第16話 魔物
それは森の奥からゆっくりと姿を現した。
二メートル程の全身は鈍く銀色に光る鎧で覆われ、同じ銀色に光る長いランスを右手に握っている。
「ハンナさん、あれは......人?」
アーベルは人だろうかと思いハンナに尋ねた。
だが、ソレが徐々に近づくに連れて、森が漆黒の闇に包まれたような重い空気に包まれていく。
「あれはいったい......」
疑問を口にしたアーベルに、ハンナはソレから目を逸らさず、呟くように告げた。
「アーベル、逃げろ。このままひたすら森を抜け、町まで走れ」
「え?」
「町に着いたら入口にいる警備の人間にこう伝えろ。「魔物が出た」と」
「......魔物?」
以前にも何回か聞いたことのあるマモノと言う言葉。
気にはなっていたけど、動物の種類だと思っていたから詳しく聞くことは無かったけど、実際目にすると野生動物じゃない事は一目瞭然だった。
「あの魔物の特徴を伝えたらそのまま旅に出ろ。そしてここには戻ってくるな」
「じゃあ、ハンナさんは......」
「あの魔物は足が遅い―――」
ハンナが何か言いかけた時だった。
全身の細部まではっきりと見える位置まで近づいていたソレ―――魔物―――は、二人に向けて右手に持ったランスをゆっくりと向けると、ランスの先端が青白い光に包まれ始めた。
「アーベルっ!避けろーーー!」
「ッツ!―――」
ハンナが大声で叫んだ瞬間、アーベルも本能的に危険を察知したのか、咄嗟にハンナに飛びつくと地面を転がった。
その瞬間、ランスの先端から青白い何かが飛び出ると、今まで二人が立っていた場所が轟音と共に爆発し、ハンナを庇うように伏せていたアーベルの背中に爆発で吹き飛ばされた瓦礫がバラバラと当たった。
「グッ!いったい今のは......」
顔を上げたアーベルがさっきまでいた場所を見ると、直径二メートル程の範囲が抉れて深い大穴が開いていた。アーベルはその威力を見て言いようのない恐怖が湧いてくるのを感じた。
「銃?いや......」
アーベルの村には古い銃を持った人がいて、アーベルはその人が銃を撃つ所を何回か見た事があったが、銃とは威力が明らかに違う。
「アーベルっ!」
「ハンナさん!大丈夫ですか!?」
アーベルは素早く起き上がると、ハンナの腕を取って立ち上がらせる。
「早く逃げろ!この事が町に伝われば冒険者がやってくる」
冒険者―――それも以前聞いていた言葉だ。
冒険者になれば比較的楽に世界を旅する事が出来るという事を。
冒険者が何なのか分からない。だけど今はそんな事を考えている場合じゃない。
戦うか逃げるか、選択をしないと。
動きを見る限り魔物の動作は鈍く、普通の黒毛熊程度だ。スピードなら圧倒的にアーベルの方が上。アーベル一人なら逃げ切れるかも知れない、が、アーベルには始めからそんな選択肢は頭になかった。
だが今の攻撃を見れば、足に怪我を負ったハンナを連れて逃げ切るのが難しいのはアーベルにも分かる。
「ハンナさん......」
迷ったのは一瞬、アーベルは未知の相手に対する恐怖で、知らずに体を震わせながら決断する。
「僕が魔物を引き付けます。だからその間に逃げて下さい!」
「なっ!バカを言うな!私が奴を―――」
アーベルが囮になれば、自分が囮になるよりも二人とも無事に逃げ切れる可能性が高いのはハンナにも分かっていた。
だが、アーベルを無事に旅立たせる事が一番大事なハンナにとって、アーベルを危険な目に合わせる事など出来るわけがなかった。だから自分が囮になることがアーベルが無事に逃げ切る可能性が一番高い。
実際そうなっていればアーベルだけは確実に逃げ切れるだろう。
だが、逃げるどころか自分が囮になるというアーベルに、ハンナは反論しようとしたが、それを遮ってアーベルが続けた。
「あの時の僕は何も出来ませんでした。ただ言われるままに逃げて......だけど......」
すでに二人に向かってランスを構えようとしている魔物を視界に捉えたまま、そう告げたアーベルの震えはいつの間にか止み、静かに魔物を見据えていた。
四年前のあの日の光景がアーベルの脳裏に浮かぶ。
確かに、子供だった自分には逃げる事しか出来なかったかも知れない。
だけど今は―――
「僕がハンナさん―――家族を守ります!」
