第2話 吐息
第二章
会社を出て帰宅のため、いつも通り駅へと続く歩道を歩いていると後ろで大きな音がした。振り返ってみると、つい先ほど自分の横を通り過ぎて行ったSUVが交差点で横転していた。
『まただ』
誰かが救急車を呼んだのだろう、遠くのほうからサイレンの音が近づいてくる。ドライバーは30代後半の男性だったような気がするが、はっきりしたことはわからない。
どこにでもある単独事故だったのでニュースにもならなかった。しかし、はた目には不思議な事故だった。SUVは一見横転しているように見えたが、よく見たら完全にひっくり返っていた。でも炎上はしていなかったし、何より事故原因がわからなかった。夜とはいえ天候もよく無風だったし、障害物も見当たらなかった。事実SUVは何かに衝突した訳でもないのだ。
だが、この場所では今回のような、はっきりとした原因の分からぬ事故が過去1年の間に数回起きていて、魔の交差点と呼ばれている。
では、本当の原因は?
近隣住民の間で囁かれている噂がある。
それは、2年前に同じ交差点で起きた1台の車の単独事故だ。スピードの出し過ぎでガードレールに激突した。警察の調べによるとブレーキに不具合があったことがわかっているが、その原因まではわかっていないらしい。乗っていたのは3か月後に結婚式を控えていた29歳の男性と、26歳の女性だったが、ともに搬送された病院で死亡が確認されたという。当時たまたま現場に居合わせた人の話によると、女性のほうは即死状態だったようだが、男性のほうは虫の息があったようで、指輪が入っていると思われる箱に手を伸ばしていたが、届く前に意識を失ったという。
女性のほうは自分が亡くなってしまったことに気づいていないのか、認めたくないのか、その後もその場を離れることができずに彼氏を探しているという。そして、その場を通る彼氏と同じ年頃の男性ドライバーを見かけると乗り込んで確かめるとか。そして、彼氏ではないことに失望して、悲しい思いを噛みしめるというのだ。頻繁に起こる不可思議な事故のせいで、そんな憶測がまことしやかに語られているという。
2-1
なぜということはなしに、松宮渚は夏のまだ暮れきらないこの時刻が好きだ。生暖かいきまぐれな風に身を任せながら、歩道沿いに植えられた街路樹の作る薄い影の中をゆるりと歩く。頭上で揺れる葉の向こうに町はほんの少し橙色を帯びている。
外出先から部長の中川に連絡を入れたら、そのまま直帰してもいいと言われ、すぐさま仙道那奈にラインで連絡を入れた。
-私部長から直帰していいって言われた-
-なんでよ まだ5時前じゃん-
-だっていいって言われたもん。だから、『おみなえし』に先に行ってるから-
-相変らず部長の渚びいきはひどいね-
-私、ひいきされてるとは思ってないけど-
-そう思ってるのは渚だけ。とにかく、私は後で行くから-
-わかった。待ってる-
三軒茶屋にある串揚げ屋の『おみなえし』は、会社の帰りに那奈と二人でたまたま立ち寄った店だ。店長の健太郎の気っぷの良さや店の雰囲気が居心地がよくて今や常連になっている。
那奈は同僚であり、かつ飲み仲間だ。他にも仲が良い子はいるけれど、ことお酒を一緒に飲む相手としては那奈が一番合った。飲むお酒の種類、飲む量、飲むペースなどがすごく似ているので、へんに気を遣わずに楽しく飲めるのだ。
「健ちゃん、ちょっと早いけどいい?」
店に入り、開店の準備をしていた店主の関水健太郎の後ろ姿に声をかける。
「おう。誰かと思ったら渚ちゃんか。だいぶ早いけどいいよ」
とりあえずいつも座るカウンターに陣取りスマホをいじっていると、店のスタッフが二人奥から出てきた。
「ああ、渚さん。今日はお早い出勤ですね」
ニヤニヤしながら冗談を言うこの男の名は大友英彦。26歳。独身。イケメンなので、英彦を目当てに来る女の子も多い。
「やめてよね、オミズの子みたいじゃない」
「そうだよ。どう見ても渚さんは真面目なOLっていう感じじゃないか」
そうフォローしたのは、もう一人のスタッフの羽田貴明。貴明は2カ月前に辞めた子の後釜としてこの店に入った。なので、年齢は30歳だけど、この店では英彦の後輩になる。イケメンではないけど、とにかく優しい。
「でも、渚さんみたいな一見真面目そうな子が案外男を狂わすんですよ」
女性経験が豊富であろう英彦に言われると、がぜん信憑性が高まってしまう。
「ひど~い」
「もうそのへんでやめておけよ。ところで、那奈さんは?」
貴明は那奈のファンを公言している。
「後から来ます」
「そうですか」
明らかに嬉しそうな貴明を見ると、別に貴明が好きでもないけど、ちょっと嫉妬する。
店が開店すると、徐々に客が入ってくる。渚が軽いおつまみと焼酎の水割りをちびりちびり飲んでいると、ようやく那奈がやってきた。
「お待たせ」
「ちょっと遅かったね」
「部長につかまっちゃったからよ」
中川部長は話が長いので有名なのだ。そして、その中川部長も那奈のファンである。
「あっ、そう。で、何飲む?」
「もちろん、まずはビールでしょう」
二人で飲む時は真冬であれ、まずはビールで乾杯する。
「了解。じゃあ、貴ちゃん、那奈ちゃんに瓶ビール1本」
健太郎ではなく那奈のファンの貴明に言う。
「は~い。那奈さんから瓶ビール1本の注文いただきました」
背中をまっすぐに伸ばし、店中に響くような大声で叫ぶ。
「何であんな大声あげるのかしらねえ」
「那奈が来たとたんにテンションあげちゃうのよね、貴ちゃん」
「もう面倒くさいったらありゃしない」
そうは言うものの、満更ではない顔をしている。女は、いや人は誰でも自分に好意を持ってくれる人がいると気分が高まるものだ。
「いらっしゃいませ~」
今度は英彦が店の入り口に向かって声を出した。つられて渚たちも振り向くと、二人組のサラリーマンが入って来たところだった。
「森山さん、どうぞこちらへ」
英彦が指示したのは渚の隣の席だ。名前を呼んだことや、英彦の態度を見ていると、どうやらこの二人組も常連のようだ。そう言えば、他の席に座っている二人を以前も見たような気がする。
「すみません。お隣、いいですか?」
断ることなどできないに決まっているのに、立ったまま男たちが言った。
「どうぞ」
そう答えながら、渚は男の様子を見上げた。そこには、眩しいほど爽やかで、怜悧な顔があった。思わず心が少し浮き立つ。
『感じいい人たち』
そう思ったけれど、その時はそれだけのことで、すぐに忘れてしまった。
だが、その後も何回か店で顔を合わせる機会があり、その都度渚たちの隣に座ることが多く、自然と口をきくようになっていた。
一人は森山和也、もう一人は大橋洋介という名で、共に大手メーカーの研究所で働いている同僚だと紹介された。年齢は二人とも今年29歳になるということだったので、間もなく26歳になる渚たちより3つ上ということになる。
行きつけの店で偶然出会った飲み友達のようなものになり始めてはいたけれど、それ以上の気持ちが動くことはなかった。那奈には付き合っている人がいたし、渚にもまだ付き合ってはいないものの、社内に好意を持っている人がいたからだ。
「健ちゃん、あの二人どう思う?」
那奈が健太郎に話しかけている。
「あの二人って?」
「森山さんと大橋さんのことですよ」
英彦が那奈の代わりに健太郎に答えている。
「ああ、あの二人ねえ。どう思うっていう意味がわからないんだけどさあ」
「要するに結婚相手としてどうかって言う意味よ?」
「ええー、那奈さん、あの二人をそんな風に見てるんですか」
貴明が意外というか、心外という響きで言った。
「あのねえ、貴ちゃん。私たちのようなお年頃の女は、男を見る時そこを考えて品定めするの」
「おそろしい」
英彦がそう言うのも無理はない。渚はそんな風には見ていないからだ。
「女ってね。超現実的な生き物だからそうなるの」
「女すべてがそうじゃないわよ」
渚が訂正しておく。
「もちろん、感情に流される時もあるけどさあ」
渚からすれば、那奈はいつも感情に任せて生きているように思える。
「だって、那奈さんって会社の人と付き合っているんでしょう」
那奈のファンの貴明は気になるのか複雑な表情でツッコム。
「そうよ。だけど、その男と結婚するってまだ決めたわけじゃないしね」
「じゃあ、俺にもチャンスがあるってわけ?」
「チャンスはね」
「ダメダメ、貴さん。こういう人には振り回されるだけだから」
店一番のモテ男の英彦が貴明に適切なアドバイスをした。
こんなやりとりがあったせいか、渚は、あの二人組について少し考えるようになっていた。
2-2
太陽は何にも遮られずにまっすぐ降り注ぎ、足元には空が流れている。
遠くに見えるマンションの部屋の洗濯物が風に翻っている。
渚は、眼球が光に慣れるまで瞼を閉じた。
「渚はどっちがタイプ?」
昼休みの屋上で那奈が突然言い出した。
「えっ、何?」
「『おみなえし』の二人のことよ」
