恋のしっぽ(あの恋に会いたい)

シュート

第1話 光の華

人は、夢の中で、あるいは目の前の妻と雑談をしている最中に、あるいは会社のどうにもつまらない会議中に…。ふと、自分が過去にした恋のしっぽを見つけてしまうことがある。

一度見つけてしまったが最後、そのしっぽの先にあるものの正体を見ずにはいられなくなる、ものらしい。


第一章

1-1

 松本竜也が8年に亘る海外赴任から東京本社に戻ったのは3か月前の、花から淡い薄紅色の光が立ち上る4月のことだった。

緑の大地の真ん中で方向感覚を失った人のように、ずっとちぐはぐな思いを抱えながら日々を過ごしていたが、仕事は海外にいる時以上にハードで、なかなか休みも取れない状況が続いていた。そんな中、間もなく夏休み期間に入ろうとしていた。

「今年の夏休みは、久しぶりに日本で迎えることになるんだよな」

 昼食後のコーヒーを飲んでいる時に、同僚で同期の山口圭太に言われ、竜也は改めて自分は日本に帰ってきたんだなあと思いいたる。時間はいつも自分を先回りして待ち構えている。

「そうだね」

「俺は家族で海外でも行こうかと思ってるんだけど、お前はどうするつもり?」

 圭太がコーヒーカップを置き、外から差し込んでいる光を眩しそうにしながら、のんびりとした口調で言う。

「俺は田舎に帰ろうかなと思ってる」

「そうか。そりゃあそうだよな。お前、海外から戻ってきたばかりだもんな」

「そうだよ」

「そう言えばさあ、玲奈ちゃん再婚したの知ってる?」

 つむじ風のように自分の前を去った元妻の玲奈の顔が目に浮かぶ。

 『そう言えばさあ』と今思いついたような圭太の言い方にちょっと違和感を覚えたけど、自分の考えすぎだろうと思い直す。玲奈も圭太も自分も同期入社メンバーで、圭太は玲奈と仲が良かった。

「あっちにいる時に噂は聞いた」

「へえー、海外にまで届くんだ」

「聞きたいわけじゃなかったけど、わざと俺に耳に入れようとする人間がいるみたいで、まわりまわって入ってきた」

「そうか…。おかしなヤツがいるもんだな。しかし、俺はお前たち、すごくお似合いのカップル、お似合いの夫婦だと思ったんだけどなあ」

「もう昔の話は勘弁してくれよ」

 同期入社の玲奈とは新入社員研修の際に同じグループになることが多かったことから親しく口をきくようになった。それがきっかけとなり、気がついたら恋人同士になっていた。それほど二人の交際はスムーズに進んだ。会社が社内恋愛を認めていたので、特に隠すこともなく付き合っていた。何よりも感覚が合った。本の趣味や見たい映画も同じだったし、笑うところも一緒だった。だから、圭太が言うように、似合いのカップルだと自分たちも思っていた。そして、自然な流れで、付き合い始めて3年目に結婚した。結婚生活も恋人同士の延長ですごく楽しかった。

 だが、翌年、竜也にフランス支社への赴任の話が出てから状況は一変してしまった。竜也は海外赴任を自分にとってのチャンスととらえたが、玲奈は海外で暮らすことに不安があると難色を示した。確かに、現地生活に馴染めず奥さんがうつ病になったというような話は聞いたことがあった。ただ、玲奈は社交的な性格だったから、そういう心配は杞憂に過ぎないとと竜也は考えた。だから、毎日毎日玲奈を説得した。もちろん、単身赴任という方法もあったが、何年になるかわからない赴任生活を単身で行くという選択肢は当時の竜也にはなかったのだ。

 結果、玲奈は折れてフランスへ一緒に行ってくれることになった。1年間は特に問題もなく過ぎた。これでもう大丈夫だろうと思ったのだが、考えが甘かった。

 特に問題がないように見えたのは、玲奈が我慢していたからに過ぎなかったのだ。1年と、ちょうど1カ月後の夜に玲奈のたまりにたまった思いが爆発した。

 いつも通り、『楽しい』夕食を終え、リビングでテレビを見ながら寛いでいた竜也の前に玲奈が立った。

「私、明日日本へ帰ります」

 玲奈の顔に影が斑に落ちていた。

「何、突然」

 言葉の欠片を繋ぎ合わせようとするけれど、あまりに突然過ぎて、竜也は何が起こったかわからなかった。

「それから、これ。私のところはもう署名捺印してあるから」

 突き付けられたのは離婚届の用紙。

 玲奈の顔には揺るぎない意思が浮かんでいた。

「ちょ、ちょっと待ってくれよ」

「あなたにとっては突然かもしれないけれど、私は1年間ずっと我慢してきたのよ。あなたはそのことに気づかなかった? いや、気づこうともしなかったんでしょうね、その驚き方を見ていると。だから、もう終わり。以上」

 それまで見たこともないひどく冷たい目をした玲奈は、そう言って自分の部屋へ入ってしまった。

 指先がひんやりしたと思ったら、それが全身に伝わった。

 夜の闇の中で、それまで玲奈と過ごした時間が堂々巡りをしていた。

 翌日、玲奈は宣言通り、竜也が会社にいる間に一人で日本に帰国した。二人であれほど誓い合ったはずの『愛』は、まるで人生に書いた落書きのように、あっけなく過去へと落ちて行った。

 彼女の心のあり様に気づいてあげられなかった自分も確かに悪い。しかし、ずっと我慢するのではなく、ちゃんと言ってくれたら良かったのにと、後になって思ったけれど、彼女にとっては、そういうことではなかったのだろう。お互い若かったのだ。相手のことより、自分の思いのほうが大事だったのだ。

 当時のことは今思い出しても、鉄を舐めたような味しかしない。

「ところで、あっちで新しい彼女はできなかったのか?」

 圭太の声が現実に戻す。アメリカ支社に赴任していた時、アメリカ人の彼女がいたことはある。

「出来たけど、別れたよ」

「あっ、そう。じゃあ、一人でゆっくり田舎を楽しんでくればいいさ」

 変に詮索してこないところがありがたい。実は彼女ともかなり揉めた。ある事が起きた時、文化の違いとか価値観の違いが衝突をより激化させ、収拾つかなくなってしまった。無数の棘のような言葉を投げかけ合ったことが、お互いをひどく疲弊させた。その過程を他人に話せるまで、まだ自分の心の中で整理ができていない。

「うん。そう思ってる」

 竜也の会社では全社一斉の夏休み期間が1週間あるが、その前後に自分の有給休暇をつけて10日程度休む人が多い。それでも仕事に支障が起きないように職場単位で調整が行われる。若い女子社員は平気で2週間に亘る休暇申請を出してくるため、課長代理クラスの竜也たちは、彼女たちのすき間を狙って休みを分散取得することになってしまう。

 竜也はお盆の会社の一斉休暇の時は帰省客で混むことがわかっていたので自宅マンションで一人ゆっくり過ごし、9月初めに5日間の休暇をとり、田舎に帰ることにした。その旨、実家の母に電話する。

「ああ、ちょうどいいね。お盆には昌弘一家が来て大騒動になるからさ」

 5つ上の兄の昌弘には子供が3人いる。母にとっても、父にとっても孫は可愛いに違いないだろうけど、何日もいられると疲れるというのも本音なのだろう。

「うふふ。母さんたちも、もう若くないからね」

「そうだよ。特に、お父さん、最近スタミナ切れになるのが早くてさ」

「へえー、あの親父がねえ」

 父親は体格がよく、いつもエネルギッシュだった印象がある。

「あんたが海外に行っている間に二人とも歳をとったっていうことよ。ところで、あんた。今度来る時、外人の彼女を連れてくるとかないでしょうね」

 ひょっとしたらそうなってたかもしれないのだが、両親のことを考えると、そうならなくて良かったような気もする。

「ないよ」

 曖昧な感情が、ぶっきらぼうな言い方になる。

「そう。良かった。でも、日本に戻ったんだし、そろそろ再婚を考えたほうがいいんじゃない」

「わかっているよ」


1-2

 新幹線から在来線へと乗り換えて1時間半、ようやく実家のある駅に着いた。駅前のロータリーに停まっていたタクシーに乗り込み自宅を目指す。窓から見える景色は、気ままに混ぜ合わせた絵具の色のように、暗めの色が過ぎゆくが懐かしい。空一面に広がった夕映えの中、一見昔と寸分違わぬように見えるわが家の前で降りる。

「帰ったよー」

 だいたいの到着時間は母に連絡しておいた。

「は~い」

 奥から母が出てきた。およそ10年ぶりに見る母は、しっかり10年分老けていた。自分が置き去りにしてきた時間の重さがそこにはあった。

「やあ、お前もすっかり貫禄がついたねえ」

 お腹当たりを見ながら言われ、思わず竜也は腹をひっこめた。

「ただ太っただけだよ」

「そんなこともないだろうけど、とにかくあがって」

 緑の匂いが胸にたちこめる。

 懐かしいわが家に入ると、やはり心が安らぐ。

「親父は?」

「釣りに行ってる。お前にお刺身を食べさせようと思っているらしい」

「はは。期待しないで待っておくわ」

「そうだね。まあ、とにかく今回はのんびり過ごせばいいさ」

「ありがとう。そうさせてもらうよ」

「部屋は2階ならどこを使っても構わないから」

「そう。じゃあ、とりあえず2階に行って見る」

 そう言って2階にあがると、自分が高校生の頃まで使っていた一番奥の部屋に入る。きれいに片付いてはいるけれど、当時使っていた机や家具類はそのままだった。もちろん、以前に帰った時も同じだったのだろうけど、しばらく帰らなかったため、ひどく懐かしい。

