第3話 優しい風景

第三章

3-1

 得意先回りの帰り道、ふと目にした宝くじ売り場で、山田輝之は15年ぶりぐらいに宝くじをバラで20枚買った。今月は臨時収入があったため、妻の芽衣にお願いしてお小遣いを5000円多くもらっていたため気持ちが大きくなっていたのだ。

 勢いで買ってしまったものの、すぐに後悔した。少し先の未来の当たる確率の低い宝くじにお金を使うよりも、今日確実に旨さを味わえるビールやおつまみにお金を使うべきだったと。しかし、もう買ってしまった以上、期待はしたい。というか、期待してしまう。高額は無理でも、せめて投資した分くらいは回収したい。

 そして、当選発表当日、輝之は朝からそわそわしていた。

「どうしたの。落ち着きないけど」

 妻の芽衣から指摘される。

「今日会議で発表があってさあ」

「発表?」

 余計なことを言ってしまった。

「いや、プレゼンが…」

「もうそんなことでそわそわする歳でもないと思うけど」

「歳のことは言うな」

「なんかおかしいわね」

 芽衣にへんな疑いを持たれたまま出勤する。さすがに会社では普段と変わらぬよう努めていたが、発表時間が近づくと落ち着かなくなってきた。机の下でスマホを操作して発表されたのを確認すると、タバコを吸うふりをして喫煙所に向かった。幸い誰もいなかったので輝之はポケットから宝くじを取り出し当選番号と照合を始めた。

 1枚1枚丁寧にチェックしていく。しかし、案の定、高額当選番号にはかすりもしない。これまで当たったのは6等の300円が1枚だけ。もうダメかと諦めかけた最後の1枚に奇跡は起きた。と言っても高額賞金が当たったわけではないけれど、1等の組違いの50万円が当たったのだ。あまりの衝撃に、輝之はその場で腰を抜かしそうになった。自分の目に疑いを抱き、何度も何度も番号を確認したが間違いなかった。

「やったー」

 周りに誰もいないのにも関わらず小声で叫び、思わずガッツポーズをとっていた。当選券を財布の奥に丁寧にしまい、何事もなかったかのように自分の席に戻る。しかし、思わず顔がにやけてしまう。頭の中ではお金の使い方を考えていて仕事にならない。

「課長、課長」

 自分のことが呼ばれていると気づいて顔をあげると、係長の田中が自分の机の前で怪訝な顔をして立っていた。慌てて顔を引き締め、仕事モードに切り替える。

「何だ?」

 わけもなく偉そうに言ってしまった。

「何だ?」

 それまでそんなことを言われたこともなかったし、言われる筋合いもない田中からオウム返しされていた。

「あっ、ごめんごめん。どんな用件だっけ?」

「やだなあ、課長。忘れちゃったんですか? S社向けのプレゼン資料案を今日の昼までに出してくれって言ってたじゃないですか」

「そ、そうだよ。わかっているよ。それで出来上がったってわけだ」

「そうですよ。だから来たんじゃないですか」

「おう」

「おう?」

 いつもと違う輝之に、田中がいちいち反応する。

「あっ、ごめん」

「今日の課長、おかしくないですか?」

「そんなことないよ」

「そうですか? はい、これです」

 そう言って田中は資料を輝之に渡しながら囁いた。

「課長、何かいいことありましたね?」

「ん?」

「さっきからずっと、そういう顔してましたよ」

「見られたかあ。まあな」

 ここはあくまで曖昧な返事をしておく。宝くじが当たったなんて白状したらみんなにたかられて、50万なんてあっという間に飲み食いで消えてしまう。

「ひょっとして、また例のアレのことでも考えていたんじゃないですか?」

 田中がいう『例のアレ』とは不倫相手、浮気相手という意味だ。かつて部下の女子社員と不倫したことがあるのだが、その女性が辞める間際に同僚女子社員に洗いざらいバラしたため、職場中に知られる羽目になったのだ。

「バカ、違う。今の俺は清廉潔白あめあられだ」

「ふ~ん。そうですかあ?」

 身体全体を後ろに引き気味にして疑いを表している。

「もう、勘弁してくれ。お願いだからへんな噂を流さないでくれよ」

「わかっていますけど…ね」

「今度昼飯ぐらい奢るから」

「飯?」

「いや、酒を奢るよ」

「ならいいですけど」

 ここでようやく田中が自分の席へ戻った。思わず安堵のため息が出る。

 終業時間になり、早々に会社を出ようとすると、その背中に再び田中が声をかけてきた。

「課長、今日は早いですね」

 田中はすっかり輝之のことを疑っている。早々に酒でも奢って、これ以上詮索させないようにしないといけない。

「今日は娘の誕生日なんでね。悪いけど早く帰らせてもらうよ」

 もちろん、嘘だ。

「へえー、そうですか」

 『そうですか』って。本当は誕生日ではないけれど、おめでとうぐらい言えよとわけのわからない怒りが湧く。

 当選券は昼休みに銀行に行って、すでに現金に代えてあった。臨時収入の50万に気分が高揚して自然に鼻歌が出てくる。

 電車に乗りながら50万の使い道を考える。最初は全額自分のために使おうと思ったけれど、決して十分とは言えない給料で家計のやりくりをしてくれていて自分の物などめったに買ってない妻の芽衣にも渡すべきだと思い至った。

 いろいろ考えた末、20万を芽衣に渡し、残りの30万を自分のために使うことに決めた。本当は逆のほうがいいのかもしれないが、こんなチャンスは恐らく二度とないと思われたので、そうさせてもらうことにしたのだ。駅を降り、途中コンビニで封筒を買い、20万と30万に分ける。

「ただいま」

 玄関で奥に声をかける。

「は~い」

 妻の芽衣の声はすれども姿は見えない。こういうところが結婚生活間20年を超えた夫婦の現実だが、もう慣れているので何とも思わない。そのまま寝室に行ってジャージに着替え、リビングに入る。芽衣はキッチンで夕食の準備をしていた。

「今日早くない」

 一瞬後ろを振り向き、いきなり言った。まるで早く帰って来たことを非難するようだ。

「早く帰って来て、すみませんね」

 勢いそういう答えになる。

「別にそういう意味じゃないわよ」

 じゃあどういう意味なんだよと心の中で叫ぶが、もちろん口には出さない。これも20年以上の結婚生活で得た生活の知恵のようなものだ。

「あっ、そう」

「とにかくそこに座ってて。今作っているところだから」

「わかった。で、留美は?」

「真一なら帰ってるわよ」

 明らかに留美と聞こえているはずなのに、息子の名前で返してきた。

「真一じゃなくて留美のことだよ」

「ああ、留美ね。友達の家で一緒に勉強してから帰って来るって」

「なんか最近そういうの多くないか?」

「別にいいじゃない」

「別にいいけど…」

「あなた、留美のことについて心配し過ぎなのよ。少しは真一の心配もしたら」

「もちろん、心配してるよ。だけど、真一は男だから」

「男の子だって思春期は難しいのよ」

「あいつもそういう歳になるのか」

 輝之が感慨を籠めて言った時、当の本人がのそのそとリビングに入ってきた。

「なんか今俺の噂してたよね」

 自分のことを言われているのを察知して出てきたようなことを言う。

「お前もお年頃になったって話してたんだよ」

「どういうこと?」

「思春期特有の難しい年頃っていうことだよ」

「ああ、それは姉貴だよ。最近その真っ最中にいるらしくてさあ、うざくてしょうがないよ。なんだかいつでもイライラしているみたいだしさあ。そんなことよりママ、お腹すいちゃったんだけどな」