那奈はいつもこうしてするりと人の心の中に入ってくる。
「ああ、私は森山さんかなあ」
「そうなんだ。私と同じじゃない」
「ええー、彼氏と全然違うタイプじゃない」
今那奈が職場恋愛している相手はがっしりとした体格の男らしいタイプだ。一方の森山和也は、華奢で繊細な感じの優男だ。
「焼肉ばかり食べてると、たまにはお刺身を食べたくなるじゃない」
「何それ。男の人の台詞だよね」
「女だって同じだよ。口に出さないだけで」
「そうかなあ」
事実那奈は恋多き女で、これまでにもその恋愛の数々を聞かされている。なので、今の彼との恋愛もどんな決着になるかは、本人ですらわからないのであろう。
「それで、渚はどうするつもり?」
「どうするって、別に何も考えてないよ。だいいち、付き合っている彼女がいるかもしれないじゃない」
「そんなの関係ないよ。大事なのは渚が好きかどうかだけだよ。渚はそんなだから、彼氏を奪われちゃうんだよ」
高校時代、当時付き合っていた彼氏を友達に奪われた過去がある。那奈と飲んでいた時、つい話してしまったのを覚えていた。
「わかっているけどさあ」
「でもって、どうする?。渚が森山ちゃんに真剣にアタックするんなら、私は降りるし、渚のサポートに回るけど、そうじゃないのなら、私がいくよ」
那奈なら彼氏がいようと本気でアプローチするだろう。それは嫌だった。
「わかった。私、森山さんにアプローチしてみる」
「よ~し。頑張れよ、松宮渚」
なんかおかしなことになってきた。ちょっと嬉しいけど…。
「ありがとう」
話の流れでそう言ってしまったけど、渚の中ではまだ戸惑いもあった。あの二人で言えば森山が好みだったことは間違いないけど、積極的にアプローチしようとまでは考えていなかったからだ。こうした自分の消極的なところが、恋愛から遠ざけてしまうこになるとわかっていた。今回自分がその気になった一番の理由は、自分がアプローチしないのなら那奈がアタックすると言われたことだ。那奈と森山が関係を持つのを傍で見せつけられるのだけは嫌だった。なんか成り行きでこうなったのには抵抗があるけれど、自分みたいなタイプは、こんなことでもないとなかなか動けないタイプなので、結果的には良かったと思う。
翌週の金曜日、那奈と一緒に『おもなえし』に行くと、すでに森山と大橋は来ていた。
「渚、ここここ」
那奈が渚を森山の隣に座らせようとした。
「あっ、どうぞどうぞ。そろそろお見えになる頃だと思って席を押さえておきました」
見ると、森山の私物と思われるものが席に置いてあった。その荷物を、自分のカウンター下に移しながら言う。
「ありがとうございます」
渚が森山の隣に座ったのを確認して那奈が健太郎に注文する。
「健ちゃん、生2つ」
「あいよ」
ビールが来たところで4人で乾杯する。
「森山ちゃん。明日渚の誕生日なんだ。だから、前祝してあげて」
森山に限らず那奈はちょっと親しくなると、相手をちゃんづけで呼ぶ。そんな距離感が那奈が人気ある理由の一つになっていると思うけど、渚には真似できない。
「えっ、そうなんですか。それはおめでとうございます。1日早いけど」
「ありがとうございます」
「大橋、松宮さん、明日誕生日なんだって」
「聞こえてたよ。おめでとうございます。で、おめでとうついでに言っちゃいますけど、、明後日は森山の誕生日ですから」
誕生日が1日違いだったなんて驚きだ。
「ええー、そうなんですか。おめでとうございます。2日早いけど」
自分にしてはうまい返しができた。
「何その会話」
那奈がおかしそうに言う。
「いやいや嬉しいです。2日前でも」
「あのお、もう一つお報せがあるんですけど、森山は松宮さんの大ファンだと言っています」
大橋が世紀の発表をするかのように大げさに言った。
「おい、やめろよ」
照れているのか、困っているのか、森山が大橋を突っつく。
「でも事実だろう」
「そうだけど…」
気づかないふりをしたけれど、森山の、はにかんだような笑顔を見て、渚の胸の奥が鈍くうずいた。
「ちなみに、僕は仙道さんのファンですけどね」
大橋の軽い言葉に那奈の怒りがさく裂する。
「つけたしみたいに言うのやめてくれる」
「つけたしじゃないですよ」
口を尖らせていう大橋に、今度は貴明が挑戦状を突きつけた。
「俺も仙道さんの大ファンです」
『大』をつけたところに、貴明の思いの強さがわかる。
「はいはいはい。お二人ともありがとね」
日頃から言われ慣れている那奈が超然と言い放つ。
「でもさあ、森山さんは渚のファンだって、良かったじゃない」
那奈が渚の肩を軽く叩いて言った。大橋から間接的に聞かされた話に今一つ喜べないでいたが、那奈の言葉には頷く。
「うん」
すると、今度は那奈が森山に言った。
「森山ちゃん、渚も森山ちゃんのことが好きみたいよ」
あちらはファンとやや間接的な表現を使っていたのに、那奈は『好き』という言葉を使った。そのことが妙に恥ずかしかった。
「那奈…」
「何よ、ほんとでしょう」
「そうだけど…」
今日自分のほうからアプローチするつもりだったのに、那奈と大橋がそれぞれに代わり告白してくれた形になって、渚としてはちょっと悲しかった。
「ええー、両想い? この際付き合っちゃえば、森山」
今度は大橋がさらに先に進めようとする。まるで、那奈と大橋が事前に打ち合わせしていたかのようだ。後で那奈に訊いたら「それはない」と言ってたけれど、本当のところはわからない。
「もちろん、僕は松宮さんさえOKだったらぜひお付き合いしたいです」
誠実そうな茶色い瞳で見つめられ、渚は吸い込まれそうになる。
「そんなのOKに決まってるじゃん。ねえ、渚」
またしても渚が答える前に那奈が答えてしまった。
「ちょうとおー」
自分の気持ちが踏みにじられたような気がして、さすがの渚もツッコんだ。サポートも度が過ぎる。
「あっ、ごめん」
ここで那奈も気づいたようだ。
「あのお、本人の口から話させます」
改めてそう言われると身体の芯が熱くなり、どうしていいかわからなくなる。すかさず、那奈が追い討ちをかける。
「何、モゴモゴしてんのよ」
「うん。わかってるよ。私のほうこそお願いします」
森山のほうをちゃんと見て応えた。
すると、那奈は突然後ろを振り向き、その日お店に来ていた全員に向かって言った。
「は~い、皆さん。今日からこの二人は付き合うことになりました。よろしくお願いしま~す」
期せずして拍手が起こった。那奈の行動に渚の顔は恥ずかしさで真っ赤になってしまったが、拍手に応えないわけにもいかず、頭を下げながら「ありがとうございます」と小声で言った。隣の森山を見ると、同じく顔を赤くしながら頭を下げていた。
拍手がやんだところで店の調理場のほうに向き直ると、作業をしながら笑いをこらえている健太郎の姿が目に入った。
この突然の一連の行動は、那奈らしいと言えばそうだけど、渚が極度の恥ずかしがりやだと知っていてわざとやったような気もする。那奈のそういうところに渚はいつも戸惑うのだけど、今回の件は怒りさえ覚える。かといって、悪気があったわけでもないので、責めることはできない。でも、一言言い返してやりたかった。
「那奈んときも同じことするからね」
「いいよ。ていうか、やって、やって」
完敗だ。渚の思いなど何も感じてない那奈は涼しい顔だ。
「あのお」
すでに出来上がっている大橋のにやけた顔が渚と那奈に向けられる。
「何?」
那奈が冷たい言葉で返す。
「ということで」
「何よ、ということでって?」
「だから、二人のお付き合いを祝福して改めて乾杯しませんか?」
「そういうこと。いいね」
「ですよね。じゃあ、店長、生4つ」
「よっしゃー、ここは店からのお祝いということにするから」
さっき背中で笑っていた健太郎が満面の笑顔で言った。
どうやら健太郎も二人の事を祝福してきれているらしい。
「さすが健ちゃん、気が利くね」
那奈が健太郎を持ち上げる。
「あたぼうよー」
ビールが届いたところで大橋が音頭をとる。
「では、森山和也と松宮渚さんのお付き合いが末永く続き、二人が幸せになれることを願って乾杯にしたいと思います」
「結婚式か」
すかさず那奈がツッコミを入れる。あちこちで笑いが起きている。
「もう、仙道さん、茶々入れないでくださいよ。じゃあいいですか。かんぱ~い」
那奈と森山にとっては、まるで辱めの刑みたいなミニイベントがやっと思わって、ようやくいつものお店の状態に戻る。
「なんか、ひどく大騒ぎになっちゃいましたね」
森山が渚にだけ聞こえるような小声で話しかけてきた。
「ほんとです。もうこれ以上は耐えられません」
「ふふふ。僕もそうです」
そう言って森山は、ひどく人懐っこい笑顔を見せた。まるで二人だけの秘め事のような森山の行為に渚の心が開いていく。そうして、二人は距離を縮めつつあったが、みんなの関心はすでに今朝発表があった有名女優の山形真理の結婚の話題に移っていて、那奈を中心に盛り上がっていた。