 荷物を置いて、とりあず仰向けに寝転ぶ。畳の匂いとともに、この部屋で過ごした時間が蘇える。記憶の奥から、忘れていた、いや忘れようと思っていた、懐かしくも甘く切ない思い出がぽんと飛びだしてきた。

-その証はきっと今もあの押し入れに入っている-

-見て見たい-

 その時、階下から聞こえてきた親父の野太い声で思考は中断された。

「お~い、竜也。降りて来いよ」

「は~い」

 下に降りていくと、白髪頭の10年分老けた親父が、それでも健康そうな笑顔で迎えてくれた。

「おい、なんだ、その腹は。まだ若いのに」

 竜也の腹辺りを指さし、笑いながら言われ苦笑するしかない。

「いやあ、運動不足でさあ」

「どうせ不摂生してるんだろう。こっちで健康的な生活に戻すんだな」

「そう思って帰って来た」

「よし。しかし、見て見ろよ。俺の腕もまだまだだろう」

 自慢げな顔でボックスに入った釣果を見せる。

「すごいね」

 と、そこへ母が様子を見にやってきた。

「あら、今日は珍しく釣れたのね」

「珍しくとか言うなよ」

 さっきまでの勢いはどこへやら、急に声のトーンが落ちた。相変わらず親父は母にだけは弱かった。

 その夜の食卓には、親父の釣ったイサキの刺身やアジのたたきをメインに、地元の野菜料理や竜也の好物のハンバーグなどが並んだ。どれもが新鮮でかつ愛情たっぷりで、とにかく美味しかった。

 海外生活や東京暮らしの中で溜め込んでいた気持ちの中のざらざらしたひび割れみたいな部分が癒されていく。

 両親からは海外赴任中の出来事や日本に帰ってからの生活について、あれやこれや質問され、その一つひとつに答えていた。

「もう海外へ行くことはないのよね」

 母はそのことが一番気がかりだったようだ。

「うん。もうない」

 安心したような母。

 自分を見る視線が和らぐ。

 隣にいる親父がそれを受けて言った。

「じゃあ、そろそろ再婚を考えたほうがいいぞ」

 電話で母にも言われた。両親にとってはそこも気になるのだろう。

「う~ん。そうだね…」

 自分でも考えてはいる。だけど、今のところそういう相手がいない。

「山本君もこの間再婚したわよ」

 母が追い討ちをかける。竜也が小中学校時代仲良くしていた山本康介のことだ。4年前に離婚したと聞いていた。

「ええー、そうなんだ。あいつ、案外早く再婚したんだね」

「そうよ。というか、あんたが遅いんだよ」

「わかった。真剣に考えるよ」

「そうして頂戴」

 命令口調で言われ、苦笑するしかない。

「そう言えば、というか、話は変わるけどさあ」

 話題を変えたかったのもあるし、両親に情報を訊きたかったのもある。

「何?」

「小日向さんちの葵ちゃん、今どうしているか知ってる?」

「さあ、どうだろう。東京に行った後のことは知らないよ」

 母親があまり関心なさそうに、というか曖昧な笑みを口元に湛えて答えた。

「ふ~ん」

 葵が東京に出た数年後に母親も東京に出たらしいという噂は聞いていた。だから、その後が知りたかったのである。

「蓮沼の親父さんに訊いてみたらわかるんじゃない。お父さん同士が親しかったようだから」

 父親が母親の顔を見ながら言った。

 思い出した。

 母は葵の父親が嫌いだった。

「そうなんか…」

「まさか、お前、葵ちゃんのこと好きだったのかい」

 今度は母親が戸惑いのせいか目を丸くして言った。今さら気づいたのかと竜也は、母親の鈍さに驚く。

「別にそういうわけじゃないよ」

「ふ~ん」

 母親の顔には疑いが含まれていた。

 ガラス戸の向こうの蒸れた景色がゆらりゆらりとうごめく。


1-3

 中学1年生の小日向葵は目を惹く美しさと可愛さで、地元では知らないものがいないほどの注目度だった。当然、クラスの男の子たちにはダントツの人気だった。性格も明るく、誰にでも優しかったので女子にも好かれていた。もちろん、一部の女の子たちには嫉妬による反感もあったようだけど、当の本人は一切気にしていないようだった。

 というのは、葵には東京でアイドルになるという夢があったからだ。しかも、その夢が現実に近づいていたのだ。たまたま母親と東京に出かけ、原宿を歩いていた時に複数の芸能プロダクションから声をかけられたという。

もともとアイドルになりたいという願望のあった葵はその気になったらしいが、父親は大反対だったようだ。しかし、本人の強い意思と母親の繰り返しの説得に根負けした形で父親も認めた。父親の中では、本人が行きたいと言った事務所が誰でもが名を知っている大手事務所であったことが大きかったようだ。

 地元から東京に通うという道もあったようだが、それはあまりにもきついということで、半年後に東京の芸能部がある学校に転校することが決まっていた。

 そんな葵と竜也は、小学校の時に同じクラスになったこともあり、お互いに知ってたいたけれど、それ以上でもそれ以下でもない関係だった。だけど、中学校になって再び同じクラスになった時、竜也は葵のことが好きになっていた。もちろん、目立つ子だったので、ずっと意識はしていたけれど、どうせ自分には無理だという気持ちがあって、心のどこかで好きにならないようセーブしていたように思う。そのタガが外れたのは何がきっかけだったのだろう。今では思い出せない。

 人のことを好きになる瞬間というのがあるとしたら、自分はどの場面のどのタイミングで葵を好きになったのだろう。そんな一番大切な瞬間を思い出せないのが切ないし、もどかしい。

ということで、好きになったけれど、もちろん片思いで終わるはずだった。何しろ、彼女は野球部の4番バッターでイケメンの田村という男と付き合っているという噂があったからだ。残念ながら二人はお似合いだったし、田村と比べたら自分に勝ち目はないと諦めていた。

「松本君、一緒に帰ろう」

 学校の校門を出たところでいきなり後ろから葵に声をかけられた。嬉しかったというより、戸惑いの方が強かった。

「いいけど、小日向んち、俺の家と反対方向じゃないか」

「だから、途中まで」

「あっ、そう」

 必要以上にそっけなく言ってしまうのは意識の裏返し。

「いいでしょ?」

「だから、いいって言ってるじゃん」

 嬉しい反面、そばには来ないでほしいという矛盾した気持ちに襲われる。

「何で、そんなに偉そうに言われなくちゃならないの」

「ごめん」

 すでに横に並んで歩き始めた葵。

 アスファルトに落ちる二人の影が前後左右に動くのを見ながら、竜也は自分の感覚が葵に吸いあげられているように感じていた。

 葵側の半身の全神経が緊張して強張っていて、歩くのがぎこちなくなっている。

「松本君って、好きな子いるの?」

 葵がちらっと竜也の顔を覗き込むようにして言った。

 何の前触れもなくいきなりストレートに言われ、一瞬パニックになる。

「いるよ」

 そう答えていた。もちろん、葵のことだったけど、どうにでもとれるように言った。

「そうなんだ…」

「小日向だっているんだろう?」

 答えは聞きたいようで、聞きたくなかった。

「いるよ」

 この時竜也は、あの噂はやっぱり本当だったのだとひどく落胆した。

「良かったじゃないか」

 なんか上からの物言いになっていると自分で気づく。

「まあね」

 葵が使ったこの『まあね』の言葉に込めたニュアンスは、まだ子供だった竜也には理解できなかった。お互い微妙な部分に触れてしまった感があって、しばし無言になる。

「松本君って、普段どんなデートしてるの?」

 葵が急に明るい声で訊いてきた。本当のところ、竜也はそれまでデートと呼べるものをしたことがなかったけれど、先ほど好きな子がいると答えてしまった。

「う~ん。ごく普通だよ。映画観に行くとか、ファミレスに行くとか…」

「ふ~ん」

「小日向のは?」

「私もあまり変わらないけど。でも、まだできてない理想のデートがあるんだ」

「へえー、どんなの?」

 竜也が葵の答えを聞きたくて、それまでずっと目の前の道しか見ていなかった視線を葵に向けた時、後ろから声が聞こえた。

「竜也、抜け駆けはダメだぞ」

 振り向くとクラスメイトの竹田と倉橋が立っていた。

「何よ?」

 すぐに反応したのは葵のほうだった。葵の見幕にたじろいだ竹田がしどろもどろに答える。

「いや、そのお、何で竜也が葵ちゃんと一緒にいるのかと思って…」

「葵ちゃんなんて気安く言わないで」

「ごめん」

「あのねえ、私と松本君は付き合ってるの」

「ええー」

 竹田と倉橋が飛び上がらんばかりに驚いている。

「何? 文句あるわけ?」

「だって、小日向には野球部の彼が…」

「ああ。誰が流したか知らないけど、あんなの単なる噂だから」

 噂? 一番驚いていたのは竜也だった。

「ウソー。みんなそう思ってると思うけど…」

 今度も竹田と倉橋が声を合わせたように言う。

「勝手に思ってればいいじゃない。でも、それは事実じゃないから。私が好きなのは松本君、ただ一人」

 これは夢か幻か? 呆然とする竹田と倉橋と、そして竜也。しかし、あっけにとられて立ち尽くす竹田と倉橋をしり目に、葵は竜也の腕に自分の手を絡めて歩き出しながら言った。