 真一まだまだ子供だ。

「もうすぐだから待ってて」

 3人で食べ始めて20分経った頃に留美が帰ってきた。

「お帰り」

 芽衣が留美に声をかける。

「うん」

 一瞬だけこちらを振り向き言ったが、その顔には何の感情もこもっていなかった。そんな留美が輝之には許せなかった。

「うん、じゃなくて、はいだろう留美」

 輝之は思わずそう言っていた。真一が何も聞かなかったようにテレビ画面を見ている。

「はい」

 そう言えばいいんでしょうみたいな『はい』だった。

「食事は?」

 芽衣が普段通りの声で訊く。

「友達とマックで済ませた」

 そう言って、すぐに自室に消えた。

 留美の消えた空間を見ながら、輝之は自分の判断が正しかったのか自信が持てなくなった。

「俺、間違ってないよな」

 芽衣に向かって確認してみる。

「もちろん、間違ってないけど、タイミングがね」

「ええー、そうなのか。その場ですぐ注意したほうがいいと思ったんだけど…」

「だからさあ、パパ。今姉貴はさっき言った通りデリケートな精神状態にあるわけよ。そこんとこわかってあげないとね」

 いかにもすべてのことをわかったような大人びた言い方をされムカっとする。まさかまだまだ子供の真一に諭されるとは思わなかったが、的を射ているので反論しようがない。

「まあ、わかるけど…」

「ということで、ごちそうさまでさす。これで俺も自室に消えますから」

 そう言って真一もあっけなく自室に戻った。

 残されたのは輝之と芽衣の二人。

「あなたはどう? おかわりする?」

「ああ、俺ももういいや。それで、後片付けが済んだらちょっと話がある?」

「話? 私に?」

「そう]

「何?」

 急に警戒する顔になっている。無理もないけれど。

「だから後で話すよ」

「何よ、気持ち悪い。後で話すって、どうせ碌でもない話よね。まさか、また浮気の話じゃないんでしょうね」

 いきなり鉄砲玉が飛んできた。

「違うよ」

「あの時、もしまた浮気したら離婚するって話したわよね」

「だから、違うって言ってるじゃないか」

 係長の田中といい、妻の芽衣といい、何でそう古傷を掘りくり返してくるのだろう。

「もう勘弁してくれよ、いい加減」

「いい加減ってどういうことよ。それはこっちが言いたい台詞よ」

 そう。実は会社の部下との浮気以外に、もう一人スナックの女の子とも浮気していて、それも芽衣にバレていた。なので、言葉のチョイスがまずかった。火に油を注いでしまった形だ。

「ごめんなさい。反省しています。だけど、今日話すのはそういうことじゃなくて、いい話なんだ」

「あら、そうなの。あなたの話だから、てっきりまた悪い話かと思っちゃった。じゃあ、急いで片付けるから待ってて」

「ああ」

 まだ何も話してないのに輝之はぐったりしていた。しばらくテレビを見ながら待っていると30分ほどで芽衣が輝之のところにやってきた。そして、やおらリモコンを取り上げテレビを消した。

「で、どんな話?」

 自分の正面に座った芽衣が、さして興味のなさそうな顔で訊いてくる。

「この間宝くじを買ったんだよ」

「どこにそんなお金があったわけ」

 そう来ると思った。

「いや、今月小遣い多かったじゃない」

「ああ。それで?」

「当たったんだよ」

 芽衣の表情が一瞬にして変わった。

「ええー、まさか1000万?」

 1億と言わないところが芽衣の可愛いところではあるけれど、なんで1000万と言ったのだろう。そんな金額を言われてしまっては、話しにくくなってしまう。

「いや、そのさあ、そんな大金じゃなくて、恥ずかしいんだけど…」

「恥ずかしいっておかしいけど、で、いくらなのよ」

「20万」

「20万? 反応しずらい金額ね」

「なんかひどい言われようだな」

「だって、20万でしょう」

「そうなんだけどさあ」

「でも良かったじゃないの」

「うん。それで、これ」

 用意してあった20万が入った封筒をポケットから出して渡す。

「何?」

「ママには日頃お世話になっているからさあ。この20万をママの自由に使ってほしいんだよ」

「やめてよ。これはあなたが、あなたのお小遣いで買った宝くじが当たったものでしょう。だから、あなたのお金。あなたに使う権利があるのよ」

 まさか、そんなことを言われるとは思ってもいなかったので、感激して思わず泣きそうになる。

「いや、そんなこと言わずにママに使ってほしい」

「ほんとにいいの。ありがとう。あなたって優しいのね…」

 そう言って、今度は芽衣のほうが感激したらしく涙まで浮かべている。

 本当は50万当たり、そのうち30万を自分用に取ってしまった。なんか芽衣にひどい仕打ちをしてしまったようで、申し訳ない気持ちでいっぱいになった。

 自分のセコさ、人間の小ささに嫌気がさす。だけど、こんなに感激している芽衣に、今更本当のことなど到底言えない。

「じゃあ、俺は風呂に入るから」

 いたたまれなくなった輝之は逃げるようにその場を離れた。


3-2

 翌日、輝之は30万円の入った封筒を会社まで持って行った。家に置いていて万が一にも妻の芽衣に見つかったら説明のしようがなくなるからだ。

 とりあえず自分の机の引き出しに入れ、鍵をかけて、そのカギをキーホルダーにつける。仕事中も、昼休みの時も30万の使い道を考えていた。趣味のバイク関連のものを買おうかとも思ったけど、それもバレそうだし…。銀座でパーっと使うには頼りない金額だし…。かといって、好きなものを食べ歩くというのも…。いっそのこと。全額再び宝くじに投入するというのもなくはない気もするけれど、何か違うような…。

 結論が出ぬまま会社を出て帰宅するため電車に乗る。使い道を考えることに疲れたため、電車の中では両手で吊り革にぶら下がりながらぼおっとしていた。そんな中、途中駅から高校生のカップルが乗ってきた。少し離れた場所にいるので会話の内容はわからないけれど、見ているだけで微笑ましかった。

 そのカップルを目で追っているうちに、ふと思い浮かんだのは何年か前に読んだ雑誌の記事だった。その記事は『初恋の人探します』というタイトルで、依頼に応じて探偵事務所が初恋の人を探す様子を伝えていた。そういう思いの人は結構いるようで、依頼件数も多いと書いてあったように思う。

 初恋ではないけれど、自分にも忘れられない恋があった。もし30万で探してくれるのなら、会って今彼女がどこでどんな生活を送っているかを訊いてみたいと思った。我ながら、いいアイデアではないか。そう思うと、もうそれ以上の使い道は思い浮かばない。万が一、30万で足りなければへそくりで貯めたお金をつぎ込んでもいいとさえ思う。心配なのは、今でもそういうサービスをやっているかどうかだけだった。

「仕事があるから」

 妻にはそう言い、帰宅して食事もそこそこに書斎という名の4畳半の自室に入る。早速ネットで検索してみる。

ーあったー

 案外簡単に見つかった。複数の探偵事務所が今でも同様のサービスをやっていた。考えて見れば探偵事務所が以前から行っている『人探し』の一つなのだから、不思議はない。早速電話番号を控える。

 翌日の昼休みに控えてあったすべての探偵事務所に電話して、一番対応の良かった事務所に行くことにした。

 土曜日の午後、輝之は新宿のとあるビルの5階にある探偵事務所の扉の前に立っていた。これまでの人生で探偵事務所に来ることなどなかったため、年甲斐もなく、いささか緊張していた。しかし、木製のそのドアは傷一つなく堂々としていて歴史も感じられ、安心感があった。扉横にあるインターホンを鳴らす。

「はい」

 予想と違って若い女性の声だ。

「あっ、昨日電話で今日の午後1時に予約してあった山田と申しますが」

「山田、輝之様ですね」

 さすが探偵事務所だ。フルネームで確認された。

「はい、そうです」

「わかりました。では、ただいまドアを開けに参りますので少々お待ちください」

 丁寧なもの言いに感心する。教育が行き届いているのであろう。

「お待たせしました」

 ドアを開け顔を出したのは、濃紺のスーツを着た、まだあどけなさの残る女性だった。その、多くの蕾たちの先陣を切って咲いた花のような美しさと、ハッとするほどの白い肌に思わず目を奪われる。

