第1章Ⅰ

 迷路のようなその道を照らすものは少なく、容赦なくこの場を暗闇で覆おうとする。

 その闇に溶け込みそうな、黒いスーツをきっちりと着た男はネクタイに指をかけ緩める。シャツの袖から覗く手首には黒く〝KANATA〟と表記されている。それは自身の、この男の名前であった。

 壁に片手をつき屈んだ状態でそっと顔を出す。

 人影が見える。顔までは見えず輪郭がぼんやりと分かるくらいだ。

「これじゃあ下手に動けないな」

 カナタは舌打ち混じりに言う。ゆっくりと息を吸うと静かに吐く。どうやら体が強張っているようだ。

 それは見えないものへの不安感か、それともいつも隣にいる〝あいつ〟がいないことへの恐怖心か。

「どこに行ったんだ。イツキ……」

 あの人影が何者なのか把握できるまでは下手に動けない。カナタは息を潜める。

「動くな」 

 突然、後ろから掛けられる声。そして振り向く間もなく後頭部に嫌な感触があたる。

 カナタの背後をとったその人物は、そのまま頭に押し当てたものを左右に動かす。

「やめろ、痛いだろ……」

 カナタは眉間に皺を寄せ後ろへ向いた。

「だってカナタ、緊張してたみたいだから」

 その人物は押し当てていた拳をパッと開きおちゃらけた表情をする。袖の隙間からはカナタと同じようにアルファベットが見える。

「イツキ、どこ行ってたんだ」

「迷い込んだ野良猫と、ちょっと遊んでた」

「遊んでる場合じゃないだろ」

 イツキと呼ばれたその男はカナタとは対照的だった。同じスーツではあるがシャツのボタンは上二つまで外されていてネクタイはしていない。

「お前がここにいるってことは、あっちにいるのは……」

「ああ、それならもういないと思うよ」

「何言ってるんだ……」

 カナタは訝しげにそう言った。

「ほら立って立って」

 イツキは何の躊躇いもなく壁から出ると、その人影の方へ体を向けて立った。

「おい!」

 カナタは慌てて立ち上がりイツキの横へ立つ。

さっきまで確かにいたはずの人影はどこにもなかった。

「どこに行ったんだ……」

「帰ったんじゃない? 俺らも今日は帰ろうよ。業務終了」

 呑気な声で言うイツキを睨み、カナタは口を開いた。

「猫と遊んでたんじゃないのか」

「俺にとっては遊びだけど。他の人からしたら違う解釈になることもあるだろうね」

「……分かった」

 イツキはカナタがこの状況に納得していないことは分かっていたが、これ以上話す気もなかった。

「ほら行こう。世界を元に戻さないと」

「ああ」

 突如として道は形をなくしていく。それらはインクのようになりカナタとイツキの足元へ広がった。

 空は色を取り戻し、太陽がアスファルトを照り付けると、その二人の姿は消えていた。


第1章Ⅰ

「俺が行きます」

 青年は切れ長の目をその男から逸らさず見据える。

「うーん、でもねえ……」

 男は青年のその射貫くような視線に顔を引きつらせ、目を逸らす。青年より三十ほど年上に見えるその男は、この場の中心に立っていた。

「何を気にしているのか知りませんけど、俺ならすぐ終わらせられます」

 青年は横に立つ男を横目で見て言う。

「〝俺〟じゃなくて〝俺たち〟ね。ハルト」

 ハルト。この青年の名前だ。後ろで椅子に腰掛けカップに口をつけている男は、ハルトを咎めるでもなくのんびりとした口調で言う。

「一人でやった気になっているような新人に、任せるような業務ではありません。そもそもこれは俺たちが任されている案件だ」

 青年には目も向けず、カナタは前を見たままカナタは口を開いた。

「そういう堅い考えしかできないから、いつまでもこんな部署に残ったままなんじゃないんですか」

「何が言いたい」

「こらこらハルト君。先輩に向かってそういう言い方はよくないよ」

 男は宥めるように言うが、ハルトに睨まれるとまた委縮してしまった。

「ほーら喧嘩しないよー。カナタも、大人気ないぞ」

 間に入ったのはイツキだ。この二人の仲裁はイツキの役目になっていた。

「対等に相手をしてやっている」

 イツキは一瞬驚いた顔をしたが、すぐに困ったような笑みを浮かべた。

「ハルト君のやる気はもちろんありがたいけどね、カナタの言う通りこれはもともと俺たちの案件だから、相手のことは俺たちがよく分かってるつもり。だからここは任せてくれないかな。〝こんな部署〟にしかいられない俺たちの顔を立てると思ってさ。それに、A地区がどうやらバタバタしてるそうじゃない。ねえサカイ部長」

