第9話 黒毛熊

 ハンナさんに弓を貰ってから半年が経った。

 僕はその間、今までの訓練や仕事を続けながら時間の合間を見て毎日弓の練習をしていた。


 初めは動かない的をほぼ外さないまで練習をして、その後は小鳥の風車で動き回る的を狙う練習を積み重ねた。そして剣と弓の両方を装備した重さに慣れる為に弓の練習中にも常に剣を帯び、逆に狩りの時は弓を背負っていた。

 両方を装備した場合の動きに慣れる事には苦労したけど、重さにはすぐに慣れた。


 僕がそうして弓の訓練をしているのをハンナさんは何も言わなかった。

 ただ、弓の練習をしている僕を時々冷めた目で見ては立ち去っていく。


 そんなハンナさんの反応を気にしながらも、先月初めて実際の狩りで弓を使うことをハンナさんに許可して貰った。

 ウサギや鳥、鹿などの危険が少ない獲物相手の場合だけとの約束だったけど、僕は初めて弓を使った狩りで鴨を一羽仕留める事が出来た。

 その後も危険が少ない時には弓で獲物を仕留める事を繰り返し、僕の弓の腕は少しづつ上達していった。と思っている。


 なぜなら、ハンナさんは相変わらず僕の弓について褒める事も貶す事もせず、ただ何時ものように冷めた目で僕が弓を使うのを見ていた。

 ただ、剣については褒めてくれる事が少しづつだけど増えてきた気がする。

 猪を仕留めたときの剣の返し方が良かったとか、鹿を仕留めたときの身体の捌き方だとか、短く褒めてくれる。十個お説教を食らって一個褒められる程度だけど。


 ♢♢♢


 そんなある日、夕食後にハンナさんが以外な事を告げてきた。


「アーベル、明日の水汲みはしなくていい」

「えっ?」


 ハンナさんの家にお世話になって二年半経つけど、水汲みをしなくていいなんて言われたのは初めての事だったので少しびっくりする。

 ハンナさんはお風呂が好きで毎日お風呂に入るから、僕が水汲みをしないと明日はお風呂に入れない。


 僕もここでお世話になってからお風呂が大好きになった。

 淡いランプの光と月明りの中、お湯に浸かったとたんに全身の疲れが溶け出していく感覚を感じながら、その日の出来事を思い返す時間が大好きだ。

 ただ、もう十三歳半になった僕を未だに子供扱いして、隙があれば僕と一緒にお風呂に入りたがるハンナさんには困ってるけど。


 だから、水汲みをしなくてよいという事は何か大事な用があるのだろうと思って思わず身構えて続きを待った。


「その代わり、明日から一緒に狩りに出てもらう」

「狩り?」


 狩りならほぼ毎日行っているのにどういう事だろうと考えていると、ハンナさんが続ける。


「ここから東に十五キロほど行いった所にかなりの数の黒毛熊が生息している場所がある」

「黒毛熊......」


 僕はゴクリと唾をのみ込んで、真剣な表情で見つめてくるハンナさんの瞳を見つめ返す。


「最近数が増えたみたいでな。私たちが普段行く狩場でも黒毛熊の痕跡が見られ始めた。このままだと危険だし、黒毛熊を少し減らしておこうと思う」

「じゃあ、明日からの狩りの相手は......」

「そうだ、私と協力して黒毛熊を狩ってもらう」


 それは僕がまだ戦ったことのない相手だった。

 村の森には数年に一度、灰色熊が出ることがあって、父さんや村の皆で仕留める為に出かけていたけど、兄さんは留守番だった。兄さんも連れて行って貰えない程危険な灰色熊だったけど、黒毛熊は同じくらい危険なのだろうか。


「危険なんですか?」

「危険、と言えば当然危険だ。この森で多分......いや一番強いからな」


 ハンナさんは少し言い淀んだ後、一番強いと言い切った。

 それを聞いて緊張して体がこわばるのが自分でも分かった。

 そんな僕を見て、ハンナさんは肩の力を抜くようにフッっと笑う。


「まあ、そんなに構えるな。強いと言っても三、四頭の群れの狼と同じ程度だ。アイツ以外はな」

「アイツ?って?」

「ふふっ、まぁいずれ分かるさ。今回はアイツの縄張りまで行かないから安心しろ」


 狼三、四頭位だったら僕でも何とかなるかも知れないと思って少し安心したけど、アイツとは何だろう。僕が聞き返すと、ハンナさんは笑ったまま話をはぐらかした。


「という事でだ、明日から四日間の予定で狩りに出る。出発は日の出後すぐだ」

「分かりました」

「明日から大変だぞ!分かったら早く寝ろ」

「はい!」


 明日から四日間、森で最強の黒毛熊の狩りが始まる。僕は二年前に初めて狩りに出たときの様な緊張と興奮に包まれたまま部屋に戻った。


 ♢♢♢


 ハンナにとって今回の狩りは二つの目的があった。

 一つはアーベルに言ったように黒毛熊の間引き。そしてもう一つはアーベルの強さの確認だった。

 ハンナの見るところ、アーベルの弓の腕はまだまだだが、剣の腕はかなり上がった。

 あれくらいの力があれば、今から旅に出てもそれほど危険はないだろう。だが、それはあくまでも野生動物相手に限った事だ。森を出て世界を旅する事は、数か月から場合によっては数年もの長い旅路に耐える精神力や、魔物との戦闘も避けて通れないだろう。場合によっては対人戦の覚悟も必要だ。


