第5話 ファースト・コンタクト

 三人が待合室の前に着くと、河合がドアをノックし、「失礼します」と言ってドアを開け、河合、堀野、鈴木の順に部屋に入った。


 待合室には、黒のスーツ姿の若者が一人でいて、黒のバックパックを左手で抱えながら窓際に立って外を眺めていた。三人が部屋に入ると、その若者は彼らの方に向きを変えて軽く頭を下げた。


 若者は、年齢はおそらく二十代前半くらいで、身長が少し高めで細身の体型をしており、見た目は今どきの若いサラリーマン、と言う感じであった。


 堀野が若者に向かって言った。


「速見さんでしたね。ずいぶんと待たせてすみませんでした」


「いいえ、それよりさっきおっしゃっていた間違いというのはどういうことなのですか?」


「それについてですが……まあ、お座り下さい」


 堀野は、速見と、そして一緒に来た鈴木と河合にも椅子に座るように促した。


 待合室には、縦長の机が一つと、その回りに椅子がいくつか置いてあった。


 堀野に促されて速見が椅子に座ると、堀野、鈴木、河合は机をはさんで速見と対峙するように座った。


「速見さん、あらためて紹介させていただきます。私が、総務部係長の堀野です。そして、私のとなりに座っているこちらの方が、捜査一課の鈴木警部です。奥に座っている彼女が、河合巡査です」


「初めまして、探偵の速見優介です」

 速見が挨拶をすると、鈴木が堀野の方を向いて言った。


「係長、ここは俺から説明しよう。その方が話しは早いだろう」


「そうですね。それでは警部お願いします」


 鈴木は、速見の方に向きを変えて背筋を伸ばした。

「速見さん、でしたね? どうも御足労です。私はここで警部をしている鈴木源一郎という者です。今回の捜査協力の件は、我々捜査一課が依頼したものです。わざわざこうして来ていただいているあなたに対して大変言い難いのですが、実は今回の仕事については、あなたにではなく、いつも我々がお世話になっている葉山探偵事務所に依頼するはずだったのです」


「あの大手の葉山事務所ですか?」


「ええ、そうです」


「それでやはり、私への依頼は間違いだったと?」


「申し訳ない。葉山さんとは長い付き合いでしてね、我々の仕事のやり方を一から説明する必要もなくて助かるんですよ。今回の仕事は少し急を要しましてね。ただ誤解しないでもらいたいのは、警察は別にあなたのように一人で仕事をしている探偵に用はないって言っているわけじゃない。ただ今回の仕事については、あなたにはちょっと荷が重いと思う」


「私には無理だと?」


「ええ、しかし、勝手に間違えたのは我々の方で、せっかくこうして来てもらったわけだから、何か他の仕事を依頼できればと思いましてね」


「……そうですか。それで他の仕事というのは?」


「うーん、それについてですがね、仕事の依頼をする前に、いくつか質問してもいいですかな?」


「ええ、どうぞ」


「では失礼ですが、年齢は?」


「25です」


「探偵になってどれくらいです?」


「約三年です」


「これまで警察の捜査協力をしたことは?」


「ありません」


「他の事務所での勤務経験は?」


「ありません」


「それじゃこれまでずっとお一人で? 組織の中で仕事をしたことは一度もないの?」


「はい、ありません」


「そうですか……」

 鈴木は質問を終えると、堀野に何か耳打ちをして席を立ち、部屋の隅の方に移動した。堀野もすぐに鈴木の後を追った。


 速見と共にその場に残された河合は、席に着いてからずっとうつむいて目を伏せるようにしていたが、鈴木と堀野が席を立つのを目で追うようにして顔を上げてしまうと、速見の方を見ない訳にはいかなくなってしまった。速見は、鈴木と堀野の方をじっと見ていた。


「あの、速見さん、本当に申し訳ありませんでした。私のせいでこんなことに……ちゃんとしっかり確認すべきでした」


 河合はそう言って、速見に深々とあたまを下げた。


 彼女の唐突な謝罪に幾分慌てた速見は、なんだか気恥ずかしい気持ちに捕らわれた。速見は、人に頭を下げられるということをそれまでほとんど経験したことがなかった。


「あ、いえ、えっと、河合さん、でしたよね? うちに電話をくれた」

「はい。河合美緒といいます」


「どうぞ頭を上げてください」


 速見がそう言うと、河合はゆっくりと頭を上げた。


「気にしないで下さい。間違いはだれにでもありますから。私の方こそちゃんと確認したらよかったですね。私の所に警察から依頼がくるなんて、ちょっとおかしいなとは思っていたのです」