 イツキが間に入ってくれたことに、安心しきった表情をしていた男、この部署の部長であるサカイは〝A地区〟という言葉に分かりやすく動揺する。

「えっ! ああそうみたいだけど……もしかしてイツキ君、それはさあ」

 何かを察したようにその表情はまた曇る。

「ハルト君たちはそっちに応援に行ったらいいんじゃないかな」

「イツキ君、それはさすがに同意しかねる。ハルト君はまだ新人だ。A地区には……」

「俺もそれは反対だなあ」

 イツキはその声に反応し後ろを向く。ずっと傍観者を決め込んでいた男は椅子から立ち上がりこちらへ近付いた。

「アサヒさんがいるから大丈夫でしょう?」

「買い被られてもねえ」

「正式な応援要請だって来てないんだよ……」

 サカイのその言葉が合図になったように部屋の電話が鳴った。

 サカイは嫌な予感に溜息をつき電話を取った。

 一言二言発し電話を切ったサカイは困ったように顔を向けた。

「A地区から応援要請だ。だがこれにはイツキ君たちに行ってもらう」

「行かせてください」

 すかさず言ったのはハルトだ。

「いいですよねカナタさん。そっちは自分たちの案件なんでしょう?」

「状況がさっきとは違う」

「都合が良すぎるんじゃないですか?」

 挑発に乗るつもりではないが、カナタはこれには反対の意思だった。〝状況〟が違うのだ。

「ハルト君の言う通りだよカナタ。最初にダダをこねたのはカナタだろ。ほら急がないと。部長、大丈夫ですよ。そのためのアサキさんとのペアでしょう?」

「……分かった。確かにこれ以上揉めてる時間はないからな。よろしく頼むよ、皆」

 

 イツキとカナタ、ハルトとアサヒは部屋を出て、それぞれの目的地へ向かう。

「イツキ」

 部屋をでてすぐ、アサヒはイツキを呼び止めた。

「何です?」

「あんまりうちの子いじめないでくれよ」

 表情こそ笑っていたが、声音はそれとは正反対のようだった。

「いじめてなんかないですよ」

「ならいいんだけどな。それじゃあお互い頑張ろうな」

「ええ」

 アサヒは駆け足で先へ行くハルトを追いかけていった。

「じゃあ俺たちも行こうかカナタ」

「……ああ」


 物を失くすこと、時間が過ぎるのを早く感じること、それらは不注意でも錯覚でもないとすれば何だろうか。

 それらを〝奪っている〟者がいるとしたら。


「A地区が雑用係にまで応援要請なんて、よっぽど切羽詰まってるのかな」

 現場に向かいながらイツキは呑気な声を出す。

「雑用係じゃない。地区巡回部だ」

「そうだったね」

地区巡回部。サカイ、アサヒ、イツキ、カナタ、そしてハルトの五人からなるこの部署。AからFに分けられた各地区にはそれぞれ担当の管理部、そして各管理部に所属する〝管理史〟がいるが、地区巡回部はそのどこにも属さない、すべての地区の管理部署だ。


「バタバタしてるってお前言ってただろ。何か知ってるんじゃないのか」

「うーん、なんか最近強いリードが現れたとかで。B地区もC地区も自分たちの地区でいっぱいいっぱいだとか。それで、A地区に人員が回せなくなってるんでしょ」

「強いって、実力のあるリードがいるってことか?」

「そうだよ?」

 カナタは足を止めた。それにつられてイツキも立ち止まる。

「どうしたのカナタ」

「それを知っててどうしてハルトを行かせようとした。A地区の奴らだって俺たちが来ることを前提に応援要請をしたんじゃないのか?」

「アサヒさんがいるだろ。大丈夫だよ。あの人の強さ知ってるでしょ。俺ら二人がかりでも敵わないよ」

「本気で言ってるのか」

「ふざける内容じゃないでしょ。それにハルト君だって優秀だよ。ほら、俺らは俺らの仕事をしないと」

 イツキはそういうと背を向けて歩き出す。

 カナタはそれ以上追及することはせず、イツキの言う通りアサヒさんがいるからと、カナタ自身、心のどこかでそう思っていた。


 リード。そう呼ばれるその存在は、〝奪う者〟とも言われている。世の中のあらゆる物体、空気、時間をも人々から奪うその存在は、管理史の敵である。管理史はリードから奪われたものを取り返すために存在している。

 管理史は個人個人でその能力には差がある。それはリードも同じだ。それに対抗すべく作られたのが管理部。AからFまでの部署に分け、その順番に能力の高い管理史を所属させている。