「どうぞ」

 彼女の後について事務所の中に入る。狭苦しい事務所を想像していたが、部屋はかなり広いようだった。恐らく70坪程度はあるのではないか。ただ、全体を見通せるようにはなってはおらず、パーティションなどで区切られていた。それに、人の話し声がまったく聞こえないのが少し不気味だった。

「こちらへ」

 輝之が通されたのは応接室だった。しばらく待たされた後、書類を抱えて現れたのはまたしても彼女一人だった。

「私、YM探偵事務所の溝口茉奈と申します」

 彼女から渡された名刺には、事務所名と本人の名前だけが印刷されていた。この子で大丈夫だろうかと輝之は心配になったが、そう言うわけにもいかず挨拶を返す。

「そうですか。よろしくお願いします…」

 輝之の不安げな表情を溝口も感じ取ったのだろう。

「何で私だけって思われてますよね」

 もちろん、そうだけど…。

「いえ、別に…」

「そう思われてもしょうがないんですけど、実は急な案件が複数入ってしまいまして、みんな出払っているんです。それで、新米探偵兼事務員の私だけが残っているというわけです。すみません」

「そうだったんですね」

 どうやら繁盛している事務所のようだ。

「うちのような探偵事務所にはありがちなことなんです」

「なるほど。でも、私は今日とりあえずこちらのシステムとか進め方を伺いたいと思ってきたので十分です」

「そうですか。それなら良かったです。それでは早速私のほうから調査方法、進め方、料金などについて説明させていただきます」

 溝口は資料に基づいてわかりやすく丁寧に説明してくれた。先ほど自らを新米探偵兼事務員と自己紹介していた。どうみても二十歳そこそこ。恐らく短大を卒業してそのままこの事務所に入った感じだ。それにしてはしっかりしている。よく見ると可愛いいが利発そうに見える。自分の娘の留美も何年か後にはこんな風になってくれるのだろうか。

「以上でだいたいの説明は終了しましたが、何かご質問はございますか」

 溝口から聞いたシステムは納得できるものだったし、料金も調査途中で特別なことが起きない限り30万内で収まりそうだった。

「いや、よくわかりました。ぜひこちらでお願いしたいのですが」

「そうですか。ありがとうございます。では、調査に当たって、今日は経緯というかご依頼の概要をお聞きしたいと思いますがよろしいでしょうか」

「はい。結構です」

「わかりました。少々お待ちください。何か飲み物をお持ちしますが、何がよろしいでしょうか。お酒以外でしたら、たいていのものは揃っておりますので」

 お酒以外というジョークを言ったところで顔を緩めたのが可愛らしかった。

「う~ん。じゃあ、コーヒーでお願いします」

「わかりました」

 応接室を出て行った溝口茉奈の後ろ姿を見ながら輝之は、彼女がどことなく、自分が知っている女性に似ているような気がしたが、そういうことはたまにあることなので気にしなかった。溝口は二人分のコーヒーを持って戻ってきた。

「じゃあ、一休みということでコーヒーをお飲みください」

 輝之はコーヒーを飲みながら溝口の顔を盗み見ていた。気にするつもりはなかったが、やはり気になっていた。

「何か私の顔についています?」

 視線を感じたのだろう、溝口から指摘されてしまった。

「あっ、いや、すみません。昔好きだった人に似ているなあと思ったものですから」

「ほんとですかあ? でも私、そういう台詞あんまり信用していないんです」

 どうやら口説き文句というか、へんな冗談と思われたようだ。

「過去にも同じことを言われたとかですか?」

「というか、モテる男の人が安易に使う台詞のような気がして、です」

 凛と澄んだ空気を出している。若いけれど、なかなか手強い。

「そうかあ。僕はモテるわけじゃないし、それに、本当のことを言ったまでなんですけどね」

「わかりました。そういうことにしておきます。で、お探しになりたいのは初恋の人ですか?」

 軽くあしらわれた感じもしたが、そんなに悪い気はしなかった。

「いや、初恋の人ではないんですけど、私にとっては忘れられない人なんです」

「わかりました。では、その方との出会いを教えてください」

「はい。私の大学時代の話です。当時私には付き合っている女性がいました。高校時代の同級生で、彼女は女子大に行ったため、大学は違いましたけど、ずっと付き合っていました。可愛くて、明るくて、聡明で、はきはきしているところが好きでした。私がが彼女の大学まで迎えに行って、とりあえず近くの公園に出かけ、ベンチに座っていろいろ話すんですけど…。夕焼けに染まった彼女の横顔は本当に綺麗でした」

 話しながら最後のほうは自分でも何を話しているんだと気恥ずかしくなった。

「ロマンチックですね。ということは、その彼女を探したいわけですね?」

「いや。彼女は探す必要ないんですよ。今の妻ですから」

「ちょっとお、山田さん、お願いしますよ。私はただのおのろけを聞かされたわけですか」

 溝口の呆れたような、それでいておかしそうな顔を見て、なぜか幸せな気分になった。

「そう言えばそうですね。そういうつもりは全然なかったんですけど、ごめんなさい」

「いいですけどね」

 話しているうちに、今と違って当時まだ純粋で可憐だった妻の芽衣のことを思い出してしまったのだ。当時は目に映るすべてが澄んで見えた、ような気がする。


3-3

「それで、今回探したいという方は?」

 溝口に改めて訊かれる。

「ゼミで一緒だった子です。私、経営学部の学生だったんです。なので、女子学生は学年全体でも十数人しかいなかったから目立つわけです。その中にいたんですよ、その子が。でも、教室では女子学生は女子学生だけで固まっていることが多くてなかなか接触の機会はなかったし、アプロ―チしにくかったわけなんです」

「わかります。私は文学部だったからまったく逆ですね。文学部の男子は女子学生に相手にされないというか、男と認識されてないって感じでした」

「そうらしいですね。私も当時文学部にいた友人にそんな話を聞きました。それでも、3年生になってゼミが始まり、私はその女性と一緒になりました」

「なるほど。そこから始まったんですね」

「始まったといっても、当初は同じゼミ生というだけでしたけど。その女性は自分が付き合っていた彼女とは対照的で、おとなしく清楚な感じの人でした。ひめやかで奥ゆかしいところも魅力でした。本当はきれいなのに、敢えて目立たないようにしてるような感じって、わかります?」

「わかりますよ。理由はいろいろでしょうけど、たまにそういう人いますよね」

「そうですね。でも、頭は良かった。僕なんかよりずっとね」

「ふふ」

「そこは笑うところじゃないと思うけどな」

「だって、とっても正直な人だなと思って」

「まっ、そこが私の数少ない長所なのかもしれないけどね。それで話を戻しますけど、彼女、いつも一生懸命で…」

「ええー、好きになっちゃったんですか?」

「いやいやいや。好きになったわけじゃないよ。でもそのお、なんというか…」

「恋愛感情はないけど、それに近い何かみたいな?」

「うまい。その通り」

「駄目ですよ。私の口車に乗っちゃ。それに、それって、好きって言うことですから」

「そうですね。認めます。その女性に好意を持ったことは確かです。でも、恋愛感情とは微妙に違うのも確かでした」

「それって、どうなのでしょう」

 ごまかしたつもりだったが、こちらの心はすっかり読み取られているのは明らかだった。「いや、そのままの意味です」

「ふ~ん。ところで、その女性のほうはどうだったのでしょうかね」

「それは訊いたことがないのでわからないですね」

 どこまでもとぼける輝之に溝口のジャブが入る。

「それは嘘、ですね」

 さすが、女性は鋭い。

「ウソというのは?」

「訊かなくても感じとれるものだし、それに自分のこと好きですかなんてなかなか訊かないものでしょう」

「う~ん、そんなに責めないでくださいよ」

「すみません。その女性もきっと好きだったんだろうなって思って」

「そうですね。本当のところ、その女性のほうも私に好意を持ってくれていることは感じとっていました。でも、僕には付き合っている彼女がいましたから」

「山田さんに彼女がいることを、その女性は知っていたんですか?」

「知っていましたね。ゼミ生みんなで飲みに行った時、私、彼女がいるっていう話をしましたから」

「それは切ないですね」

 溝口はどこまでも、その女性の立場で話す。

「でも、嘘をつくほうがよくないんじゃないですか。それに、その時はまだその女性は意識する存在じゃなかったですし」

「そうですか。じゃあ、お訊きしますけど、その女性との距離が縮まったのはどんなことがきっかけだったんですか?」

「同じゼミ生だったので、それ以前から会話程度はしていたんですけど、ある日、その女性からゼミの課題について相談を受けたんです。それで、特に考えることもなく喫茶店で会ったんです。初めて二人で」

