人は死ぬらしい

 『人は死ぬ』ということを信じるようになったのは十七の秋だった。

 部活を終えて、地下鉄とバスを乗り継ぐ。そしてあと十分歩くだけで家に着く、といった折のことだった。

 片側二車線の国道に沿った歩道を歩く。午後七時を過ぎた頃、太陽はあと数瞬で沈んでしまいそうに見えた。ごう、ごうと時速六十キロの鉄塊が行き交う度、熱をもたない空気が走って頬を滑った。自らの体温が攫われる感覚に首を縮める。

 国道を横切る横断歩道の手前に立ち、信号が青になるのを待つ。国道の向こうに見えるかすかな陽光が『明日には無くなってしまうから』と理由付けしてしまいたいほど眩い。

 思わず目を細めた。その視界に見覚えのある人影が入り込む。逆光でほぼシルエットしか見えないが、あれは確かに自身の母だった。

 母もこちらに気がついたようだったため、軽く右手を上げた。おそらく母からも同じような反応があるだろうから。

 しかし母は普段は慈愛に満ち満ちて細めている両の目を限界まで見開いた、ように感じた。母の切迫した雰囲気が真っ黒なシルエットから伝わった。何かこちらに叫んでいる。そしてまだ信号が青になってもいないのに、速度を緩めず走行する車など目に入っていない様子で道路に走り出した。

 なにをしている。

 やめろ。

 引き返せ。

 頭の中でいくつもの警鐘が反響する。しかし自身のもののはずの唇は、舌は、体は、脳との神経が絶たれてしまったのかと考えるほどに動かない。

 母がこちらへ走ってくる。 

 その後ろからは甲高い急ブレーキとクラクションの音が絶えない。自動車が母をすんでのところで避けていた。その自動車を避けるために急ブレーキをかける車もあった。

 車線を区切る白線を二本越えた。その直後。

 右側、シルバーの車体が視界に割り込んでくる。

 背が高いとは言えない母の腰の上、車のボンネットが当たり、勢いそのままに脚が持っていかれる。その場に残ろうとする上半身とは反対に、掬われた脚が浮き、体全体が回転する。宙にふわりと浮かんだ体。脚の先が頭の上を通り過ぎようとした瞬間、地球の重力をもってして、コンクリートに叩きつけられる。ちょうど道路に対して十数度傾いた状態で着地した。と同時に、首が、折れた。ポキリ、と軽い効果音ですみそうなほど、あっけなく。遅れて、首を元に戻そうとする向きで、胴と脚が落ちてくる。全身が地面につき、数度跳ねて、転がり、母の体は停止した。じわりと、母の頭の下から血液が染み出してくる。真っ赤な跡が灰色のコンクリートを順調に侵食する。

 ああ、動かなくなってしまった。

 明らかに死体と化した母だったものを見て、最初に思ったのがそれだった。

 ああ、これが人が死ぬってことなのか。

 母の死体を見て、そんな納得さえしていた。

 おそらく普通なら背けるはずの目を、凄惨な光景を焼き付けようと見開いたのは、死んだあの体を母と認識しなかったからかもしれない。

 周りの自動車のドアが開く。

 母の姿を捉えてなお走って寄っていく男は、死体を正しく仰向けにし、胸のすぐ下あたりに両手を当てて規則的な運動を始める。心臓マッサージだ、と認識できたのはしばらくしてからだった。だって、もうあれは生きてなどいないのだから。そんなことをする人がいると思わなかったから。

「おい、あんた。大丈夫か?」

 横から肩を叩かれ、首を向ける。声の主は小太りの中年男だ。人の良さそうな柔和な顔立ちをしている。微動だにしない自分を心配したのか。しかし、その男の顔は青ざめ、あんたのほうが大丈夫じゃないじゃないか、と心配してしまった。

 そこでようやく現実的な思考が戻ってくる。

「あ、救急車」

 医師が死亡確認をしないと、まだ死亡とできないのではなかったか。

「他の誰かが呼んでくれたみたいだよ。AEDも運ばれてきた。きっと助かるさ」

 え? 助かるさ? 

「お母さんなのか? 君の」

「え、あ、はい」

「きっと大丈夫だから、どこか見えないところへ行こう」

 中年男は僕の手首を掴む。途端に僕の手が震えだした。

 アルコール依存症なのか? この男。

 改めて見ると、男の震えが自分に伝わっていたから。そんな推測をした後に、恐怖で震えている可能性の方が高いであろうことに気付いた。そうだよな、普通は怖いよなと腑に落ちた。その思考の脇で、自分がこんなに怯えているのに他人の心配だなんて、どれだけお人好しなんだろうと呆れる。だって彼だってわかっているはずだから。母は助からないと。他の救命処置をしている誰だって。

 カチャリと背後の足元から、何か落ちる音がした。震えた腕で体を引かれたまま首だけをそちらに向ける。

 そこにあったのは包丁。極々一般的な家庭で使われるような十徳包丁が剥き身で横たわっていた。唐突に現れた物騒な存在に目を白黒させて持ち主と思われる人物を見る。

 視線を上げた先にいたのは青年だった。

 履き慣れた風合のハイカットスニーカー、膝の部分が伸びて飛び出たヨレヨレのジーンズに、今の時期には早すぎるであろう分厚いダウンジャケットを着込んでいる。斜めにかけた革のバックに包丁を入れていたのだろうか。生白い肌の色からしばらく日光を浴びていなかったことは容易に推測できた。細い金属のフレームのメガネの奥の眼差しが捉えているのは母の死体。何を考えているか知らないが、愕然とした様子だった。

 なんでこいつはこんなところに包丁を落としたんだ?

「きっと君のお母さんは君を助けようとしたんだ。あの通り魔から」「通り魔?」

 ああ、あの包丁は人を切りつけるためのものだったのか。

 ──母さんはそんなことのために道路に飛び出したのか?

 信じられなかった。自分の母がそんなくだらないことのために身を投げたのかと。そしてあの通り魔はそんなことで一度決めた犯行をやめてしまったのかと。

 今思えば、この時だったのだと思う。自分の倫理観が形を変えたのは。

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