくれるだろうと考えること自体が嫌だ。許せない。今までの自分たちの思い出すら汚すその行為に、菜緒は心の底から失望した。

「触らないで」

「菜緒、俺の気持ちは変わらないから」

「私は奥さんに負けたのよ」

「そんなことはないよ」

「何であなたはわからないの、私の気持ちが。もう、嫌。お願いだから今すぐここを出て行って。そして、二度と来ないで」

「菜緒、お願いだから、そんなこと言わないでくれ」

 必死になればなるほどどうして人は醜態をさらすのだろう。

 大事なことが何なのかもわかっていないまま、目先のことをとりあえずやり過ごそうとしいる間宮に、菜緒の感情は砂のようになっていく。

「出て行って。もう無理だって言ってるでしょう。もう一度だけ言うわ。出て行って」

 大声を上げたかったが、感情を押し殺してできるだけ低い声で言った。それでも、ぐずぐずしている間宮に、菜緒は近くにあったクッションを投げて最後に大き目の声で言った。

「出て行ってって言ってるでしょう」

 間宮の姿が、ようやく菜緒の視界から消えた。

 最後まで自分の言葉はそのまま間宮の身体をすり抜けてしまった。

 残ったのは、淡々とした現実だった。

 私の、忘れられない恋が終わった瞬間だった。

 思いはどろどろに溶けて混ざり合い、いつの間にか、私の恋はまだら模様に染まっていた。


4-6

「明日なんだけどさあ」

 リビングから聞こえる夫の声で、過去から現在に引き戻された。

「明日?」

「うん。今、高橋浩次の展覧会をやってるみたいなんだ」

高橋浩次というのは、最近注目を浴びている若手の画家だ。

「えっ、そう」

「どうせ杏奈はいないんだし、二人で行かないか?」

「いいわね」

 二人の共通の趣味が絵画の観賞だった。夫は観るだけだけど、自分は気が向けば描くこともある。

「じゃあ、午後から行こう」

「そうね」

 再び夫がテレビ画面に目を戻したのを見ながら、自分はもう一度過去に遡っていた。

 実は、あの時終わっていたはずの恋には続きがあった。

 自分の不倫の相手である直属の上司の間宮との関係が破たんしたこともあって、会社にいずらくなった菜緒は退職した。就職情報誌を買ったものの、すぐに再就職する気にはなれなくて、しばらくの間ダラダラと過ごしていた。

 そして気づいた。自分は組織の中で働くことが苦手だということに。

 じゃあ、自分に何かできることがあるだろうか。一つあった。それまでにもアルバイト的にではあったが、頼まれてやっていたのがイラストの仕事。幸いなことに評価は上々だった。もちろん、プロ価格でなかったことが受けていたとは思うけど、この際、腕を磨いてプロのイラストレーターとして独立できないか。

 思い立ったらすぐに行動に移すのが菜緒の長所だった。もちろん、当初はそんなに多くの仕事はもらえないかもしれないけど、幸いそれなりの貯金もあった。仕事をしながら勉強を続ければ、一人前になれるのではないか。そう自分自身に言い聞かせて実行に移した。

 前職で営業の経験もあったので、積極的な営業活動を展開した結果、順調に仕事先も増えていった。

 風の便りで間宮のところに女の子が産まれたと聞いたが、もう特別な感情は湧かなかった。自分の仕事で頭がいっぱいだったことも、その理由だ。

 そうこうしているうちに1年が経ち、プロのイラストレーターとして社会的にも認められるようになっていた。仕事先とも良好な関係を結べるようになってきて、毎月貯金ができるほどの収入を得られるようになった。

 生活が落ち着くと、それまで封印していた恋をしたいと思うようになっていた。ただし、今度は不倫などではなく、ごく普通の恋がしたい。

 そんな矢先に元同僚の橋口あやみから電話があった。自分と間宮との関係を知っている数少ない元同僚の一人のあやみからの電話は少し鬱陶しい。しかも、あやみはおしゃべりで有名だった。