「そんな、速見さんは全然悪くありません」


「いや、本当に気にしなくていいですよ。だって、あなたが間違えてくれたおかげで何か仕事をもらえるみたいですし、逆にあなたには感謝しないといけないかもしれません」


「感謝だなんて、そんな……」


 そんな風に扱われる理由なんかない、そう思う河合は、気恥ずかしそうにまた下を向いた。


 一方、部屋の隅では、鈴木警部と堀野係長との間で速見に関する話が続いていた。


「鈴木警部、彼、どうです?」


「うーん、駄目だな、ありゃあ」


「なぜです?」


「はっきり言って若すぎる。我々と一緒に仕事をするなら、最低十年くらいのキャリアは欲しいところだ。警察との捜査協力の経験も無いみたいだしな、それに……」


「それに?」


「やっぱり一匹狼ってところが問題だな。どこか少し陰気な感じがするし、俺たちの言うことを素直に聞き入れるような奴じゃねえかもな」


「一緒に捜査をしたら、かえって警部たちの足でまといになると?」


「おそらくな」


「警部がそう言うのなら仕方ありませんね。彼には私の方から説明しておきます」


「ああ。そうしてくれ。俺は部署に戻るよ」


 鈴木はそう言うと、そのままその部屋のドアの方に向かった。


 堀野は、速見たちがいる机の方に戻ると、何か決まりの悪そうな歯切れの良くない口調で言った。


「えー、速見さん、大変申し訳ないのですが、今回あなたにお願いできる仕事はありません」


「え? でもさっきは別の仕事があると」


「それが、鈴木警部が考えていた他の仕事はどれも速見さんには少し難しいようなのです。お詫びといってはなんですが、交通費と、私共が探偵事務所に通常お支払いしている一日分の日当をお渡しします。どうかこれで御容赦いただきたい」


「日当? 仕事もしていないのにお金なんてもらえません。この際なんでもいいですから仕事をいただけませんか?」


「そうしたいのは山々なのですが……」


 鈴木は、ドアを開けて帰ろうしていたが、対応に苦慮している堀野をみて向きを変え、二人の会話に割り込むようにして言った。


「速見さん、うちには今のあなたに頼めそうな仕事は一つもない。悪いがこのままおとなしく帰ってくれ」


 鈴木の言葉に、速見は思わずむっとした。


(帰れだって?)


 鈴木は臆面もない様子で付け加えた。

「はっきり言って、君のような探偵はうちでは何の役にも立たない!」


「け、警部! いきなり何を言い出すのですか!」

 堀野が慌てて鈴木の言葉を遮ろうとしたが、鈴木の舌鋒はそれを容易に貫いた。


「いいや堀野係長、こういう事はむしろはっきり言った方がいいんだ」


「し、しかし、何もそこまで言わなくとも……」


 堀野が繕う言葉を見つけだす前に速見は立ち上がり、憮然とした表情で鈴木の方を向いて目を細めた。


「どういうことです?」


 鈴木は、ゆっくりと速見に近づきながら、彼の脚元から顔まで、擦り上げるようにその視線を移動させた。


「三年程度の経験じゃ、うちの新米刑事とたいして変わらん。それならわざわざ余計な金をかけてまで外注する意味がない」


「経験不足ということですか?」


「まだある。君は一匹狼だろ?」


「それが何か?」


「警察の捜査は組織でやるものだからな、協調性というか、チームワークが大事なんだ。一人で勝手気ままにやってきた人間にそんなもんは関係ねえから、俺たちと一緒にやったって結局は孤立して浮いちまう」


「……」


「そもそも速見さん、あんた、自分の仕事と我々警察の仕事とを同じレベルでみてねえか? 警察の捜査っていうのは、常に危険が伴う。命に対する危険がな。へたをすりゃ殺されるかもしれない。お前さんたちが普段やっている浮気調査なんかとは全く違うものなんだ」


「私の主な仕事は〈人探し〉です」


「人探し? ふん、まあそんなことはどうでもいいさ。とにかく、警察の捜査とあんたらの仕事とは質もレベルも全く違うんだ」


「私の仕事は、あなたたち警察からみれば遊びみたいなものだと?」


 鈴木と速見の会話をハラハラしながら聞いていた堀野がたまらず二人の間に入った。

「いやいや、速見さん、警察は探偵の仕事を遊びだなどと、決してそんなふうに考えてはおりません。警部ももういいかげんにして下さい!」


 速見は、その場をなだめようとする掘野をよそに、鈴木の方に近づいて言った。

「確かに、警部さん、あなたの言う通り、この道何十年の経験豊富な探偵と比べたら、私なんてまだまだだと思います。それに一匹狼の私には、警察と一緒に統制のとれたチームワークの良い組織捜査なんてできないかもしれません」


