第10話 野営にて
風車の森の奥深くの夜空には糸のように細い月が浮かび、その月を取り巻くように幾千もの星々が煌めいている。森の遠くから狼の遠吠えが風に乗って微かに聞こえて来る。
森を吹き抜ける生暖かい北風が数日後には雨が降ることを知らせてくるが、長年の経験から今日一日は天気は持つだろうと判断した私は、チロチロと燃える焚火のむこう側で微かな寝息を立てているアーベルに目をやった。
黒毛熊狩り三日目の夜、いや、もう最終日の朝と言った方が良いだろう。
私とアーベルは森が少し開けた場所で野営を行っていた。
今回の狩りで私はアーベルに、戦い方よりも長距離移動の際のペース配分や注意点、休憩場所や野営場所の決め方やタイミング、火の熾し方から見張りの仕方まで細かい点を、そう遠くない将来、アーベルが長い旅をする上で役に立つ知識を色々と教える事に重点を置いていた。
子供の頃から何事も器用にこなした私から見れば、アーベルはそれほど器用ではなかった。いや、不器用といっても良いだろう。
だが、アーベルは不器用なりに何とか技術を身に着けようと、ひたすら実直に飽きる事なく努力を繰り返す。
素振りだってそうだ。
私がアーベルと同じ年齢の頃には回数だけこなして、それでやった気になっていたが、今も時々こっそりとアーベルの素振りを盗み見ると、まるで今日初めて素振りを教わったかのように、一回一回真剣に棒を振っている。
アーベルは不器用な分、それを時間と努力でカバーして乗り越えてきた。
初めは、旅の途中で行き倒れない程度に訓練させて、あとは本人が望むようにすぐ送り出してやろうと思っていたのに、アーベルの努力が徐々に実る瞬間を見ているうちに、いつからかこのまま送り出せないと思うようになっていた。
そして、その理由に気が付いた、いや、目を向けたのは昨日の夜の事だった。
♢♢♢
狩りに出て二日目の夜、小川の畔で野営をしていた私たちは、夕食後にその日の狩りについての話しをしていたが、話が途切れたタイミングでアーベルが少し緊張した素振りで質問してきた。
「ハンナさんはどうしてこの森に住んでいるんですか?」
てっきり狩りに関する質問だと思っていた私は、そのアーベルの質問に少し驚いた。
何故なら、アーベルは私が心の中で引いている一線を分かっていて、それでも今まで聞いてこなかった事を聞いてきたからだ。
「どうしてって......ここが私が生まれて育った場所だからだな」
普段通りに、少し冗談めかしてアーベルの質問に答えるが、アーベルはいつになく真剣に私を見つめてくる。
その様子に、なぜ突然そんなことを聞いてきたのか理由は分からないが、アーベルも雑談程度の軽い気持ちで聞いてきたんじゃない事が伝わってきた。
「でも、ずっと一人で森の中に居たら......寂しくないですか?」
「ハハッ!私だってずっと一人だった訳じゃない。子供の頃は両親も祖母も一緒に住んでたしな」
「家族がいたんですね......」
「当たり前だ。木の股から生まれてきた訳じゃあるまいし、私にだって親が居たさ」
相変わらず少し冗談めかして返答をしたが、真剣なアーベルの瞳に促されるように、自分の身の上を少しづつ話し出していた。
「私が六歳の頃に祖母が老衰で死んで、その一年後には母が病気で死んでしまって......それからはずっと父と二人で暮らしていた」
そう、優しかった祖母、厳しかった父、いつも明るく呑気だった母。
懐かしい顔が脳裏に浮かんでは消えていく。
「その父も私が十五歳の時に狩りの時の怪我が原因で死んだよ。寂しくないと言ったら嘘になるが、これが私の仕事だと諦めてもいるさ」
仕事―――私はいつの間にか、私がこの森に留まっている理由の一つを口にしていたが、一度話始めた自分が止められなくなっていた。
「仕事?......でも寂しければ町に住みながら狩りをすることだって」
「そうじゃなくて、な。狩りは生きる為の糧を得るために行っているだけで......私の本当の仕事というのは......この森を守る事なんだ」
「風車の森を守る?」
「ああ、この森には昔から風の精霊が住んでいるというおとぎ話のような言い伝えがあってな。私の家はずーっと昔から代々風の精霊を守るためにこの森で暮らしてきたらしい。だけど......それも私の代で途絶える事になるのだがな」
そうだ、途絶えるんだ。私の―――
「それに......」
徐々に荒廃しているこの時代、他人が聞いても少し同情してすぐに忘れてしまうような、ありふれた話を私は口にしようとしていた。
それでも今までアーベルに教えてなかったのは、心のどこかで自分にブレーキを掛けていたから。だけど、なぜか今の私には自分の口を止める力が無かった。
「それに......この森には、夫と息子が眠って居るから......私は何処にも行けないんだ」
誰かに話したってあの子はもう戻ってはこない。
だけど、それでも本当は誰かに聞いてほしかったのかもしれない。
私はいつの間にかじっと焚火の炎を見つめたまま、この森に一人で留まるもう一つの理由を、アーベルではなく自分に言い聞かせるようにそう呟いていた。
本当は自分でも分かっていた。
夫を亡くし、あの子を失って一人になった私は、このままこの森で誰にも知られずに朽ちてゆくのだろうと後悔と自責の念に囚われて過ごしてきた。
ただ心のどこかには、この森で生きた家族が確かにいた事を誰かに知ってほしかった。
だから、森で倒れているアーベルを見た瞬間に、アーベルに死んだ―――私のせいで命を落としたあの子の影を重ねていた。
息子に教えてあげられなかった自分の経験と知識を、アーベルが身に付けてくれる事に喜びを感じていた。
それはアーベルの為ではなく、自分が確かにここに居た証を残したいという私のエゴだった。
♢♢♢
一年中温暖なこの森でも明け方には気温が下がり夜露が降りてくる。
私はすやすやと寝息を立てるアーベルの傍に寄ると、夜露に濡れて体を冷やさない様にアーベルのブランケットを掛け直した。
こうして寝顔を見ていると、まだ幼さを残した普通の子供だ。
アーベルは私の身の上を聞いた後も普段と変わらず、私の教えた事を実践しようと、真剣に、時には笑いながら、いつも通りに狩りを続けていた。
肝心なことを何も話していない私の話を、アーベルが全て理解したとは思っていないけど、それでも普段通りのアーベルの態度が私は何だか妙に嬉しかった。
私は思わず手を伸ばしてアーベルの柔らかい頬っぺたを突いてみるが、アーベルは全く起きる気配はなく、むにゃむにゃと寝言を言うと、また静かに寝息を立て始める。
初めての野宿、そして連日の戦いで疲れがピークに達しているだろう。
懐中時計を取り出して時間を確認すると、時計の針は午前三時を指していた。
本当は見張りの交代の時間だけど、今日だけは朝日が昇るまでこのまま寝かせてあげよう。
星が散りばめられた夜空、静まり返った漆黒の森、緩やかに吹き抜ける風。
今までと何も変わらない見慣れた風景のはずが、今の私には不思議と新鮮に映っている。
私は心に掛かっていた黒い霧が少し晴れたような気分で、見慣れた風車の森を朝日が彩るまで眺めていた。
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