 上級管理史が担当しているA地区には同じく能力の高いリードが現れる。といってもそれは確率でしかなく、E地区やF地区にA地区相当のリードが現れることもある。イレギュラーが起これば適任の部署へ応援要請を入れるようになっているのだが、その適任が回せない場合に要請が来るのが地区巡回部だ。

 すべての地区を把握、管理しているこの部署はそういう〝人手不足〟を補う部署であり、他部署からは雑用係と呼ばれることもあった。


「ハルト、クリップはどうしようか? 俺が創ろうか」

 A地区の管理棟へ向かいながらアサヒはハルトに尋ねた。

「俺にやらせてください」

「カナタを見返したいもんな」

「……からかわないでください」

「ごめんごめん。でもまあ、それなら任せるよ」

「はい!」

 その威勢のいい返事を聞いても、アサヒは不安感を完全には拭えないでいた。

 確かに〝俺がいる〟から大丈夫だという自負はあったが、A地区に、しかも最近のリードの能力を考えると、現場に慣れていないハルトを投入するのはやはり抵抗があった。

 クリップは街に現れるリードと戦うための創造空間。現実空間に悪影響を及ばさないように創られる架空の空間だ。

 リードを見つけ次第クリップへ相手を引きずり込む。管理史はペアで行動するのがほとんどだ。中にはそれを拒みいわゆる一匹狼もいるがそれは例外だ。

 ペアのどちらかがクリップを創る。クリップは自由に創造できるため、能力の高い管理史ほど〝複雑な空間〟を創造できる。お互いが動きやすい空間、かつ相手を錯乱させることができる空間。その両立が基本である。だからお互いのことをよく把握することが重要であり、理想の空間を創れる管理史がクリップを担当する。

〝自由に創造〟出来るといっても、何もかもが都合のいいわけではない。その特性を把握して戦えるものは多くはないのだ。

 アサヒとハルトはまだペアを組んで日が浅い。演習訓練は行っているがまだお互いのことを把握しているとはいいがたかった 。

(本当なら、俺が創るべきかもしれないが……)