「ということで、私たちはこれからデートなの。だから、邪魔をしないでね。バイバイ」

 竜也はあまりに急なこの展開劇にまだ頭も、身体もついていってない。言葉もでない。

でも、これは竹田と倉橋を追い払うために葵がついた嘘ということもあり得た。

「びっくりさせちゃった?」

「びっくりなんてものじゃないよ」

「そうだよね。でも、今あの二人に言ったのはすべてほんとのことだから」

 竜也の身体中の細胞が狂暴に弾け、痛いくらいに目がくらんだ。

 小さな町にあふれるすべての音がまるで幻のように遠くで聞こえる夕方だった。

「信じていいの?」

「信じて」

 葵は意思の強さと繊細さを感じさせる目で答えた。

 美しい人の目は球形をしている。

 竜也は自分の心が風のように透き通るのを感じた。

「嬉しい」

「でも、さあ、松本君がどう思っているかは、私聞いてないんだよね」

「そんなの、好きに決まってるじゃん。というか、大、大好きだよ。小日向の僕に対する思いより、僕の小日向に対する思いのほうが十倍は強いと思うよ」

「そんなの測ったわけじゃないからわからないじゃん」

「わかるよ。間違いない」

「でもさあ、ということはさっき好きな人がいるって言ったのはお互いのことだったんだね」

「そういうことになるね」

「私、最初松本君からあの言葉聞いた時、誰だかわからない人に嫉妬しちゃった」

「同じく、です」

「何だか、おもしろいね。でも、ついでだから言うけどさあ、お互い名字じゃなくて名前で呼び合わない?」

「いいけどって言うか、いいの?」

「むしろお願い」

「わかった。しかし、参ったなあ。僕、こんなに幸せでいいのかなあ。夢じゃないよね、葵」

「きゃあ、嬉しい。竜也、私の頬つねってみる?」

「何で葵の頬をつねるの?」

「私も夢見てるみたいだから」

 バカバカしくも思える会話の一言一句まで覚えていた。

 今考えると、人生で一番純粋に幸せな瞬間だったと思える。

 それから、葵が東京に出発するまでの半年間は、まさに夢のような時間だった。できるだけ二人の時間を作り、デートをした。とはいっても、中学生のデートには限りがあったけれど、それでも楽しかった。楽しんだ。

 放課後に制服で、ネットで調べたかわいいカフェや雑貨屋に行ったり、ショッピングモールに行ったり、少し広めの公園で隣り合わせでブランコに乗ったり、滑り台に乗ったり、鬼ごっこをしたり…。

 場所はどこでも良かった。とにかく、二人でいるだけで楽しかった。また、休みの日には私服で、映画を観に行ったり、水族館に出かけたりした。

 一度だけピクニックに行った。

 見渡す限り続く広い木陰の道が縦に走っている中

 自然に溶け込むように、その日二人は初めてキスをした。


1-4

 確実な別れが待っているということが、一つひとつのデートが、いや、デート中の一つひとつの出来事が、甘酸っぱい果実のような香りを放っていたように思う。当時の思いは、今でも自分の内側に溶け込んでいる。

 そんな中、二人は心を潰されるかのような圧迫感でお互いの夢を語り合った。

「葵はどうしてアイドルになりたいと思ったの?」

「私、家庭の事情があってずっと悩んでいたの」

 思っていたのと違う答えが返ってきた。

「家庭の事情?」

「うん」

 葵のか細い声が風に吸い込まれていく。

「訊いていい?」

 夕焼けが舞い下り始めていた。

「ごめん。話したくない」

「わかった」

「死にたいと思ったこともある。心も体もボロボロだった」

 淡々と話す葵の言葉の形を確かめようとするが、竜也には見えない。あまりにも重い言葉なのに、どこか頼りなく、まるで葵の放った言葉ではないような気さえした。

 葵のことは小学校の時から知っているけど、そんな素振りを一切見せていなかったので知る由もなかった。でも、当時の葵が死ぬことまで考えていたと思うと自分の心も張り裂けそうになる。

「そんなことがあったなんて…」

 透明感のある葵の顔を見ているだけで涙が出てしまった。

「泣かないで。昔の話だから」

「でも…」

「そんな私を救ってくれたのが真鍋マユさんの笑顔と、あの優しい歌声と歌詞だったの。自分も生きていていいんだと思えた」

 真鍋マユというシンガーソングライターのことだ。その歌唱力から、今ではミュージカルにも多数出演している人気歌手だ。最近は作詞も手掛けていて、その歌詞が若者の心をつかんでいる。

「そうなんだ…」

 葵の手の上にそっと自分の手を置く。その手を葵が握ってきた。

「だから、そういうアイドルになりたいの」

 まなざしはひたむきで、でも美しいほどに輝いていた。

「そうか。大丈夫。葵なら絶対なれるから」

「うん。頑張る」

「アイドルになれたらどんなことがしたいの?」

「やりたいこと? いあっぱいあるよ」

「たとえば?」

「いつか武道館とか東京ドームとか横浜アリーナみたいな大きな会場でライブをやってみたいし、大好きなおじいちゃんのために紅白歌合戦にも出たい」

 葵はいつも葵の味方だというおじちゃんが大好きだという。

「わかる。KーPOPアイドルの道は考えなかったの?」

「もちろん考えていたよ。スカウトされなかったら韓国に行っていたかもしれない」

「ということは、日本だけじゃなくて世界で活躍したいんだね」

「それはそうだね。まずは日本で活躍したいけど、その先には世界も考えているよ」

 目をキラキラとさせながら自分の夢を話す葵の姿は、傍で見ていてもうっとりするほど美しく、愛おしさが胸の奥からあふれた。竜也は葵が舞台で輝いている姿を想像するだけで幸せだった。

「竜也の夢は?」

「僕の夢はアメリカの大学に留学してMBAを取得して、アメリカで起業することなんだ」

「竜也頭いいもんね」

「ありがとう。でも、今の倍くらい勉強しないとダメなんだけどね」

「そうかあ。大変だね」

 葵はそう言ったけど、本当は葵の選んだ道のほうが大変なのは間違いない。自分の夢の成否のほとんどは自分が決められる。自分さえ、その努力を惜しまなければ可能性は見える。でも、葵の夢は自分だけではどうにもならない部分が多く含まれている。事務所の力そのものもあるだろうし、事務所の力の入れ具合だったり、ライバルとのし烈な競争だったり、運だっり。その分大変だろうし、可能性も不確定になる。それは本人もわかっている。だから、夢が大きい分、揺らめきも大きいようだった。時々、精神状態がひどく不安定になることがあった。

 その日は葵が観たいという映画に二人で出かけた。ただ、その日、葵は学校でも元気がなかった。映画を観るのをやめても良かったのだけど、行くというので出かけた。帰りに公園に寄った。

 凛と澄んだ空気の中で風が吹き、葵のしなやかな髪の流れが鼓動を打っている。

 ベンチに座った葵が感情のバランスを崩したのか、突然泣き出した。

「どうしたの?」

「私、自信ない」

 話を聞くと、事務所に呼ばれて東京へ行った際、デビュー予定の数人のレッスン風景を見て自分の力不足を知ったということだった。

「何もそんな風に思わなくてもいいと思うよ。スタートの時期は人によって違うと思う。葵の場合はまだ何も始まっていなんだよ」

 竜也にできることは、ただ励ますことだけ。

「そんなのわかっているよ」

 葵のこの言葉を聞いて、竜也は葵のために少し踏み込んだ意見を言うことにした。

「でもね。僕は葵にはもっと強くなってほしい。葵の目指す夢の世界は僕が歩もうとしている世界よりもずっと厳しいと思う」

「きっとそうだろうね」

 葵もそれはわかっているのである。

「夢を叶えることができるかどうかは夢への思いの強さだと僕は思う。特に、葵が目指すような常にライバルのいる世界ではね。人より少しでも強く夢への思いを持った人のほうが夢を自分のもとへ引き寄せることができるんじゃない?」

 もちろん、自分自身に対して言っている言葉でもあった。

「竜也の言う通りだね。泣いている場合じゃなかった」

「生意気なこと言ってごめん。でも、僕は葵に確実に夢を叶えてほしいんだ。だから…」

 話しているうちに竜也自身感情が高まった。

「わかってるって。ありがとう。私のためにそこまで考えてくれるのは竜也だけだよ」

「僕、葵のこと愛してるから」

 好きと言ったことはあるけれど、愛してると口に出したのはこの時が初めてだった。

 当時の自分がどれほど言葉の意味をわかっていたかは疑問だけど、「好き」という感情をはるかに超えていたことは確かだった。

「とっくの昔に好きを超えちゃってるんだ」

 葵の横顔にかかる柔らかな髪をみながら言った。

 遠くのほうでブランコの軋む音が聞こえる。

 公園の中のベンチに座る二人に、夕焼けが落ちて来た。

「ありがとう。私も同じよ」

「そう。嬉しい」

「私、竜也と出会えて幸せだったよ」

 葵の笑顔は瑞々しい桃の果実のようだった。

 この数か月の時間の流れが特殊な道筋を持った

「ええー、そんなあ。照れるじゃないか」

「さあ、いくよ」

 葵が急にベンチから立ち上がり、手を出した。

 その手を、おずおずと握り歩き出す。

 この出来事が、いつか思い出に変わるとわかってはいたけれど、この場所に自分の一部を置いておきたいという思いが強かった。

 葵の東京への旅立ちの1週間前に、葵が理想と言っていたデートをすることになった。

 彼女がどうしても自分としたかったデートは、毎年夏に行なわれる地元の花火大会に浴衣姿で行くというものだった。それを聞いた時、わりとありきたりのデートだなと思ったが、実は違った。