「ええ。そこで何かあったんですか?」

「いや。別に何があったというわけではないんですけど、彼女の真剣な眼差しや表情を見ていたら、すごくきれいだなと思ってしまったんです。実際きれいなんですけど」

「改めて気づいてしまったんですね。彼女の魅力に」

「まあ、そうですね。それから意識するようになってしまいました」

「まずいですね。付き合っている女性がいるのに」

 話しているうちに、溝口の顔を見て気づいたことがあった。

「あのお、すみません溝口さん」

「はい?」

「私の話、楽しんでません」

「いえいえ、そんなことはありません。クライアント様のお話ですから真剣にお聞きしております。続きをどうぞ」

「そうですか…。確かに私には付き合っている彼女がいましかたら、その女性とはそれ以上の関係にはならないようにしていました」

「そんなのひどい」

 今度は悲鳴のような声をあげた溝口。どういう感情なのだろうかとも思ったが、その一方で自分が当時のその女性と話しているような感覚にもなりかけていた。

「あなたのことじゃないんですけど…」

「だけど、一人の女性として許せません。肉体関係にはならないようにしていたっていうことでしょうけど、それって、その女性にとってはかえって辛いことなのがわかりませんか」

「ちょっと飛躍しているような気がしますけど。私はその女性のことを思って…」

「それは男の人の思い違いです」

「そうかもしれませんね。きっと溝口さんにもそんな経験があったんですね」

 突いてはいけないところを突いてしまったようで、溝口は一瞬顔を歪めたが、すぐに平静さを取り戻した。

「その後、その女性とはどうなったのですか?」

「時々会いました」

「二人きりで、ですか?」

 責めるような言い方をされ、思わずムッとする。

「二人きりの時もあれば、他に人がいる時もありました」

「他の人がいる時はどうでもいいんです。二人きりでどんなデートをしたんですか?」

「だから、デートじゃないですよ」

「好意を持っている二人が一緒に行動すれば、それはデートです」

 どんどんヒートアップする溝口。

「そう言われてしまえばそうですけど…」

「なので、話してくれますか? だって、その女性を探したいんですよね?」

「そうですけど…。わかりました。でも、特別なことはしませんでしたよ」


3-4

 話し出すうちに輝之はいつしか当時の自分の世界に入っていた。もう溝口のことはほとんど目に入らなくなり、歌を歌うように独り言ちていた。

「ゼミ終わりに二人でよく行ったのは、大学のほど近くにある緑地公園でした。天気のいい日は芝生の上にハンカチを敷いて座り話し合いました。時にゼミの課題について、時にお互いの将来について、時に政治について。暗黙のルールで恋の話はお互い避けていたけれど。それから図書館にもよく行きましたね。特に卒論の時期には頻繁に通いました。テーマはそれぞれ違ったけれど、意見を交わすのが楽しみでした。でも、一度だけ一緒に映画を観に行ったことがありました。もうタイトルは忘れてしまったけれど、その女性が選んだのは恋愛映画でした。観ているこちらも胸が苦しくなるような、まさに典型的な恋の物語でした。帰り道、それぞれの思いに押しつぶされるように無言で歩いていたら、彼女が吹いていた風に言葉を流すように小さな声で言ったんです。『私もあんな恋がしたい』と。でも、当時の私はそれに応える言葉を持っていませんでした。だから、そっと彼女の手を握りました。華奢だけど柔らかい手でした」

 その時、溝口の持っていたボールペンが床に落ち、輝之は我に返った。なぜか、溝口の顔には怒りの表情が浮かんでいた。

「そうですか。そんな状況で山田さんは付き合っていた彼女ともうまくやっていたんですね」

 辛辣なもの言いだったけど、そぅ思われても致し方ない局面であることは間違いなかった。

「そう思われてもしょうがないのかもしれないけど、実際のところ、うまくやっていたという感覚より、二人の狭間で揺れ動いていたという思いのほうが強かったです」

 溝口に指摘された通り、当初はうまくやっている感覚だったが、その女性に対する思いが強まるにつれ、以前から付き合っていたの彼女との関係を考え直し始めてもいた。結果、一時期、彼女とは喧嘩ばかりしていた。だけど、やはり自分にとって彼女は特別な人だと気づいた。

「結局、どう決着つけたんですか?」

「その女性は僕の大好きな友達と割り切ることにしたんです」

「それって、自分の思いだけを大切にしていて、すごく身勝手ですよね」

「なんだか、ずっと私は責められていますね」

「すみません」

「私にはそうするしかなかったんです」

「わかりました。その後はどうなったんですか」

「それ以前と特に変わりはなかったです。いや、映画を観に行った後からはむしろ距離を置くようになったように思います。それは、お互い就職活動が忙しくなったせいもあったと思います。ゼミの時に軽く会話をする程度だったんじゃないかと思います」

「その女性がかわいそう」

「どうしてそう決めつけるのですか。私は彼女がいるから友達として付き合ってほしいと、ちゃんと話して納得してもらってるんですよ」

「……」

 もう溝口は何も言わなくなった。

「幸い二人とも案外早く就職先が決まりました。特にその女性は希望職種の希望の会社に内定を受けましたので良かったと思います。だから、その女性も私のことより自分の未来のほうに気持ちを向けているように思いました。就職すれば必然的に二人の関係が終わることがわかっていましたから気持ちを切り替えていると。だから、あの日の出来事は意外でした」

「あの日の出来事?」

「そうです。今日ここに来たのも、その日の思い出が鮮烈に心に残っているからです」

「聞かせていただけますか?」

「ええ、わかりました」

「その女性とはゼミが終わってからは会っていませんでした。たまに学食や図書館で姿を見かけることもありましたけど、敢えて会話も交わしませんでした。やがて、大学の卒業式も終わり、私の気持ちは4月から始まる社会人生活に向いていました。不安もあったものの、私は期待とか希望に燃えていたように思います。4月3日の入社式を3日後に控えた土曜日のことです。その日は午後に彼女と合う約束になっいたので、午前中は部屋の掃除や洗濯をして過ごしていました。すべてを終わり、テレビを見ながら早めの昼食をとっていた時、何気なくテーブルの上に置いてあった携帯を手に取って見ると、ラインが入っていたのです。家事で動いていたせいか、ぜんぜん気づきませんでした。確かめると、例の女性からでした。二人の関係は次第に距離があき、自然消滅に近い形で終わっていたので、もう二度と会うことはないだろうと思っていました。それだけに驚きました」

 当時のことが今まさに鮮明に頭に浮かんでいた。

ー久しぶりですー

ーどうもー

ー今電話で話せますかー

ー大丈夫ですよー

ーじゃあ今からかけますねー

 何だろう。このタイミングで電話をかけてくる意味がわからなかった。

 すぐに携帯が反応した。

「はい」

「お休みのところごめんなさい」

「それは構わないけど、どうしました?」

「ちょっと会えませんか?」

「今日ですか?」

「ええ。駄目ですか?」

 断っても良かったけど、断れない雰囲気だった。

「いいですけど。ただちょっとやらなければならないことがあるので夜になってしまうと思うんだけど…」

 彼女とデートするとは言えなかった。

「何時でも待ちます」

「そうですか。わかりました。じゃあ、時間はこちらから連絡します」

「お願いします」

 結局、その女性の住まいの近くにあるファミレスで会うことにした。その女性の言葉の中に切羽詰まったものを感じたので、こちらから出かけることにしたのである。一方で、二人きりになることはできるだけ避けたいという気持ちも働き、人の多いファミレスを選んだ。

 着いた時はすでに午後8時を過ぎていた。付き合っていた彼女とのデートを彼女の都合で7時に終えてやってきたのだ。


3-5

 入口から中を見渡すと、すぐに女性は見つかった。誰かと携帯で話していて輝之には気づいていない。近づいていくと、ようやくこちらを振り向いた。

「あっ、友達来たから。じゃあまたね。ありがとう」

 輝之が女性の正面に座り挨拶をする。

「こんばんは」

「こんばんは」

 思いのほか元気そうに見える。

 いや、自分に気遣ってそう見せているだけなのか?

