第19話 声

 東の空が漆黒の闇から淡い紫へ、紫からオレンジへと刻々と変化していくのを、風の精霊の丘に座っているアーベルは乾ききった瞳で見つめていた。

 白み始めた空からゆっくりと太陽が昇り始めると、朝日が丘を照らし、静かに眠っていた風車の森を白く染め始める。


 昨日の魔物との闘いの後、背中に背負ったハンナにずっと話しかけながら、夜の森を歩き通してこの丘に戻って来たアーベルは、月明りの下でハンナの顔や手を綺麗に拭いてから、剣や首飾りと共にオリヴェルの横に埋葬すると、こうして夜が明けるまで座っていた。

 身近な、大切な人を初めて無くしたアーベルは何も考えられず、ただハンナの傍から離れたくないという思いだけで、登り始めた太陽が中天に差し掛かる頃になってもそうやって座っていた。


「―――っと」


 丘を通り過ぎる風に乗って微かな声がアーベルの耳を通り過ぎて行った。

 いつの間にか眠ってしまっていたらしく、太陽はとっくに頭の上を通り過ぎて、アーベルの背中をオレンジ色の淡い光が照らしていた。

 目を覚ましたアーベルが辺りを見廻しても、夕日に照らされた丘と空まで続く森が映る、いつもの光景が広がっているだけで、当然周りには誰の姿も見えない。


(気のせいか......)


 少し眠った事で大分落ち着いたアーベルがゆっくりと立ち上がると、全身に鈍い痛みが走った。

 改めて自分の姿に目をやると、泥と血で染まったズボンもシャツも所々裂けていて、未だに痛む頬の傷の血は止まっているが、乾いた血糊で全身がバリバリになっていた。

 喉の渇きを覚えたアーベルは腰に下げた水筒を取って口に付け、僅かに残っていた水を飲むと、また少し冷静になれた。


 今は何をしたらいいのか分からないけど、もうすぐ夜が来るし、ずっとこのままここに居るわけにもいかない。

 そう思い、一旦家に戻ろうとアーベルはゆっくりと丘を降り始めた。


「―――っと、......よ」


 すると、またどこからか声が聞こえて来た。

 アーベルは立ち止まって再び周りを見渡すが、やっぱり誰もいない。

 一瞬ハンナかと思ったが、そんな事があるはずもないし、やっぱり気のせいだと思い直したアーベルはまた歩き出した。


「ちょ―――しょ、―――んの」


 今度ははっきり聞こえた。

 人の声だ。子供か女の人のような声が、風に乗って微かに、でもさっきよりはっきり聞こえて来た。


(もしかしたら誰かが間違ってこの森に迷い込んだのかも知れない)


 ハンナじゃないと分かっていても何かを期待するように、アーベルの足は声が聞こえて来た方に向かって少しずつ早くなっていった。



 ♢♢♢



「この辺りだと思ったんだけど......」


 あれから何度か聞こえて来た声に導かれるようにたどり着いたのは、丘の麓にある風の精霊の洞窟の前だった。

 だが、周りを見渡しても誰の姿も見えないし、人の気配も感じられなかった。


(もしかしたらこの洞窟の中に誰か入ったのかな?)


 丘に来るときはハンナさんに倣って、いつもこの洞窟の前で一礼していたけど、未だに一度も足を踏み入れた事はなかった。

 禁止されていたわけじゃないけど、入る用事も無かったし、黒くぽっかりと開いた穴が少し怖かったのもあったからだ。


「き―――えて―――だった」


 するとその時、明らかに人の物だと思われる声が、洞窟の中からはっきりと聞こえて来た。女の人、いや女の子だろうか。

 なぜこんな森の奥に女の子がいるのか不気味に感じるけど、今確認できるのは僕しかいない。

 剣の柄に手を掛けながら恐る恐る洞窟に足を踏み入れると、奥からひんやりと湿った空気が流れてくる。


「誰か......誰かいますか?」


 入ってすぐに声を掛けたけど、洞窟の中に僕の声が響いたっきり、何の声も帰ってこなかった。

 返事ができない、いや、返事をしたくないのか。多分ここに居るのをバレたくないのかも知れない。


 僕は剣を抜くと、恐る恐る足を進めていく。

 幸い夕日が洞窟の入り口から入ってきていて、中は思っていたほど暗くなかった。

 慎重に十メートル程進むと、円形の少し広い空間が現れた。

 その円形の空間をぐるっと見廻したけど、どこにも続いている様子はなく、ここで行き止まりのようだ。


(これだけ?)