「そういえば仙道さんって、山形真理にちょっと似てないですか?」
大橋が大発見でもしたかのような大声で言う。
「そう言えば似てるかも」
貴明が同調する。
「似てる似てる」
日頃は客の会話にほとんど口を挟まない英彦まで言っている。そんな風にして、渚と森山をそっとしてくれているのがわかり、みんなに感謝だ。
「すみません。僕ちょっとトイレに行ってきます」
そう言って森山が席を外した。すると、那奈が大橋に小声で言った。
「念のため確認しておくけど、森山ちゃん、今付き合っている人いないんでしょうね」
「ああ、それは大丈夫。半年以上前に別れているから」
「そうなんだ…」
自然に声が出たのは渚だった。その彼女はどんな人だったのだろう。まだちゃんと付き合ってもいないのに気になった。
「あれ、森山ちゃん、どこ行ったんだっけ?」
「トイレ」
那奈に訊かれたので答えたが、なかなか戻らないので渚も気になっていたろころだった。
「トイレって、どこのトイレに行ったのよ。まさかアメリカのトイレにでも行ったってわけ?」
「そんなの、私、知らないよ」
「わかった。俺がちょっと見てきます」
そう言って大橋があちこち探し始めたが見つからなかったようだった。
「どうしちゃったんですかね」
「ちょっとお、大丈夫、あの人」
那奈がそう言ったところに森山が戻って来た。その手には花束と小箱があった。
「すみません。ちょっと遠いトイレに行ってたもので」
「やるね、森山ちゃん」
「これ、松宮さんのお誕生日のお祝いです」
小箱の中にはデレゼンの誕生石ストーンネックレスが入っていた。
「素敵です」
「つけてもらいなさいよ」
すかさず那奈が言う。
「でも…」
「森山ちゃん、やってあげて」
「じゃあ」
森山が箱からネックレスを取り出した。渚は恥ずかしかったが、ネックレスをかけやすいよう首筋を森山に向けた。森山の手が一瞬渚の髪に触れ、ぞわっとした感触が走った。
サプライズ的なことは苦手な渚だったが、この時は心から嬉しかった。
2-3
渚と森山との付き合いは、こうしてみんなに後押しされる形で始まった。
初めてのデートはお店で付き合う宣言をした、いや、させられた翌週の土曜日の午後だった。待ち合わせの表参道の喫茶店に入ると、すでに森山は来ていた。初めて見る森山の私服姿は、意外にもかなりおしゃれだった。今日はボーダーのシャツの上に解禁シャツ。下はグレーのワイドパンツだった。
「お待たせしました」
森山は渚が入ってきたのに気づかなかったようで、一瞬驚いたように渚を見上げた。慌てて立とうとするので、それを制する。
「ごめんなさい。気づかなかったもので」
「何か考え事をされていたみたいですものね」
「いや、ただぼおっとしていただけです。でも、ぴったりですね」
腕時計を見ながら笑顔で言ったが、その時計は高級時計で知られる有名ブランドのものだった。ひょっとして、この人はお金持ちの息子さん?
「私、案外時間は正確なんです」
森山の正面に座る。それまで夜の酒席でしか会ったことがなかったので、午後2時という明るい静かな光の中で面と向かうと、どこを見ていいかわからない。
「なんか照れくさいですよね」
森山も同じ思いだったと知る。
「そうですね。でも、森山さんっておしゃれなんですね」
「あっ、これですか」
自分の着ている服を指す。
「そう」
「嬉しいですけど。実はこれ妹のコーディネートなんです」
「正直な方ですね。でも、すごく似合っていますよ」
「あがとうございます。妹に感謝ですね。でも、松宮さんも素敵です」
「着ているものが?」
わざとそう言ってみた。
「いやいやいや、すべてがですよ」
「ふふふ。そんなに慌てなくても…」
「すみません」
そこへ店員がやってきて会話が中断する。渚はコーヒーを注文した。
なぜだろう、ついさきほどまであまり意識せずに会話できたのに、急にへんな緊張感が出てしまった。
「ところで、あれから考えたんですけど」
森山が少し硬い口調で話し出した。
「えっ、何をですか?」
「松宮さん、僕のこと、ほとんど何も知らないですよね」
「大手メーカーの研究所の研究員をしていて、年齢はこの間の誕生日で29歳になった、イケメンの独身男性ということは知っていますけどね」
「まあ、そのくらいですよね」
「イケメンは否定しないんだ」
「いやいや、そうですよね、恥ずかしい。すみません。イケメンじゃありませんから…」
「もう遅い」
「すみません。もう勘弁してください」
真っ赤になって言うので許すことにする。
「ふふ。それで?」
「とにかく、その程度ですよね。それで、僕は松宮さんとちゃんとお付き合いしたいので、今日は僕の履歴書を書いて持ってきました。それがこれです」
押し付けるように渡されたA4の1枚の紙。真面目に付き合いたいという思いは伝わってきたけど、ちょっと面倒くさい人なのかなという印象だった。
「今日はデートですよね」
「あっ、気分害しちゃいましたか」
「というか…」
「そうですよね。とりあえず僕のことを包み隠さず知ってもらいたいと思ったら、そんな形になってしまいました。ごめんなさい。それ返してくれますか」
言われるがまま森山に返すと、森山はその『履歴書』を渚の目の前で破ろうとした。
「あっ、待って」
「えっ?」
「せっかく書いてきたんだから見ますよ」
「見てくれるんですか?」
「見ます。デートって感じじゃなくなりましてけどね」
「すみません」
そう言いながら森山は『履歴書』を再び渚に渡した。
京都の高校を卒業して東京の有名私立大学の理工学部に入っている。その後、大学を卒業して現在の大手メーカーの研究所に就職して、今は主任となっている。家族は両親と4歳下の妹がいるようだ。森山より4歳年下ということは、渚より1つ下ということになる。父親は渚でもその名を知っている有名飲食チェーン店を経営する会社の社長をしていた。さきほどしているのが見えた森山の腕時計が高級時計だった理由もここにあるのだろう。
「妹さんも東京にいらっしゃるんですか」
「そうです。妹はフリーランスのデザイナーとして仕事をしています」
「ああ。それで。今日の森山さんがおしゃれなわけだ」
「そういうことです。妹は僕と違って芸術的才能があるみたいです」
「羨ましいです」
「でも、その分、ちょっと変わってるんです」
そう言いつつも妹に対する愛情が感じられた。
後で気づいたことだけど、それも、生臭い空気間を漂わせて…
「そうですか…」
『履歴書』をさらに見ていくと、森山の意外な趣味が書いてあった。
「ボルダリングとカーレースが趣味なんですか?」
「そうなんです」
これまで接してきた森山は、いかにも研究所の研究員という『静』の印象しかなかったので違う顔を見たようで少し驚いた。
「へえー、意外ですね」
「意外ですか?」
「ええ」
「こう見えて、アウトドア派なんですよ。仕事が室内オンリーなので、その反動かもしれません」
「そうなんですね。実は私、カーレースを見るのは好きです。もちろん、テレビとかでですけどね」
「それは嬉しいですね」
「私、実際のレース場って行ったことないので見たいです」
「わかりました。ぜひ一度見に来てください」
「お願いします」
さらに『履歴書』を見ていくと、最寄り駅から森山の住む自宅マンションまでの地図が手書きで書かれていた。
「これって?」
「ああ、それですか。いつか松宮さんが遊びに来てくれる時に使ってほしいと思って」
渚が自分の家に来ることを予想しているようにも思えて一瞬引いたが、森山の天真爛漫な表情に逆に心を許した。
「森山さんって、おもしろい」
「そうですか」
そう言って、流れるような優美な動作でコーヒーカップに口をつけながら渚を見つめる森山。
この人には相手の心を飴のように溶かす力がある。
「でも、この『履歴書』方式、案外いいかも」
渚は森山の視線を切って、現実的な対応をした。
「そうでしょう。次のデートの時は松宮さんのをお願いします」
「嫌です」
森山の思いを断ち切るように、はっきりと言うと、森山は明らかに困惑していた。
渚は自分にこんなSっ気があるとは思わなかったが、なぜか森山が相手だと自然にそうなった。
「何でですか。僕に知られたくないことでもあるんですか」
「もちろん、いっぱいあります」
途方に暮れたとでも言うように、森山は両手を挙げた。
「ええー」
「冗談ですよ。でも、あんまり書きたくないわ」
「書きたくないことは書かなくていいです。というか、自分が書いてもいいと思うことだけを書いてくれればいいです」
履歴書方式がいいと言ってしまったのだからしょうがない。
「わかりました。書いてお持ちします」
「楽しみです」
2-4
翌週のデートの時、渚は自分の過去の恋愛遍歴だけを書いた『履歴書』を持って行った。小学校時代の初恋から始まって去年末に別れた男まで、全部で7人との恋の履歴書。
「これどうぞ」
