第17話 ハンナ・メッツァラ

 ハンナ・メッツァラは生まれてからずっとこの森で生きてきた。

 幼いころに祖母と母親を相次いで亡くし、父親と二人で風車の森で生きてきたハンナだったが、その父親もハンナが十五歳の時に白い巨熊と戦った傷が原因でこの世を去ってしまった。

 小さい頃から弓の腕に自信があったハンナは、父親と一緒に白い巨熊と戦った時も弓しか持っておらず、結局その戦いで牽制程度の役目しか果たせなかったことで、結果的に父親を死に至らしめてしまった事を後悔した。

 だが、弓ばかりで剣の訓練に余り熱心でなかったハンナが、その時に剣を持っていたとしても結果は大して変わることが無かっただろう。


 その後ハンナは父親の仇を討つべく、必死に剣の鍛錬を続けながら森を彷徨っては白い巨熊を探す日々を送るようになっていた。

 そんな毎日を過ごしていたハンナが十七歳の時、森で倒れていた一人の男に出会った。粗末な皮の鎧を着ていたその若い男は脱走兵だった。

 イェスタフと名乗ったその男は、徴兵に取られて戦争に向かったが人を殺すことが出来ないと思い、敗戦のゴタゴタに紛れて逃げたらいつの間にかこの森に迷い込んでいたと語った。

 生まれつき病弱で、しかも脱走兵で自分の町に帰る事が出来ないイェスタフは、それからハンナの家に居着くようになり、巨熊を追って荒れた生活を送っていたハンナが家に帰ってくると、イェスタフが優しい笑顔を浮かべて待っていてくれるようになっていた。

 まだ若かったハンナも一人で暮らすことが寂しかったのだろうか、いつしか二人は恋に落ちていた。

 ハンナが巨熊と再び戦ったのもこの頃だった。

 戦いの最中に使えるようになったスキルで巨熊の左手首を切り落としたが、結局そのまま取り逃がしてしまい、それ以来巨熊が姿を見せる事は無くなった。


 そしてハンナが十九歳の時、二人は子供を授かった。

 ハンナと同じ薄いブラウンの髪にイェスタフと同じ黒い瞳をした男の子。

 オリヴェルと名付けられたその子は、二人の愛を受けてすくすくと育ち、ハンナやイェスタフが作った赤い風車のおもちゃを持って森を駆け回る元気な子に育っていった。

 病弱だけど優しい夫と明るく元気な息子。

 今も三人で一緒に入ったお風呂の窓から見上げた星空を思い出すたびに、ハンナは自分の人生の中で一番幸せな時期はこの時だったのだと思う。


 だが、そんなハンナの幸せな生活も長く続かなかった。

 ハンナが二十四歳の時に、もともと病弱だったイェスタフが病気で亡くなってしまったのだ。

 ハンナは前から夫の死を覚悟していたが、やはり実際にその時が来てしまうと、悲しみに打ちひしがれた。

 ハンナが悲しみを振り払うように、五歳のオリヴェルに剣や弓を教え始めたのもこの頃からだった。


「僕も早くお母さんのように強くなって、風の精霊さまを守るんだ」


 そう言って毎日練習に励むオリヴェルはハンナに似たのか、もともとの才能なのか、剣も弓も見る見る上達していった。

 特に弓のセンスはハンナから見ても素晴らしく、八歳の頃には狩りに連れていけるまでになっていた。

 狩りに行くときも常に赤い風車を腰のベルトに指したオリヴェルに、ハンナは命を奪う覚悟を教え、オリヴェルはハンナと同じように苦悩しつつも乗り越えて見せた。


 そして夫に似て明るく優しい性格でもあったオリヴェルは、ハンナの誕生日には何かを作ってはハンナにプレゼントをしてくれた。

 それらは、綿を詰めただけの小さな人形だったり、木を削って作った花のペンダントだったりと、素朴だけどオリヴェルの気持ちが詰まったプレゼントだった。

 そんな風に強く優しく育っていくオリヴェルはハンナにとっての宝物であり、いずれはハンナの後を継いでこの森を守っていくにふさわしい人物になる事は間違いなかった。


 そしてハンナが二十八歳、オリヴェルが九歳の時に運命の日は突然訪れた。

 ハンナはその日もオリヴェルを連れて一番近くのウサギの狩場に向かったが、もうすぐ狩場に着くというときに、今日に限って剣を忘れた事に気が付いた。

 父親と一緒に白い巨熊と戦った時以来、狩りの時には常に剣を忘れずにいたのに、今朝は少し寝坊をして慌てたのか、最近はオリヴェルと一緒に危険の少ない狩場にしか足を運んでなかったのでつい油断してしまったのか。


 一旦剣を取りに戻ろうかと考えたが、「大丈夫だよ!もし狼が出ても僕がこの剣でお母さんを守ってみせるよ」と胸をはって小さな剣を抜いたオリヴェルに思わず吹き出しそうになりつつも、このまま狩りを続ける事に決めた。

 もう一度戻ってからまた来ると帰りが遅くなりそうだったし、こんな場所に黒毛熊はおろか狼が出る事もないだろう。

 最悪黒毛熊が出たとしてもハンナには弓で倒す腕と自信があった。


(まあ、念のために早めに切り上げれば大丈夫だろう)