 後ろを振り返ると洞窟の入り口が見え、夕日が差し込んでいるのが分かった。

 もう一度中を見渡して見たけど、人どころかネズミ一匹見当たらない。


(そうだよ。こんな森の中に人なんて......やっぱり聞き間違いだ)


 ハンナさんの事で頭が混乱していたのだろう。

 僕は安堵のため息をつくと、剣を納めて洞窟を出ようとしたその時。


「やっぱり聞こえたんだ!」


 洞窟内にはっきり響いたその声に、咄嗟に剣に手を掛けて振り向いたが、やっぱり誰もいない。


「だっ、誰?......だ」


 僕が恐る恐る声を掛けると、今度ははっきりと返事が返ってきた。


「へぇ~。近頃変わった気配の人間がいると思ってたけど君だったんだ」


 はっきり聞こえる声に、僕は前後左右上下を見渡したけど、やっぱり誰も見えなかった。


「懐かしい気配だと思ったけど、ちょっと違うのかな?」


 ゆっくりと足を進め円形の空間の真ん中まで進み、声が聞こえてくる方、洞窟の一番奥に目を凝らすと、何かが置いてあるのが目に入った。

 洞窟の岩と同じ色をしているので気が付かなかったけど、高さ二十センチ程の人の形をした石像のようだ。だけどやっぱり人の姿は見えない。


「まあ、いっか。君がフランシェじゃなくてもアタシの声が聞こえたんだし、こんなラッキーってある?はっ!もしかしたら君が約束の人かも知れない、って、流石にそんな都合よくいかないかー、ハハハッ!」


 呑気に笑い声をあげる声の感じからたぶん若い女の人のようだ。

 敵対的な雰囲気は感じないけど、柄を握ったままその石像から注意を逸らさないでゆっくりと近づいていく。


「って、あんた!聞こえてるんでしょ?何とか言いなさいよ!折角アタシが話しかけてあげてるのに!」


 やっぱりあの石像から声が聞こえてくる。

 石像が話すなんて聞いたことないけど、もしかしたら僕が知らないだけなのかもしれない。


「君は......誰だ?」


 その石像の三メートル程前で足を止めて恐る恐る問いかけた。


「やっぱ聞こえてるんじゃない!ていうかさ、人に名前を聞くときは先ず自分から名乗れって教わらなかったの?」


 その語気に押されて思わず答えてしまう。


「僕は......僕の名前は、アーベル、アーベル・クラウド......です」

「へぇー、アーベルって言うんだ。なんか面白い名前だねぇー。君って、最近ハンナとよく一緒にいる子だよね?」

「ハッ、ハンナさんを知ってるんですか!?」


 その石像からハンナさんの名前が出るとは思わなかったので、勢いよく聞き返してしまった。


「もちろん知ってるよ......あの子が死んじゃった事も、さ。いい子だったんだけどね」


(昨日の事なのに、何でこの石像がハンナさんが死んだことを知っているんだ?)


 僕は何か得体の知れないものと会話している事が急に恐ろしくなってきて、後ずさりしてしまう。


「まあ、そんなに怖がらないでよ。ところで君はここから出て行くんだろ?いや、出ていくしかない!そしたらアタシも一緒についてってあげるからさ。最後の守り手のあの子が死んじゃってどうしようかと思ったけど、君がたまたまいてほんとラッキ......いや、君は運が良かったよー」

「いや......いったい―――」


 この石像が僕についてくる?言っている意味が咄嗟に呑み込めなくて聞き返そうとしたとき、石像が淡いグリーンの光を発し始めた。


「大丈夫、痛くしないから!大丈夫だから......多分。そのままじっとしててよ~」


 えっ!痛い?一体何が?


 僕が危険を感じてここから逃げ出そうと思った時、石像を包み込んでいた淡いグリーンの光が爆発するように広がって僕を呑み込んでいった。


「―――ッツ!」


 そしてその光の中から、ガラスのように白く透き通った、長い髪の、今まで見た事もない美しい女の人が現れて僕の身体に重なった。


「これからよろしくね!アーベル」


 耳元で何かが聞こえた後、僕は意識を手放した。

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