「菜緒、知ってる?」

 いきなりこんなことを言われても答えられるはずもない。

 相手のことなど何も考えていないとしか思えないあやみの言葉に辟易する。

「何?」

 苛立ちを抑え込んで訊く。

「間宮さんの奥さんが事故で亡くなったこと」

 ぎこちない後味のようなもので息が詰まる。

 降り積もっていた古い時間が再び意味を持ち始める。

「嘘」

 身体中の体液が逆流するような気持ち悪さに襲われる。

 自分は何も悪いことはしていないのに、悪意の海に溺れていく。

「嘘じゃないよ」

 ふと電話から顔をあげて見た窓の向こうは夜に染まろうとしていた。

「だって、子供まだ小さいんじゃなかったっけ?」

 奥さんに起きたことの詳細については、自分に訊く権利はないような気がして、子供のことを訊いた。

「そう。もう少しで1歳になるところ。事故にあった時は8カ月くらいだったんじゃないかな。奥さんが夕方に、その子を胸に抱えて坂道を歩いていた時に、後ろから無灯火で走って来た男子高校生の乗る自転車に追突されたらしいの」

 おしゃべりのあやみが、はからずも奥さんに起きた一部始終について教えてくれた。

 自分の中の複雑な感情の糸がもつれる。

 そんなニュースを見たような気もするが、はっきりは覚えていない。だが、想像しただけで痛ましい。胸のあたりが重くなる。

「それで?」

「奥さんは路上に倒れ込んで、その際に頭を強く打って、それが致命傷になったらしいの」

「赤ちゃんは?」

「とっさにだと思うんだけど、奥さんは自分の体を丸めて赤ちゃんを守ったんだって。そのおかげで、赤ちゃんは、ほとんど無傷だったようよ」

 あやみは、まるで自分がその場にいたかのように、一語一語を慎重に言葉の形に落とし込んでいく。おかげで菜緒までその場にいたかのような錯覚を覚えた。

「そう…」

「すごくない?」

 昔から感情移入の激しかったあやみはこのことが言いたかったらしい。

「すごいね」

 母親の子供に対する愛の深さ、強さは自分の想像を超える。

 きっと、その瞬間の光景だけは永遠に凍結されている。

「私、その話聞いた時、泣いちゃった」

 その悲惨さに菜緒の心も強く揺さぶられたが涙は出なかった。

 自分は薄情な女なのだろうか。

「うん。わかる。でも、その話、誰から聞いたの?」

「間宮さんの同期の陣内さんからよ」

 同期の中でも陣内健は間宮と仲が良かったと聞いていた。だから、陣内は間宮と菜緒とのことについてもほとんど知っていたと思う。

「ああ、陣内さんね」

「それで、私が何で菜緒に電話したかわかるよね」

 なんとなく想像はできたが、ここはわからないふりをする。

「わかんないわよ」

「じゃあ、言うわよ。間宮さんに電話してほしいの。今の間宮さんを救えるのは菜緒しかいないって陣内さんが言うの。私もそう思う。菜緒の中にいろんな思いがあることもわかる。でも、今間宮さんはどん底に落ちているのよ。お願い、電話してあげて」

 あやみの言っていることもわかる。でも、やっぱり躊躇があった。自分の中ではもう終わったことであったし。それに、自分が電話することで本当に今の間宮を救えるのか…。

「ねえ、菜緒、聞いてる?}

 菜緒はきつく目を瞑っていた。

「聞いてるよ。でも…。ちょっとだけ考えさせて」

「いいよ。ただ、時間的余裕なんてないからね」

「わかってる」

 あやみが陣内と付き合っていることは知っている。だから、間宮のことを心配する陣内の思いもわかるのだろう。それほどに間宮が切羽詰まった状態にあるということだろう。 

 携帯をテーブルに置くと、どっと疲れが出た。このところ安定していた心が行き場を失って軋んでいる。全身が水を吸い込んだ綿のように重かった。


4-7

 あやみから電話をもらった日から菜緒は、漂流している過去をつかんでは離すということを繰り返していた。時に、洗い流したはずの思い出が鮮やかに色づき出し戸惑う。これ以上ないというほどの闇に落ちて以来、退屈なくらい平凡な人生を希求したはずではなかったか。それなのに、性懲りもなく、自ら再び不透明な渦の中に飛び込もうというのか…。