 アサヒは不安を残しつつ、現場へ向かった。


「いるな」

「だね。じゃあ始めますか」

 イツキはそう言うと、腰のホルダーに挿していたリムーブを足元へ向けて撃った。

 その瞬間光が充満し、晴天はあっという間に闇に飲まれた。

「お前はどうしてわざわざ暗くするんだ。敵が見えづらい」

「それは敵も一緒だよ。暗い方が俺はやり易いね。それにカナタを間違って撃ったりなんてしないよ」

「俺はお前を撃つかもしれない」

「危ないなあ。気を付けてよ」


「地区巡回部のアサヒです。応援に参りました」

「アサヒさんじゃないですか! お久しぶりです! てっきり応援にはカナタ君たちが来るのかと」

「久しぶりだなコウ。相変わらず元気そうだ。あっちは今案件抱えててね。それに、この子、実践踏ませたくて」

 A管理部所属のコウはアサヒの隣に立つ人物に顔を向けた。

「地区巡回部のハルトと言います。本日は宜しくお願い致します!」

「A管理部のコウです。本日はありがとうございます。いやあ優秀そうな子が入ってますね」

「だろ。今の俺のペアなんだ」

「ペアできて良かったですね。一人は寂しいって言ってたから」

「誰かさんがAに昇格なんてするからな」

二人の会話を隣で聞いていたハルトは口を開く。

「コウさんって……いたっ」

 横を通り過ぎたその男がわざとぶつかって来たのは明白だった。

「おいっ……」

「ストップ」

 声を上げようとしたハルトの口元にアサヒは手を添えてそれを制止する。

「相手にするような奴らじゃないさ」

 ハルトは納得いかないというように顔を顰める。

「雑用係の新人にA地区が務まるかよ」

 わざと聞こえるように言われている。それが安い挑発だとしてもハルトは相手を睨みつけた。

「ハルト、ダメだよ」

「……」

 ハルトが口を開くより先にアサヒはハルトを窘める。いつもとは違うその声音に、ハルトは何も言い返すことはできなかった。

「気にしなくていいですよ。僕だって未だに言われるんですから。『雑用上がり』って」

「コウさんは元々巡回部だったんですか?」

「そうだよ。ハルト君の前にアサヒさんと組ませてもらってたんだ。いやあアサヒさんとペアなんて羨ましいよ」

「またそういうことを言う。ほら、こんなのんびりしてていいのか」

「そうでした! では扉開きます」

 コウは後ろへ向くと壁を二回ほど叩いた。真っ白で何もなかったはずのその壁に亀裂が入りそこを境に左右に壁がスライドした。

「凄い……。扉を創るなんて」

「コウは空間創造が飛びぬけて優秀だからな。正門を通らなくても街へ降りれる」

「お気をつけて」

「ありがとうな。んじゃ、さっさと終わらせようか。行くよハルト」

「はい!」


「くっそ! 相変わらず分けわかんねえもん創りやがって」

「お褒めいただき光栄だね。クレイ君」

「へえ、名前憶えてたのか。俺はお前の名前なんて忘れたけどな」

「俺のこと、指名するくらい大好きなのに?」

「ちっ……」

 イツキはその舌打ちとほぼ同時に動きだした。リムーブと呼ばれる銃をクレイへ向けその腰についている〝四角形の箱〟へ向かって銃弾を撃ち込んだ。

 クレイは難なくその弾を交わし同じく銃をイツキへ向けた。

「おっと」

 イツキは後退しながら壁を何層も自分の前に作り上げる。

 この空間はイツキの創造物。この空間においてイツキは絶対的存在でありどんな物体も自由自在に創れる。動きながら思った通りに空間を変形させるのは簡単なことではない。だがイツキの表情からは何の迷いも焦りも見られない。むしろこの状況を楽しんでいるようだった。

 クレイの弾丸はその壁を、まるでそこに何もないかのように貫通する。イツキは壁を足場にし駆け抜ける。

 ナイフのような小型の刃物が飛んでくる。イツキは壁から地面に着地しそれを交わすとそのままの低い姿勢でクレイの足元へ体を滑らせる。

 クレイは軽く脚を上げイツキが振り上げた脚を避けると上体を倒し左手でイツキの顔を掴み地面へ押しつける。その反動で一回転し地面へと着地する。

「いったあ……」

 イツキはゆっくりと体を起こす。

「乱暴だなあ。こぶにでもなったらどうすんの」

「そりゃちょうどいいな。俺はお前みたいなお綺麗な顔した奴が嫌いなんだ」

「良く褒めてくれるね。それじゃあ特別に……」

 イツキはリムーブを天井へ向け撃つと黒に塗りつぶされた空間は目に痛いくらいの白へと変わった。

「明るい方が俺の綺麗な顔が良く見えるよね」

「本当にうぜえ野郎だ」


「イツキ?」

 暗闇は晴れ視界はどこを見渡しても白色だ。迷路のように複雑化されているいつもの壁の道も変化しているようで、壁に背を預けていたはずの体は支えがなくなりよろける。

「おっと……」

「よろけてる場合か?」

 声がしたのは頭上、カナタはすぐさま腕を伸ばしリムーブを向ける。

 落下してくる相手のネオファイルに上手く照準を合わせられない。

(くそっ)

 カナタはリムーブを下ろし相手を交わす。リードの踵が頬を掠る。

 後退し距離をとる。

「何か、前より動き鈍くなってないか?」

「余計なお世話だ」

「クールなとこは変わってないみたいだが。にしても、あんたの相方は気まぐれだな。やりにくいったらない」

「それには同感だな。リード」

「その呼び方はやめてくれよ。ヒビキだ」

 ヒビキと名乗ったリードは銃を構えた。カナタもそれに倣うようにリムーブを構える。

 狙っているのは相手の心臓ではない。リードの腰に下げられている四角形の物体。ネオファイルという。あの中には〝奪った〟様々なものが入っている。

 そもそも心臓を狙ったところでリードを死に至らせることはできない。リムーブは攻撃に特化していない。あくまでネオファイルから奪われたものを元の場所へ戻すだけの銃だ。

 直接本人を狙うにしたって気絶させられるくらいだろう。

 だがリードの銃は違う。心臓にでも当たれば、〝死〟だ。

 

「アサヒさん。いました」

「よっし、じゃあいっちょかましますかね。ハルト、頼んだ」

「はい」

 ハルトはリムーブを足元へ撃つ。そこから広がった白はリードと共にハルトとアサヒを取り囲む。

 四角形や円形、三角形、様々な形、素材でできたオブジェが浮かぶハルトの創造空間。

「いやあやっぱりいいね。ハルトのクリップ。戦いやすいし、見渡しやすい」

「あの、何か問題があれば言ってください」

「全然。むしろハルトの動きやすいようにどんどん変えちゃっていいよ。俺はちょっとスリルがある方が好きだから」

「俺、アサヒさんのそういうとこは、ちょっと苦手です」

「ははっ、ハルトは素直だな。俺はハルトのそういうとこ好きだけどね」

 ハルトの溜息が聞こえるのと同時に、銃弾は二人の間に落ちてきた。

 先に動いたのはハルトだった。

 オブジェを踏み場にして相手へと一気に距離を詰める。

 脚に力をこめ飛びあがると同時にホルダーからリムーブを二丁取り出す。

 相手が抵抗する隙もない。ハルトが〝優秀〟だと言われる所以はここにある。

「やるね、君」

「なっ……!」

 確かに当たったと思ったのに、その声は後ろから聞こえた。

 振り返ると目の前にあったのは銃口だった。

(避けられない……!)