 当日、待ち合わせ場所に行った竜也が見た葵の浴衣姿は眩しかった。とにかくきれいだった。もともと大人びた顔をしていた葵だったけど、髪をアップにした葵は、一人の大人の女性に見えた。それに引き換え、自分が子供っぽく思え恥ずかしくなった。

「綺麗だね」

 薄く化粧を施した葵には色気さえ感じてまともに見られない。

「ありがとう。竜也もかっこいいよ」

「そうか? でも、僕自信ないよ。葵と釣り合ってないんじゃないかって」

「大丈夫、そんなことないから、自信もって。私が選んだ人なんだから」

「ありがとう」

「じゃあ、行こう」

 そう言って、当然のように手を出した。それがものすごく自然だったので、竜也も自然にその手に自分の手を絡めることができた。でも、心臓の鼓動は止まらなかった。もちろん、葵と手を繋ぐのは初めてではなかったけれど、竜也はその都度緊張する。葵はつないだ手を確かめるように見て嬉しそうな顔をした。

「竜也と一つになれたね」

「うん」

「竜也、今何を考えてる?」

「この時間が永遠に続けばいいなって」

「ふふ。竜也って、ロマンチストだね」

「本当にそう思ったんだよ」

 ちょっとムキになったしまった。

「ウソだなんて言ってないよ。でも、そういうところ、好きだよ、私」

「なんか照れるなあ。あれ、こっちでいいの?」

 葵に手を引っ張られる形で歩いていたが、途中からみんなが向かっている方向とは別の道に入っていた。

「いいの。黙って私について来て」

 葵の秘密めいた言い方に胸が高まった。葵が理想のデートと言った理由はきっとここにあると思った。いつの間にか周りに花火客はもういなくなっていた。

「こっちこっち」

 葵が連れて行った場所は、岩場の中に自然の力で偶然できた窪みのようなところで、ちょうど二人ぐらいが入れる秘密基地のような場所だった。

「こんなことろ、よく見つけたね」

「子供の頃、遊んでいる時みんなとはぐれてしまったの。その時、偶然見つけたのよ。でも、誰にも教えなかった。それからは、辛いことがあった時や一人で考えたいことがある時に来てた」

「そうなんだ」

「それでさあ、花火大会の時にも来て見たら特等席だってわかったの。だから、いつか好きな人ができたら、ここで二人だけで花火を見たいって思ったの」

「そうか。嬉しい」

 風に葵の髪がなびく。

 その度に甘い香りが竜也の鼻腔をくすぐる。

 葵の秘密基地は、花火の打ち上げ場所から遠からず、かといって近すぎないところで絶好のデート場所だった。

「花火、もうすぐ始まるよ」

 葵が時計を見ながら言う。

「そうだね」

 その時だった。1発目の花火が打ち上がった。それを契機に花火の饗宴が始まった。

「きれい」

 夜空を彩る幻想的ともいえる花火の美しさに、葵が声をもらした。

「いつか、どうしても会いたくなったら会いに行ってもいいかな」

 花火と花火の合間を見つけて竜也が言うと、葵は困ったような顔をして答えた。

「夢が叶うまでは駄目。竜也に会ってしまったら決心が揺らいでしまうかもしれないから」

「そうだよね。ごめん。僕のわがままだった」

「ううん。私、意思が強そうに見えて弱いところがあるの。だから。もし、夢がかないそうになったら、私のほうから連絡するからね。その時は会おう」

「約束だよ」

「うん。指切りしよう」

 再び花火が始まった。葵はああ言ったけれど、きっと連絡するつもりはないと、そんな気がした。

「ねえ、葵」

「ん?」

「お願いがあるんだけど」

「何?」

「歌を歌ってくれないかな」

「いいよ。竜也のためだけに歌ってあげる」

 今自分たちがいる場所は花火の打ち上げ場所からは程よく離れていたため、音はそれほど聞こえなかった。だからこそ、ずっと考えていた思いを葵に伝えた。

「リクエストしていい?」

「私が歌える曲ならいいよ」

 本当は葵が好きだという真鍋マユの歌にしようかと思ったけど、どちらかといえば、真鍋マユの歌う曲はポップなものが多かった。なので、今の竜也の心境、心情に近い曲を選んだ。

「Uruのあなたがいることで」

「わかった」

「歌える?」

「大丈夫よ。私も大好きな曲だし…」

「今の僕の心境、心情に近いんだよね」

 それに、葵の澄んだ声質がぴったり曲に合うこともわかっていた。

「そう…、かもね。わかった。じゃあ、歌うね」

「お願いします」

 葵がまっすぐ前を向いて歌い始めた。


 どんな言葉で

 今あなたに伝えられるだろう

 不器用な僕だけど

 ちゃんとあなたに届くように


 明日が見えなくなって

 信じることが怖くなって

 過去を悔やんでは責めたりもしたけれど

 僕を愛し続けてくれた人


 もしも明日世界が終わっても

 会えない日々が続いたとしても

 僕はずっとあなたを想うよ


 あの日僕にきれたあなたの笑顔が

 生きる力と勇気をくれたんだ

 星が見えない 孤独な夜でも

 あなたがいる ただそれだけで

 強くなれる


 Uruさんの歌う「あなたがいることで」も、もちろん好きだったけど、竜也にとっては葵の歌う「あなたがいることで」は特別だった。

 歌詞の一言一言が竜也の心に突き刺さる、心を揺さぶる。その歌詞を最適の音で表したすばらしい曲を葵の瑞々しい声が静かに、だけど魂を乗せて歌う。歌詞、曲、歌声が一体となって竜也の胸の奥深くに沁み込んでくる。言葉にならない感動が押し寄せ、鼻の奥が熱くなる。目の前の景色がふくれあがり、ゆらゆらと揺れている。

 遠くに見える光の華ですらただの背景となり、夜の静寂の中で葵の歌声だけが竜也をすっぽり包んでいる。世界が温かな色に塗り替えられていくようだった。

 自然に涙が零れた。

 最後の歌詞にさしかかった時、葵の声もほんの少し揺らいだが、歌い切った。

 葵が控え目な目を竜也に向けながら言った。

「泣いてるの?」

「うん」

「そういう葵の目にも…」

「うん」

「葵、とっても素敵だったよ。一生の思い出をありがとう」

「ううん。私こそ、聴いてくれて嬉しかった」

 今回離れ離れになったらきっと二度と会えない。その後も竜也は花火を見るふりをしながら、ひたすら葵の美しい横顔を見て自分の目に焼きつけていた。

 


1-5

 季節は巡り、日々はカーテンの開け閉めのようにあっけなく過ぎていく。いつの間にか時は進み、別れの時が近づいていた。

「いよいよ明日だね」

 隣を歩く葵に言う。

「うん」

 商店街を抜け、二人でよく通った公園へと向かっている。

 喧騒がゆっくりと遠ざかっていく。

 やがて見えて来た木々や家々の輪郭が傾いた陽を浴びて金色に輝いている。

 二人が公園に入った時、空気はすでに秋の気配を見せていた。

 ベンチに並んで座ったけど、なかなか言葉が出て来ない。

 二人から見える広場で高校生くらいの男の子がキャッチボールをしているのを見ながら竜也が、敢えて他人事のように言った。

「約束通り、僕は見送りに行かないから」

 その場に居合わせるとお互い辛くなるから見送りには行かないと決めたのだ。

「うん」

 葵の返事が少し湿り気を帯びていたことに、竜也は動揺してしまい、次の言葉が浮かばない。二人とも言いたいことは山ほどあるはずなのだけど、ただ言葉の破片を見つめるだけ。お互い、言葉にしたら涙が溢れてしまうとわかっているから。

 どれほど時間が経っただろうか。

「身体だけは大事にね」

 たまりかねて竜也が言ったのはありきたりのこと。

「うん」

 公園のシンボルともいえるインドゴムの木の根の辺りには、いつものようにハトやスズメが集まっている。葵はさっきから『うん』としか言ってない。竜也がそのことを指摘しようとした。