 悩みに悩んだが、結局、連絡することにした。別れたとはいえ、かつて本気で好きになった男が悲しみの底にいるのだ。自分が声をかけることで、いくらかでも気持ちが和らぐのであれば力になりたいと思ったのだ。

「もしもし」

 こちらの携帯番号が表示されているはずなので、誰からの電話かはわかったであろう。

「菜緒、さん」

 菜緒といいかけて、呼び捨てはまずいと思ったのか、『さん』をつけた。

「菜緒でいいわよ」

「いいのか?」

「そんなことより、あやみから全部聞いたわよ。大変だったわね」

「うん」

「それで、大丈夫なの?」

「俺、ダメかもしれない」

 間宮が自分に甘えているのがわかった。

 怒りと愛情の間で心のブランコが激しく揺れている。

「何言ってるの、赤ちゃんがいるんでしょう」

「うん」

「赤ちゃんはどうしてるの?」

「実家の母に預けてる」

「そう…」

「菜緒、会ってくれないか? 俺がそんなこと言える立場にないことはわかっているけど、お願いだ。今の俺には菜緒が必要なんだ」

 とつとつと話す間宮の言葉が菜緒の鼓膜を穿つ。

 電話の向こうにいる間宮の潤んだ瞳が目に浮かぶ。

 間宮という男は、こうしていつも女の心の一番弱い部分にさらりと入り込んでくる。

 間宮に連絡すると決めた時からこういう展開は予想していたけれど、菜緒の中ではまだあの時のことが納得できていない。

「でも、私の気持ちもまだ整理できてないし」

 すでに2年近く経っているけど…、

 あの日自分が負った傷跡はまだ瘡蓋となって残っている。

 逆に言えば、それだけ間宮のことを捨てきれていない証拠でもあった。

「そう…」

 弱々しい溜息に諦めのようなものが混じっていた。

 ソファーの向こうの鏡が、携帯を耳に当てた菜緒の姿を映していた。

 鏡の中の菜緒の唇が笑いの形に歪んだ。

「わかった。会うわ」

 翌日、間宮の住まいに近い喫茶店で会うことにした。幸い、菜緒はフリーランスで働いていたので時間のやりくりは可能だった。間宮は自分の部屋に来てほしいと言ったが、さすがにそれは断った。そこにはまだ奥さんが『いる』気がしたし、奥さんとの生活の痕跡が残っているに違いなかったから、そんな場所に足を踏み入れるつもりなどなかった。それに、間宮の部屋に行けば、いきなり抱きつかれる可能性だってある。そのままズルズルとなんていうことだけは避けたかった。

 間宮の指定した喫茶店に入る。すぐに間宮を確認できたが、その変わりように驚いた。いつもおしゃれで人目を気にしている男だったが、その時の間宮は着古したようなジャージ姿で、背中を丸めてしょんぼりと座っていた。会おうと思った気持ちが萎え、このまま会わずに帰ってしまいたいとも思ったが、なんとか思いとどまった。