「電話、良かったの?」

 話の途中だったように思えて気になった。

「ああ。大丈夫。友達なの。大学は違うんだけどね」

「へえー、そうなんだ。どこで知り合ったの?」

 内向的な人と認識していたので意外だった。

「ひょんなことで知り合ったんだけど、今じゃ親友。でも彼女、彼氏がいるからそっちが優先されちゃうのよね」

 女の子は特に恋愛すると彼氏が一番になってしまいがちだ。だから、女性が言っていることはわかる。

「そうかあ」

「でもしょうがないですよね。そんなことより、今日はすみません。突然のことでびっくりさせちゃったんじゃないですか?」

「うん。ちょっと驚いたかな」

「ごめんなさい」

「気にしなくていいよ。だけど、何かあった?」

 重くならないよう、できるだけ乾いた声で訊いてみた。

「何かあったというより…」

 女性が言葉を続けようとしたところで、輝之が注文したサンドイッチを店員が持ってきて、話が中断した。

「それで?」

 店員が去ったところで先を促す。だか女性は話の方向を変えた。

「山田君、入社式はいつ?」

 そこには何かを閉じ込めたような固い笑顔があった。

「3日後だけど、そっちは?」

 輝之は戸惑いつつも彼女の言葉の意図を探ろうとした。

「私は明後日」

「明後日? 明後日なのにこうしていて大丈夫なの? いろいろ準備もあるんじゃない?」

「私、不安なんです」

 こちらの質問を無視して突然吐き出されたのは、澱のように底に沈んでいて彼女自身正体のつかめぬ心の荷物なのかもしれなかった。

 輝之は彼女の発した言葉の重さを受け止めかね、窓に映る外の世界の色の移り変わりに目を遣る。

 そんな輝之を女性はじっと見つめる。

「何が?」

 女性の心の中を覗き込むことになるとわかっていても訊かざるを得なかった。

「社会人になることが」

 彼女の答えで輝之にもようやく今日自分が呼ばれた理由がわかったような気がした。

 人一倍繊細な彼女にとっては、大学を卒業して社会人になることに期待より不安のほうが大きいのかもしれない。

「それは僕にもあるけど…」

 社会人になることの不安は彼女に限ったものではなく、恐らく学生一般に持っているものだと思う。だが、女性の表情を見た時、女性の不安はそれだけではないような気がした。

「私には未来が見えないの」

 消え入りそうなかぼそい声だった。

 眉根をきびしく寄せたまま一点を見つめている。

 不安なのはわかるが、ここまでの思いに至る女性の不安の重さとか深さが輝之にはどうにも理解できなかった。

「何で? ちゃんと希望した会社に就職できたんだよね」

「受かるなんて思っていなかった」

 そういうことか。女性は最初から出版社一本で就職活動をしていて、その中でも第一志望の大手出版社に就職が決まった。いわば理想的な結果にたどり着いたはずだけど、そのことが逆に重圧となり不安を増幅させてしまうという皮肉なことになっているのかもしれない。それに比べ自分はまったく違った。狙った業界の会社はすべて落ちた。やむを得ず第二志望の業界を選び、なんとか就職先企業を決められた。そのせいか期待も大きくない代わりに不安も大きくない。

「そうか。それがプレッシャーになってしまったんだ」

「それもあるんだけど…。私、不安神経症なの」

「不安神経症?」

 聞いたことはないけれど、心の病であることはわかる。でも、そうすると自分の手には負えない。ここに来てしまったことを少し後悔する。

「そう。だから、自分の人生に対する漠然とした不安が大きくなって苦しくなってしまったの」

「君って、人一倍繊細だもんね。それが君の長所でもあると思うんだけど、時にそれが自分自身を追い込んでしまうこともあるんだね。辛い?」

 わかったようなことを言ったけど、自分でもこれが正解かどうかわかっていない。

「うん」

「そう…。それで僕にどうしてほしいの?」

「山田君に彼女がいることはわかっているけど、今日だけはずっと私の傍にいてほしいの」

「ずっと?」

「うん」

 ファミレスの中は絶えず人が動いている。特にこの時間はファミリー層も多くにぎやかだ。店内に流れるざわめきの音に自分たちの会話がかき消されそうだ。でも、周りの人たちはまさか自分たちがこんな会話を交わしているとは思わないだろう。

 輝之としては応えたいという気持ちはあるけど、万が一今付き合っている彼女に知られたらと思うと考えてします。

「う~ん」

 少し先の席に座るカップルの姿を見ながら言う。

 その時だった。

 小さな女の子が自分たちの席に近づき、二人を見上げた。

「あまねちゃん、こっちきなさい」

 お母さんと思われる女性が女の子を連れて行く。

 なんだか気勢をそがれる。

「駄目?」

 改めて彼女に、混じりっ気のない一生懸命さと哀しそうな目で訴えられた。

「わかった。いいよ」

 曖昧な笑顔を向けて答えていた。

 自分が何に拘っていたのかわからなくなっていた。

 ただ、女性のいう『ずっと』というのは気にはなったけど…。

「山田君、もう少ししたらここ出ない。だいぶ混んできたし、あんまり長居すると他のお客様に迷惑かけちゃうじゃない」

「いいけど、この後どうするの?」

「私の部屋に来てくれない」

 いつもはすごく控え目な人なのに、その日に限って積極的だった。

「それは…」

「お願い」

 何度も何度も頭を下げている。

「わかった、わかった」

 ここまでされて帰るわけにはいかなかった。この時には女性の望むことはすべて叶えるのが自分の役割だと心に決めていた。

 ただ、ちょっと照れくさかったのだ。


3-6

 ファミレスを出て空を見上げると、水底の砂のようにおびただしい数の星が瞬いていた。

 か細い光が弾けて夜が一面に広がっている。

 二人はわざとらしく距離を撮り続けた。

 女性の住まいは駅から10分ほどの場所に立つ、こじんまりとしたマンションの2階の一番奥の部屋だった。

「どうぞ」

 小さ目の玄関で靴を脱ぎ、短い廊下を抜けると、恐らく8畳ほどのLDKがあった。そこにあった4人掛けのソファーに座るように促される。座る前に何とはなしに周りを見て感じたのは、誰かがいた形跡だった。輝之は何事にも鈍感なタイプなのだけど、こうした空気みたいなものだけは昔から鋭かった。