「あのさあ」

 その時葵が唐突に言った。

「私、竜也のこと一生忘れないから」 

 薄い唇を震わせながら葵が口にしたのは別れを意味する言葉だった。胸の内にひたひたと静かに悲しみが溢れてくる。

 葵は東京へ行きアイドルを目指し、竜也は最終的にアメリカでの起業を目指す。二人の夢はまったく異なり交わうことはない。

「ありがとう。僕も忘れない。というか、忘れられない」

「嬉しいわ」

 ひとり言のように細い声だったが、口元には笑みを湛えていた。

「僕、今日葵に渡したいものを持ってきたんだ」

 ずっと言おうと思ってタイミングを計っていた。

「そう。何?」

「これなんだ」

 竜也が鞄から出したのは、きんちゃく袋だった。

「かわいい」

「亡くなったうちのおばあちゃんかもらった僕の宝物なんだ」

「そんな大事なもの…」

「そうだけど、ほら、二つあるんだ」

「色違いなんだね」

「そう。こっちは僕のもの。そして、それが葵のもの。中には僕が神社に行ってもらってきたお守りが入ってる。芸能の神様って言ってた」

「わざわざ行ってくれたんだ。ありがとう」

 近くの小学校から午後5時を告げる夕焼け小焼けが聞こえてきた。

「葵、好きだよ。愛してるよ」

 やっぱり最後に言うべき言葉はこれしかなかった。

「私も…」

 そう言って、葵は竜也の肩に自分の頭を乗せた。

 自転車に乗ったおばちゃんが自分たちの前を通り過ぎる際、あからさまな好奇の目を向けたが一切気にならなかった。

 翌日の朝早く竜也は目覚めた。というか、一晩中うとうとしていただけで、頭は起きていたように思う。

 葵の旅立ちの日は雲一つない快晴の土曜日だった。葵の未来が約束されているようで嬉しかった。葵は午後1時15分発の列車に乗ると聞いていた。それまでの間、自分はどう過ごせばいいのだろう。すでにそわそわしている。見送りは、葵と仲の良かった3人の女子生徒が行くことになっている。

「松本君、今日葵の見送りに行かないんだって?」

 午前10時。見送りに行くことになっている女子生徒の一人の蓮沼百合が電話をかけてきた。

「うん。昨日会ったから」

「それでいいの。昨日は昨日じゃない」

「でも、約束したんだ。見送りに行かないって」

「約束も時には破ってもいいんだよ」

 百合の言葉に竜也は動揺した。もちろん、会いたい。会って抱きしめたい。でも、そんなことをしたら、自分も一緒に東京に出て行ってしまいそうだから。

「そんな…」

「どういう意味の約束だか知らないけど、葵はきっと待っていると思う」

「そうだろうか…」

「そうに決まってるじゃない」

「……」

「松本君、聞いてるの?」

「うん」

「葵はね、どんな形でもいいから見送りに来てほしいのよ。わかってあげて」

「どんな形でも?」

 百合からもらったヒントだった。

「そうよ。意味わかるでしょう」

「うん。わかった。考えてみる。でもさあ、なんで蓮沼はそこまで考えてくれるの」

「もちろん、葵のことが好きだから。でもそれと同じくらい松本君のことが好きだから」

 百合の突然の告白は竜也を動揺させた。

 だが、竜也が何か言おうと思った時には電話は切られていた。

 呆然と携帯を見つめる。

 よりによってこんな時に…。

 それから数時間後、竜也は葵とよく歩いた線路沿いの土手の上に立っていた。学校の帰り道、ここに二人並んで座っておしゃべりをしていた。どうっていうことのない場所だけど、二人にとっては思い出の地の一つだった。だから、列車がここを通る際、葵がこちらを見てくれるのではないか。そのことに賭けたのだ。さっきから何度も何度も腕時計を確認する。1時15分に列車が駅を出たとすると、間もなくここを通る。

 遠くからレールの上を走る列車の音が少しづつ近づいてくるのがわかった。葵は自分のことに気づいてくれるだろうか。やがて車体が顔を見せた。竜也が立っている場所はカーブを描いているために列車もいくらかスピードを緩める。1両目が竜也の目の前を通る。目を凝らして見つめるが葵の姿は発見できなかった。残すはあと1両。

ーお願いだ葵、こっちを見てくれ-

 2両目の2番目のドアの窓に女性の姿が見えた。まさしく葵だった。

 竜也は葵に向かって大きく手を振りながら、『葵』と叫んだ。その時、葵が竜也に気づいた。

「あおい~」

 竜也は葵に顔を向けながら走り、叫び続けた。葵も手を振ってくれた。その顔は竜也には泣いているように見えた。でも、ほんの一瞬だった。あっという間に列車は遠のき、葵の姿は視界から消えた。

 それでも、竜也にとって一生忘れられない光景になった。


1-6

翌日、父親から聞いた蓮沼家の番号に電話して見る。

「はい、蓮沼です」

 女性の声だったが、誰だかわからない。

「あのお、私、小、中学校時代に蓮沼百合さんと同級生だった松本竜也と申しますが」

「竜也?」

「ん?」

「私、百合よ」

「えっ、なんで百合がいるの?」

 何とひどいことを言ってしまったのだろう。百合も自分と同じように夏休みに実家に帰っているだけかもしれないのに。

 ところが、百合は違う意味に捉えたようで、言わなくてもいいことを言っていた。

「諸事情がありまして、今またこちらに身を置かせていただいております」

「ひょっとして、アレ?」

「そう、そのアレ」

 百合も東京に出て結婚したと聞いていたが、どうやら自分と同じで離婚したらしい。

「俺と同じだ」

「ええー、奇遇ですねえ」

「あんまり嬉しくないけどね」

 離婚したもの同士の気安さが出てしまう。

「まったくよ。で、今日は何の用?」

「実はさあ、葵のことなんだ。昨日帰省して昔のアルバム見てたら、今頃どうしてるかなと思っちゃって。それで、両親に話したら、なんでも百合のお父さんと葵のお父さんが親しかったから訊いてみたらって言われて電話したんだ」

「そういうことね。だったら会わない。私も父親から情報仕入れておくからさ」

「ありがとう。じゃあ、そうしよう」

 せっかくなら百合とも会いたいと思った。それに百合自身も葵のことを知っているかもしれない。

 2日後、二人は駅前に最近できたという、わりとおしゃれな喫茶店で向かい合って座っていた。

「しかし、お互いバツイチになっているとはなあ」

「いきなりその話題から入るのやめてよ」

「ごめん、ごめん。でも、なんかおかしくてさあ」

「笑いごとじゃないわよ、まったく。そんなことより、今頃になってなんで葵のことが気になったの?」

「深い理由はないし、自分でもよくわからないんだけど、なんだか無性に気になっちゃって」

「ふ~ん、竜也って、葵のこと大好きだったもんね」

「なんかそう言われると恥ずかしい気もするけどね」

「私もいろいろ聞かされたわよ、竜也のこと。葵から」

「えっ、そうなのか? 何を?」

「あんなことや、こんなこと」

「何だよ、それ」

 葵がどこまで百合に話していたかはわからないけれど、葵のことだ、二人だけの思い出は話していないだろう。

「で、どうしたいわけ?」

「う~ん。消息を知りたいと思ってる。その上で、もし彼女が会ってもいいと言ってくれたら会いたいと思ってる」

「呆れるくらい好きだったのね」

「その言い方やめてよ。でもさあ、大人になってからの好きと、当時の好きって違うじゃないか。俺にとっては、当時の好きっていうのは、すごく尊いって思えるんだよね」

「そんなこと言ってるからバツイチになっちゃうのよ」

「痛いとこ突くね。でも、離婚はそういうのとは全然違う理由だから」

「あら、そうですか。ちなみに、葵が東京へ行く日に、私、竜也のところに電話してコクったの覚えてる?」

「覚えてるよ」

「へえー、覚えてるんだ。でも、竜也つれなかったわよね」

「だって、しょうがないだろう。当時の俺、葵のことで頭がいっぱいだったんだから」

「はい、はい。どうせそうでしょうよ。それでね、父親から聞いたんだけど」

「うん」

「葵の父親とは高校時代の友人だったみたい。頭は良かったけど、ちょっと変わったところがある人だったって」

「そうなんだ」

「でも、家が近かったんで交流はあったようよ」

「葵のことで何か聞いている?」

「葵のことは異常と思えるくらい可愛がっていたようよ」

「ふ~ん」

「だから、葵が芸能事務所に入って東京へ行くと言い出した時は大変だったみたい」

「そうだろうな」

「葵の意思が固かったのと奥さんの説得で認めることになったようだけど…」

「うん。そこは葵から聞いている」

「そうよね。でも、それ以来夫婦仲が悪くなって、奥さんは奥さんで葵のこともあって東京に出ちゃったみたい」

「そう」

「それでね。しばらくして父親のほうも東京に出たようなんだけど、以来連絡が取れなくなったって。うちの父親から仕入れられた情報はそこまで」

「そうなんだ。ありがとう」

「いえ、どういたしまして。それで、この後どうするつもり?」

「俺はさあ、高校の途中でアメリカに行っちゃったじゃない。それに、もともとテレビとか見ない家庭だったんで、葵の芸能活動の状況がわかってないんだけど、その点、百合はわかっているんだろう。教えてほしい」

