第18話 ありがとう

 キイィィンという金属がぶつかり合うような甲高い音が、ハンナの耳に連続して聞こえてくる。

 目に飛び込んできた光をやけに眩しく感じながら、目を開いたハンナの視界にぼんやりと映ったのは、全身を赤く染めながら剣を振るう一人の少年の後ろ姿だった。


「アーベル......私......は、まだ......」


 視界の手前にはアーベルが置いて行った弓が映り、その弓に手を伸ばそうと上半身を起こしたハンナの全身を激痛が襲った。


「グッ!アァーーー」


 燃えるような痛みを堪えながら、それでもハンナは手を伸ばして弓を握り締めて、矢筒から矢を引き抜くと、震える手で矢を番えた。

 六年前のあの時、オリヴェルを守れなかった弓を、激痛の走る身体でゆっくりと引き絞る。

 両腕は震え、涙で曇った視界にはアーベルの背中がぼんやりと映るだけだった。


「オリヴェル、アーベル......私の―――」


 ハンナは何かを呟くと、極限まで引き絞られた弦から指をそっと離した。



 ♢♢♢


 身体を動かすたびに全身に痛みが駆け抜ける。

 氷の矢が掠った右頬からは血が流れ続け、右半身を濡らしていた。

 動き続けた両足が悲鳴を上げ、剣を振るい続けた両腕は軋み、肺は酸素を求めて喘ぎ続けている。

 それでもアーベルは止まらない。止まれない。


(ここでやらなきゃ!僕が、ハンナさんを守って見せる!)


 すでに恐怖は無かった。ただ体の奥から燃えるような想いが止めどなく湧いてきて、その想いに身を任せて身体が動いていた。

 だが、熱く燃える想いとは別に、冷静に敵を分析しているアーベルもいた。

 自分が魔物より優れているのはスピード。

 そのスピードを活かして魔物を翻弄し、剣を囮に蹴りで体勢を崩しながらダメージを与える。

 ここまではアーベルの考えた通りに戦いは進んでいたが、このままではいつか負ける事も分かっていた。

 自分の体力が尽きるのが先か、魔物の体力が尽きるのが先か。

 だが、アーベルがいくら攻撃しても魔物の動きは全く衰える事は無く、形勢はアーベルの不利に傾いている。


 低い体勢で剣を横なぎに払う―――弾かれた。

 そのまましゃがみ込みながらコマのように回って足払いを掛ける―――よろめく魔物。

 右から迫る魔物の拳を剣で逸らしながら魔物の肩口に踵を落とす。


 四年間ひたすら鍛えた集大成をぶつけるように、足を止めす、ひたすら剣を振るい続けていたその時、魔物のランスがアーベルの後方を指し示した。


(こいつっ!ハンナさんを!)


 アーベルは咄嗟にバックステップで後方に飛ぶと、わざと隙を見せるように剣を大上段に構えてから、大きくジャンプして真正面から魔物に突貫した。

 光始めたランスの正面から全力で剣を振り降ろしたアーベル。

 だがその瞬間、さっき巨熊と戦っていた時と同じように振り降ろした剣が突然重くなった。


(っ!また!?でもっ、ここで諦めたらっ)


 腕が、足が、全身が悲鳴を上げるのを無視して、その重さに逆らい、剣を止めずに全力で振りぬこうと力を籠める。

 すると、アーベルの剣の周りに風が集まり、渦を作り、剣に纏うように流れ始めた。


「アアアァァァァーーーー」


 振り抜いた―――風を纏ったアーベルの剣が魔物に触れた瞬間、パリィィンという音が鳴り響いて、魔物の全身を波紋が走ると弾けるように消えた。

 アーベルの剣が魔物の守りを打ち砕いたのだ。


(破ったっ!だけど!すぐにもう一撃しないと)


 ハンナさんの風月を受けた時のように、数秒あればあの守りが復活してしまうかも知れない。


(間に合え!)


 アーベルはすぐに二撃目を加えるために、剣を止めようと全力を籠めるが、重くなった剣はなかなか止まらない。

 すると突然、アーベルの脳裏に知らない声が響いてきた。


 お母さんの弓は世界一なんだ―――


(知らない声。子供?男の子の声?)


 その刹那、剣を振り切ったアーベルの真横を一筋の矢がヒュンと風の様に駆け抜ける―――そして黒い穴のようにぽっかりと開いた魔物の目に吸い込まれていった。

 魔物は声にならない悲鳴を上げると、硬直してその動きを止めた。


(今、だっ!)


