第8話 ハンナの弓

 僕がこの森―――風車の森に来てから二年が経った。

 朝、いつものように日の出前に目を覚まして部屋から出ると、ハンナさんが大きな荷物を背負って麓の町に出かける所だった。


「それじゃあ、行ってくる。留守を頼んだぞ」


 大量の荷物を背負ったハンナさんは僕に軽く手を上げて家を出て行く。

 ハンナさんは年に二回ほど麓の町に出て、狩りの獲物であるウサギや狼、鹿の毛皮、それに森に自生している薬草である白鈴草などを売って、売ったお金で森では手に入らない塩などの調味料や食料品、金物、服などを買って帰ってくる。

 僕が今身に着けている服や靴もハンナさんに買って貰ったものだ。


 また買い物だけでなく、最近の話題や町や国で起きた事などの情報を仕入れることも目的の一つだ。

 僕がここにお世話になってからは、ハンナさんは町に出るたびに、僕の故郷であるエンビ村の事を知ってる人がいないか聞いて回ってくれているけど、未だに手がかりは無かった。

 それについては僕はもう半分諦めていて、僕が旅に出て探すしかないと思っている。


 前回までは僕を一週間も一人に出来ないからと、僕も一緒に町に連れていかれてたけれど、今回からは僕に留守を任せても大丈夫だと言われ、ハンナさん一人で行くことになったのだ。


「行ってらっしゃい。気を付けて!」


 大荷物を背負ったハンナさんを見送ってから、僕は日課である素振りを開始する。

 今、ハンナさんから指示されている七百回の素振りを二十分ほどで終えると、温まった体が目を覚ます。

 そしてそのまま小鳥の風車に向かい、一時間程剣を振るう。


 初めは手こずった小鳥の風車だったけど、ハンナさんの助言を聞いて毎日悪戦苦闘しているうちに徐々にコツを掴んで、今では僕の好きな訓練となっている。

 小鳥の風車と同じ時期に始めた狩りも小鳥の風車が上達した一因だ。

 獲物から目を離さずに、岩や倒木、崖や大きな窪みがある森の中を走り回るのだから、小鳥の風車の荒れた地面も徐々に問題にならなくなっていた。

 そうやって訓練を続けているといつからか風の速さ、匂い、音、流れが分かるようになっていき、小鳥がこの後どういった軌道を描くのか、どこでスピードを上げるのかが手に取るように分かってくる。


 また、見えない左目に初めは苦労したけど、今では左から来る小鳥の方が簡単に対処出来るようになっていた。

 左目が見えない分、左から来る気配にはより敏感になったからだと思う。


 左目と言えば、兄さんに教えてもらった不思議な世界の見方は今でも時々やっている。

 紫の瞳に意識を集中すると、風車の森の上に村で見ていたのと同じ、白い光の河がゆったりと流れているのが見えてくる。村の事を思い出して寂しくなった時にはそうやって村の事を思い出している。


 そしてハンナさんにもだいぶ前に左目の事は話してあった。

 白い光の河についてはハンナさんにもさっぱり分からないらしく、首をひねっていたけど、僕の左目が殆ど見えない事については、知っていればもう少し訓練の内容を考えてあげられたのに、と謝られてしまった。

 でも僕は結果的にこれで良かったと思っている。

 だって今では見えない左からの攻撃の方がうまく対処できるようになったのだから。


 小鳥の風車での訓練を終えて、初めて一人で朝食を摂ってから、これまたいつもの日課である水汲みを始める。

 今では木の棒の前後に四個の桶をぶら下げて水汲みをしているため、一時間程で終わってしまう。

 そして、ヤギの世話や家の掃除などの午前中にやらなきゃいけない仕事を終えたら狩りの時間だ。

 ハンナさんからは家の南東に十分ほど行った所にある小高い丘以外であれば、片道一時間の範囲で好きに狩りをしていいと言われた。


「と、その前に剣を研いでおかなきゃ」


 昨日の狩りで大きな猪を仕留める時に剣を使ったので、念のために研いでおいた方が良いだろう。


(砥石は、どこだっけ?たしか......)


 ハンナさんが庭の片隅に建っている小さな物置小屋から砥石を持ってきた事を思い出した僕は、物置の扉を開けて中に入ると砥石を探した。


「あったあった」


 砥石は入口の横の壁にぶら下がっていたので、僕はその中から一つを手に取り小屋から出ようとした時、物置の奥、木の箱が積まれている壁との隙間に何か長い物が見えた。


(あれは?)


 暗くて良く見えなかったけど、近づいてみるとそれが埃を被った弓だと分かった。

 弓の傍には数本の矢が入った矢筒や張替え用の弦も置いてある。


「ハンナさん、やっぱり弓持ってたんだ」


 勝手に触っちゃ怒られるかも知れないと思ったけど、久しぶりに見た弓に興奮した僕は、思わず引っ張り出して手に取ってみた。

 その弓は村で父さんが使っていた弓より少し小さく、丁度兄さんが使っていたものと同じくらいの大きさだ。


(大事な物だったらこんな物置に埃を被らせて置いておかないはずだし、ちょっと触ったって怒られないよね......)