「誰か来てたんだ」

「ああ、午前中ね」

「そうなんだ…」

 誰なんだろう。自分には関係ないことなのに、なぜか気になったが、それ以上は訊けなかった。

「何飲む?」

 女性が立ったままこちらを見て言った。

「僕は何でもいいよ」

「じゃあ、ワインでいい? お酒でも飲めば少しは気がまぎれるでしょう」

「うん。そうだね」

 二人分のグラスとワインを持って戻ってきた。

「おつまみは今すぐ作って持ってくるから待ってて」

「わかった」

 およそ10分程度キッチンで何かを作っていた彼女が持ってきたのは、ミニトマトのアヒージョとカマンベールチーズとりんごのカナッペだった。

「へえー、料理するんだ」

「やだ。これ、料理ってほどのものじゃないわ」

 蝶が羽ばたくような仕草の彼女はなんだか楽しそうだ。

「でも、日頃から料理をしているのがわかるよね」

「うん。料理は好きよ」

 それぞれのグラスにワインを注ぎ合ったところで輝之が言った。

「ちょっと複雑かもしれないけど、一応就職祝いということで乾杯しとく?」

「そうね」

 本来は祝うべき出来事なのだ。軽く乾杯を交わした後、女性の作ったおつまみを食べる。

「美味しい」

「良かった。山田君の彼女もきっと料理上手なんでしょう?」

「うん。結構上手い」

「何か幸せそうで羨ましい」

「まあね。今いないの? 彼氏」

「ずっと前から好きな人がいるんだけど、その人私のこと振り向いてくれないの」

 うぬぼれていたわけじゃないけれど、自分のことを言ってるとわかった。

「そう…」

「山田君、その人、私のことどう思っていると思う?」

「きっとその人も君のことが好きだと思うよ。ただ、君と出会う前から付き合っている彼女がいるから、君の気持ちに気づかないふりをしたんじゃないかな」

 自分が発した言葉の実体みたいなものが掴めない。

 そのせいか胸奥にちりちりとした痛みが走る。

「そうか…。じゃあ、もし出会う順番が逆になってたら私がその人の彼女になっていたかもしれないのね」

「そうかもね」

 そうは答えたが、心は頷いてくれない。

「なんか、辛い」

「でもさあ、そんな男のことなんてもう忘れたほうがいいよ」

「そんなの無理。私にとっては簡単じゃないの」

 失望と怒りをたっぷりと目の縁にたたえて女性が言う。

「ごめん」

 人によってはそう簡単に切り換えられないものかもしれない。自分としてはその女性にに次の恋に向かってほしくて言ったのだけど、かえって傷つけてしまったのかもしれない。

「山田君って、空気読めるようで読めないよね」

 ズバリ指摘してくれたことで、かえって空気が和んだ。

「そうなんだよね。友達からもよく言われる」

「彼女にも?」

「うん」

「ふふ。そうかあ」

 どこか遠くを見つめるように言った。その横顔は、はっとするほど綺麗だった。

「ちょっと訊いてもいい」

 輝之はとにもかくにも話題を変えたかった。

「何?」

「さっき、不安神経症って言ってたじゃない。あれって、どんなものなの?」

「不安神経症って言うのはねえ、日常の生活の中で強い不安の感情が生じてしまうため、身体症状や精神症状が強く継続してしまって生活のリズムや社会生活が送れなくなることを指すの。その中でも、私の場合は、全般性不安障害と言われる、発生する可能性は低くても重大な心配事である事柄が頭から離れずに心配してしまう疾患が強いの。だから、単なる心配性と言われてしまうこともあるんだけど、それとはぜんぜん違う心の病なの。もちろん、お医者さんには診てもらってるし、お薬も飲んでいるけど、どうしようもない時が、たまにあるの」

「そうだったんだ」

 彼女の不安の意味や大きさ、苦しみがやっとわかった気がした。

「わかってくれた?」

「うん。辛いよね。原因は?」

「原因は人によって違うと思うんだけど、私の場合は3つ上の姉が事故で亡くなったことね」

「そんなことがあったんだ」

「うん。私が小学6年生の時だったんだけど。私立中学に通っていた姉が、いつもと同じように私より1時間早く家を出たの…」

「うん」

「姉の後、私が家を出ようとした時、警察から電話があって、姉が事故に会ったって言われたの。横断歩道を歩いていたところ、居眠り運転の車が突進してきて姉が犠牲になってしまったの。たった1時間前に私に学校頑張るのよって言って出て行った姉が…」

 彼女の目には涙が溢れていた。自分には想像できない深い悲しみが彼女を襲い、決して修復できない傷を心につけてしまったのだろう。

「それ以来、何かあった時、不安と感じるとそれがどんどん大きくなって収拾つかなくなってしまうの」

「そんなことがあれば、そうなるのは当然だよね」

「きっと、私の心がもともと弱かったせいだと思う」

「そんな、自分を責めるのはやめなよ。誰だって、そんな辛い思いをしたらそうなるよ」

「フォローしてくれてありがとう。でも、病院に通うようになってから少しづつだけど回復していたの。でも、今回久しぶりに出てしまった」

「学生から社会人になるって、大きな変化だからね」

「そうね。でも、山田君はあまり気にしないで。今日だけ私と時間を共有してくれるだけでいいの。山君にそれ以上の負担をかけることは私の本意じゃないから」

「わかった」

 ふと柱にかかった時計に目を遣ると、すでに午前0時を少し過ぎていた。もう間もなく終電が終わる時間だ。

「山田君、帰りたいの?」

「何で?」

「今、時計みたし」

「ああ。無意識に見ちゃっただけ」

「そう。ならいいけど、今日は帰さないからね」

 ちょっといたずらぽい表情を作って言った。

「うん。大丈夫だよ」

「あのさあ、山田君って、子供の頃どんな子だったの?」

「突然だなあ」

「山田君が帰ろうという気を起こさないために、質問攻めにしようかなと思って」

「だから、大丈夫だって。どんな子って、そうだなあ、今とあんまり変わらないかなあ」

「ああ。そんな感じ」

 自分で言うのはいいが、人から言われるとちょっとムッとする。

「でも、それなりに成長はしてると思うけどね」

「子供の頃を知らないから確かめようがありません」

「そりゃあ、そうか。そういう自分は?」

「私? 私もあまり成長していないかも」

「人間って、そう変わらないって言うもんね。でも、僕の場合は、高校受験の失敗が自分を変えたかもね」

 これまで他人に話したことがないことを話していた。

「そうなんだ。どんな風に変わったの?」

「自分としては、第一志望だったその高校に合格できるかどうかが自分の、その後の人生を決めるみたいな気持ちになっていて、とにかく懸命に勉強していたわけだけど、見事不合格になってしまったんだよ。当時の僕としては、大きな挫折を味わったわけ。当然、一時はすごく落ち込んだんだけど、何もその高校に行くことだけがすべてじゃないんだって思えるようになってさあ。そう思えた瞬間、いろんな考え方やいろんな選択肢が見えて、むしろ楽になったんだ」

「素敵。私もそんな風になれたらいいいんだけど、今は無理」

「君も、いい意味でもう少し不真面目になればいいと思うけど、人それぞれの歩き方とか歩幅があるじゃない。だから、決して焦る必要はないと思う」

「うん。ありがとう」

 わかっていても、すぐにはできないこともある。それが人間だと自分自身に偉そうに言って見る。

 すでにワインは1本空いていた。

「見て。もうなくなっちゃった」

 彼女が空になった瓶を顔のあたりにあげる。ほんのり赤く染まった彼女に女を感じ、ドキッとする。

「君ってお酒強いんだ」

「強くなっちゃったということかな」

「強くなっちゃった?」

「私、夜が怖いのね」

「どういうこと?」

「夜って余計なこと考えちゃうことあるでしょう」

「それは僕でもあるかな」

「私の場合、それはすごく危険なわけ。一度思考の沼に嵌っちゃうと、悪いほうへ悪いほうへと向かっちゃうのよね。だから、そんな時はお酒を飲むことで心を麻痺させるの。必然的にお酒を飲む日数も、回数も、飲む量も増えて、お酒に強くなっちゃったというわけ。ということで、もう1本いきますよね」


3-7

 彼女はこちらの返事を待たずに冷蔵庫に向かっていた。

 いつの間にか、おつまみはコンビニで買ったと思われる柿ピーやさきイカに変わっていた。二人の会話も途切れがちになっていたけれど、そのことを意識することもなく、まったく気にならなくなっていた。テレビはついていたけれど、見ているわけでもなく、それぞれがそれぞれのペースでワインを飲んでいた。言葉はもういらないような気がした。