 次の瞬間相手の銃身が揺れ弾はハルトに当たることなく顔横を通り過ぎる。

 ハルトは上体を捻り足場を創る。

「ハルト大丈夫か!」

「はいっ……」

 ハルトが銃口を向けられた瞬間、アサヒは咄嗟に相手の銃にリムーブを撃った。

「間一髪ってか。確かに手ごわいみたいだな」

 アサヒはハルトの無事を確認するとすぐに正面へ向き直る。

「なかなかの動きだな。さすがA地区の担当ってところか。けど、あのガキは弱そうだ」

 アサヒの前に立つのはこの空間にいるもう一人のリード。ハルトが戦っている相手とはまた違う雰囲気を持った男だった。

「そりゃどうも。だけどあの子は舐めない方がいい。優秀な新人だ」

「へえ。A地区に新人なんて、初めて当たったな」

「だろうね。俺たちはA地区担当じゃないんでね。もっと特別な管理史なんだ」

「特別ね。それじゃあ、その特別とやらを見せてもらおうかな」

 アサヒは相手が銃を構えるのをしっかりと見た。

(こっちを早く片付けないとな)

 アサヒも同様に銃を構える。その瞬間に足下に気配を感じた。

「へえ、随分早く動けるんだな」

 いつの間に移動したのか、リードはアサヒの足元に屈んでいた。それを確認したのも束の間、リムーブを握る手を払われそうになる。アサヒは弾を放ちながら間合いをとる。

「いい反応だ」

「どうも」

「トウマだ。あんたは?」

「アサヒ」

「アサヒ。簡単に終わってくれるなよ」


「ちょっとクレイ君。俺はこの状況で無駄な争いは避けたいんだよね」

 イツキは壁を創りクレイの銃弾を防ぐ。その手にリムーブはなく、ホルダーに仕舞われていた。

「うるせえな! だったらさっさとここから出せよ」

「もうちょっと我慢してよね。俺の相方がまだ頑張ってるみたいだからさ」

 イツキはクレイのネオファイルを撃ち終わっていた。奪われたものは元に戻りこれで任務完了。これ以上は何もする必要はない。だけどリードにとっては別だ。

 奪われたものは〝元に戻る〟。あるべき場所に戻るのだから、管理史を攻撃したって取り返すことはできない。それでもリードが攻撃を止めないのはただ単純に、〝邪魔になる者〟を消すためだ。

 管理史の業務にリードを消すことは含まれていない。任務が完了次第クリップを解き、後は去るだけだ。

 イツキはカナタが戦っている方角を見た。

「カナタ、まだ終わんないのかなあ」

「おい、余所見してんなよ。つか、なに銃仕舞ってんだ!」

「だから無駄なことはしたくないんだって。……あっ!」

 イツキは百メートルほど先の壁の上にカナタを確認した。

「はーい終了。さすがにもう懲りてよね。クレイ君」

「おいっ、まっ……」

 イツキはクレイの言葉を待たずリムーブを空に撃ち、クリップを解いた。

 空間は歪み、壁は液状となって足元へと広がった。


「クリップ解いたら部屋のベッドの上にってできないのかな。俺疲れちゃったから横になりたいよ」

「そんなに動いてないだろ」

 イツキとカナタは下界への入り口の一つである第七正門の前にいる。空間を解けば、下界へ降りる際に使用した門へと返還されるのだ。

「今日は俺結構動いたんだよ。って、あれ? カナタ、頬っぺたどうしたの?」

「ん? ああ、蹴りをいれられたときに避けきれなかった」

 イツキはその傷に手を伸ばす。

「おい、触るな。痛いだろう」

「ねえ他に傷は? 大丈夫? ごめんすぐ助けに行けばよかった。ごめんね。ごめんねカナタ」

 イツキは目を泳がせ突然に落ち着きを失くす。カナタの頬に触れているその手は震えている。

「落ち着けイツキ。俺は大丈夫だから」

 イツキははっとしたように手を離す。

「ごめん……」

「大丈夫だ。ほら、早く帰ろう」

 カナタは、イツキのその怯えるように震えた声を、表情を、今までも見たことがあった。それは決まって自分が怪我をしたときだとも分かっている。どんなに強い相手だろうが、戦況が不利になろうが、イツキが怯えるなんてことはないのだ。