(剣の腕は上がっても心はまだ子供だ)


 だから今回の狩りで、現時点での技術や長時間闘いの場に晒された時の精神力を見極めて、その結果によっては今後の訓練は対人戦や精神力を中心に教えて行こうかと考えている。


(それに、成長したとは言っても見た目はまだまだ子供だしな)


 あの見た目では子供だと侮られてトラブルに巻き込まれる可能性に常につき纏われるだろう。だからハンナはアーベルがいくら強くなっても今すぐ旅に出そうとは思っていない。

 最低でも後一年、アーベルが十四歳を過ぎ、一人前の青年に見られるまでは、もう少しここで力を付けてもらいたい。あと少しは勉強も教えないとな。


(もし、私も一緒に旅が出来れば......)


 生まれてからずっと風車の森で生きてきたハンナは、アーベルと一緒に世界を旅する事が出来ればどんなに楽しい事かと一瞬想像してから、諦めたように笑うと、明日に備えて早めに自室に戻った。


 ♢♢♢


「アーベル!右だ、右から回り込め!」

「はいっ!」


 正面十五メートルに構える真っ黒な巨体が僕めがけて走り出そうとする直前、僕はハンナさんの指示に従って右手の叢の中に走り込んだ。僕の動きを目で追えなくなった黒毛熊......奴は、僕の位置を探ろうと立ち上がって辺りを見渡しはじめた。


 その黒毛熊の身長は二メートル程あって、その名の通り、全身を真っ黒な毛で覆われている。だらんと下がった短い両腕の先には、僕の顔の倍ほどもあるぶ厚い手のひらがナイフのような爪を光らせている。

 もしあの手で殴られたら、運が悪ければ即死だろう。

 僕はぞっとしつつも、叢の影を音を立てずに、奴から見て左手にゆっくりと移動する。


「フゴォォォァァアーーー!」


 僕を見失って苛立ったのか、奴が威嚇するように大声で吠えたその時、奴の右側に回り込んでいたハンナさんが投げた石が、ガツッっと鈍い音を立てて奴の顔面にヒットした。

 ダメージは少なそうだが、かなり痛かったらしく、奴は両腕で顔を搔きむしるように悶えながらハンナさんの方に向き直った。


(今だ!)


 僕は音を立てずに叢の影から飛び出すと、無防備に背中を見せている奴に全速力で近づいた。

 だが、あと三メートルという所で、僕に気が付いた奴がこっちに振り返ろうとする。が、その瞬間またしてもハンナさんの投げた石が奴の側頭部に命中して、奴はまたハンナさんの方に振り返った。だけど、奴にとってはその行動が致命的だった。

 僕が左の手のひらを剣の柄頭に当てて一気に突っ込むと、奴は咄嗟に左腕でバックブローを振り下ろしてきた。

 そのバックブローを、上体が地面に着くほど低く躱して一気に奴の懐の飛び込むと、心臓めがけて剣を突き出して左手で一気に押し込む。


「グアァァーーーーゥゥ!」


 心臓を貫いた剣が奴の断末魔を引き出したのを聞きながら、僕は剣を手放して素早く奴から距離を取った。

 奴は心臓を貫かれてもなお、狂ったように暴れると、数秒後に鈍い地響きをたてて地面に転がった。


「はぁはぁ......やった......」


 黒毛熊の狩りに出て二日後、僕は初めて遭遇した黒毛熊をハンナさんのサポートのお陰で何とか狩ることに成功した。


「上手く心臓に刺さったから良かったものの、剣まで手放して、少しでも外れていたらどうするつもりだ!」


 いつの間にか近づいて来ていたハンナさんが、地面に横たわる黒毛熊の胸から僕の剣を引き抜いてお説教を開始した。


「こいつらは顔を攻撃されるのを嫌がるから、顔を攻めて怯ませてからトドメを刺せと言っただろう」

「はい・・・・・・すみませんでした!」


 ハンナさんは僕に剣を差しだすと念押しをした。


「全く......次からは無理をしないで安全に確実に仕留める事!いいな!」

「はい!分かりました!」


 僕は反省しつつも、初めて黒毛熊を倒した興奮もあって力いっぱい返事をすると、ハンナさんが僕の頭に手をやって、くしゃくしゃと撫でながら笑った。


「だが、初めてにしては良くやった」


 ハンナさんの短い褒め言葉に、僕は父さんや兄さんに褒められた時の様な喜びを感じて、堪らなく嬉しかった。


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