「ああ。そのことね。聞きたくないかもしれないけど、事実を話すわね」

「もちろん、そうしてくれる」

「わかった。私が知る限り、葵が芸能界で活躍している形跡はないわ」

「そうなんだ…。葵は夢を叶えられなかったのか。辛いな。もっとも、俺も夢を叶えられたとは言えないけど」

 アメリカの大学に留学するまでは予定通りだったけれど、MBAを取得して、その後アメリカで起業するという夢は叶わなかった。

「でもさあ、夢ってそんなものじゃない。夢を100%叶えられる人なんてほんの一握りの人だよ」

「そうかもね」

「そうだよ。だから、葵もきっと途中で夢を変えて、今では誰かと結婚して普通の可愛い奥さんになつていたりするんじゃないの。ひょっとして、それも妬ける?」

「いやいやいや。それはそれで嬉しいよ」

「そう…。もし、そういう状況でも会いたい?」

「葵さえOKだったら、もちろん会いたい。青春ど真ん中の思い出の確認のために」

「どこまで好きなのよ。半分くらい私に回してくれていたら良かったのに」

「その話はもう勘弁してよ」

「わかったわかった。じゃあ、葵のその後、私が一緒に調べてあげるよ」

「どういうこと?」

「私、そろそろ東京に戻ろうと思っていたところなのよ。いつまでもこっちで燻ってるわけにもいかないじゃない」

「田舎って、周りがうるさいしね」

「そうなのよ」

「じゃあ、悪いけどお願いするよ」

「わかった。それに私思い当たるところがあるのよ」

「それは心強い。せっかく久しぶりに帰ってきたんで、あと4日間はこっちにいるけど、その後東京に戻る」

「了解。じゃあ、その日に私も一緒に行くことにするから」


1-7

 地球温暖化が進んだせいか、田舎の夏もそれなりに熱い。昨夜も熱帯夜のような暑さに何度も起きてしまった。新幹線の窓側に座る百合越しの車窓から見える街の輪郭も陽射しの中でぐったりと溶けているように見える。

「百合は再婚する気ないの?」

 東京へと向かう列車の中で、ずっと気になっていたことを訊いてみた。

「したい気持ちはなくはないんだけど、一度失敗してるからね。その分新しい恋愛自体に臆病になっているかな」

「そうか…」

 彼女が離婚に至るまでにどんなことがあったのかはわからないけど、きっと深く傷ついたのだろう。

「そういう竜也は?」

「俺もいずれは再婚したいと思いつつも、一人暮らしの気楽さに慣れちゃったからなあ。でも、今回久しぶりに帰省して両親の顔をみたら、そろそろ真剣に考える時かなと思ったよ」

「そうなんだ。ちなみに今付き合っている人はいないの?」

 さりげなく探りを入れて来た。

「いないよ。それで、百合のほうは?」

「ついでにみたいに訊くのやめてよ」

「ついでじゃないよ」

「いないわよ。いないからこうして東京に出て来られるんじゃない」

「そういうことね」

 お互い付き合っている人がいないことがわかると、へんに意識してしまったのか、急にお互い無言になる。新幹線は静岡あたりを通過しているところだった。

「葵に会えるといいね」

 窓側に座る百合がこちらを向かず、窓外の景色を見ながら言った。

「そうだね」

「会えたら何て言うつもり?」

 そのあまりに真剣な言い方は、自分の心の中を覗かれているみたいだった。でも、こちらを振り向いた百合の顔を美しいと思った。

「それは考えてない」

「そう…」

 再び沈黙が流れた。今になって考えれば、当時、百合はいつも自分の近くにいたような気がする。

 百合は窓外の景色に目を遣り、自分はドア上に流れる電光のニュースを追っていた。

 いつしか二人とも眠りに入っていた。

 東京駅に着き、神田のビジネスホテルに泊まるという百合とは別れ、竜也は自宅に戻った。明日からはまた仕事が待っている。葵探しは百合からの連絡を待って動くことになっていた。早く消息がわかってほしいとは思っていたが、きっと難しいだろうとも思っていた。しかし、思いのほか早く百合から連絡が入った。東京に戻ってからわずか4日後だった。

「竜也、土曜日時間とれる?」

「大丈夫だけど」

「有力な情報をゲットしたのよ」

「さすが名探偵」

「茶化すのはやめてよね。それで会って話したいの」

「もちろん、OKだよ」

 外で会っても良かったが、周りに気を使うことなくゆっくり話を聞きたいと思い、百合を自宅に招いた。

「いい部屋に住んでるんだね」

 百合がリビングから全体を見渡して言った。

「そうかあ」

「ここ2LDK?」

「いや、3LDK]

「一人住まいでしょ?」

「そうだけど」

「なんでこんな広い部屋に住んでるのよ?」

「でも一部屋は書庫みたいなもので、本で埋まってる」

「それにしてもさあ」

「何? 何か言いたいことがありそうだね」

「女っけはないみたいだけど、家賃高いんじゃない」

「うちの会社結構補助があるんだ」

「いい会社ね」

「まあね」

「あのさあ、部屋を見せてもらったから言うわけじゃないんだけど、実は竜也にお願いがあってさあ」

「何、何?」

 なんとなくわかったような気がしたが、先を促す。

「私、今ビジネスホテルに泊まってるじゃない」

「うん」

「住むところを探していたんだけど、その前に就職が先だって気づいたのよ。じゃないと家賃払いきれないし」

「そりゃあ、そうだ」

「でも、焦ってへんなところに就職すると後悔することになるからじっくりと探したいわけ。でも、そうするとホテル代がかかっちゃうわけよ」

 予想通りの展開になってきた。

「それで?」

「それでさあ、就職先が決まるまでの間、竜也のところに居候させてもらえないかと思って。一生のお願いだから」

 案の定だったが、よほどいいにくかったと見えて、だいぶ遠回りしていた。

「こんなところで『一生』は使うなよ。いいよ。片付ければ一部屋空けられるし」

「ほんと?」

「ああ」

「ありがとう。でも、心配しないで。私、へんなことはしないから」

「何だよ、それ。女からそういうこと聞くの初めてだよ」

「私も初めて言った。その代わり、食事の用意は私に任せて。こうみえて料理は得意だから」

「へえー、意外だね」

「だから、こうみえてって言ってるでしょう。でも、私も主婦やってた時があるんだから当たり前だけどね」

 百合がバツイチだということを忘れていた。

「そうだね。じゃあ、そういうことで、肝心の話を聞かせてくれる」

「はいはい。私にとっては部屋の話のほうが肝心の話だったんだけどね。わかっていますよ、そんな顔しないで。今話すから」

 自分では気づかなかったが、どうやら相当呆れた顔をしていたらしい。

「お願いします」

「うん。それでね。私たちの同級生の女の子で東京に出ている子が結構いるのよ。その中にきっと葵情報を持っている子がいると思ったわけ。ただ、私が全員の住所とか連絡先を知っているわけじゃないから、とりあえずリレー方式で探っていったわけ」

「なるほど。それで?」

「ようやくたどり着いたわよ。葵本人ではないけど、自分の母親が葵のお母さんの連絡先を知っているという子に。丸山ちはるっていう子なんだけど、覚えている?」

「いや。記憶にないなあ」

「実は私も思い出せなかったんだけどね。それで、そのちはるちゃんから葵のお母さんの連絡先を教えてもらったの。ただ、最近は交流がないので今でも繋がるかどうかはわからないとは言ってたけどね」

「ありがとう。感謝しかないよ」

「でも、それは実際に会えてからにして。ということで、これがそう」

 渡された用紙には、携帯電話番号とメールアドレスが書かれていた。それを見ただけで胸が熱くなってしまった。

「どうしたらいいと思う?」

「う~ん。いきなり電話だとお母さんも警戒しちゃうかもしれないから、とりあえずメールを送ってみたら」

「そうだね」

 早速メールを送ってみる。どうやらアドレスは生きていたようで送られた。後は返事が来るのを待つだけだ。

「繋がったよ」

「返事くるといいね」

「そうだね。ところで、いつからここへ来る?」

「いやあ、私としては早いほうが助かるけど、片付けとかあるでしょう」

「片付けなんて1時間くらいで終わるよ。もともと、そんなに荷物ないし、きれいにしてるほうだから」

「ええー、そうしたら、私、いったんホテルに戻って荷物を持ってくるから、今日の夜からでもいい?」

「いいよ」

「嬉しい」

「今回、葵のことでお世話になっていることだしね」

「まあね。じゃあ、私これからホテルに戻るけど、たぶん午後6時にはここへ着くと思う。だから、夕飯一緒に食べない?」

「いいね。でも、ホテルを出る前に一度連絡入れて」

「わかった」

 百合が出て行ってからすぐに片付けを始める。さっき百合には1時間くらいで終わると言ったが、いざ始めてみると案外時間がかかった。その間、竜也はこれから始まる百合との共同生活を考えて見た。軽い気持ちでOKを出してしまったが、いくら子供の頃から知っているとはいえ、恋人同士でもなく、ましてや大人の男女がこの狭い空間で一緒に住むのだ。まずはルール造りから始めなければならないような気がしていた。

 その時、メールの着信音が鳴った。慌てて確認すると、葵の母親からだった。

―ご連絡いただきまして嬉しいです。松本さんのことはよく覚えています。とにかく一度こちらへお出かけいただけませんか。その時に詳しくお話しします。日時については、改めてやりとりをした上で決めましょう。また、場所については丸山さんからお聞きくださいー

 葵のことに直接触れてないのは多少気になったが、それでもとにかく母親に会えることになったのは喜ばしいことだった。母親に会いさえすれば、間違いなく葵の消息はわかる。早速返信する。

ーお返事ありがとうございます。ぜひ、お伺いさせていただきますので、その際はよろしくお願いいたします。なお、日時については、お母様のほうにお任せいたしますので、ご都合の良い日時をご連絡ください。お待ちしておりますー

 百合のために空ける部屋の片づけが終わった後、夕食の準備に入った。百合は食事は自分にまかせてと言っていたが、今日くらいは竜也が作ってあげたいと思った。一人暮らしが長いせいもあるが、竜也は料理上手であった。