 鈴木もまた、自分を睨みつけるようにして話す速見にさらに近づいた。

「なんだ、若いくせに、もの分かりはいいじゃねえか。まあそういうことだから悪く思わんでくれ」


 そう言って踵を返そうとした鈴木に、速見がつぶやいた。

「ふん、偉そうに」


「今、なんか言ったか?」


「いいえ別に。私が警察に仕事を依頼されることももうないでしょうし、せっかくなので、一市民として警部さんに一つ聞いておきたいことがあるのですが」


「何だ?」


「最近、警察の犯人検挙率が下がっていると聞いていますが、どう思われますか?」


「どうって、別に」


「あなたには関係ないことですか?」


「あんた、何が言いたいんだ?」


「警察はいいですよね、たとえ検挙率が下がっても、誰にも文句は言われないし、誰もクビになることはないし」


「なんだと? それはどういう意味だ?」


「別に深い意味なんてありませんよ。ただ私のような民間の探偵は依頼人のために必死で仕事をします。悪い評判がたったら、仕事なんてすぐ無くなりますから」


「何? 俺たち警察が真面目にやっていないとでも言うのか?」


「そんなこと言っていません。あなたたち警察がいるからこの国では誰もが安心して生活できる社会になっているのでしょう。そう誰でも、たとえそいつがどんな凶悪な強盗殺人犯でもね!」


 速見はその部屋の奥の壁に貼り付けられた数年前から指名手配されている強盗殺人犯のポスターに目をやって言った。


「私はもうこれで失礼します。交通費も日当もいただかなくて結構です!」


 速見がそう言って、鈴木の前を通り過ぎようとすると、鈴木が言った。


「おいこら、ちょっと待て!」


「何か?」


「警察のことをよく知りもしねえくせに言いたいこと言ってくれるじゃねえか。そーか、よーし、気が変わった。そこまで言うならよ、あんたに一つ仕事をやってもらう」


「仕事?」


「ああ、そうだ」


 二人の会話を心配しながら聞いていた堀野係長が慌てて言った。

「鈴木警部、ちょっと待って下さい! さっき仕事は無いと言ったばかりじゃありませんか。そんな簡単に決めてしまっていいのですか?」


「いいんだよ堀野係長、責任は全部俺が持つから」


「そうは言ってもですね」


 鈴木は、速見の方に向きを変えて言った。

「あんたさっき確か、主な仕事は〈人探し〉だとか言っていたよな?」


「そうです」


「じゃあ、こいつを見つけてこい!」

 鈴木は、壁に張ってある強盗殺人犯のポスターをゆび指した。


「!? まさかそのポスターの男を、ですか?」

 速見は怪訝な表情を浮かべた。


「ああそうだ、強盗殺人犯の〈小倉隆弘〉をだ!」


 鈴木が語気を強めて返すと、堀野が目を丸くしながら言った。


「け、警部、本気で言っているのですか? 見ての通り小倉はすでに全国に指名手配されているじゃありませんか!」


「わかってる。だが俺は本気だ。さあ、探偵の兄ちゃんよ、この小倉隆弘って男を見つけてこい! ただし、期限は今日一日だけだ!」


「今日だけ!?」

 速見が顔をしかめると、堀野が慌てて鈴木に言った。


「け、警部! いくらなんでもそれは無茶です!」


「無茶でもなんでも、仕事は仕事だ。探偵の兄ちゃんよ、お前さんは依頼人の希望を叶えるために必死にやるんだろ? じゃあ叶えてくれよ、この俺の切なる希望をよ。できねえって言うのならさっさと帰るんだな」


 普段の速見なら、このような無茶苦茶な依頼を絶対に引き受けたりはしない。

 しかし今の速見は、鈴木の横柄な態度にほとんど切れかかっていた。冷静な判断ができるような状態ではなく、なかば感情にまかせて返事をしてしまった。


「分かりました。やればいいんですね!」


「やるって、あなたねえ、こんな無茶な仕事引き受けてどうするの? 警部も少し落ち着いて下さい」


「いいじゃねえか堀野係長、この兄ちゃんがやるって言ってんだから」


 速見は、椅子の上に置いてあった黒いカバンの中から一枚の用紙を取り出した。

「それでは、この契約書の内容を確認して頂いて、よければここにサインをお願いします」


「契約書だと?」


「そうです。この契約書にサインをお願いします。仕事は仕事ですから」


「ちっ」


「初めに断っておきますが、私の事務所では、依頼された人物を見つけることができた場合にのみ調査手数料を請求します。見つけられなかった場合は、料金は一切いただきません」