「待った?」

 菜緒がそう声をかけると、間宮は座ったまま、おもむろに顔だけを菜緒に向けた。

「ああ。菜緒」

 自分で会いたいと言っておきながら、そこに菜緒が現れたのが意外みたいな反応だった。

「ずいぶん痩せちゃったわね」

 恐らく10キロ程度痩せたと思われた。

「うん」

「会社はどうしてるの?」

「まだ休んでる」

「そう…」

「俺、罰が当たったのかもしれない」

「罰?」

 間宮も自分の倦んだ魂を持て余しているのだろう。

「結局、俺が美穂と菜緒の両方を裏切り、傷つけてしまったから…」

 美穂と、妻の名を出され、菜緒の心の傷が疼く。

 しかし、間宮の言ってることはその通りなので、そう言おうかと思ったが、間宮のあまりに憔悴しきった顔を見ていたら言えなくなった。

「そんな風に考えないほうがいいわよ。あくまで事故は事故を引き起こした犯人が悪いの」

「うん。そうだけど…」

 何か起きた時、他人のせいにする人と自分を責める人がいる。間宮は後者なのだろう。

「どうしちゃったの。私の知ってるあなたはもっと理知的な人だったわよ」

 わかっていた。事故のショックが間宮を一時的に変えてしまっているだけだと。だからこそ、菜緒は敢えて間宮に目を覚まさせるために強く言った。

「俺、どうしたらいい?」

 うまく泣くことができない子供のような顔で言われ、胸のあたりが痛くなる。

「あなたには、あなたを必要とする赤ちゃんがいるの。だから、辛いだろうけど、赤ちゃんのために一刻も早く前を向くこと」

「わかっている。わかっているけど…」

 菜緒が思っていた以上に間宮は精神を破綻させていた。間宮にこんな弱い部分があるとは思っていなかった。それが菜緒を無条件に切なくさせた。

「いったいいつまでそんなことばかり言ってるの」

 胸の内に爪を立てて言葉にする。

「ごめん」

「私に謝ってどうするのよ。そういうことじゃないでしょう。しっかりして。それに、その髭面」

 間宮が辛い状況にあるのはわかるが、あまりの体たらくに何か悲しくなった。

「うん」

 自分の髭を触りながら言う。

 間宮の後ろで太陽の光がレースのカーテンと戯れている。

 遠い日の影絵が動く。

「私がサポートするから」

 まるで用意してきた言葉のように、思わず言ってしまった。

 これ以上間宮の惨めな姿を見たくなかったからだけど、でも…。言ってしまってすぐに後悔した。自分はもう深入りしないつもりだったから。だが、間宮の顔には明らかに喜びが溢れていた。

「ほんとに?」

 いちずな視線で見つめられ、今更やめるとは言えなくなった。

「うん」

 いくらか元気を取り戻した間宮が一人先に喫茶店を出た。

 菜緒は、その後ろ姿が通りのざわめきにゆるやかに紛れ、やがてビルの間に見えなくなるまで目で追っていた。

 結局、間宮の思う通りになってしまった。

 自分の心の隙の所以なのか、それとも間宮に対する愛が鎖のように結びつけたのか。

 空気は急速に蒼ざめ、夜の支配下に入ろうとしていた。

 翌日からサポートを始めた。本当なら部屋に入って家事をしてあげたかったが、それはできなかったので、手作りの料理を届けたり、必要な物を買って届けたり、外で会って前向きになれるような会話をしたりといったサポートをしていった。

 効果は案外早く現われ、間宮の顔色も見る見る良くなり、会社にも出社できるようになった。このままいけば、もう問題はない。自分の役目を果たすことができたので、そろそろ自分は手を引く時期だと感じていて、それを伝えるべく間宮を呼び出した。

 すっかり以前の姿に戻った間宮が、菜緒より少し遅れて喫茶店に現れた。

「待った?」

「ううん」

「そう。良かった。今日の菜緒、きれいだね」

「今日は?」

「あっ、ごめんごめん。いつもだけど」

「ふふ。まあ、そんなことを言えるぐらい回復したってことよね」

「そうだけど。でもさあ、菜緒には本当に助けられたと思ってる。ありがとう。これ、俺の気持ちだから受け取って」

 いきなり目の前に小箱を置かれた。菜緒としてはが肝心なことを話す前に、間宮に先制パンチを食らった形だ。

「そんな気を遣う必要はないのに…」

「そんなこと言わずに受け取ってよ」

「わかったわ」

 渡された小箱を開けると、ネックレスだった。自分がほしいと思っていたものだった。

「ありがとう。嬉しいわ。これ欲しかったものだけど、話したことあったっけ?」

「あったよ。今回のことで2度目に会った時」

 自分では覚えていないが、そう言えばそうだったかもしれない。間宮はあんな状態だったのに、私が雑談の中で何気なく言った言葉を覚えていたのだ。しかし、こんなことをされると自分の話がしにくくなる。ひたすらタイミングを待つことにする。