 だけど剣を忘れた事は何かのサインだったのだ。「森で少しでも普段と変わったことがあれば注意しなければいけない」と、小さい頃から父親に言われていたのに、危険の少ない狩場で弓の腕に自惚れていたハンナは大きな間違いを犯してしまった。

 今でもあの時そう判断した事をハンナは後悔してもしきれない程悔やんでいる。


 だが、そんなハンナの不安を忘れさせるように狩りは順調だった。

 最近弓の腕をグングン上げていたオリヴェルは、狩りを初めてから三十分で二羽のウサギを仕留めていた。

 初めは警戒していたハンナも、いつもと変わらない狩場の様子にいつの間にか緊張も解けて、オリヴェルに弓の手本を見せていた。


「やっぱりお母さんの弓はいつ見ても凄いね!僕も頑張らなきゃ!」


 ますます張り切って狩りを再開したオリヴェルに、そろそろ帰ろうと切り出そうとした時だった。

 狩場の、森の雰囲気が急に変わり始めた。

 さっきまで明るく穏やかな空気で満ちていた森が、暗くて重い空気に包まれたような静寂を纏っていた。


 その気配にハンナの顔が強張る。

(白い巨熊?いや......もっと別の何か......)


「オリヴェル!戻ってきなさい!」


 ハンナが三十メートル程離れた場所にいたオリヴェルに声を掛けると、オリヴェルもこの森で生まれて育ってきただけあって、森の雰囲気が急に変わった事に気が付いたようだ。

 オリヴェルが緊張した様子でハンナの元に走り出そうとしたその時、オリヴェルの後ろからソイツが姿を現した。

 全身を銀色の鎧で覆い、長いランスを持つ人間のようなモノ。

 野生動物や人間が発する様々な感情を一切纏わず、ただ黒く塗りつぶすような空気を従えて現れたソレにハンナは一瞬恐怖を覚えたが、次の瞬間にはオリヴェルに向かって走り出していた。

 そして、ソレの正体が魔物だろうと当たりを付けていた。


 風車の森には何故か魔物は出ない。

 ハンナの父親は風の精霊様が守ってくれているからだといっていたが、そんな風車の森でもハンナは二回程魔物に遭遇したことがある。

 最初は父親と一緒に森の奥に行った時で、白い巨熊に遭遇する一年前くらいの時だった。青い肌をした頭に二本角の様な物が生えた巨大な人間のような魔物で、父親が切り倒すと、黒い霧のようになって跡形もなく消えて行った。

 二回目は父親の仇を討とうと白い巨熊を求めて森を彷徨っていた時で、緑色をした小さな子供くらいの醜い魔物が三体、こん棒や石斧のようなものを振りかざして襲い掛かってきたので即座に切り捨てた。

 その魔物も黒い霧のようになって消えて行った。


 雰囲気は違うが、ソレも魔物だと思ったハンナは、オリヴェルの元に駆け出しながら弓を射ったが、矢が魔物に当たる寸前で何故か弾かれてしまった。

 そのことに驚きながらも、オリヴェルの元に駆け寄ったハンナは、オリヴェルを背にしてナイフを構えながら魔物に向き合った。


 そして今でも後悔している。

 何故あの時、オリヴェルを連れてすぐに逃げなかったのかと・・・・・・


 ♢♢♢


 月明りが照らす森の中をハンナは彷徨っていた。

 魔物からどうやって逃れたのかも覚えていない。

 もう二度と笑顔を見せる事が無くなったオリヴェルを背負いながら、自身も全身に深手を負ったまま、目的もなくただふらふらと。


 その日以来、ハンナは弓を持てなくなった。

 父親の時の様に復讐をする事も考えず、親子三人で過ごした日々を思い出しては涙も出なくなった瞳で空を見上げる毎日。

 出来る事なら今すぐにでもイェスタフとオリヴェルの元に向かいたかったハンナが生きていたのは、僅かに残っていた『森を守る』という責務だった。


 そうして二年という月日が流れたある日、ハンナは森で倒れている少年を見つけた。


 オリヴェル!


 そう思ったのも一瞬。あの時のオリヴェルと同じような年齢に見えるが、オリヴェルと違う黒髪や、見た事のないような厚手の服を着ていることで現実に引き戻される。

 なぜこんな所に子供が?

 そう思ったその時、その少年が苦し気な表情で小さく、「母さん」と呟いた。


 ♢♢♢


 ハンナは泣いていた。

 もう涸れたと思っていた、あの日から流れなくなった涙が、堰を切ったように止めどなく溢れ出す。

 そしてただひたすら泣いているうちに、ハンナの心も身体も底なし沼に囚われたように重くなり、深く沈んでいくままに任せていた。


(オリヴェル、アーベル......ごめんね。弱いお母さんで......ごめんね)


 そうしてハンナの意識が真っ黒に塗りつぶされようとしたその時、どこからか懐かしい声がハンナの中で聞こえた。


 僕も早くお母さんのように強くなるんだ―――


 真っ黒な闇の中で小さな明かりが灯り、ハンナの周りを明るく照らし始めた。


 お母さんの弓は凄いんだから―――


 そして、その声に導かれるようにハンナの意識が浮かび上がって行った。


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