「請求は成功報酬だけ? そんなんでよくやっていけるな」


「ただし、調査報告はその人物の現在の居場所のみとなります」


「報告するのは結果だけで、経過は報告しないってことか?」


「そうです。それと、今回は調査期間が非常に短いので、見つけた場合には特別料金を頂くことになりますが、よろしいですか?」


「なんでもいいよ。ほら、これでいいか?」


 サインした契約書をぶっきらぼうに速見につき返したとき、突然部屋のドアが開き、息を荒くした小西巡査が入ってきた。


「失礼します!」


「おう小西か、どうした?」


「警部、こんなところにいたんですね、ずいぶん探しましたよ」


 小西は、足早に鈴木に近づいて、鈴木警部の耳元で何かささやいた。

「実は例のタレコミの件ですが……」


「何? 裏がとれた? よし小西、よくやった!」


 小西の報告を聞いた鈴木は、すぐさま立ち上がった。

「じゃあ探偵の兄ちゃん、まあせいぜいがんばってくれよ、俺はこれで失礼する」


「あの、ちょっと」


「なんだ、兄ちゃん? まだ何かあるのか?」


「何か手掛かりとなるものはないですか?」


「手掛かりだと? それを探すのもあんたの仕事だろ?」


「警察は、どの探偵にもこんなふうに一から調査をさせるのですか?」


 鈴木は、速見に言い返す言葉もなく少し憮然としていたが、上着の内ポケットから小さな手帳を取り出して机の上に置いた。


「しょうがねえなー、ほらよ、今日一日だけ貸しといてやる。後ででちゃんと返せよ」


「これは?」


「俺が普段使っているメモ帳だよ。たぶん小倉のことも何か書いてあんだろ。勝手に探してくれ」


 鈴木は速見にそう言い放つと、小西と共にその部屋を出て行ってしまった。


(大変なことになっちゃった……)

 黙って三人のやりとりを聞いていた河合は、めまぐるしく変わる状況に言葉を失っていた。

 自分のミスのせいで、鈴木と速見が喧嘩し、あげくの果てに何の落ち度もない速見にとんでもない仕事が押し付けられてしまった。


 河合はすぐに速見に謝ろうとしたが、鈴木の手帳のページを懸命にめくる速見の姿が、彼女を躊躇させた。


 まごまごしている河合の様子を見ていた堀野は、後ろから河合の肩を軽く叩くと、顔をドアの方に振って外に出るように促した。


「それでは速見さん、我々もこれで失礼します。調査については一応今日の夕方六時までとさせていただきます。六時になりましたら、一度お戻り下さい。くれぐれも無理はしないで下さいね」


 堀野係長がそう言って部屋を出て行こうとするので、河合は、依然として手帳を睨むように見ている速見に向かって慌ててお辞儀をすると、堀野の後を追って一緒に部屋を出て行った。


 部屋を出た河合は、すかさず堀野係長に言った。

「係長、すみません。私が間違えたせいでこんなことになってしまって」


「ごめんで済むなら警察はいらないの。まあ済んだことは仕方ないけど、これからはもっと注意するように」


「はい、これから気をつけます」


「もういいから、君は部署に戻りなさい」


「はい、分かりました……あのー、係長」


「なんだね?」


「こんなことを私が聞くのもなんですが、鈴木警部のあの手帳、あんなふうに簡単に他人に貸してしまって大丈夫なのですか?」


「ああ、そのことなら心配しなくても大丈夫だよ」


「なぜです? だってあの手帳にはきっと、小倉っていう強盗殺人犯のこと以外の他の事件についてのこととか……とにかく人に知られてはいけないことがたくさん書いてあるのではないですか?」


「来たばかりの君が知らないのも無理はないが、鈴木警部の手帳の文字はものすごく汚くてね、本人以外は誰も読めないんだよ。いや、もしかしたら、本人も読めないかもしれんな、ははは」


「はははって、係長、それって笑いごとじゃないですよ! それじゃあ速見さんは、結局なんの手がかりもなしで調査しなくちゃいけないってことじゃないですか?」


「まっ、そういうことになるかな。でもまあ今回の件はほとんど仕事なんて呼べるものじゃないからね。彼はああ言っていたけど、交通費と日当は彼が戻ってきたときにちゃんと渡すんだから問題はないよ」


(えー? そんなんで本当にいいのかなあ?)


 後ろ髪を引かれるような思いを抱きながら、河合は堀野の後について行った。


 待合室に一人残された速見は、依然として鈴木の手帳をめくっていた。その手帳には、何のことか分からない日付や名前、そして地名らしきものが、ほとんど書き殴ったように記されていた。


 しかし速見は、あるページで手を止めた。そのページには、なんとか判読可能な文字で、隅の方に小さく「和田かすみ、喫茶ジェネラル」と書いてあった。


「これだ」


 速見はそうつぶやくと、その手帳を上着の内ポケットに入れて警察署を出ていった。

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