第14話 白い巨熊

 朝日が差し込み徐々に明るくなっていく森の中を、緊張した面持ちのハンナが足早に、しかし慎重に分け入っていく。

 昨日見つけたあの体毛。

 アーベルには狼だと言って誤魔化したが、ハンナは目にした瞬間に何の体毛か分かった。

 アーベルは納得していない様子だったけど、この森を去ったアーベルにもう危険はないだろう。


「後は自分一人でどこまでやれるか、だな」


 ハンナは一人呟くと黙々と歩みを進めていく。

 そしてハンナが家を出て二時間ほど森の中を進んだ時だった。

 場所は昨日アイツの体毛を発見した狩場まで一キロほど手前で、深い木々に覆われた薄暗い森の谷間に差し掛かった時、森の空気がガラッと変わった。

 小鳥一匹の鳴き声も聞こえない、しん、と静まり返る森の空気は、ハンナの侵入を拒むかのように冷たく張り詰めていてる。


(いる......)


 ハンナはゆっくりと剣の柄に手を伸ばし、慎重に足を進めていく。


(この気配、やはりアイツだ)


 ハンナが森の谷の奥深く、まるで見えない鎖で引きずられるように進んだ時、約五十メートル前方の巨木の陰でガサっと物音がすると、巨大な白い岩にも見える物体が姿を現した。


「やはりお前か......十七年振りか?」


 ハンナはスッと剣を抜くと、そいつに向かって構えを取った。

 そいつはまるでハンナが来ることが分かっていたように、真正面から向かいあうと、両手を高く掲げて大きく咆哮する。

 全長は四メートルに届くかというほど巨大で、全身を真っ白な体毛に覆われた熊。この森最強の主だ。


「どうしてここまで出てきた。てっきり私が怖くてずっと森の奥に引っ込んでいると思ってんだがな」


 ハンナは少しづつ位置を変えながらそいつに語りかけた。

 が、そいつはハンナの動きに合わせ体の向きを変えながら、襲い掛かることもせずにジッとハンナを観察するように睨んでいるだけだ。


「それとも私に切り落とされた手首を取り返しにでも来たのか?」


 ハンナはそう言うと、少しずつそいつとの距離を詰めていく。

 ハンナの言う通り、その白い巨熊は左手首から先が無かった。


 それは今から十七年前のことだ。

 この白い巨熊との闘いの傷が元で亡くなった父の仇を討とうと、ハンナは森の最深部で戦いに明け暮れていた。

 そしてついにこの白い巨熊を見つけ、激闘の末に左手首を切り落とした。

 それ以降、この白い巨熊は何処かに姿を消して、ハンナの前に現れる事は無くなったが、ハンナは森の最深部に行くたびに、この白い巨熊の気配を感じていた。

 そいつが何故か突然ハンナの家の目と鼻の先に現れたのだ。


「残念だが、お前の手首など・・・・・・知らないなっ!」


 ハンナは全速力で白い巨熊向かって突っ込んでいき、大きくジャンプした。

 すると、ハンナが突っ込んでくるのを微動だにせず見ていたそいつは、ハンナがジャンプした途端に巨木の陰にスッと身を隠した。


(やはり・・・・・・覚えているか)


 ハンナはそのまま着地すると、左に向かって走り出し、少し距離を取って再び対峙した。

 そう、その巨熊はハンナのスキルを警戒し、常に何かの障害物を盾にするようにしていた。

 何故なら、ハンナが初めてスキル風月を発動出来たのがこの白い巨熊と戦ってる最中で、そのスキルによって巨熊の左手首を切り飛ばしたのだ。


(この巨木が密集する場所に居たのもこいつの作戦か)