「えっ、これって…」
そう言った後、絶句した森山。
もちろん、それが何を意味するかはすぐにわかったはずだ。
そんな唖然とする森山の姿を見るのが渚は好きだった。
「私の恋の履歴書です」
「そのようですね」
衝撃が強かったのか。表情が固まっていて感情が読み取れない。
「きっと森山さんが一番知りたい私の履歴はこれだと思って」
「そ、それは…」
「さあ、何でも質問していいですよ」
自分ができる最大限の妖艶な笑みを作って言って見る。だが、肝心の森山は履歴書を見つめたままだ。ちょっと刺激が強すぎたか。
「いやあ、何というか。松宮さんって、すごいですね」
予想通りの反応に、渚は勝利の感覚を味わっていた。
「何が?」
予め綿密に計算されたあざとさを演じて見る。
「だって…」
戸惑って何を言ったらいいかわからなくなっているようだ。
「だってじゃなくて、質問は?」
「おいおいさせていただきます」
「わかりました」
二人の付き合いは、こうしてちょっと変わった形でスタートしたが、そのせいか、距離の縮まるのは案外早かった。
デートはドライブが多かった。森山は元々車の運転が好きで、その延長でレースをするまでになっていた。
「和也、今日はどこに連れて行ってくれるの?」
すでにお互い名前で呼び合うまでの関係になっていた。
いつものように森山が渚の住むマンションまで愛車のレクサスのセダンで迎えに来て発車したばかりのところだった。
「今日は渚が前から行きたいと言っていたレース場に行こうと思って」
「ほんと? 嬉しい」
森山がレースをしていると知ってから、そのレース場を見て見たいとずっと言っていた。
「ようやく先方の許可がおりたんだよ」
「許可?」
「渚を横に乗せてレース場を走らせてもらう許可」
「ええー、そんなことできるんだ」
「だから、特別に頼んだ」
「和也、ありがとう」
運転している和也の頬にキスをしようとする。
「ダメだよ渚。危ないから」
公道を自分の車で走る和也は、模範的過ぎるくらいの安全運転だった。聞くところによれば、レースをする人間はみんなそうだと言う。車に乗る楽しさと同時に怖さも知っているからだろう。あおり運転をする運転手が許せないと力説していたこともあった。
途中鎌倉に寄り、海岸沿いの、眺望のいいことで知られる喫茶店ホアカフェに入り、窓際の席に座る。和也はコーヒーを注文し、渚はアサイーのスムージーを注文した。窓から見える今日の海は静かで美しかった。
「渚、あの履歴書の4番目の男性とはどうして別れたの?」
二回目のデートの時に自分が和也に渡したのが、恋の遍歴を書いたものだった。おもしろ半分で渡したものだけど、もうすっかり忘れていた。
「何で今?」
「渚の横顔を見ていたら、すごく綺麗だなと思って。でもそう思ったら、あの男性に嫉妬しちゃって。だから…」
どうやら渚が和也にかけた恋の魔法は成功したようだ。
「そういうことね」
渚が過去付き合ってきた男性の中で一番長かったのが、その男性だった。およそ3年半付き合って、結婚を考えた時期もあった。
「教えてくれる?」
「聞きたい?」
「うん」
「どうしようかな」
「あの時、何でも質問してもいいって言ってたじゃないか」
「そうよね」
そこで間を空けた。別に深い意味があったわけじゃないけれど、和也の気持ちをじらしたかったのと、自分の中で話すことに少し戸惑いがあったからでもあった。
「彼に合わせようとばかりしていて、素の自分でいられなくなっちゃって疲れちゃったの」
彼のことは本当に好きだった。だから、嫌われたくない一心で、彼に合わせることだけを考えていた。まだ恋に純真な時だった。
「そう。でも、そこまで渚に愛されたその男が羨ましいよ。本当に好きだったんだね」
「その時はそう思ってた。でも、今は違うような気がしている。本当に好きだったら、素の自分を見てもらいたいって思うんじゃないかなあ」
「なるほど。そうかも。僕には素を見せてるかな」
「見せてるでしょう」
「そうだね。この間なんて僕の前でオナラしたもんね」
「やめてよね。和也が私の前でオナラしたんじゃない。でも、すっぴんは見せてるよね」
「そうだね。すごく可愛い」
コーヒーを飲みながら海を眺める。こうして和也とデートを重ねていく中で、渚は二人の関係が一つの恋で終わるのではなく、ともに築く未来を夢見るようになっていた。だが、ことはすんなりとはいかなかった。
ある土曜日の出来事。
取引先とのトラブルが起き、担当者である渚は土曜日にも関わらず出社した。先方の怒りようから説得には1日かかると思われたが、誠心誠意対応した結果、幸いにも先方から納得した旨の連絡をもらい、午前中には会社を後にすることができた。思わぬ出社だったため、和也とのデートは中止していたので、久しぶりに一人でショッピングをして帰ることにした。
電車を乗り継ぎ銀座に着く。散歩を兼ねたウインドウショッピングを楽しんだ後、デパートに入り、前から欲しかった化粧品を買う。それだけで気分は高まっていたけれど、せっかく銀座まで来たのでメトアカフェアンドキッチンに寄りケーキを食べた。ここのところ、休日はほぼ和也と一緒に過ごしていたので、たまにこうして一人の時間を作るのも悪くないと思う。
時計を見ると、いつの間にか午後4時を過ぎていた。店を出て地下鉄の銀座駅に向かって歩きながら、渚はなんとはなしに反対側の歩道に目を向けた。すると、多くの人の流れの中に見慣れた男女がいるのを発見してしまった。
そこには、渚を無条件に切なくさせる風景が広がっていた。
内臓が空っぽになっていく。
神様の悪意が空から降ってきて、渚を暗い渦の中に巻き込もうとしているようだ。
指先がひんやりとして、心はとめどなく萎えていく。
にやけた顔の和也。その隣で和也に寄り添うようにしながら話しかけている那奈。よく見ると、那奈の腕が和也の腕に巻きついている。
凍りついた渚は一瞬立ち止まったが、次には二人に見つからぬよう人混みの中に身を隠した。
ー何で私がこんなことをしなっくちゃならないのー
とっさにとった自分の行動に嫌気がさす。
二人の様子はただならぬ関係を思わせた。
ー何で?ー
那奈が最近彼氏と別れたことは知っている。だから、余計リアルなのだ。那奈ならやりかねない。後をつけて証拠を掴まなくてはと思うが、事実を知ることの怖さが渚を動けなくしていた。身体中の体液が波打っているような気持ち悪さに襲われる。
「大丈夫ですか? 顔色が悪いですよ」
見知らぬ女性に声をかけられた。
「大丈夫です」
のろのろと歩き出した渚はもう二人の姿を追ってはいなかった。
果てしなく深い孤独の沼に怯え、流したくない涙が零れ落ちそうになるのを必死で堪える。
何とか家にたどり着くと買い物袋をダイニングテーブルに投げ出し、寝室のベッドに倒れ込み、枕に顔を埋める。やっぱり涙が出そうになる。
何も考えたくなかったのに、頭の中には銀座で見た二人の映像が消しても消しても現れてくる。なんとか着替えを済ませ、ベッドにもぐりこみ、そのまま朝を迎えた。一睡もできなかったようで、実は夢を見ていた。夢の中では、和也と付き合っていたのは自分ではなくて那奈だった。目が覚めた瞬間は、何が事実だかわからなくなっていた。でも、そのへんな夢のおかげで渚はだいぶ冷静になっていた。食欲はなかったけれど、何か胃に入れなくてはと、スムージーを作り飲むとさらに気分は落ち着いた。
幸いその日は日曜日だったので、ダイニングテーブルの椅子に座りながらこれから自分はどうすべきかを考えた。
まずは和也に電話してみる。
「おはよう」
和也の声はいつもと変わらなかった。
胸が怒りで張り裂けそうになるのを何とか鎮める。
「おはよう」
「早いね」
傍に那奈がいるのではないかという疑ってしまう。
「ごめんなさい。でも、昨日会えなかったから声が聞きたくて」
懸命に可愛らしさをまとった声を作り言ったが、はらわたは煮えくり返っていた。
「嬉しいね、ありがとう」
言葉とは裏腹に、なんとなくそっけなく聞こえてしまうのは渚の先入観のせいか。
「昨日、私、仕事案外早く終わったんだ」
「そうだったんだ。それなら連絡くれればよかったのに」
何も知らないと思っているであろう和也がのんきに答えた。
「疲れたから、そのまま帰っちゃったんだけど、和也は何してた?」
「僕は1日家にいたよ」
しらっとウソをついた。澱のように沈んでいた和也に対する憎しみ、憤りが噴水の水のように吹きあがるのを感じた。
「そうなの? だったら電話して会えば良かった」
どこまでも可愛い恋人を演じる。離しながら渚は自分の中にこうした能力があることに驚く。
「そうだよ」
「今は? 今はどこにいるの?」
電話の向こうの和也の心の中を覗き込むように言った。
「へんなことを訊くね。うちに決まっているじゃないか」
言葉遣いは平素と変わらなかったが、明らかに苛だっているのがわかった。
それはつまり、側に那奈がいるということか?
