俗世間というものは

「たいしたことないじゃないか」

 何日かぶりに声を発したからか、こぼれた台詞はかすれていた。

 カーテンの閉まった窓の隙間から選挙カーの怒鳴り声が部屋に飛び込んでくる。拡声機に向かって精一杯叫んだ声はハウリングをおこし、割れている。耳障りな音に眉根を寄せる。

 汗ばんだTシャツを脱いで、さっきまでもぐりこんでいたベッドの上に放る。気がついた時にしか洗濯をしない自堕落ぶりだから、ベッド周りには何枚か洗っていない服が散らかっている。まあ、だからどうということもないんだが。

 ローテーブルの上のカップ麺の空き容器やらコンビニ弁当のゴミやらの中、肩身が狭そうに置いてあるデジタル時計を持ち上げて時刻を確認する。午前九時二十八分。こんなに早い時間に起きたのは久しぶりかもしれない。

 目が覚めて、すぐそばにあったから。ラジオを何ということなくつけていた。スピーカーから聞こえるニュースに、選挙カーの声以上に辟易するしかなかった。

 ──参議院議員の赤塚政樹さんの雄峰学園との癒着が発覚しました。

 ──北区、青桜通三丁目の民家で火事が発生しました。一人が死亡、一人が意識不明の重体。二時間で鎮火、警察は放火の可能性が高いとして捜査を続けています。

 ──湯慈区で通り魔殺人事件が発生しました。犯人は自称無職、住所不定の古宇利港三十四歳。突然ナイフを取り出し、立て続けに三人を切りつけたようです。これにより、刺された三人は死亡。犯人はその場で駆けつけた警察官に逮捕されました。

 汚職にしても、放火にしても、殺人にしても、全部同じだ。己が欲を満たすためだけのつまらない、醜い犯罪劇。そこにどんなドラマがあったとしても、当人以外には喜劇にも悲劇にもならない。ただの人生の失敗例。

 倫理的に悪いことに当たるから、と法律で定められた絶対義務。その中でも難易度の低い、実行へのハードルが低い、程度の低い、つまらない犯罪。

 もうそんなのには飽き飽きしている。

「たいしたことないじゃないか」

 寝汗をかいた頭が気持ち悪くて、風呂場のシャワーで流す。

 親の遺産を食いつぶしてとりあえず借りているマンションは狭いが、トイレ、バスは別でそこそこに快適だ。

 しかし、そのうちにもっと安いところに移り住まなければならないだろう。いや、就職が先か。

 何年前に買ったかわからないよれたタオルで石鹸を泡立てる。そしてそのタオルで垢を擦り落とす。自分から出た汚れを余さず、剥がそうと擦る。そうして満足したら熱めのシャワーで泡と汚れを排水口へと流す。体の表面がじんわりと熱くなる。でも、それでも身から出た錆とでもいうのか、そんな汚れが離れない。

 ああ、いやだな。

 生物としての汚れは落とせても、俺個人の汚れは全くと言っていいほど消えてくれない。

 そんなのわかっていたはずなのに、一瞬でも洗い流そうと考えた自分自身が信じられない。いまさら、だ。いまさら何を綺麗に生きようとしているのか。

 風呂場の中折れ戸を開きながら否応なく溢れた、もはや反射とも言っていい自己嫌悪を乾いたタオルで頭をめちゃくちゃに拭くことでかき消す。自分の考えであったにしても、あまり自分を否定したいとは思えないから。なかったことにするのが一番の特効薬だ。ただただ無心に水分を髪からタオルへ移していく作業をこなして、下げていた頭を上げた。

 そこにはこちらを見つめる自分がいた。

 落ち窪んだ双眸。がさがさでニキビが数カ所に見える肌。身なりなんて気にする必要もないのに、気だけは滅入る。

 何でこんなつまらない世界に生きているんだろうな。

 胸の内に呟かれた問い。

 きっと待っているんだ。美しい世界が眼前に広がるのを。僕の倫理にピッタリ嵌る世界が生まれるのを。

 ザーッと雑音まじりにラジオが鳴く。

 知らぬ間に、選挙カーの声は聞こえなくなっていた。

 

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