「はあ……はあ……」

 ハルトは何とか息を整えようと四方を囲む壁を創り、リードの攻撃を防いでいた。だが、防いでいるだけでこちらからの攻撃は殆どできないでいた。

「くっそ……。防ぐばかりじゃ体力が減るだけだ」

 もうずっとこの状況が続いている。いくらこちらが撃とうがそれはかわされ次の瞬間には敵の射程圏内に入っている。空間を創るのも上手くできなくなっているのが分かる。イメージを固められない。思うような動きができないことへの焦りと苛立ちはさらに調子を狂わせる。

 ハルトは壁から顔を出し相手を見る。

「やっと出てきた。君もう戦えないんじゃない? 僕だって弱い者いじめはしたくないんだ」

「それはこっちのセリフだ」

「口は減らないね」

 アサヒの様子はハルトからもちゃんと見えている。ネオファイルを撃ったのも確認済みだ。けれど相手のリードが戦いを終わらせない。心のどこかで、アサヒが助けに来てくれることを期待している。それを自覚するのをハルトは拒んでいた。

(ここで引いたら、あいつを、あいつらを見返せない)

 子供じみたことだと、くだらない維持だとも思う。だけど、ハルトはアサヒに助けてということも、この空間を解き、強制的にこの戦いを終わらせることもしたくないのだ。

 ハルトは壁から飛び出ると大小様々なオブジェを盾としながら相手との距離を詰める。

「ホント懲りないね」

 リードは休めることなく銃を撃つ。距離五メートル。リードは空いている手に小型の刃物を持ちそれをハルトへ向かって投げた。

 ハルトはオブジェを蹴り跳躍し避ける。空中からリードの手元を狙い撃つ。リードも銃口を上に向け弾を放つ。リードの銃弾はハルトの足を掠った。一方でハルトの銃弾は相手の手首に当たったようで弾かれるようにしてリードの手からは銃が離れた。

(今……!)

 リードが銃を持ち直す前にハルトはその銃を球体の箱に封じ込めた。

「……なっ」

 相手が動揺したその一瞬にハルトは落下する勢いでリードの頭を掴みそのまま下へ押しつけた。そして背後に回って銃を構える。リードは咄嗟に体をこちらに向けた。

 ハルトはネオファイルに向かってリムーブを放った。

 銃弾はネオファイルに当たり、奪われたものが返っていく。

「なんだ、まだ動けるんじゃん」

 リードのその表情は笑っていた。

「ハルト! クリップを解け!」

 まだリムーブを構えたままでいたハルトはアサヒの声にハッとする。

 オブジェは崩れ始める。それはリードの銃を閉じ込めた球体も例外ではない。リードは解放された銃を手に取った。

 そのとき、リードがハルトに向かって何か言ったように見えたが、その声が届く前にクリップは解かれた。


 カナタは部屋へ戻ると言ったイツキと別れ、C管理棟へ向かっていた。

「医務室まで遠いな……」

 カナタの目的はC管理棟というより、そこにある医務室だった。

 医務室には二種類あり、一つは治療担当が常駐しているD管理棟医務室、通称〝ホンジョウ室〟。ホンジョウというのは医療担当の人物の名前だ。そしてもう一つはC管理棟医務室。ここは軽症を負った管理史が自由に出入りできるようになっている。

カナタはC棟医務室へ向かっていた。

カナタたちがいた第七正門は中央棟にある。中央棟には下界へ降りる正門が七つ、円形の棟に沿うように並んでいる。そして棟から真っ直ぐに通路が伸び、AからF管理棟、そしてカナタ達地区巡回部などが利用するN管理棟が中央棟を囲むように建っていた。

 管理史はそれぞれの所属する棟に自室を持っており、そこで生活をしている。だいたいは皆〝棟〟と略すことが多いようだった。

 カナタはA棟へ向かって歩いていた。各棟はA棟を正午の位置に合わせると、そこから時計回りに順に並ぶ。N棟からC棟へ行くにはA棟を通っていく方が早い。

(ハルトたちはまだ戻ってきていないのか……)

 A棟にはハルトたちの姿はない。

「考えすぎか……」

 カナタは思考を振り払うと足早に医務室へと向かった。


「カナタ先輩!」

 医務室に入るなり、カナタに声を掛けてきた人物は椅子から立ち上がり、カナタへ駆け寄る。

「ナツキ。久しぶりだな?」

「お久しぶりです! カナタ先輩最近C地区に応援来ないから。次いつ会えるんだろーって!」

「応援なんかない方がいいだろ。それくらい平和ってことだ」

「そうですけど……」

 ナツキと呼ばれた青年、C管理部所属の管理史だ。以前にカナタとイツキが応援に入った際に知り合って以来、こうして挨拶に来るのだ。

「おいナツキ。カナタさん怪我したからここにいるんだろ。引き止めるなよ」

「分かってるっつの! つか叩くなよナヅナ」

 ナツキは振り返り言うと、そこにいる人物、ナヅナを睨む。

「ナヅナも久しぶりだな。〝ナツコンビ〟は相変わらず元気そうだ」

「カナタさんお久しぶりです。あと……その呼び方はちょっと……」

「悪い悪い」

 ナツキとナヅナはC管理部でペアを組んでいる。名前に〝ナツ〟がつくことから〝ナツコンビ〟と言われており、それは名前だけでなく、相性の良さもその所以なのだが、当の本人たちにはその自覚はないようだった。