「じゃあ、今日会える?」
核心を突くことにした。
「あっ、ごめん。言ってなかったかなあ。今日母親が来るんだ」
慌てて言った和也の言葉は浮足立っていた。
怒りと憎しみと悲しみがいっしょくたになって心が壊れそうだ。
「聞いてないよ、そんなこと」
絶望を言葉に込めて吐き出す。
「そうだったかなあ。でも、そういうことだから。今度の休みに会おう」
「わかった」
そもそも和也は自宅にいる体で話していたけれど、それも本当かわからない。一方で実際に傍に那奈がいたのかどうかもわからない。
だが、事実として自分を裏切った和也も、自分の心を踏みにじった那奈も許せない。
自分の手からするりと恋が逃げていくようだ。
怒りが残ったまま、今度は那奈に電話する。だが、留守電状態になっている。その後何度も電話してみたが出なかった。
ー気がついたら電話してー
メールとラインで連絡しておく。
結局、那奈から電話が入ったのは午後3時過ぎだった。その間、渚はずっと苛立ったまま感情のやり場をなくしていた。
「あのさあ、休日の朝っぱらから何度も何度も電話入れるのやめてくれない」
いきなり怒りマックスの声でまくしたてられた。怒鳴りたいのはこっちのほうだと思いながら、渚は冷たく言い放った。
「それはすみませんねえ」
「何逆ギレしてるわけ」
人間はどこまで卑怯になれるのだろうと悲しくなる。
「そういうことじゃないよ」
「じゃあ、何なのよ?」
「どうしても那奈に訊きたいことがあって」
「私に訊きたいこと?」
「そう」
「ふ~ん。で、何?」
思い当たる節があるのだろう。急に不安げな声になった。
「昨日の午後3時頃、どこで何をしていたのか教えて」
電話の向こうで那奈が一瞬息をのむのがわかった。だが、すぐに平静さを取り戻していた。いや、そう装った。
「何よ、その刑事の取り調べみたいの。うちにいたわよ、ずっと」
予想通りの答えではあった。
「へえー、そう。私、その時間に銀座で那奈を見たんだけど」
「それ、人違いだよ」
「私が那奈を見間違うと思う?」
「誰だってそういうことあるよ。へんな言いがかりはやめてよね」
和也も那奈も、どこまでも白を切るつもりらしい。でも、あの時渚はパニックにはなったが、ちゃんと携帯で写真を数枚撮っていた。距離はあったが、その二人が和也と那奈であることは、着ていた洋服その他から断言できるものだった。
「言いがかりねえ。あのさあ、明日の昼休みに時間空けといて」
「何よ」
「何よじゃなくて。会ってお話したいことがありますので」
渚の乾いた言葉が那奈の胸に刺さったようだ。
「わかったから」
もっとじわじわ責めるということも考えたが、早く決着をつけたかったのだ。
2-5
翌日の昼休み、食事を終えた渚は那奈に屋上で待ってるからとだけ伝え、一人先に屋上に上がった。渚と那奈は二人だけの話をする時、この屋上をよく使う。眩しいほどの強い陽射しに一瞬くらっとする。昨夜ほとんど眠れなかったせいだろう。
日陰に置かれているベンチで待つ。那奈は約束の時間より10ほど遅れて現れ、渚の横に座った。暑さのためもあるけど、隣に座った那奈に対する不快感が湧き出し、渚の額からはじわじわと汗が出てくる。ハンカチを取り出そうとした渚に、那奈が手に持っていた自分のハンカチを渡しながら言った。
「渚、ごめん」
『ごめん』と言えば許してもらえると思い込んでいるかのような言い方が渚の心をよりかたくなにする。
「何が? ごめんだけじゃわからない」
本人の口からはっきり言わせたかった。
「私、森山さんと関係を結んじゃった」
不穏な感覚で心が寒くなる。はっきり言ってほしかったけれど、こんなにはっきり言われると、それはそれで怒りの波に襲われる。自分の中で何かが縮んでいくような気がする。
「何で、何でそんなことしたのよ」
悲しみの渦の中で渚は叫んでいた。
「すべて私が悪いの」
後ろめたさをごまかすようなことはなく、どす黒い感情をすべて吐き出すように言った。そうすることで自分が傷つくことから逃げているようにも思えるが、那奈という女が根本的に持つている無常観のようなものが起こしてしまった行動だと、渚はどこかでわかっていた。しかし、それをここで認めるわけにはいかなかった。だからこそ、ここはもう一度突き放す。
「そんなこと訊いてない」
「だけど、聞いて、お願い」
渚の心の一番柔らかいところに触れてくる。
「……」
「私、村上と別れて寂しかったの。それに、やっぱり森山さんのこと好きだった。渚に譲ったけど、忘れられなかった」
那奈は経営企画室の村上というエリートと別れた。の別れた彼氏だ。だからって…。
「そんな身勝手な言い訳通用すると思う?」
「わかってる。でも、お願い、聞いて」
那奈はもう一度同じ言葉を繰り返した。
「どうぞ」
那奈に負けて渚はそう言ってしまった。
「土曜日、渚に急に仕事が入ったことは知っていたからチャンスだと思った。森山さんに電話して渚のことで話があると言って呼び出したら会ってくれたわ。銀座で会って、その後六本木にあるスペインバルの店に行った」
「ふ~ん。それで私の何を話したの?」
「別にどうってことない話しかしてないよ。会社での渚の様子とかだから。森山さんも、そんなことかっていう顔してたもの。でもお酒の量が増えるにつれて盛り上がっちゃって」
「というか、那奈が盛り上げちゃったんでしょう」
「まあね。その勢いを借りて森山さんを誘惑しちゃった」
「ひどいよね」
もはや怒りを通り越した、やりきれない哀しさに襲われる。
「私は村上と別れて辛い思いをしているのに、いつも幸せそうにしている渚が嫌だった」
「那奈、そんなのおかしいって」
那奈がそういう女だということは、前から十分過ぎるほどわかっていた。それを今回も改めて思い知ったに過ぎない。でも、それも含めて渚は那奈が好きだったと思い出した。
「そうよね。だからすべて私が悪いの。渚の気のすむようにして」
「そんなこと言われても」
いつの間にか心が鎮まり始めていた。
本当は那奈の頬を思い切り叩きたいという思いもあったけれど、そんなことしても気が晴れるとは思えなかった。
「いいのよ。殴るなり蹴るなりしてくれても」
「そんなことより、もう二度と同じことは起こさないって断言できる?」
そう言って、その日初めて真正面から那奈の顔を見た。本当は強い女なのに、一生懸命弱い女を演じているように見える那奈。
騙されてはいけないと思うけど…。
「約束するよ。本当にごめんなさい」
渚に向かって深々と頭を下げた。きっと、那奈自身、自分のことがわかっていない。渚が自分のことがわかっていないように。みんな、じぶんだけの闇を抱えている。
「もういいよ」
自分が言いたいこととは別のことを言っていた。
心をどこかへ放り出した時点で、すでにどうでもよくなっていた。
もちろん、そう簡単に割り切ることはできないけれど、とりあえず那奈を許すことにした。後は和也だった。
翌週の土曜日、渚の部屋にやってきた和也はごきげんだった。
「1週間会わなかっただけだけど、渚の顔を見られてすごく嬉しい」
「そうですか。それはありがとうございます」
「あれ? 何? その言葉遣い。機嫌悪い?」
「どうでしょう。でも今日は和也さんにお話があります」
「えっ。何か怖いなあ」
あの時、銀座で見られていたとはつゆにも思っていないのだろう。
「まっ、とにかく座って。今コーヒー淹れてくるから」
まだ立ったまま、急に不安げな顔をしている和也を残してキッチンに向かいコーヒーを淹れる。
「お待たせ」
和也の顔がよく見られるように正面に座る。
「那奈から全部聞いたから。白状したわよ、あの子」
「……」
「それに、これ」
携帯で撮った写真を見せる。びっくりしていたが、同時に観念したように見えた。
「すまない」
さきほどまでの態度を一変させ、深々と頭を下げた。
少し前まで感じていた『幸せ』が、どんどん手応えのないものになっていく。
「何で嘘をついたの? 私は浮気されたことももちろん嫌だったけど、それ以上に嫌だったのは嘘をつかれたこと」