 しばらくすると、再び葵の母親からメールが届き、今度の土曜日ならOKとのことであった。では、その日でお願いしますと返事を出す。

 百合からはホテルに出る前に電話があったので、今夜の夕食は俺に任せろと伝えると喜んでいた。

 そして、夕食の準備があと少しで終わるというタイミングで百合はやって来た。

「本当に来ちゃいました」 

 インターホンで照れくさそうに言った百合は、案外可愛かった。

「どうぞ」

 わざと素っ気なく答える。

「いい匂い」

 リビングに入って来た百合が肩に下げた荷物を下ろしながら言った。

「そうだろう。案外、俺の料理はいけるんだぞ」

 キッチンから顔だけ百合に向けて言った。

「そう。楽しみ。でも、竜也が料理できるとは意外だね」

「無駄に一人暮らしが長いからね」

「ふふ。無駄かどうかはわかんないけど。それで、葵のお母さんから返事あった?」

「あった、あった。今度の土曜日ならOKって」

「良かったね。私も一緒に行っていい?」

「もちろんだよ。ただ、場所は丸山さんに訊いてほしいって」

「わかった。私が訊いておく」

「頼む。さあ、もうすぐできるからダイニングテーブルに座って待ってて」

「は~い」

 その日竜也が作ったのはミネストローネ、トマトとモッツアレラのサラダ、豚肉と茄子の甘味噌炒め、カボチャの煮物だった。

「えー、これ全部竜也が作ったの」

「そうだよ。ただ、カボチャの煮物は昨日の残りだけどね」

「すごいね」

「まあね」

 自信作ではあったが、百合は美味しい、美味しいと盛んに褒めてくれた。でも、翌日から百合が作ってくれるようになった料理のほうがはるかに旨かった。


1-8

土曜日は朝からしとしとと雨が降っていた。昨夜は封印していた思い出が影絵のように浮かび、なかなか寝付けなかった。雨に潤んだ道路を、百合と駅へ向かう。近づいてくるバスが水蒸気のせいでゆらゆら揺れて見える。

 葵の母親の住まいは吉祥寺にあった。葵の母親の家に向かう電車の中では、自然と葵の話題になる。

「葵に会えるといいね」

 百合が竜也に顔を近づけて言う。甘くやるせない微香がする。浮かびかけた思いを意識の片隅に追いやる。

「お母さん、葵の居所を教えてくれるかな?」

「何か特別な事情でもない限り教えてくれるんじゃない」

「特別な事情って?」

「たとえば、自分の夢を叶えられなかった葵が会いたくないと言ってるとか」

「なるほど。あり得るなあ」

 プライドの高かった葵なら、確かにあり得た。

「でも、大丈夫だよ。きっと会えるよ」

 何の根拠もなかったけれど、励ますように言ってくれた百合の優しさに感謝する。

 吉祥寺駅に着き、徒歩で葵の母親の住むマンションに向かう。すでに雨は止んで、雲の透き間からあやふやな太陽が顔を出していた。

 波紋のように広がる期待と不安。

 奇妙な息苦しさに、胸がざわっとする。

「あっ、あそこよ」

 百合が地図を見ながら小さな公園の先に立つ中層階のマンションを指す。建物の横に書かれたマンション名を見ると間違いないことがわかった。エレベーターで5階に上がり、502号室の前でインターホンを押す。

「はい」

「先日連絡しました松本竜也です」

「お待ちしておりました。今ドアを開けますね」

 しばらくしてドアが開き、中年の女性が顔を出した。子供の頃に会っていたであろうけれど、はっきりとは思い出せない。あまり葵には似ていないように思えるのは、単に時間が経過しているせいだろうか。

「どうぞ、お入りください」

 竜也と百合が通されたのは、女性の部屋らしからぬ、ひどく無機質な佇まいだった。必要な家具はすべてあり、しかもその一つ一つはおしゃれなのに、どこか来客者を拒絶するような冷たさがあった。昼間なのに、LEDがのっぺり白い光で部屋を照らしている。

「すっかりご無沙汰しております。私、蓮沼百合です」

 百合が自分から名乗った。

「さっきから気づいていましたよ。当時は葵と仲良くしてくれてありがとう」

「いえ、こちらこそ。今日は松本君について来てしまいましたけど、よろしくお願いします」

「はい。とにかく、お二人ともお座りください」

 持参した土産を渡し、ソファーに座る。母親はいったんキッチンに消え、飲み物を持って再び現れた。竜也の前にはコーヒーが置かれ、百合の前には紅茶が置かれた。

「葵から竜也君はコーヒーが好きだけど、百合ちゃんはコーヒーが苦手で、いつも紅茶を飲んでいるって聞いてたから」

「覚えていてくれたんですか」

 百合が感激しているのがわかる。

「あの子に関することは覚えているわ。それで、その葵のことが知りたいのよね」

「そうです」

「どこから話したらいいのかなあ」

 そう言って母親は天を見上げるようにしてから話を続けた。

「葵がアイドルになりたくて東京に出たのが13歳の時。芸能事務所の宿舎のようなところに住みながら、芸能部のある学校に通い始めたのはお二人とも知ってるわよね」

「ええ、そこまでは葵ちゃんから聞いてました」

 百合が懐かしそうに言う。

「通学しながら事務所の養成所で歌やダンスや演劇のレッスンを受けていたの。だから、デビューはだいぶ先かなと思っていたんだけど、半年後に軽い気持ちで受けたガールズグループのオーディションに受かってしまったのよ」

「すごい。さすがは葵ちゃん」

 ここでも百合が反応した。

「おかげさまで。それで、事務所としても後押しするから、お母さんも東京へ出て来てサポートしてくださいと言われて、私も上京したわけ」

 母親は当時を思い出したのか、嬉しそうな顔をした。

「今思い出しました。その話は葵ちゃんから聞いたような気がします」

 きっと百合には連絡したのであろう。竜也は葵がガールズグループの一員になっていたことも、その葵をサポートするために母親が上京したことも今初めて聞いた。

「百合ちゃんには話したのね」

「ええ」

 当時を思い出したのか、百合まで嬉しそうだが、自分だけ蚊帳の外のようで竜也は少し寂しかった。

「実は当時私たち夫婦はうまくいってなかったから、私としても東京に出る理由づけができて歓迎でした。葵が入ったガールズグループはそれなりに注目されてファンもつき始めていました。ただ、全員まだ学生だったため活動は制限されていましたけどね。学校、事務所でのレッスン、アイドルとしての活動すべてをやるのは大変だったと思いますけど、葵は心底楽しそうでした。なので、私も葵の夢にすべてを捧げようと決心したの。私にはそうしなければならない理由があったからでもあるんですけど」

「理由ですか?」

 すごく気になったので竜也が口に出した。

「ええ…」

 だが、母親はすぐには話さなかった。

 眉根を寄せ、一瞬空洞のような無表情になった。

 何かに必死に耐えているようでもあった。

 足元が沈み込んでいくような疑問に心が不安になる。

 母親が見せた表情はこれから話されることが聞く者の心を暗く閉ざすようなものであることを示していた。

「葵は…、葵は、実の父親である私の夫に性的暴力を受けていた時期があるのです」

 脳味噌の中を走っている無数のか細い神経が一斉に痙攣を引き起こした。ざらついた感情が胸の内に滾る。自分の思い出までが土足で汚されてしまったような気持ちになる。

 百合の身体がショックのあまり、小刻みに震えている。同じ女性である百合だからこそ、実の父親から性的暴力を受けるということの惨さを感じとってしまったのだろう。

 竜也はあの時葵から聞かされた『死にたいほど苦しんだ』という言葉の真意をここで知ることになった。父親に対する激しい怒りと憎しみで心の中が黒く染まる。今さらながら葵が果てしなく深い孤独の沼に怯えていたことに、涙もなく慟哭する。

「葵が恐怖で言えなかったのに、私がすぐに気づいてあげられなかったんです。どれほど後悔しても後悔し尽くしきれないことでした。そんな夫とうまくやれるはずもありませんよね。私はすぐに夫に離婚を迫りましたが、夫はなかなか受け入れませんでした。なので、私は葵のこともありましたので、一人で東京に出て、それからは弁護士を入れて進めるようにしたのです。それでも、思うように離婚の話は進みませんでした。それは、夫の葵に対する執着が強かったからです。夫も私たちを追って東京に出てきましたので、そのタイミングで、双方の弁護士同士で協議を重ね、ようやく離婚にこぎ着けました。夫ももともとは理性的は人です。ようやく気付いてくれたということです」

「そんなことがあったとは知りませんでした」

 何も言えずにいた竜也に代わり、百合が答えてくれた。

「葵も、私も誰にも言えませんでした」

 葵の父親の葵に対する異常な愛情のことは、百合の父親の話として聞いていたが、他人の目から見てもそう思える状態だったことに驚愕する。研ぎ澄まされた心がとらえようとしているのは虚空に浮かぶ真実だ。

「夫の問題が解決したので、葵のサポートだけを考えました。正社員になってしまうと融通がきかないと思ったので、パートの仕事をしながら全力を注いでいました。幸い、葵の属するガールズグループの認知度も徐々に上がってきて、事務所も本格的なプロモーションを始めてくれた時でした…」