「お前たちもどこか怪我したのか?」

 カナタは空いている椅子に腰かけながら言う。

「ナツキだけです。ちょっと切れただけなので。大したことはないです」

「おいナヅナ。なんでそんな棘のある言い方なんだよ。もっと相方を労れよ……」

 ナツキは救急箱を開け道具をテーブルの上に手際よく並べていく。

「自分でやるぞ? ナツキはもういいのか?」

「自分はもう平気っす。タオル、水に濡らしてきます」

 ナツキはそういうと手洗い場へ向かった。

「悪いな」

「やらせてやってください。役に立ちたいんですよ」

 ナヅナはそう言うとカナタの向かいに座った。

「ありがとう」

「いえ、礼をするべきなのは俺たちなので……」

 ナヅナは視線をナツキへ向けると、何かを懐かしむように目を細めた。

「イツキにもたまには顔出せって言っておくよ」

「えっ、いや俺は別に……! ああいや、ありがとうございます」

 ナヅナはそう言って顔を俯かせた。その耳が赤くなっているのをハルトは見落とさず、それを見て頬が緩んでいることには無自覚だった。

「あっ、いたいた」

一人の管理史が医務室の扉の前で立ち止まった。

「ナツコンビ、報告書持って来いよ」

(報告書……?)

「分かりました」

 ナヅナはそう返事をするとすぐに立ち上がった。ちょうどナツキが戻って来て、カナタは手を差し出しタオルを促した。

「ナツキ、報告書だって。あとは自分でやるよ。ありがとう」

「すみませんカナタ先輩」

「いいよ。お疲れ様」

「行くぞナツキ。カナタさん。失礼します」

「ああ」

 カナタはタオルを持つ手とは逆の手を軽く上げる。

(やっぱり聞いておくか……)

 カナタはナツキの背が見えなくなる直前に呼び止める。

「ナツキ!」

「えっ、はい! ナヅナ先行ってて」

 ナツキは声に引っ張られるように部屋へと戻る。

「どうしました?」

「引き留めて悪い。一つだけ。今日の任務は、何か〝特別〟か?」

「いえ、特にって訳じゃないんですけど。C地区にしては相手がちょっと強かったんで。あっ、でも全然余裕でしたけどね!」

「そうか……。分かった。ありがとう」

「いえ! そうだ、今度演習付き合ってくださいよ!」

「分かったよ」


 医務室を出てからも、カナタはずっと考えていた。報告書は通常の任務であれば書く必要はない、それが必要になるのは特筆すべき点がある案件だ。

〝C地区にしては〟強い。本来なら、ナツキもナヅナもA相当の能力を持っている。どうしてずっとCに所属しているのか、あまりそのことを深く考えたことはなかった。いいタイミングで移動になるだろうと楽観的に考えていたが……

(動かせない理由か)

「おっと、すまない」

 思考に気を取られ気がつかなかった。カナタは向かいの角から曲がってきた人物と軽くぶつかる。

「カナタさん……」

 そこにいたのはハルトだった。カナタはハルトが帰っていることに内心安堵したが、それを表には出さないよう、平静を装う。

「ハルト。どうした、医務室か?」

「少し切っただけです。カナタさんこそ、怪我してるじゃないですか」

「俺も大したことはない」

「そうですか。……それじゃあ失礼します」

 ハルトはそれだけ言うと足早に去っていく。

 カナタは何か声を掛けなければと思ったが、上手い言葉が見つからなかった。

「難しいもんだな」


 アサヒは任務から戻るとハルトを医務室へ促した。

 わざわざ行くほどではないと拒むハルトを半ば強制的に行かせたのだ。

「そっとしといた方が良かったかな」

 少し強く言ってしまったことに後悔もしながら、アサヒ自身はN棟に向かっていた。きっともうカナタ達は戻ってきているだろう。そう思うと、歩調は無意識に早くなった。


「あれ、アサヒさんだ。お帰りなさい」

「イツキ、お疲れ様」

 アサヒはイツキの部屋へ向かっていた。だが、そこへ行きつく前に、共有スペースにその姿はあった。

「ハルトは?」

「少し足を怪我してね。医務室に行ってる」

「C棟ですか?」

「ああ。そんなに大したのじゃないからね」

「なら、もしかしたらカナタと会うかもしれませんね。カナタも行ってるんですよ。まあカナタも少し切ったくらいです」

 イツキはそう言い視線を落とす。

「へえ、珍しいなカナタが怪我なんて。最近はずっと何もなかったのに」

「ですよね。何かに気を取られてたんじゃないですか」

 そう言ったイツキの声、視線が〝いつもとは違う〟ことに、アサヒは気付いていた。

(あれから、ずっとだな)