 窓ガラスを叩く風の気配がする。

 カーテンのすき間から、か細い月の光線がもれている。

 空気がやわらかな熱をもって身体を包んでくれる。

 目の前で膝を抱えている彼女の目には、寂しげな光が宿っている。

 きっと、懸命に不安と闘っている。

 輝之には己の感情がどういうものなのかうまくつかめないでいた。

 時間は午前3時を過ぎていた。

 普段なら眠気に襲われる時間帯だが、特殊な雰囲気のせいで眠くはない。だが、彼女のほうはかなり早いペースでワインを飲んでいるせいか眠気を催してきたようだ。

「眠くなった?」

「うん。少しね。私、山田君の隣に行っていい?」

「ああ、いいよ」

 酔っているせいか、少しふらつきながら自分の横にやってきて、ドスンという感じで座った。

「だいぶ酔っているみたいだけど、大丈夫?」

「ううん、大丈夫じゃない」 

 そう言ったかと思ったら、そのまま身体を自分に預けた。そんな彼女が愛おしくて、思わず肩を抱きしめた。

「もう何も考えないでもいいよ」

「うん」

「眠くなったら寝てもいいからね」

「うん」

 もう半分寝ていた。しばらくそのままでいたが、ものの5分と経たず彼女は寝入ってしまった。不安から解放されたのだろうか、寝顔には安心しきった優しい表情が浮かんでいた。このまま悪夢を見ることなく目覚めることを祈るだけだ。彼女を横に寝かせて毛布を掛け、自分は帰ってしまうこともできたけど、それはしなかった。目を覚ました時、一人残されたことに気づいたら悲しむと思ったから。そのうち自分も寝てしまい、朝の陽射しに起こされた。

 ふと横を見ると、彼女も目を開けたところだった。

「朝になったよ」

「うん」

「眠れたみたいだね」

 女性の顔は寝起きだったけど、憑き物でも落ちたようなすっきりとしたものに変わっていた。

「うん」

「もうそろそろ僕は出て行くけど、大丈夫?」

「うん、大丈夫。山田君のおかげで少しだけ強くなれたような気がする」

「そうか。それなら良かった。じゃあ、行くね」

 ソファーから立ち上がり、持ってきたリュックを手に取った。

「山田君」

 自分を見上げた女性と目が合う。かすかに彼女の目が濡れている。

「ん?」

「一晩中、こんな私の傍にいてくれてありがとう」

「うん」

 いっぱい言いたいことがあったように思うけど、それは口に出さないほうがいいと思った。

「じゃあね」

 リュックを振り回すように背負い、彼女を見ないようにして部屋を出た。外廊下を歩きエレベーターに乗り、1階のエントランスから道路に出て初めて息をついたような気がした。

 空はよく晴れ渡り、白い雲がゆっくり移動している。

 日に照らされた表の光景は静止しているように見えた。

 家々の合間から巨大な建物がつき出している。

 自分は何をしたわけでもない。

 彼女に乞われて彼女の部屋で一晩中傍にいただけだ。だけど、自分の中には、それまで自分が感じたことがないような感情が生まれていた。うまくは言えないけれど、それは彼女のみずみずしく純真な美しさに対する痛みに似た恋情のようなものだった。

 いや、そうしたものを超えた人としての愛おしさなのかもしれない。自分はその愛おしさの頂点で飛び降りてしまった。

 たぶん、今後の自分の人生と彼女の人生が重なることは二度とないだろうけど、彼女には、これから続いていく日々の中で幸せな人生を歩んでほしいと願った。

 あれから15年以上が経つが、、あの日のことは未だに忘れられない。

「終わりましたか?」

 溝口の声が遠くから聞こえ、ようやく『今』に戻る。

「あっ、はい」

「素敵なお話を聞かせていただいてありがとうございました」

「いえ」

「その女性に会いたいですか?」

「結果的に今日ここですべてをお話しすることになり、おかげで当時の自分に戻れたような気がして満足してしまったんですけど、もし会えるものなら会いたいですね」

「探してほしいんですね」

「ええ。今日はそのつもりで来ましたから」

「わかりました。では、その方のフルネームを教えてください」

「飯久保紗英さんです」

「そうですか…」

 なぜか溝口はそう言って、私の顔をまじまじと見た。

「何か?」

「驚きましたが、やっぱりという感じです」

「やっぱり?」

「その女性は、この事務所の所長で、私の母です」

「えっ」

 心臓が止まるのではないかというくらい驚いた。開いた口が塞がらないというのはまさにこのことを言うのだろう。

「驚きましたか?」

「ええ。ものすごく。でも、どういうことでしょうか?」

「どうもこうもありません。山田さんが探して会いたいというのは、私の母なんです」

「ほんとですか?」

 ほんとうなのだろうけど、まだ心が受け止めきれていないのだ。

「ほんと、ですよ。疑ってます?」

 小さな子供のような屈託のない目で言われてしまった。

「いや。疑っているわけじゃないんですけど…。しかし、そんなことってあるんですね。溝口さんはいつわかったんですか?」

「話の途中で気づきました。たぶんそうだろうなって。母から以前ほんの一部ですけど聞いたことがありましたから」

「そうですか。実は最初溝口さんのお顔を拝見した時、お母様に似ているなとは思ったんですけど…」

「そうですか。どちらかと言えば、私は父親似なんですけどね。でも、もちろん母に似ているところもあると思います」

「ええ、似ています」

「山田さん、改めてお伺いしますけど、母に会いたいですか?」

「もちろん、会いたいです」

「そうですか」

 溝口が腕時計を見て続けた。

「もう間もなくここへ戻ってきますよ」

「えっ」

「帰社予定の時間だからです」

「そうですか」

 急に落ち着かなくなってきた。不規則に脈打つ鼓動がこめかみを叩く。


3-8

「コーヒー、新しく淹れてきますね」

 溝口が二人分のカップを持って応接室を出た時、入り口のドアが開いた。

「ただいま帰りました」

 聞き覚えのある懐かしい声が聞こえた。

 背筋が不自然なほど真っすぐに伸びていた。

「お帰りなさい」

 溝口が答えているが、こうして改めて聞いて見ると声も似ている。

「あっ、お客様だったわよね」

 こちらの人影に気づいたのだろう。溝口が母親である所長に小声で話している。もちろん、自分のことだろう。しばらくして応接室のドアがノックされた。

「どうぞ」

 ドアが開かれ、溝口親子が入ってきた。飯久保紗英の顔を見た瞬間、当時の複雑な恋の高揚感のようなものが蘇り、喉の奥から感情が飛び出しそうになった。

「お久しぶりです、山田君。いや、山田さん」

 小動物を思わせるつぶらな瞳が輝之の中に飛び込んできた。

 昔と変わらぬ美しさであったが、事務所の所長という貫禄のようなものも伺えた。

「山田君のほうが嬉しいです。でも、本当にお久しぶりです。昔と変わらずお綺麗です」

 指先に柔らかなぬくもりが伝わっていた。

 果実のような甘酸っぱい青春の、ちょっと歪んだ自分の恋情の一粒一粒を思い浮かべる。

「いえいえ。年月には勝てません。私もすっかり年を取りました。こんな大きな子供がいるのですから」

「年を重ねたのは私も同じですけど、紗英さんは当時とほとんど変わっておられない。相変らず美しい」

 今は溝口紗英になっているのだとわかっているが、紗英と名前だけで呼んでしまった。当時同じゼミ生に偶然にも、もう一人飯久保姓の女性がいたため、みんな『紗英さん』と呼んでいたのだ。なので、今も自然にそう呼んでいた。でも、紗英のほうもそう言われることに抵抗はないようで否定しなかった。それが嬉しかった。