 それなら、と、ハンナは再び巨熊に向かって真正面から突っ込んでいき、また大きくジャンプをすると、巨熊は同じように巨木の陰に身を隠した。

 それを確認したハンナは、着地した瞬間にまた大きくジャンプして一気に巨熊との距離を縮める。

 巨木の陰から身を出した巨熊はハンナがジャンプしているのを確認すると、また巨木の陰に身を隠したが、その直後、ハンナの剣が真っすぐ振り下ろされる。


 ガキイィイン!という金属がぶつかり合うような音が響き、ハンナの剣が巨熊の爪で大きく逸らされると、ハンナは思い切り地面を蹴って横に飛んだ。

 一瞬の後、ハンナが居た場所に巨熊の手が振り下ろされ、ドゴォンという音と共に地面が大きく抉れる。


「ウオォオオーー!」


 ハンナが叫び、低い姿勢から巨熊の足を剣で薙ぐ―――


「グウォォォーーーウ!」


 巨熊が吠え、下がって剣を躱すと、右手を振り下ろす―――


 ハンナは左手一本で地面を蹴り、右側に躱すと大きく飛び上がり、巨熊の顔面に突きを繰り出すと、剣が巨熊の顔を掠めて赤い鮮血が噴き出す。


 ハンナが攻め、巨熊が守りながら反撃を繰り出す。

 一分ほど攻防戦を繰り返したハンナは一旦大きく下がって距離を取った。

 状況はハンナが優勢。だが、少しづつ手傷を負わせるものの、致命傷を負わせるには程遠く、ギリギリの所で躱されてしまっていた。


(クソッ!せめて風月かぜつきが使える場所までおびき出せれば・・・・・・)


 ハンナの左側には斜面を下った先に日の光が当たる開けた空間があり、そこに奴を引きずり出せれば勝てる可能性がある。

 が、奴もスキルを警戒して決して木が無い場所には出てこない。


 ハンナは焦っていた。

 十七年前とは違い、体力が落ちているのは明らかで、短時間の瞬発力や筋力は当時と比較してもそれほど落ちていないが、持久力は三十歳を超えて少しずつ衰えていることを知っていた。

 その為、スキルが使えないならと、短期決戦で一気に決着を付けようと仕掛けたが、結果は多少の手傷を負わせる事ぐらいしか出来ていない。


(このままではじり貧だ。せめてここにアーベルが......)


 ハンナは一瞬そう考えて頭を振った。


 もうすぐ旅立つアーベルを、怪我や、まして命を落とす危険に晒したくないから昨日の晩に出発するように言ったんだ。

 それにこれは父の仇を討つと言う、私のやり残した事の一つだ。

 だから私の手で決着を付けなければ。


 ハンナは改めて決意を固め大きく息を吐くと、肉弾戦で決着をつけるしかないと、先程と同じように真正面から突っ込んでいった。


 突きを繰り出して躱され、反撃の爪からバックステップで逃れ、フェイントを掛けて切り込むが逆に踏み込まれて有効打にならない。

 一体どれほど切り結んだろう。

 決定打を与えられないままハンナのスピードも技の切れも徐々に落ちて行き、いつの間にか巨熊の攻撃を躱すことで精一杯になっていた。


(くっ!このままじゃ!)


 掬い上げるように迫ってきた巨大な右手を、後ろに大きくジャンプして何とか躱すと、一旦距離を取って呼吸を整える為にそのまま再び後ろに大きく飛び下がった。


(今日の所は一旦......)


 一瞬そんな弱気が頭をよぎった瞬間。


「あっ!!」


 その小さな弱気が全身に広がったのか、疲労の為なのか、着地した際に苔むした倒木に足を滑らせた。

 咄嗟に受け身を取って転がったハンナが、頭を上げて前を見たとき、ハンナに向かって突進してくる白い巨熊が目に入った。


 その距離僅かに五メートル。

 立ち上がってもその瞬間に―――


 もしかしたらこうなる事がどこかで分かっていたのかも知れない。経験と技術でカバーしても十七年前のようには戦えないと。


(お父さん、仇を取れなかった......オリヴェル、ごめんね......アーベルすまない、約束は......)


 今まで数えきれないほど刈り取ってきた命。今度は自分が刈り取られる側になっただけだ。

 ハンナは自分の命を刈り取る巨熊から目を逸らさず、気持ちだけは負けない様に最後の瞬間を待った。

 そして、巨熊の巨大な手がハンナめがけて振り降ろされるその瞬間。


 一本の矢が白い巨熊の左目を貫いた―――


「ハンナさんっ!」


 そして、ここに居るはずのない、今朝聞いたばかりなのに懐かしく感じる声がハンナの名前を呼んだ。


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