「というより、俺に用があったんじゃないんですか?」

「そうそう、よく分かったな。あのな、ハルトのことだけど……」

「〝いじめないでくれ?〟」

 言おうとしていた言葉を当てられアサヒは口をつぐむ。多分イツキは全部分かっている。だからこそ言いやすいのかそれとも逆か。

「イツキの考えは?」

「一度痛い目を見れば、もう生意気なことを言わなくなるでしょ」

 イツキはそう言って笑う。けれどアサヒのその真剣な表情を見て、一つ溜息をこぼすと再び口を開いた。

「ハルトは意地だけでやってますからね。あのままだと〝後悔〟する。自分の力を見誤るほど危険なことはない。あれじゃあ、自分だけじゃなく、守りたい人だって守れない。だけど、きっかけがなければホントの意味でそれを理解できない。俺がリスクをとるのはそのためですよ」

「だけど今日は実際に危なかった」

「けど無事だった。アサヒさんがいたからだ。俺だって本当に危ないことはさせない」

「随分と信用されてるな」

「信用しなくても、アサヒさんが強いのは事実でしょ」

 イツキはふざけて言っているのではない。アサヒはそのことを分かっているつもりだった。

「イツキ、俺は……」

「アサヒさん」

 アサヒの声に被せるようにハルトは声を発した。

「俺は守れますよ。ハルトに何かあったら、カナタが悲しむ」

 イツキはそう言うといつもの〝顔〟に戻っていた。

「ああ、そうだな」

 アサヒはそれだけ言うと、それ以上は口を開けなかった。

「アサヒさんも疲れてるでしょ。俺ももう部屋戻るんで」

 イツキはアサヒに背を向ける。途端にアサヒの耳には他の管理史の足音や、しゃべり声が入ってくる。急に現実に戻されたような気がして、アサヒはどこか緊張していたらしい自分に苦笑した。

「〝誰を守る〟んだろうな」


 カナタはN棟まで戻ってくると、自分の部屋にはいかず、イツキの部屋へ向かった。

 扉を叩くが返事はない。

(外にでも行ってるのか?)

 カナタは時間を置いてからまた来ようと自分の部屋へと戻る。

 カードキーを差し込みドアを開ける。少し開いたところで、おかしいなと思った。部屋の電気がついていた。消し忘れたのだろうか。それとも……。足元を見ると見慣れた靴が目に入る。カナタは脱いだ靴その靴の隣に綺麗に並べ中へ入る。そこにはよく見慣れた姿があった。

「お帰りカナタ」

「イツキ、またか。ホント、どうやって入ってるんだ?」

 カナタはジャケットを脱ぎハンガーに掛けながら言う。イツキは当たり前のようにソファに座っている。

「どうやって入ってるか知りたい?」

「いや、いい。知らなくていいことな気がする」

「あはは、何それ」

 イツキは体を横に倒す。カナタはその背中に向かって声を掛ける。

「アサヒさんにでも怒られたか?」

 カナタはイツキに体を向け椅子に座る。

「……カナタは、怒ってる?」

「怒ってないよ。あれがお前のやり方だろ。それを否定はできない」

「そっか」

 それだけ、お互いそれだけ言うと、あとは沈黙が続いた。時計の針の音が明瞭になって、空気が澄んでいくような感覚を、カナタは感じていた。

「イツキ、寝たのか?」

 イツキからの返事はない。カナタは椅子から立ち上がり顔を覗く。

カナタはブランケットを持ってくるとイツキへ掛けた。そのままソファを背にして座った。照明のリモコンを手に取りスイッチを押す。

 その暗闇に落ちていくように、カナタは目を閉じた。


 イツキはゆっくりと起き上がると、音をたてないように床に足をつける。

「ベッドで寝ればいいのに……」

 イツキはカナタの隣にしゃがむと自分に掛けられていたブランケットをカナタに掛ける。

 顔の傷はテーピングされていて、イツキはそれに軽く触れた。

 起こさないように、イツキは部屋を出た。


 カナタはイツキが出たのが分かると、目を開けた。

「そうやって、人の傷ばかり気にする」

 そっと傷に手を当てる。イツキの触れた体温が残っているようだった。

「痛い……」

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