 間宮の近況報告が終わったところで菜緒が切り出す。

「話したいことがあるんだけど」

 間宮が不思議なものを見るような顔をしている。

「えっ。実は俺のほうも話があるんだ」

 そう言って、間宮が前髪を両手であげた。

 菜緒はその手に視線を止めた。

 緊張している時間宮がいつも見せる癖。

「じゃあ、そっちから言ってくれない?」

 自分の話を先にしたら、ジ・エンドのような気がしたから…。

「俺からでいいのか?」

「うん」

「じゃあ、言うね。今回のことで改めて俺は菜緒のことが好きだと気づいたんだ。だから、お願いだから、俺とやり直してくれないか」

「もう一度私とやり直す?」

 まったくの予想外かと言えば、そうではなく、頭の中にあった言葉ではあった。そして、それをどこかで望んでいる自分もいた。

「うん」

 でも、それは自ら再び嵐の中に入っていくようなものだ…。

「それは無理よ」

 今日を最後に今度こそ本当に別れるつもりだった…。

「なんでだよ。俺は真剣なんだ」

 眼差しはひたむきで、どこまでも澄んでいた。

 その眼力に負けそうになる。

「俺と、ずっとずっと一緒に生きてくれないか?」

「それはどういう意味?」

 間宮の言いたいことは、もちろんわかっていたけれど、もっと具体的なことが聞きたかった。女とはそういう生き物だ。

「今すぐとは言わないけど、俺と結婚してほしい」

 聞きたい言葉だったけど、聞いてはならない言葉だった。

 でもなぜか鼻の奥がかすかに熱くなる。

 しかし、菜緒はすぐに現実に戻った。

「そんな簡単に言わないで。私たちが別れた状況のこと忘れたわけじゃないわよね」

「もちろん、覚えてるよ。菜緒が俺のことをまだ許してくれてないこともわかっている。すべてわかっていてプロポーズしている。今度こそ、本当に菜緒を幸せにしたい。いや必ずしてみせる。だから、信じて」

 ド直球を投げられ、心がさざ波のように揺れている。

 嬉しい。

 だが、もう感傷的で情熱に彩られた恋の高揚感はない。

 あるのは、もし、間宮のこのプロポーズを受け入れたとしたら待っている新たな時間のうねりだ。

「信じたいけどさあ。すぐには無理だよ。奥さんの魂だって、まだあなたの傍にいるだろうし、それに赤ちゃんのことだってあるし…」

「わかっている。だから今すぐにとは言ってない。1年かけて一緒に問題解決していってくれないか」

 難しいような気もしたけれど、難しいからこそ、真剣に対応すれば、その先に幸せが待っているような気もした。

「あなたの気持ちはわかったわ」

「それは、俺のプロポーズを受け入れてくれるということ?」

「私もできることなら受け入れたいと思った。でも、問題があり過ぎなのよね。だから、今あなたが言ったように1年間同棲生活をしながら様々な問題を一緒に取り組んでみて、それでも気持ちが変わらないようだったら結婚することにしない。もちろん、逆に別れるという結果もあり得ると思うけど」

 菜緒は、おぼろげな未来を自分のほうへたぐり寄せようとしていた。

 この時点ですでに菜緒は覚悟を決めていた。だから、自分の頭の中に別れるという選択肢はほとんどなかったが、それでも何が起きるかわからない。最悪、別れもあることを間宮の頭にも入れておきたかった。

「俺のほうに異存はないよ」

「そう。わかった。ただ、同棲する場合にもいくつか条件があるの。それをあなたが認めてくれたらスタートしましょう」

「どんな条件? 話してみて」

「うん。ますは、あなたが今住んでいる部屋を引き払って、新しい部屋を借りてほしいの。理由は言わなくてもわかるわよね」 

 理由を自分の口からは言いたくなかった。それは亡くなった奥さんへの、自分なりの配慮のようなものだった。

「わかってる」

「それと、私は今プロのイラストレーターとして仕事をしているの。だから、そのための仕事部屋を作ってくれること」

「わかった。約束する」

「それと、一番問題の赤ちゃんのこと」

「うん」

「今はあなたの実家に預けているけど、私が育てたいの」

 自分の中で曖昧だったことも、こうして口にすることで、どんどん現実味を帯びてくる。

 子供を産んだこともなく、子育ての経験もない自分に本当にできるか不安だらけだったが、間宮と結婚するということは、自分が赤ちゃんの母親になるということだ。だとしたら、1日でも早く子育てに入ったほうがいい。