 突然言葉が途切れ、母親の顔が歪んだ。

 いくつもの異なる感情が交錯しているようだった。

 やがて、身体が震え出した。

 黒々とした不安が立ち昇る。

 葵に何があったというのだ。

 訊きたかったけど、怖くて訊けない。

 ただ、母親の次の言葉を待つしかなかった。

 百合も同じ思いなのだろう、身じろぎもしなかった。

「取り乱してすみません」

 母親は端正な顔立ちをした人形のようになりながら、虚空の中の一点を凝視していた。

「いえ」

「葵たちが都内のショップで行われた新曲発売のイベントに参加した後です。葵が迎えのマイクロバスに最後に乗り込もうとした時、刃物を持った一人の男が葵をめがけて突進してきて…」

「……」

 すっと身体の芯が冷たくなるのを感じた。喉の奥から感情が飛び出しそうになりながらも、あまりのことに竜也も百合も言葉も出なかった。

「あの子は、ほぼ即死でした」

 透き通った希望と夢の感触を自分のものにしようとしていた矢先に暴漢によって無残にも幕を下ろされてしまった。たとえ、夢が破れたとしても、夢の形が変わったとしても、葵には生きていてほしかった。

 心の闇の底で歯ぎしりをする。

 言葉にならない言葉が血を吐いている。

「そんな。ひどい、ひどい」

 百合が泣きながら叫んでいるのを、竜也はただ茫然と眺めることしかできなかった。衝撃が大きすぎると涙すら出ないことを知る。こんな酷い結末を誰が予想しただろうか。気がつくと、竜也は握りこぶしを作つて自分の腿を何度も何度も叩いていた。百合の嗚咽が続く中で、ようやく落ち着きを取り戻した母親が静かに言った。

「犯人の男は、もともと葵のファンだったようですけど、SNS上で葵に無視されたと勝手に思い込んで憎悪を募らせていたらしんです。でも、葵に対しての暴言とか殺害予告とかは一切なくて、いきなりだったので事務所としても手の打ちようがなかったということなんです」

「そうでしたか…」

 記憶の中ではきちんと再現できる葵の顔を思い浮かべながら竜也は、かろうじて言葉を発した。

 秒針が時を刻む音だけがやけに大きく響いている。

 広い海に浮かぶ小さな孤島のように自分が頼りなくなる。

 どうすれば救われるのかがまったくわからない。

「隣の部屋にいる葵に会ってくれますか?」

 母親の言葉に初めて気づいた。

 そうか。

 葵はさっきから隣の部屋にいたのか。

 会いたい。どんな形でも会いたい。

「はい」

 母親について隣室に入る。立派な仏壇の中に葵はいた。遺影はアイドルとして活躍をし始めた頃のものだろう。化粧をした葵は、より綺麗になっていたけど、その中にはちゃんと自分の知っている葵がいた。満面の笑顔はファンに向けられたものだろうけど、ちょっとだけ右唇を上げているところは変わりなく、今自分に微笑みかけてくれているように思える。

 それまでずっとずっと耐えていた涙が溢れ出した。いったん溢れ出た涙は決して止まらなかった。畳を睨めつけるように身体をこわばらせていた。涙声は、喉の奥が力んでかすれたうなり声のようになっている。悔恨の底知れぬ深さだけをただ見つめ号泣した。そんな竜也の背を、今度は百合がさすってくれている。しかし、その百合も泣き続けているのがわかる。

 竜也の中では、あの花火の日に自分のためだけに歌ってくれたUruの「あなたがいることで」を歌う葵の歌声がずっと流れていた。

 

 どんな言葉で

 今あなたに伝えられるだろう

 不器用な僕だけど

 ちゃんとあなたに届くように


 明日が見えなくなって

 信じることが怖くなって

 過去を悔やんでは責めたりもしたけど

 僕を愛し続けてくれた人


 もしも明日世界が終わっても

 会えない日々が続いたとしても

 僕はずっとあなたを想うよ


 あの日僕にくれたあなたの笑顔が

 生きる力と勇気をくれたんだ

 星が見えない 孤独な夜でも

 あなたがいる ただそれだけで

 強くなれる


「これ、竜也君が葵にくれたものよね」

 二人が少し落ち着いたところで、母親が竜也の前に指し示したのは、竜也が葵のために渡した、あの巾着袋だった。中にはお守りが入っている。

「そうです」

「葵はこの巾着袋を竜也君からもらった大切なものだからと言って肌身離さず持っていました。自分たちのグループが人気が出始めたのも、このお守りのおかげだし、このお守りがいつも自分を守ってくれているんだと言って。それなのに、あの日に限って、新曲の衣装に着替えた際、メンバーの一人がふざけて自分のバッグに隠してしまったらしいの。もちろん、後で返すつもりで」

「そうだったんですか…」

 もし、葵がいつものようにお守りを持っていたら結果は違ったんじゃないかと思いたいとう母親の気持ちが痛いほどわかった。本当のところはわからないけれど、そう思うことで母親の気持ちが少しでも楽になるのであればと思う。

「でも、形見ですからお母様にお持ちいただいたほうが」

「ううん。葵は竜也君に返してもらいたいはず」

「そうですか。わかりました。大切にします」

 一緒に食事でもという誘いを断って葵の母親の家を辞した。夕闇が竜也と百合を覆うようにすっぽりと包んでいる。駅への向かって歩き出したが、二人に言葉はなかった。どちらかが何か一言いえば、その場に頽れてしまいそうだから。電車に乗って多くの乗客の中に紛れ込むことで、ようやく会話ができた。

「竜也、ああいう形で葵と会うことになって後悔してる?」

「いや…」

 そう答えたが、本当のところは自分でもわからなかった。事実を何も知らず、一生葵のことは当時のままにしておいたほうが良かったのか。ああいう形でも再会できたことが良かったのか。でも、今、後悔はしていない。

「まったく後悔していないよ。結果は悲しかったけど、最初からどんな結果でも受け入れるつもりだったから」

「そう…。竜也って強いね。私は全然ダメ」

「別に強くないさ。辛いのは俺も同じだよ。でも、俺たちにできるのは、短かったけど葵が懸命に生きた時間を愛することだと思うんだ」

「そうだね。そうだね…」

「おい、ここで泣くなよ」

「わかっているよ」


1-9

 葵の母親の家から帰ってから3日後の日曜日、いつもと同じように百合が作ってくれた朝食を食べていると、百合が箸をおいて話し出した。

「あのさあ、葵のことも済んだんで、私一昨日から就職活動を再開したのよ」

「そうか…」

「そうしたらね、なんと昨日就職先が決まったのよ」

「急な話だね。大丈夫なの?」

「大丈夫。私が前から狙っていた会社だから」

「それならいいけど…」

「それでね。住まいを探すことにした。竜也に甘えてここに住まわせてもらえて本当に感謝してる。ありがとう」

「いや、こっちこそ食事のこととか、感謝してるぜ」

「ほんと?」

「ほんとだよ」

「でも、いつまでも甘えているわけにもいかないし。決り次第、ここを出ていくから、その時は連絡するね」

「わかった」

 そういう約束だった。食事が終わり、百合は後片付けのためにキッチンに入った。竜也はリビングに移り、テレビをつける。しばらくすると、百合は自分の部屋に戻った。竜也はテレビ画面に目を遣っていたが、ふいに感情が波のようにやってきた。

百合とは幼馴染だったからそれなりに知っているつもりだっけど、今回共同生活をする中で気づいたことも多くあった。心細げで子供っぽい言い方をすることがあるかと思えば、まるで竜也の母のように柔らかな低い声でアドバイスをしてくれる。いつも明るく竜也を迎えてくれるけど、時々見せる俯き気味の顔は愛おしくて胸が締め付けられた。とにかく気配りのできる女性なのに、妙にドジなところもあって可愛い。

 知れば知るほど、竜也の中で百合がかけがえのない存在になっていたことに、竜也自身気づいていた。

 竜也は百合の部屋の前まで行き、中にいる百合に声をかけた。

「百合、聞こえる?」

「聞こえるけど、何?」

「そのままドアを開けないで聞いてほしい」

「わかったけど…」

「今度は俺からの一生のお願いがある」

「えっ、どういうこと?」

「お願いだから、ここを出ていかないでくれるか」

「……」

「百合、聞いてるか?」

「うん。それってさあ」

「プロポーズだと思ってくれていい」

「……」

「俺、すぐそばに自分にとって一番大切なものがあるって気づいたんだ」

「……」

 今度も返事がない。だが、それは違った。百合のすすり泣きのような声が聞こえたからだ。故郷で再会してから今日までの記憶が走馬灯のように頭の中を巡る。

 自分は今どうすべきか? 

 百合の部屋のドアを見ながら逡巡していた時、いきなりドアが開かれ、思い詰めたような表情の百合が竜也に抱きついてキスをしてきた。百合の温もりが竜也の身体に伝わってきた。長めのキスが終わり、身体を離した百合に一応確認する。

「返事は?」

 百合のはにかんだような口元を見て訊いた。

「OKに決まってるじゃない。私はずっと、ずっと待ってたのよ」

 きっと本音なのだろう。卵形の小さな顔に涼しく切れ長の目には涙の後が見えた。それが、あまりに眩しくて竜也は少し横を向いて言葉に感情を乗せずに言った。

「それは知らなかったな」

「嘘」

「お互い遠回り道しちゃったけど、やっと正解にたどり着けたね」

「うん」

 半年後に二人は結婚した。

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