アーベルはそう叫ぶと、背中に背負った弓を置いて、剣を抜きながら魔物に向かって走り始めた。
「アーベルっ!止めろ!!」
ハンナは目の前にいる魔物の強さを知っていた。たぶんアーベルにはこの魔物を倒すのは無理だろう。
しかし、この少年が自分を残して逃げたりしないことも分かっていた。
魔物に向かって走り出したアーベルの背中を見つめながらハンナは覚悟を決める。
六年前のあの日、たった一人の家族をこの魔物に奪われたハンナ。
あの時のハンナには手も足も出なかったが、剣を持っている今の自分になら。
魔物に切りかかるアーベルを見て、ハンナは戦う覚悟を決めた。
「オリヴェル、見ていてくれ......」
ハンナはそう呟くと、静かに剣を抜いた。
♢♢♢
アーベルは魔物との距離を一気に縮めると、魔物の懐に飛び込んでランスを大きく上に蹴り上げた。と、同時にハンナに向かって放たれようとした光が、空に向かって青白い光の矢のような形をして飛んで行った。
(ガラス?いや、氷の矢?)
アーベルがそう思った瞬間、魔物は思った以上の速さでランスを引くと、アーベルに向かって真っすぐ突き出してきた。
(早い!だけどっ)
移動速度の遅さとは違い、予想以上の攻撃の速さに少し驚くが、アーベルは向かってくるランスに対して身体を開いて躱すと、その勢いのまま剣を回して鎧の隙間に向かって剣を走らせた。
(よしっ!入った!)
だが、魔物の首に吸い込まれていった剣は、直前でキンッという鋭い音を発して、何かに弾かれるように動きを止めた。
「なっ!?」
アーベルは真横から迫ってきたランスを、大きく後ろに飛んで躱しつつ距離を取る。
一体今のは何だ?確かに入ったと思った瞬間、あと数センチという所で何かに当たって剣が止められた。
その不可解な現象にアーベルが戸惑っていると、魔物はランスの先端をアーベルに向けた。そしてランスが小さく光った瞬間に青白い光がアーベルに向けて連続して発射された。
咄嗟に転がって躱したアーベルの横を、複数の小さな氷の刃が通り過ぎて行き、地面にぶつかっては小さな爆発を起こした。
威力としてはさっきの光よりははるかに小さいけど、溜めが無く連射出来るのは、接近戦を選んだアーベルにとっては厄介な攻撃だ。
(こんなことも出来るのか!だけど、何か弱点はあるはずだ)
それを探るべく、アーベルは再び切り込んでいった。
♢♢♢
(どれくらいの間戦っているのだろう。ずいぶんと長い間剣を振るっている気がするが、実際には一分も経っていないのかも知れない)
魔物の背後を完全に取ったアーベルが、何度目かも分からない攻撃を仕掛ける。
だが、魔物の鎧に触れる直前、甲高い音と共に小さい水の波紋のようなものが広がり、アーベルの剣が止められてしまう。
まただっ!と小さく呟いたアーベルはそれでも止まらず、魔物の膝裏に回し蹴りを入れると、魔物は大きくバランスを崩して片膝を付いた。
ここまで戦って相手を観察していたアーベルには、一つ分かった事があった。
剣の様に攻撃が通じない場合と、今の蹴りの様に魔物に触れる事が出来る攻撃があるという事。
(理由は分からないが、剣を使わずに倒す方法を考えないと)
そう考えつつ、魔物がランスで攻撃しにくい右側に軽くステップしたアーベル。
だが、その無造作な動作がアーベルの隙になった。
魔物はランスを持つ右手とは比べ物にならない速さで左手を伸ばすと、片膝を着いたままアーベルの胸ぐらを掴み、高く持ち上げた。
(くっ!しまっ―――)
そう思った瞬間、魔物は頭上に高く掲げたアーベルを地面に強く叩きつけた。
「ツアアァァァーーーー!」
全身の骨がバラバラになるような衝撃と共に肺の空気を全て吐き出されたアーベル。
激痛に耐えながら辛うじて顔を上げたアーベルの目の前に、ランスの先端が向けられたのが目に入った。
「ツッ!!!」
この状態では躱せない。そう思った瞬間、ランスの先端がアーベルを通り過ぎて空中に向けられた。
ランスの向けられた先にアーベルが見たのは、宙を舞うハンナの姿だった。
「アーベルっっ!!」
ハンナは最後の力を温存しつつ、このチャンス―――魔物がアーベルに気を取られて動きを止める瞬間を待っていた。
そして、風月を使うために右足首の痛みに耐えながら大きくジャンプした。
(風月だったらあの防御でも!)