「そうしてくれるとすごく嬉しい」

「幸いなことに、私は家で仕事をしているから可能なの。仕事はセーブすればいいことだし。ただ、奥さんがどう思うかはわからないけどね」

 きっと奥さんは嫌だろう。かつての夫の浮気相手に自分の産んだ子供を育てられるのだ。悔しくて悲しくて、怒りも強いと思う。でも、現実問題として赤ちゃんには母親が必要だ。

「彼女のことはもう考えなくていい。それよりも、あの子には母親が必要なんだから」

 間宮もちゃんと理解していた。それならば、前へ進める。

「あなたがそう言ってくれるのなら、ぜひそうさせて。もちろん、あなたにも協力してもらうけど」

「当然だよ」

 子育ては経験がなかったので苦労した。すでに自分の母親は他界していたので、育児書や子育ての経験のある友人や、時に医師などに相談し、試行錯誤しながらやり遂げた。間宮が言葉通り、育児に積極的に参加してくれたのも助けとなった。それに、なによりも杏奈が可愛かったのが、菜緒にとっては大きなモチベーションとなっていた。

 早いもので、あれからもう15年の時が流れた。子育てに懸命だったせいか、あっという間だった。その間、自分と間宮の子供も授かったが流産で生まれてこなかった。以来、子供ができない身体になってしまったため、子供は杏奈一人である。


4-8

 人は季節の後ろ姿を見ながら、昨日と変わらぬ今日をやり過ごすうちに年をとる。

 知らぬ間に少し猫背になった夫の背中に窓からこぼれた光が当たっている。 

 自分は夫の悲しみの穴を埋めることができたのだろうか。

 自分たちが選んだ道の尽きたところにあるものは、何なのか。

 菜緒は、夫と一緒に無言で作品を鑑賞しながら、自分たち夫婦のことを考えていた。そんなことができたのも日曜日のわりに展覧会が空いていたからだった。こうした展覧会に来たいと思っていても、日頃はなかなか来られない。特に菜緒は結婚してからも主婦業の他にイラストレーターとしての仕事もやっていたので、時間的余裕はほとんどなかった。

 久しぶりにいい時間を持てたと思う。会場を出た後、近くの喫茶店に入る。穏やかな時間を堪能していると、夫が思い出したように切り出した。

「杏奈、最近おかしいんじゃないか?」

「何でそう思うの。このところほとんど顔を合わせていないのに」

「というか、あいつのほうが避けてるんだろう、俺のこと。今日のことだってそうだ。前から友達の家に泊まりに行くことになっていたっていうことだけど、怪しいものだ。菜緒、俺に何か隠してることないか?」

 夫が娘の杏奈に愛情を示すのは父親として普通のことだろうけど、今回のように執拗な感情を示されると、いやがおうでも菜緒は杏奈が前妻との子であることを意識してしまう。

その事実だけは変わらない。変わらないということがどんなに残酷なことか。

「それはないわ。でも…」

「でも?」

「でも、最近あの子の考えてることがよくわからなくなってしまったの」

 アイスコーヒーの入ったグラスの中の氷をかき混ぜながら言った。

「そうか…。難しい年頃だからしょうがないところはあるんだと思うけど」

 平板で日常的な顔つきで答える夫は何もわかっていない。

 わかろうとしていない。

「そういうことじゃなくて…。もしかしたら、あの子…」

「何?」

 ここで夫は初めて菜緒が作り出していた異質な空気に気づく。

「知らなくていいことを知ってしまったんじゃないかって」

 杏奈が中学生になった時、杏奈には『事実』を伝えた。産みの親がいたこと。その親が事故で亡くなったこと。夫の部下だった菜緒が縁あって杏奈の世話をすることになり、その後、杏奈の父親である間宮と結婚して正式に菜緒が杏奈の母親になったこと。