「でも、言えないよ」
「言えないじゃなくて、私に見られたとは思わなかったから言わないまま済まそうと思ってたんじゃないの?」
自分の冷静さにたじろぐ。
考えて見れば、自分には昔からすべてのことに対して静かで頑固な諦めのようなものがあった。
「……」
「そもそも、何であんなことになったわけ?」
「仙道さんから電話があったんだ。渚とのデートがなくなって家にいたら電話があって、渚のことで話したいことがあるから会わないかって言われた。何か問題がありそうな雰囲気だったから会わなければと思ったんだ」
「まんまと那奈の罠に嵌っちゃったわけだ」
「そうだったのかもしれない」
「それで銀座で会って、その後どこに行ったの?」
「もう許してよ。仙道さんからすべて聞いているんだよね。彼女の言いったことがすべてだよ。でも、酔っていたとはいえ、一線を越えてしまったのは僕の責任だ。渚を深く傷つけてしまって本当に申し訳ないと思っている。ごめん。でも、心を入れ替えるから、もう一度やり直しのチャンスをくれないか」
謝る和也を見ていて、自分はどうしたいのだろうかと考えた。和也には思い切り裏切られ、激しいショックを受けた。いや、泣き叫んだ。でも、嫌いにはなれなかった。いや、今でも好きだ。
「わかった。でも、その分、前より愛してくれる?」
本当にそう願って言ったはずなのに、声がぽっかりと宙に浮いた。
結局許してしまう自分は甘いのだろうか。それとも、那奈や和也のほうが上手ということなのだろうか。
自分は見えないものまで見ようとしているのかもしれない。
「もちろん」
2-6
いろいろあったせいで渚は、ちょっとしたことで負の感情に支配されてしまうことがあった。自分たちが向かっているのが出口なのか入り口なのかさえわからなくもなった。それでも、時間ははらりはらりと過去へと落ちて行き、悲しみの通り道を開けた。気がつくと、いつの間にか和也との付き合いが渚の恋愛史上1番の長さになっていた。そして、渚の和也に対する思いが、グラデーションのように次第に濃くなった時、ついに待ち望んでいたプロポーズを和也から受けた。
その日に限って、和也はデートに車を使わなかった。渚のマンションまで迎えに来た和也がいつもより笑顔が少なかったのは緊張のせいだったと後で知った。映画を見た後、レストランで食事をしている時も会話が少なかったので、渚の胸の中では一瞬暗く痛い記憶が蘇った。だが、和也の瞳の底に水のような透明な炎が揺らぎたったのを見て、渚は今まったくの勘違いをしていることに気づいた。
渚のマンションに一番近いバス停で降り歩き始めると公園が見えた。
辺りには静寂が空気のように満ちている。
夕日の落ちる音が聞こえる。
木立のおかげで風がいくらか和らいだ。
黒い小さな鳥が飛び去った。
公演は夜の底に沈む準備を始めていた。
「公園に入ろうか」
和也の声は若干軋んでいた。
「うん。いいよ」
奇妙な息苦しさを感じながらも渚は努めて明るく答える。
砂場の前の古びたベンチに並んで座る。
和也の緊張がさざ波のように渚に伝わってくる。
「渚」
柔らかいけれど、長い旅に決着を着けるかのような力を込めた声だった。
「ん? 何?」
渚を見つめる和也のけなげな視線に出会う。
「僕と結婚してくれないか」
たくさんの無駄な言葉を省いた、でも、あまりにドストレートな言葉だった。心の中には温かいものが流れ、鼻の奥が熱くなった。少し前からそういう雰囲気は感じていたけれど、実際に告白されるとやはり嬉しかった。
「はい」
「OKなんだね」
「うん」
「嬉しい」
和也の声が丸みを帯びている。
心底ほっとしたような和也の胸に顔を埋める。
「幸せになろうね」
幸せにするではなくて、幸せになろうと言うところが和也らしくて良かった。
ただ、渚には一つだけ不安があった。和也は有名な飲食チェーン店の社長の家で生まれている。なので、森山家の人たちが自分のことを受け入れてくれるのかがわからなかった。そのことを和也に伝えると、和也は笑って答えた。
「心配しないで。渚は森山家と結婚するわけじゃなくて、僕と結婚するんだから」
「それはわかってる。でも…」
「それに、会社のほうは兄が継いでいて、僕は自分の選んだ研究の仕事をすることを家族も認めてくれている」
和也の答えは自分の不安と少しズレている。
「それは和也と森山家の関係よね。私が不安に思っているのは、私が和也の相手としてふさわしいと森山家の人たちに認めてもらえるかということ」
万が一にも自分のことが原因で、和也が森山家の家族から浮いた存在になってほしくなかった。
「ああ、大丈夫だよ。すでに両親にはだいたいの話はしているし。でも、僕が渚のご両親とお会いしてお許しをもらうのが先じゃない」
「うち?」
渚の両親が文句をつけるはずもなかった。和也の経歴、職業、両親の家系、それに和也の容姿、どれ一つとってもケチのつけようがなかったから。
「うん」
「うちのほうはまったく問題ないわ。いつでもOKよ」
「そう。じゃあ、日程決めて」
もちろん、渚の家では和也を大歓迎した。和也が両親に結婚の意思を伝える前に、父親のほうから娘をよろしくお願いしますと言っていた。予想通り何の問題もなく終わった。
やはり気になるのは森山家の人たち。和也はああは言っていたけれど、渚にとって森山家のハードルは高いように思えた。和也に連れられてお屋敷のような森山家の門をくぐった段階で、渚は胸が苦しくなった。
「どうしたの、渚?」
「緊張してきた」
「大丈夫だから、渚」
そう言って和也が渚の肩を抱いた。
「うん」
お手伝いさんの後について両親の待つリビングへ入る。
「よくいらっしゃいました」
父親がにこやかな顔で迎えてくれた。さすが客商売の事業の社長だ。心の中はどうかわからないが、接待に卒がない。同じく笑顔の母親は美人な上に品があったが、もろく危うげで人形のような不可思議さがあった。和也は母親似なのだろうと勝手に思い込んでいた渚だったが、どうやら和也は父親似のようだ。その真の理由は後に知ることとなる。
すでに和也から話が伝わっていたようで、渚の心配は杞憂に終わった。和やかな雰囲気の中で、和也が渚のことをエピソードを交えて紹介してくれた。
「今日は和也さんの妹さんはいらっしゃらないのですか?」
すっかりリラックスした渚がそう訊いた時だけ、あれほど自信満々だった父親の瞳の中が頼りなげに揺れているのがわかった。訊いてはいけないことを訊いてしまったのだろうか。そう思ったが、後の祭りだった。
「娘は今日どうしても外せない仕事で来られなかったんですのよ」
母親のほうがとりなすように言ったが、この言葉は渚の感覚をぴんと弾いた。
「そうでしたか」
「しかし、最近ママ、ゴルフ行けてないんだって」
和也が場の空気を読んで話題を変えてくれた。こういうところも和也のいいところだ。最後は父親の息子をよろしくという言葉で終わった。
「和也、ごめんね」
「ん?」
「妹さんのこと訊いちゃって」
「いや、問題ないよ。父親と妹は昔から合わないんだよ。というか、妹のほうが一方的に嫌ってるだけなんだけどね。でも、お互い認めるところは認め合っているから問題ないさ」
「そうなんだ」
「親子って、いろんな関係があるじゃない。僕はそれぞれでいいと思ってるんだ」
「そう言われればそうね」
「それより、両親ともすっかり渚のこと気に入ってたね。特に父親のあんな嬉しそうな顔を久しぶりに見たよ。むしろ、渚に感謝だよ」
「そう。それならいいけど…」
やはり渚は妹のことがひっかかっていた。和也の説明を聞くことで、いったん渚の心の中に生じたさわめきは消えるどころか、むしろ大きくなっていた。
「どうしたの? 浮かない顔しちゃって」
「ううん。何でもない」
2-7
渚が森山家を訪れた1週間後、和也から妹に会ってほしいと言われた。
「妹への連絡が一番遅くなってしまったんだけど、そうしたら怒られちゃってさあ」
「何で妹さんが最後になったの?」
「それはたまたまだよ」
本当にそうだろうか?