「あのお、隣で娘が笑っておりますので、そのへんで」

「はい。でも、まさか今日お会いできるとは思いませんでした。嬉しいです」

「私もとても嬉しいです。だけど、正直驚きました。今日、人探しのお客様が相談にお見えになることは聞いておりましたけど、まさか山田さんだとは思っていませんでした」

 紗英は隣に娘がいるせいか、やはり山田君とは言いにくいようだった。それが輝之には少し残念だった。

「奇跡のような偶然ですね。私がネットで検索して、たまたま選んだのがこちらの事務所さんでした」

「そうでしたか。でも、何で私を探そうと思われたんですか、今になって」

「何でですかね、最後にお会いした日のことが突然思い出されて、急にお会いしたくなってしまったんですよ」

「そう思っていただいたのは嬉しいです。あの日、私は人生の大きな壁を前にただ怯えていました。でも、そんな私に、そんなに怖がる必要がないことを傍にいるだけで教えてくれたのが山田さんでした。だから、私のほうこそ山田さんには感謝しかありません」

「私、外に出ていようか?」

 娘の溝口茉奈が居心地悪そうに言った。

「ううん。茉奈も一緒に聞いてほしいの」

「わかった」

「私は傍にいただけでしたから、本当に紗英さんの気持ちを支えることができていたか自信ありませんでした」

「いえ。十分でした。ところで、山田さんは今日ここへ来ることを奥様に話されましたか?」

 なぜここで妻の話が出るのか、輝之には意味がわからなかった。

「いえ。話してませんが…」

「そうですか。実は、山田さんのお奥様は私の親友なんです」

「えっ、意味がわからない」

 輝之には紗英が言ったことが本当にわからなかった。

「そうですよね。じゃあ、ご説明しますね。ゼミの打ち上げの時に山田さんには付き合っている女性がいることを知りました。当時、私は山田さんのことが好きでしたから、その女性に嫉妬しました。それで、どんな女性なのか突き止めたかったので、ある日山田さんの後をつけました。そして、彼女の住まいがわかったんです」

 なんということだろう。

 昔のことなのに、身体がひんやりする。

 あの内気な飯久保紗英が、まさかそこまでする女性には当時思えなかった。

「それで会ったんですね」

「はい。お会いしました」

 やわらかく微笑んだ。

 どうやら自分は紗英を見くびっていたようだ。

「そうですか。芽衣、驚いたでしょうね」

 芽衣にしてみれば、突然自分の恋敵が自分の部屋に押しかけてきたのだ。驚き以外の何物でもないだろう。

「もちろん、驚いていらっしゃいました。でも、追い返されると思ったら部屋にあげてくれたんです。彼女は心の広い人でした」

 そうなのだ。妻の芽衣は自分とは違って、当時から心が広いというか、大きい人で、少々のことでは動じない人間なのだ。

「妻はそういう人です」

「そうですね。それで、彼女は私の話をすべて聞いてくれました。その上で、応援するって言ってくれたのです」

「応援?」

「はい。私も頑張るけど、あなたも頑張ってって。決めるのは輝之に任せればいいのよって」

 芽衣らしいと思った。そういうことを平気で言えてしまうのが旧姓松永芽衣という女だ。

「その時から芽衣さんは私の親友になりました。だから、社会人になる直前になって私が不安でがんじがらめになってしまった時も、真っ先に連絡したのは芽衣さんでした。お願いだから来てほしいって。そうしたら、芽衣さんは自分よりも輝之に傍にいてもらったほうがいいって言うんです。あの人は優しい人だから、きっとあなたの不安を和らげてくれるって」

 その時のことを思い出したのか涙声になっていた。まさか、芽衣が自分を紗英の元へ行くように勧めていたとは思わなかった。

「そうだったんですか」

「あの日、私がファミレスで電話していたのを覚えていますか?」

「ええ」

「あの時の相手は芽衣さんです」

 あの時の情景が目に浮かぶ。

 紗英の頼りなげで翳りを帯びた目。

 でも、その向こうに芽衣がいたなんて…。

「それから、私の部屋に来た時、山田さんが誰かが来ていたみたいと言いましたよね」

「まさか」

「その、まさかです。あの日の午前中に私の部屋に来ていたのは芽衣さんです」

 あの日の午後に自分は芽衣とデートしている。確かに午前中は用事があると言っていた。

「ただ、午前中に私の部屋に来ていたのは芽衣さんだけではありませんでした」

「というと」

「もう一人、男性がいました。同じゼミ生の吉川正弘君です」

「吉川君がなぜ?」

 覚えている。吉川正弘は優秀な学生だったが、無口で目立たない人だった。その怜悧な横顔には結構多くの女子生徒のファンがいたことを覚えている。ただ、輝之は彼と親しくしてはいなかったので、それ以上のことは知らない。

「私が山田君とのことをずっと吉川君に相談していたからです」

「なるほど」

「その吉川君が、後に私の夫となりました」

「ええー、そうなんですか」

 衝撃の事実に輝之は立ち尽くす。

 自分の感情を追い越してしまう出来事に、心が追いついていけない。

「社会人になって2年目の時に、偶然街中で吉川君と再会して以来付き合うようになりました。吉川君から自分のことがずっと好きだったと告白された時は驚きましたが、嬉しくもありました。付き合っていくうちに、その人柄に惹かれ、やがて結婚しました。そして、吉川は親戚の溝口家と養子縁組をして、この探偵事務所を引き継いだんです」

 溝口姓を名乗っている理由がようやくわかった。

「それで、今彼は?」

「3年前に病で亡くなりました。葬儀には奥様の芽衣さんにも参列いただきました」

「そうですか。僕は何も知りませんでした」

「山田さんは別に知る必要もないことです」

「そうかもしれませんけど…」

 紗英と芽衣の配慮なのだろうけど、少し寂しかった。

「ところで、不安神経症のほうはどうなのですか?」

「おかげさまで、今はほとんど回復しています」

「そうですか。それは良かったです」

「いろいろびっくりされたでしょう?」

「正直、驚きの連続でした。でも、お会いできて本当に良かったです。ありがとうございます」

「いえ、こちらこそ楽しかったです」

「じゃあ、私はこれで失礼しますけど、いいのでしょうか?」

「何が、です」

「そのお、調査料金とかは?」

「やめてください。実際何も調査もしていませんし。それに、山田さんは私の恩人です。そんなことより、このところお互い忙しくて奥様の芽衣さんにお会いできてませんけど、どうかくれぐれもよろしくお伝えください。先ほど言いましたように、奥様は私の親友であり、大好きな方です。どうか大切になさってください」

「ありがとうございます。紗英さんもお幸せに」

「ありがとうございます」

「紗英さん」

 最後にどうしても伝えたいことがあった。

「はい?」

「私にとって、紗英さんは手の届かぬ宝石のようでした」

 自分はこの言葉を伝えたくて紗英に会いたいと思ったのだと、突然気づいたのだ。

「そうですか…。嬉しいです」

 そう言うと、紗英は昔と変わらぬ色白の手を輝之の前に出して握手を求めた。

 紗英の澄んだ目の奥にはゆるぎない自信が見える。

 そう、当たり前だけど、紗英はもうあの頃の紗英ではなかった。

 紗英の手を両手でそっと握って親子に別れを告げた。

 空には夕暮れのバラ色の雲が幻のように都心のビル群の上を流れている。

 輝之にとって本当に幸せな時間だった。

 世界が浮き立つように明るく見える。

 さっき紗英は妻によろしくお伝えくださいと言っていたが、自分としては今日のことを妻に話すかどうか悩んでいる。ただ、自分が話さなくても紗英から伝わるような気もする。何か照れくさいので、とりあえず自分からは話さないでおくことに決める.。

 今回のことで、妻は自分のことを丸ごと信頼してくれる唯一無二の他者であり、すべてを飲み込む広い海のような存在だと気づく。前からわかっていたような気もするけれど…。それに対して自分は、その広い海に浮かぶ孤島のようなものなのであろう。

 それにしても、30万円が浮いてしまった。この30万を妻の芽衣のために使うことが、この後の自分に課された最大のミッションのような気がする。どんなサプライズにするか考えただけでワクワクしてきた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る