 すべて『事実』だ。

 しかし、それ以前の時期に間宮と菜緒が不倫関係にあったことだけは話してない。杏奈にしてみれば、自分の産みの親と敵対関係にあった女に育てられたということになる。なので、ここだけは『事実』から外していた。

「まさか。そんなことを杏奈に話すとしたら春子おばさんくらいだけど…」

 隠したい事実を知っているのは夫の親戚しかいない。自分のほうは当時から親戚とは縁が切れていた。

「あなた、申し訳ないけど、何かの折に訊いてくれるとありがたいんだけど…」

「う~ん、わかった…」

 明らかに夫も困惑している。わかったとは言ってくれたが、夫が本当に春子おばさんに訊いてくれるか疑問だった。

 せっかくの楽しい休日が、最後に菜緒が出した話題のせいで重いものになり、夫は少し不機嫌になった。しかし、菜緒からすれば話しておきたい話題だったので、その機会を持てて良かったと思う。

「ねえ、今日の夜は何が食べたい?」

 憂鬱そうな顔をした夫に訊いてみる。

「う~ん、昨日すき焼きを食べたから、今日は生姜焼き、唐揚げ、肉野菜炒め、かな」

 ここぞとばかりに自分の好きなものを並べた。こういう子供っぽいところも菜緒は案外嫌いではなかった。

「まったく」

 そうは答えたものの、これで機嫌が良くなるのならできるだけ希望に応えたいと思った。 

 その食材を買うために家の近所のスーパーに寄る。夫も単身赴任で慣れているのか、買い物に付き合うのを嫌がらない。こんな普段の生活の中に夫と一緒にいるというのが不思議な感じがした。

 帰宅して玄関を開けると、杏奈のスニーカーが目に入った。

「帰ってるみたい」

「そうみたいだな」

 夫が急に不機嫌になる様子を見せるのがおかしい。リビングに入ると、夫は着替えのために和室に消えた。菜緒は夕食の準備に取り掛かる前に杏奈の部屋の前に行き、中に声をかける。

「ママたち帰って来たから」

「わかった」

 中から杏奈のくぐもった声が聞こえる。

「夕飯食べるよね」

「理恵と食べて来た」

「あっ、そう」

 3人で食べるのが嫌なのだろう。結局、夕飯は夫と二人で食べた。食事が終わると、夫はリビングで雑誌を読んで寛いでいる。菜緒はそれを見ながらキッチンで後片づけを始める。

 そんな中、杏奈がのそっと現れた。

 杏奈が何かしそうで胸の中がざわつく。

 夫は杏奈に気づいているのに無視している。だが、意識だけは杏奈に集中しているがわかる。

 いったい何が始まるのだろう。

 菜緒が奇妙な息苦しさに襲われた時

 杏奈が夫と菜緒を交互に、睨むように見て話し始めた。

「あのさあ、二人とも今日が何の日かわかってる?」

 意外な言葉に、ちょっと拍子が抜けた。

 思わず夫も菜緒も杏奈の少し怒ったような顔を見つめた。

「特にパパ」

 久しぶりに娘にパパと呼ばれ嬉しそうな顔をしたが、思い当たることがないようで首を傾げている。もっとも、菜緒も何も思い浮かばない。杏奈に関することはほとんど頭に入っているはずだけどわからない。