一番話しにくかったためそうなったのではないか。
「そうなの」
「だけど、妹が怒ってるのは順番じゃないんだ」
「じゃあ、何に怒ってるの?」
「結婚を決める前に渚に会わせなかったことを怒ってるんだ」
形にならない何かが渚の脳裏をかすめる。
「なんか怖い」
思わず出てしまった。本来なら『怖い』は当たらないところなのだけど、感覚的にそう感じてしまったのだ。
「怖い?」
妹を否定されたと感じたのか、和也は心外という顔をした。
「だって、妹さんのお眼鏡にかなわないと結婚を許されないみたいで…」
喉の内側が腫れあがっているかのように息苦しい。
「そういうことじゃなくて、単純に事前に紹介してほしかっただけだと思うよ」
「そう…」
まだ妹には会ったこともないけど、違う気がした。
「会ってくれるよね」
和也が有無を言わせない口調で言った。攻撃的にさえ感じる言い方に、渚は違和感を感じた。だが、もちろん、断るわけにはいかない。それに、どちらにしても会わなければならない人なのだ。
「ええ。もちろん、お会いしたいと思うけど」
「じゃあ、今度の日曜日にしよう。その日なら妹の予定がとれるらしいから」
渚の予定を訊くこともなく、妹の予定に合わせようとしている。身体の表面の感覚が鈍って軽く浮き上がるように感じた。自分がこれまで信じていたはずの和也の自分に対する愛情に警鐘が鳴らされている、のではないか。
「わかったわ」
渚は自分の感情を悟られぬよう、いつもと変わらぬ声で答えた。
当日、和也に連れて行かれたのは、青山にある妹の事務所だった。100坪以上あろうかと思われるその事務所には、10人程度の人が働いていた。25歳という若さで、こんな大きな事務所を持てていることに驚く。恐らく父親の力も利用しているのだろう。一番奥にある個室のドアを和也がノックすると、中から聞いていた年齢からは想像できないほど落ち着いた声がした。
「どうぞ」
「入るよ」
和也について部屋に入る。こちらに向かって立っている女性の姿が目に入った。彼女は一瞬で渚の全身を舐めるように見た。目が大きく、目元もきりっとしていて、鼻も高い典型的な美人だったが、にこりともしていない。冷ややかで硬質な、研ぎ澄まされたようなその美しさは、渚の感覚のすべてが吸いあげられてしまうような恐ろしさを感じた。ただ、その美貌は先日会った和也の母親によく似ていた。
「初めまして、私、松宮渚と言います」
妹は何も言いそうになかったので、自分から先に挨拶した。
「妹の絵梨香です」
なぜか和也が答えた。しかし、その妹は謎めいた表情でずっと渚のことを見つめたままだ。その圧倒的な美しさに気圧されることのないよう、渚も絵梨香を見つめ返す。
「絵梨香」
なおも黙っている妹に和也が注意する。
「ん? 何?」
「彼女を紹介しろというから連れてきたんだから、ちゃんと対応してくれよ」
「そうよね。どうぞお座りください」
他人事のように冷めた声で応接セットを指さした。渚と和也が並んでソファーに座る。絵梨香は机の上の受話器を取り、内線でコーヒーを持参するように指示した後、ゆっくりとこちらに向かって歩いてきた。この時、渚は絵梨香が左足をわずかに引きずっているのを見逃さなかった。
「お綺麗な方ですね」
渚に向かって言っているのだが、何の感情込められていない言葉は無意味な音でしかない。いや、むしろ酷薄さすら感じられる。
「いえ、そんなことないです」
渚は絵梨香ではなく、その後ろの絵梨香の机の上を見ながら答える。そこには、渚と和也が並んで映った写真が1枚置かれていた。
「あなたでしたか、兄と結婚したいという方は」
胸の扉を無遠慮にノックするような言い方だった。
『結婚したいという方?』
いったい和也は自分とのことを妹にどう話しているのか?
結婚することはすでに決まっていると知らないのか?
しかも、和也はなぜこの絵梨香の発言を否定しないのか?
疑問符だらけになっている渚の横で、和也はまるで言葉を奪われたように固まったまま何も言わない。渚をカバーしようという気配も見せない。
マックスに達した鈍重な苛立ちを抑えて答える。
「結婚したいということではなくて、結婚することは決まっているんですけど…」
すると、妹の絵梨香はちらっと和也を見た。それは渚の言ったことは本当かと、和也に目で確認しているようにも見えた。
「そうだよ…」
悪だくみを見つかった子供のような不機嫌さを露わにして和也が答える。
自分の愛した男の、あまりに軽い言葉に、嵐の空みたいに心の中が真っ黒になる。
「あら、そう。まあ、いいわ。確か渚さんでしたよね?」
今頃になって当然事前に知っていたであろう名前をわざとらしく言う。
「ええ、そうです」
「渚さんは、私と兄の関係をご存知なのかしら?」
艶めかしさすら感じられるように言い放った。
「お二人の関係って?」
この人は何を言い出すのだろうか。胸の中がざわつき、訊くのも空恐ろしい気がしたが、ここまでくれば訊くしかない。渚も開き直っていた。
「私と兄は血が繋がっていないということ」
まったくの予想外だった。だが、この言葉を聞いてすべたが繋がったような気もした。
これまで和也は絵梨香のことをほとんど渚に話してこなかった。敢えて避けていたようにも思える。そのことを恵梨香もわかっていて、自分が異母兄弟であることを渚に伝えるために今日ここにを呼んだ。そんな気がしてきた。
「知りませんでした」
「やっぱりね」
絵梨香は再びちらっと和也を見て続けた。
「つまり、私と兄は恋愛関係にあってもおかしくないっていうこと」
「やめろ」
和也が絵梨香に向かって低い声で唸るように言った。しかし、それは絵梨香の話を遮るものであって、話を否定するものではなかった。
「どういうこと?」
絵梨香に確認しても埒が明かないと思い、和也に向かって訊く。
「確かに、絵梨香とは血が繋がってはいないけど、何もないから」
和也は否定したけど、この二人の間には何があってもおかしくないような空気があった。
「あら、それはどうかしらね」
和也がムキになって否定したのを、絵梨香がまた曖昧な状態に戻した。
「絵梨香、いい加減にしろ」
和也の強い口調に恵梨香は急に怯えた表情を作り和也を見ている。
「ごめんなさい。嘘をついちゃった。お兄ちゃんがこれまで連れてきた人の中で渚さんが一番綺麗だったから嫉妬しちゃったの」
そう言われて和也の顔が少し緩んで無防備になった。
そのことが渚には許せなかった。
絵梨香は謝ってはいるけれど、それは和也に対してであり渚に対してではない。しかも、それは、和也に甘えている素振りをわざと渚に見せつけているようにさえ見えた。渚は血の繋がっていない兄と妹の間で交わされた生々しく怪しい感情のやりとりに嫉妬していた。
二人の関係が実際のところどうかはわからないけれど、一つだけはっきりしたのは、妹の絵梨香は異常に和也のことが好きであるということだ。
「絵梨香、わかったから、もうそのへんにしてくれないか」
『わかったから』と言った和也が信じられなかった。わかるはずもないことであったから。
「うん」
絵梨香の返事の後、和也はようやく私のほうを見て、私が呆れ果てた顔をしていることに気づいた。
「渚、ごめん。もう帰ろう」
和也に手を取られ部屋を出る。怒りと、あまりに多くの疑念と、果てしない失望が入り混じり、渚は森の奥に取り残された沼のように茫然自失状態になっていた。幸せと不幸せはいつも隣り合わせと言われるけれど、心はとめどなく萎えていく。
絵梨香の事務所が入るビルから外に出た瞬間、渚の目から涙が零れ落ちた。絵梨香の事務所にいる時に案外冷静でいられたのは、あの女(絵梨香)に負けまいと踏ん張っていたからに過ぎなかった。ただただ訳もなく悔しい。和也にも、自分にも。
すでに和也のことは眼中になかったが、そんな渚に和也が話しかけてくる。
「渚、すまない。あんなことを言い出すとは思わなかったんだよ」
「悪いけど、今日は一人にして」
自分一人になって考えるべきことがいっぱいあった。まだ追いかけてこようとする和也を置き去りにして渚は駅までの道を走った。
絵梨香の出現で、和也に対する信頼は地に堕ちた。このままではとてもではないけど、結婚などできない。
感情のバランスを崩した渚は、心の底に降り積もった得体の知れない思いを抱えながら空虚な時間をやり過ごしていた。日々の時間に病巣が深く根をはってしまっている。
和也は毎日何度も何度も電話を寄越し、メールやラインも山ほど送られてきたが一切無視した。長い長いトンネルの中で、次第に冷静になった渚が見つけたものは、やっぱり和也のあの爽やかな笑顔だった。どうしようもない弱さを持った和也を支えられるのは自分だけだと思いたい。1週間考えた後、渚は和也と会って話し合うことにした。結論は、その時の感情で決めることにした。
「この間はごめん。でも、何で僕からの連絡を無視したの。ちゃんと説明したかったのに」
まっすぐな目をした和也に言われ、渚の心の中に溜め込んだものが腐り出した。和也も弱い男だけど、自分も弱い女だと実感する。
「あんなことがあって、私が普通でいられると思う? 正直、あなたの顔を見るのも、声を聞くのも嫌だった」
「そうか…。そうだよね」
「そもそも、妹さんのことを事前にちゃんと私に話してくれれば良かったのよ。何で話してくれなかったの?」
「その点については渚の言う通りだね。僕が悪かった。本当にごめん。ただ、僕としては、妹と血が繋がっていないことを言ったら誤解されるんじゃないかと思って言い出せなかったんだ。何せ、ああいう妹だから」
「でも、そんなこといずれわかっちゃうことでしょう」
「そうなんだけどさあ…」
ひょっとして和也はでき得るならずっと隠しておくつもりだったのか?