あの時、自分の油断で剣を持っていなかったハンナは、オリヴェルを守ることが出来なかった。
「風月っ!」
だから今度こそは息子を守って見せる。
空中で大きく振り抜かれたハンナの剣から放たれた、目に見えない風の刃が魔物に襲い掛かり、パキィィンというガラスを割ったような音が響くと、魔物全体に広がった波紋が弾けるように消えた。
(破った!・・・・・・だが、まだっ!)
ハンナはそのままもう一度空中で回転をし、さらに剣を振る。
「風月―――連撃!」
ハンナの剣から再び風の刃が放たれ魔物を襲うが、先程と同じようにパキィィンという音と共に波紋が弾けるように消えた。
それと同時にハンナに向けられていたランスに光が灯ると、小さな氷の刃がハンナめがけて連射される。
飛び道具を持たない相手には風月は有効なスキルだが、この魔物の様に飛び道具を持つ相手では、倒せなかった場合に空中にいることで大きな隙を見せてしまう。
が、ハンナはそれを充分分かった上でスキルを使った。
激痛を無視して立ち上がったアーベルが、攻撃の軌道を逸らすべくランスを下からかち上げるが、数発の氷の刃が空中で躱すことが出来ないハンナを貫いた。
「ハンナさんっっっーーーー!」
大きく吹き飛ばされたハンナが地面に転がり、辺りが血の色に染まっていくのが見える。
「アアアアアッ!!」
自分の身体を熱い何かが駆け巡るのを感じながら、今すぐハンナの元に駆け寄りたい気持ちを抑えて、アーベルは全身を走る痛みをこらえながら雄叫びを上げて魔物に切りかかった。
「今僕がやらなきゃ!誰がハンナさんをっ!」
♢♢♢
一瞬意識を飛ばしていたハンナは、腹部に走る鋭い痛みに小さくうめき声を漏らす。
ハンナの予想通り、風月であの魔物の守りを破る事はできたが、あの守りがあの速さで復活したのは想定外だった。
せめてもう少し早く風月を連発できれば倒す事が出来たかも知れないが、発動モーションの大きい風月ではあれが精いっぱいだ。
もしくはあの魔物の姿を見た瞬間に戦う覚悟ができていれば、風月の後にアーベルが一撃を入れることが出来たかも知れない。
(が、すべて後の祭りだ・・・・・・)
ハンナのぼんやりとした視界の先には、ボロボロになったアーベルが全身を血で濡らしながら魔物と渡り合っている姿が映っていた。
(私が攻撃されない様に必死で牽制しているのだろう)
「アーベル......もう、いいんだ......もう逃げ、ろ」
風月を連発した疲労で指一本動かせず、腹部を走る激痛が意識を奪おうとする中で、ハンナは小さく呟いた。
残されたハンナの願いは、アーベルが自分を置いて逃げてくれる事だけだが、その最後の願いも叶わない事も分かっている。
(結局私はあの子に......アーベルに何もしてあげられなかった)
たった一人で親元から引き離された小さなあの子に、四年間も毎日厳しい訓練を課して、結局はその訓練の成果を出せずにこんな所で私の道連れにしてしまう。
「アーベル......お願い、だから......逃げて」
アーベルに届くはずのない、叶わない願いを再び口にしたハンナの視界に、アーベルが置いて行った弓が、あの時オリヴェルを守れなかった弓が映った。
(オリヴェル、ごめんね。お母さん、剣でも守る事が出来なかった)
六年前と同じ結果になったことを謝罪しながら、ハンナの意識は深い闇に落ちて行った。
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