一皿の上の世界

 学校帰りの空には完璧な陰影を描いた雲が静止していた。斜めに射し込む陽が、雲を柔らかな橙の色に染める。誰にも作ることのできない空に浮かぶ彫刻だった。

 私はその雲を見上げて歩いた。私の他には誰も気に留めていなかった。雲と私の間を遮るビルや電線や太く背の高い巨大な三本の街路樹が邪魔にしか思えない。憎らしい。

 私は駅の階段を降りる。網膜に焼きついたあの色彩を忘れないようにして。今日ばかりは一人で帰っていて良かったと思った。あの雲を「きれいだね」なんて言われたらたまらない。私はあの雲について口に出して仕舞えば、その途端に全てが失われてしまう気がしていたのだ。

私は地下鉄に乗った。私の心はあの雲の見える道に取り残されたままだ。

 二駅を過ぎて、乗り換え駅に着いた。私は一度改札を出た。地下からビルに入った。服や靴や家具や雑貨があり、プリクラも撮れる雑多なビル。

 エスカレーターを何度か折り返して、六階で降りた。古着屋を過ぎて、アクセサリーが売っている区画の脇を抜けた、そこにある雑貨屋。海外のものらしいギョロリとした目玉の猿のぬいぐるみが私を睨みつける。その隣には裸の赤子の人形が寝ている。似非アンティークの木箱やドールハウス、陶器の蛙、素焼きの木兎、錆びた針金の鳥籠、オルゴール、既に使い込まれた風合いの皮財布に、誰の怨念がこもっているともしれない藁人形。木製のカトラリーなんかの店のなかでも平和な雰囲気の品物の間にそれはある。

 透明な脚に等間隔の溝が螺旋状に走り、一度大きく膨らんでから収束する。薄暗い中で白く艶やかな、そして硬く純潔な光を放つ。最も広がった舞台のような上部は、底に不規則な浅いへこみを持つ。それは波のように囁くようなきらめきを広げる。私の知っている一番綺麗だったもの。ビルの辺境で静かに佇むコンポート皿。どこの誰が作ったかもわからない品。私以外に手に入れられたらたまらないと思いながら、私のものになった瞬間に輝きが失われてしまいそうで買えなかった。買うなら今日しかないと思った。違う、今日買わないといけない。載せるものはない。それでも。

 私はそれを手に取った。ずっしりと分厚い重みが心に触れた。

 私は皿を店主に手渡した。店主の顔は見えなかった。この暗いのに色付き眼鏡をして、黒い髭を蓄えていた。髪は長い。隙間から覗く肌は黄みの白といったところか。髭さえ剃ればジョン=レノンに見えないこともなさそうだった。ともかくその男は几帳面に皿を包んで、紙袋に入れて渡してくれた。男は一言も話さなかった。大方、声はジョン=レノンに似ていないのだろう。

 私は紙袋を大切に抱えて、家に帰った。揺らさないよう、人とぶつからないよう極力距離を取って。

 家に着くと、私は荷物を部屋に置いた。洗面所で丁寧に手を洗った。まだ誰も帰ってきていないようで、家中がしんとしていた。

 部屋に戻った。カーテンを閉めて電気をつけた。もう窓の外は夜空だ。机の上のノートとシャープペンシルを隅に寄せた。紙袋を中央に置く。一呼吸おいて、慎重に包まれた皿を取り出した。袋をどける。皿を包んである白いスチロールを剥がした。

 ああ。溜息が出る。

 それは完璧な陰影を持つ彫刻だった。皿の上にはあの雲が浮かんでいた。遮るものはなにもない。ただ、世界が一皿の上に広がっていた。

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