ただ、実際に絵梨香という女性に会ってみて、和也の言うこともわからないではなかった。絵梨香には人を暗い沼へと引き込む墜落感のような不吉な空気を纏いつけていた。
「確かに、妹さん変わっているわよね。きっと、和也のことが本当に好きなんだと思う。だから、和也をとられたくないのよ」
「う~ん」
「そこは和也も気づいていたんでしょう」
「まあね。ただ、絵梨香はもともと変わったところがあって、突拍子もないこと言い出したり、わけのわからない行動をとったりして家族を困らせていたんだよ。だから、絵梨香の本心がどこにあるか正直わからないところがあるんだ」
「そう…」
「それと、渚も気づいたと思うんだけど、左足のこと」
あの日、渚が絵梨香の左足の動きを見ていたのを和也は気づいていた。
「あっ、うん」
「あれは、絵梨香が母親と一緒にわが家にやってきて間もなく起きてしまった不幸な事故のせいなんだけど。それ以来、絵梨香の精神が不安定になってしまったんだ」
「そう。事故って?」
「それはおいおい話すよ」
「わかった」
本当はこの場で訊きたかったが、話すのが辛そうだったので引き下がった。
「だから、絵梨香を許してほしい」
今日和也に会う前までは結婚の解消も考えていたが、どうやら自分の思い過ごしもあるようだったので思いとどまることにした。
「うん」
「それに、この間のことは、絵梨香もすごく反省していて、渚にちゃんと謝りたいって言ってる。それと、二人をちゃんと祝福したいって。僕たち結婚すれば、今後とも絵梨香とそれなりに付き合っていかなくちゃならないんだし。渚はあまり気乗りしないかもしれないけど、もう一度絵梨香に会ってほしい」
「う~ん、わかったわ」
2-8
淡い暗がりの中で渚は目を覚ました
部屋全体が熱の幕にすっぽり包まれていた
夜中に冷房を切ってしまったせいだ
身体中に汗をかいていた
でもそれは寝苦しかったからだけではない
嫌な夢を見た感覚が残っていたからだ
さっきからその内容を思い出そうと思っているのだが、思い出せない
なぜだろう。
いつもなら思い出せるはずなのに…
今日は再び絵梨香と会う日だったことを思い出す
その日和也はいつものようにレクサスで迎えに来た。
「妹と会った後、銀座へ行くよ」
運転席に座った和也が渚を見て言った。
「銀座って? もしかして?」
この間今している指輪のサイズを訊かれたのだ。
「そう。婚約指輪を一緒に取りに行こう」
「和也、ありがとう」
絵梨香とは今回は自宅で会うというので、再び和也と森山家の門をくぐった。ただ、今回和也に案内されたのは、先日のお屋敷ではなく、裏に立つちょっと奇抜な2階建ての建物だった。画家とか建築家が住むような外観に圧倒される。
「ここ?」
「そう。住んでいるところも変わってるんだ」
「ほんとね」
思わず本音が出た。1階の何だかよくわからないオブジェなどがある、だだっ広い空間を抜けて奥に行くと、応接室のようなものがあり、そこに通された。
「待ってて。今連れてくるから」
そう言って和也が部屋を出て行く。5分ほどすると、和也が絵梨香と母親と共に現れた。母親と一緒というのは予想外だった。
謝りたいという割には、絵梨香は渚の正面には座らず和也の前に座った。しかも、和也の顔を見て、一瞬だが笑顔さえ見せた。結果、渚の正面に座ったのは母親だった。先日初めて絵梨香に会った時にも思ったが、こうして並んでみると、絵梨香と母親は瓜二つと言えるほどよく似ていた。
「渚さん、この子が失礼なことを言ってしまったみたいでごめんなさいね」
絵梨香より前に母親に謝られた。
「あっ、いえ」
渚としてはそう言うしかなかった。
「あなたもちゃんと謝りなさい」
母親が絵梨香のほうを見て言った。すると、この日初めて絵梨香が渚のほうを向いた。
そこには、奇妙に悲しげで弛緩した絵梨香の顔があった。
しかし、その目は心の中の何物も訴えていない。
渚が何とも不可解な曖昧さにとらわれ始めた時、絵梨香が静かに空気を震わせて声に出した。
「この間は本当にごめんなさい」
翳りを持った口調で言いながら渚に向かって頭を下げた。
演技にしては下手過ぎるし、かといって心の底から反省しているとも思えなかった。
だが、正直渚にしてみれば一種の儀式のようなもので、どちらでも良かった。今後着かず離れずの付き合いができる程度の関係を作っておければ、それでいい。
「渚さん、この子もああ言ってますので許してくださいますか。私からもお詫びします」
母親からも頭を下げられ、受け入れないわけにはいかなかった。
「いえ。もう済んだことですし、気にしてませんから」
「そうですか、良かったね」
母親が絵梨香のほうを見るでもなく言う。
親子して儀式を遂行することだけに専心している。
「私…」
それまで、どこか傲然としていた絵梨香の薄い唇がわななくように震えていた。
「どうした?」
たまりかねたように和也が絵梨香に話しかける。
「私、自分にないものを持っている渚さんが羨ましかったの。だから…」
絵梨香が言いたいことは、渚もわからいでもなかった。彼女の鬱屈とした思いは、時に自分が思ってもいない方向に向かってしまうのかもしれなかった。初めて絵梨香が心に封じ込めていた思いの一端を吐露したように感じた。
「もういいよ」
和也が甘味を帯びた声で言うのを聞いて、渚の心がチクリと痛む。
兄にしては度を超えた愛情が含まれているように感じてしまったからだ。
「渚さん、すみませんでした」
渚の心の中を覗き込むような目をして再び絵梨香に謝られ、渚は白幡を挙げた。
「絵梨香さん、お気持ちは十分わかりましたから、お互いもうすべて忘れましょう」
「はい」
儀式はすべて終わった。
その後の絵梨香はまるで人が変わったかのように甲斐甲斐しく動いていた。みんなの飲み物を新しく持ってきたり、家族のアルバムを持ってきて渚に見せたり…。途中、たびたび席を外したことだけが少し気にはなったが、それ以外は自分の役割を完璧にこなしていた。まるで渚が自分に向けている疑念の目を嘲笑うかのように、兄である和也に対してはけなげな妹ぶりを、そして、母親に対しては天真爛漫な娘ぶりを、そして渚には艶めかしさすら感じる満面の笑みを振りまいていた。最後にお詫びの印と結婚祝いを兼ねたものとして母親から高級なグラスセットを渡された。
「さあ、これで妹の問題も片づいたし、銀座に行こう」
「うん」
結婚後も絵梨香と親戚付き合いをする必要があるかと思うと、暗澹たる気持ちになったが、距離の取り方を覚えるしかないと諦める。
駐車場まで行き、和也が運転席に乗り込んだ。反対側に回り込んだ渚が、助手席に乗ろうとした際、何気なく2階を見上げた。その時、部屋のカーテンが一瞬揺れたような気がした。瞳の底に透明な炎を光らせていた絵梨香の姿が渚の頭の中に浮かぶ。
「何かあった?」
助手席に乗った渚の表情を見て和也が言った。
「ううん」
いつまでも絵梨香の影にとらわれている自分を意識の片隅に追いやる。
もう余計なことを考えるのはよそう。
「それならいいけど」
銀座の有名宝飾店に行き、一応指輪をつけて確認したがぴったりだった。指輪はティファニーのソレストクションで美しかった。
「どう? 気に入った?」
「うん。とても素敵」
「良かった」
「よろしいですか?」
50代の男性店員が二人の顔を見ながらにこやかに言った。
「ええ。結構です」
「では、こちらに包装しますので」
指輪を戻し、箱に入れてもらう。
「じゃあ、帰ろうか」
今日はこのまま車で渚の自宅に戻って、ゆっくり過ごすことになっていた。道は空いていたので、和也はいつもよりスピードをあげて車を走らせている。
「このぶんだと7時くらいには着けそうだよ」
「そう。じゃあ、途中で食材を買いたい」
「わかった。そう言えばさあ」
和也が前を見ながら、何かを打ち明けるように言った。
「ん? 何?」
「この間、絵梨香の左足のこと話したじゃない」
「うん」
「あれ、僕が原因なんだ」
「そう…」
そんな気がしていた。今さらあんまり聞きたくない。
「実は、僕が…。ん?」
話し始めた和也の声色が突然変わった。
「どうしたの?」
「車の調子がおかしい」
「何、何。どういうこと?」
「ブレーキがきかない…」
横を見ると、和也の顔が真っ青になっている。
「そんな。さっきまで何でもなかったんでしょう」
「そうなんだけど…。ああ、ダメだ」
車は速度を増した状態で道路を走り抜けて行く。渚も恐怖で身体を突っ張らす。目の前に交差点が見えて来た。
「絵梨香か」
ここで和也が唸るように妹の名を囁いた。
「絵梨香さんがどうしたって言うのよ」
しかし、その答えを聞く間もなく車は猛スピードで交差点に突入し、あっという間にガードレールに激突していた。身体全体に激しい衝撃を受け、同時に意識を失っていた。
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