 地面ギリギリで剣を止めたアーベルは剣を返すと、そのまま魔物に向けて一気に跳ね上げる。


「ウオオォォォァァ!!」


 アーベルの風を纏った剣が魔物の右わき腹に吸い込まれていくと、そのまま一気に左肩まで鎧ごと切り裂いた。

 魔物は静かに動きを止めると、切り裂かれた場所から徐々に黒い霧状になって消え始めた。


「......やった......っ!ハンナさんっ!」


 アーベルが急いでハンナの元に駆け寄ると、ハンナはあおむけに倒れたまま、森の木々の向こうの夕暮れが近づいた空を見上げていた。


「ハンナさんっ!」

「アーベル......やった、な」


 ハンナはそう言っていつもの様にニヤリと、しかし力なく笑った。

 アーベルはそれに答えずハンナの様子を見ると、ハンナの左わき腹が真っ赤に染まっている。


「ハンナさん、ごめんなさいっ」


 そう言ってアーベルがハンナのシャツをめくり傷口を確認すると、拳大の傷口から今も血が流れ続けているのが見えた。


「大丈夫です!今、止血をしますから少し我慢して下さい!」


 腰のベルトに通した小物入れから止血用の布を取り出して、ハンナの傷口に強く押し当てると、真っ白な布もアーベルの手もあっという間に真っ赤に染まっていった。


「止まれ!止まれ!止まれ!止まれっ!」


 必死で傷口を抑え続けるが、血は一向に止まる気配がない。


「・・・・・・アーベル」


 必死の形相で傷口を抑えているアーベルを見かねたハンナは、アーベルの名前を呼んでゆっくりと顔を左右に振った。


「もう、いいんだ......」


 さっきまでの激痛はいつの間にか消えていて、身体の感覚は無く、眠気が徐々にハンナの意識を奪おうとしていた。


「もういいって?大丈夫ですから!血はすぐに止まりますっ!だからっ―――」

「私は......幸せだ。最後にっ、ゴフッ、......子供達が、私の大切な息子達が一緒に戦ってくれて......仇を討ってくれたんだもの」

「ハンナ......さん。そんな、何を言って......」


 本当は傷口を見た瞬間にアーベルにも分かっていた。そしてハンナの身体から徐々に力が失われている事を。

 だけどそんなことは認めたくない。認められない。


「最後に、戦う本当の、覚悟も......教えることができた」

「嫌だ!ハンナさん、そんなっ!だってまだ僕は、こんなことっ!約束だってまだ......戻ってきたら一緒に狩りに行くって!約束したじゃないか!ずっと待っててくれるってっ!ここで待ってるって......ずっとここに居るからって!」

「約束は......すまない、が、待ってるよ......ずっとここで、あの丘......で」


 ハンナはそう言って震える手で胸元から細い革の紐の付いた、木で出来た小さな花の形の首飾りを取り出した。

 それは、オリヴェルがハンナの誕生日にプレゼントしたものだった。


「だから......これをオリヴェル......お墓に......」

「嫌だっ!ハンナさんっ。僕は......そんなの......」


 ハンナの右手を両手で握り締めたアーベルは、顔を左右に振って大粒の涙をボロボロ流していた。


「泣くな......これか、ら......お前は......だから泣く......約束」

「ハンナさん!ハンナさんっ!!」


 ハンナの左手がアーベルの頬にゆっくりと伸び、零れ落ちる涙を優しく拭う。


 ハンナには血と涙でぐしゃぐしゃになったアーベルの泣き顔も見えなくなっていき、自分の名前を呼ぶアーベルの声も小さく、遠くなっていた。


 だけどハンナは安らぎを感じていた。

 この森で一人寂しく朽ちていくと覚悟していたのに、こうやって大切な家族に見送られて逝く事ができるのだから。


 笑顔を浮かべたハンナの瞳から徐々に光が失われていき、アーベルの涙を拭っていた左手が力なく落ちた。


「ハンナさん!」

「アーベル......お前に会えて......幸せ、だっ......た。わたしの......大切な......ありがと......」


 ♢♢♢


 瞼を下したハンナにはアーベルの顔も声も届かなくなり、真っ白な空間に意識が飛んで行った。


 ―――あさん。


 ハンナの耳に懐かしい、自分を呼ぶ大好きだった声が聞こえてきた。


「お母さーーん」


 目を開けると遠くからこちらに向かって走ってくる人影―――オリヴェルがハンナの瞳に映った。


「あぁ!オリヴェル!」


 あの日からずっと会いたかったオリヴェルが、あの頃と同じ笑顔で近づいてくる。

 オリヴェルの後ろからはイェスタフがいつもと同じ優しい笑顔を向けて歩いてきて、その後ろからは父、母、祖母もこちらに向かって歩いてくる姿も見えた。


「お母さん!」

「オリヴェル!」


 ハンナは飛びついてきたオリヴェルを、もう二度と離さない様にと強く抱きしめた。



 ♢♢♢



「ハンナ......さん?ねえ......?」


 アーベルは、瞳を閉じたハンナを優しく揺するがハンナは何も答えてくれない。


「ハンナさん......ぅうわぁぁぁぁーーーハンナさーーーん!」


 ハンナの身体に縋り、大声をあげて突っ伏したアーベルに答えるように、微笑みを浮かべたままのハンナの目から一筋の涙が零れ落ちた。

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