「わからない。ママ、わかるか?」

 夫が菜緒のほうを見て言う。

「ううん。ごめん、わからない」

「もう。二人の結婚記念日じゃない」

 その瞬間、菜緒は自分の魂をむんずとつかまれたように感じた。

 杏奈は嫌がるかもしれないけど、抱きしめたいという衝動が湧いた。

「えっ、ああ、そうだ」

 普段は顔の表情の乏しい夫が、泣き笑いのような顔を作っていた。

「そうよね。今思い出した」

 最近、夫の前の奥さんに似て来た杏奈の、まばゆいほど整った顔立ちに少し嫉妬しながらも、杏奈と一緒に過ごしてきた時間は間違いではなかったと思えた。

「まったく。きっとそんなことだろうと思って、私が二人にプレゼントを用意したから待ってて」

 そう言って、杏奈は自室に戻った。想定外の出来事に、菜緒と夫は思わず顔を見合わせにやけてしまった。部屋から戻って来た杏奈の手にあったのは絵皿だった。

「これ、あげる」

 その皿には夫と菜緒の顔が描かれていた。

「ありがとう。ママ、見て」

 杏奈から受け取った夫が菜緒に見せた。見た瞬間、その絵は杏奈が描いたものであることがわかった。

「うん、見た。杏奈ありがとう」

 涙を堪え、そう言うのがやっとだった。

「これ、杏奈が描いたのか?」

 嬉しさを隠しきれない顔をした夫が杏奈に訊く。

「もちろん、そうだよ」

「そうか…。ママに似て杏奈も絵が上手いんだな」

 夫の『ママに似て』という言葉で、菜緒は自分の生きてきた時間を愛せるような気がした。

「私、ママみたいにプロのイラストレーターになりたいんだ」

「そうか、そうか」

 夫も泣きそうな顔をしている。

 もしこれが夢だとしたら、一生覚めない夢であってほしい。

 嬉し過ぎて、つい菜緒は杏奈にいじわるな質問をしてみた。

「杏奈、パパのことが嫌いなんじゃなかったっけ?」

「おい」

 夫が慌てて菜緒のほうを見る。

「嫌いだよ。大嫌いだよ。ママを大切にしてないから」

 困ったことに、娘はでき過ぎな子だった。

 菜緒は、自分の心臓がきゅっと小さくなるように感じた。

 涙だけは流すまいと、血がにじむほど唇を噛みしめる。

「そうか。そうだよな。杏奈の言う通りだ。パパとしては大切にしていたつもりだったけど、杏奈から見れば全然ダメだったんだね。これからもっともっと大切にするから許してほしい」

 菜緒は、杏奈に真実を知ってほしくて言葉を紡いだ。

「杏奈、パパはママと杏奈のことが大好きなのよ。だから、杏奈にはわからないところもあるかもしれないけど、ママのことを大切にしてくれてるのよ」

「そう。そうならいいけど」

「ついでに訊くけど」

 この際、菜緒は杏奈にもう一つだけ確認しておこうと思った。

「何?」

「杏奈、今誰か好きな人がいる?」

「いるよ」

「えっ、いるのか?」

 まるで目の前で世界が終わったかのような大きな声を出したのは夫。

「いちゃ、悪い?」

 挑発的な強い目で言われ、夫は一瞬目を逸らしたが、黙ってはいなかった。

「そんなことはないけど。誰だ、そいつは?」

 誰だかわからぬ相手に怒りをぶちまける夫がかわいらしい。

「あなた」

 夫の心に寄り添いながらも、優しく諭した。

「同じクラスの子だよ」

 そうか。そうだったのだ。菜緒は勝手にへんな憶測をしてしまったけど、これもまったくの勘違いだった。今後はもっともっと娘を信じなければと思う。

「ふ~ん」

 夫が納得いったんだかいかなかったのかわからない返事をした。

「でも、今のところ片思いなんだ」

 前髪に隠れて目の動きは見えなかったけど、少しだけ寂しそうだった。

 夫は感情のやり場に困っているのか、挙動不審状態になっている。

「そう。でも、杏奈にはいい恋をしてほしいなママ」

 『いい恋』さんてあるのかわからないけど、杏奈には、ごく普通の、ありきたりの、平凡な恋をしてほしいと菜緒は思う。もちろん、自分のことを考えても、何が幸せなのかなんてわからないと知ってはいるけれど…。

「うん。頑張る」

 さきほど喫茶店で夫婦で話し合ったことは今のところ杞憂に過ぎないとわかった。しかし、いずれちゃんと話す時が来るのだろう。

 夫の、切れ長で粗野な瞳、高い鼻梁を見ながら、菜緒は、誰かを好きになるということは、誰かを好きになると決めるだけのことなのかもしれないと思う。

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恋のしっぽ(あの恋に会いたい) シュート @shuzou

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