 誘惑に負けた僕は自分自身に言い訳を言ってその弓を倉庫から引っぱり出すと、久しぶりに弓を構えてみる。

 重さも大きさも今の僕には丁度しっくりくる弓だ。

 そして、右手の指に弦を掛けてゆっくりと引き絞ると、少し引いたところでプツンっと音がして弦が切れてしまった。


(ずっと手入れをしないで置いてあったから弦が駄目になっていたんだ)


 勝手に触って壊してしまった事に少し慌てたけど、弦の張替えだったら僕にも出来る。

 ちゃんと直してハンナさんが帰ってきたら勝手に触った事を謝ろう。

 僕は剣を研ぐことも狩りに出ることもすっかり忘れて弓に夢中になっていた。


 結局僕は狩りには行かずに夕日が西の森に沈むまで弓の手入れをしていた。

 弦を張替え、握に巻いてあったボロボロの布を巻きなおし、油を染み込ませた布で丁寧に磨き上げた。

 僕は生き返ったように飴色の輝きを放つ弓をゆっくり構えると、張替えた弦を引いた。

 弓がしなるギューっという音を聞きながら限界まで引き絞り、少し溜めながら二十メートル程前方の木に的を絞り、パッっと指を離すと、ビィーーンという音が静かな森に響いた。

 手に持った重量も弦を引く重さも僕にピッタリだった。

 翌日から僕の訓練に勝手に弓の練習が入っていた。


 ♢♢♢


「ハンナさんっ、ごめんなさい!」


 一週間後、買ってきた荷物を上機嫌でテーブルに広げていたハンナさんに、僕は挨拶もせずにいきなり頭を下げて謝っていた。


「アーベル。いきなりどうした?」


 ハンナさんは買い物が好きみたいで、町から帰った後はいつも機嫌が良かった。

 今も、顔を合わせるなりいきなり謝ってきた僕を、驚きつつも笑顔で見ている。

 謝るなら機嫌が良い今のうちに早く謝ってしまおう。


「あ、あの。ハンナさんの留守中に......」


 だけど、ハンナさんは怒ると凄く怖いので、僕は”弓”の一言がなかなか言い出せない。


「私の留守の間にいけない事でもしたのか?それとも水汲みをサボって風呂に入ってないのか?だったら今日は私と一緒に―――」

「いえっ!そうじゃなくて......」


 ハンナさんが悪い笑顔を浮かべてまた余計な話をしそうだったので、僕はハンナさんの言葉を遮ぎると、自分の背中に隠していた弓をハンナさんに見せた。


「実はこれ......物置で見つけて。勝手に触ってしまいました。ごめんなさいっ!」


 頭を下げて謝ったけど、ハンナさんは何も言わなかった。

 恐る恐る頭を上げると、ハンナさんの顔からはさっきまでの笑顔が消えていて、人形のような冷たい目で弓を見ていた。

 そしてその冷たい目のまま僕に視線を移すと、何も言わずにテーブルに向き直って荷物の整理を再開しだした。


「あ、あの、ハンナさん?ごめんなさい......」


 ハンナさんの様子を見て、僕は大変な事をしてしまったのではないかと焦ったけど、ハンナさんは僕の言葉が聞こえていない様に黙々と荷物の整理を続けている。

 暫くしてもハンナさんは何も言わない。


「......じゃあ、物置に戻しておきます......すみませんでした」


 ハンナさんの様子をみて不味いと思った僕は、そそくさと弓を持って家を出ようとしたとき、背後からハンナさんが初めて声を掛けてきた。


「しまわなくていい......」

「えっ!」

「しまわなくていいと言ったんだ」

「じゃあ!」


 もしかしてお願いすれば僕に使わせてくれる?

 僕が自分に都合良いことを思った瞬間、ハンナさんは今まで聞いたことが無い冷たい声で言い放った。


「しまわなくていい。今すぐ捨ててしまえ」

「えっ?」

「捨てるって?この弓を......ですか?」

「とっくに捨てたと思ってたんだが、まだあったのか」

「でもこの弓、まだまだ......」

「使えても、使えなくても、使う人間の腕が無ければ......同じだ」


 ハンナさんは背中を向けたまま相変わらず冷たい声で告げた。


「ハンナさん?」

「銃がある今の時代、そんなもの何の役にも立たないからな」


 役に立たない?父さんも兄さんも、弓でどんな獲物だって仕留めているんだ。

 だから弓だってまだまだ使えるはずだ。


「腕がないのは使う人のせいで......だからって弓を捨てるのは」

「確かに弓のせいではない、が、下手な人間が持っていても意味はない」


 嘘だ。物置を少し見廻しただけの僕にも見える所に置いてあったんだから、ハンナさんだってあそこに置いてあったことくらい分かっていたはずだ。

 ただ、弓を使いたくない、だけど弓を捨てられない。そんな理由があるのかも知れない。


「そんなことは......だったら、だったらこの弓を僕に貸してください!」

「......」

「僕はまだまだ弓は下手かも知れません。でも弓だってまだまだ役に立つことをいつかはハンナさんに見せてみます!」


 剣の腕だって未だに未熟な僕がこんな事を言ったって説得力は無いかも知れない。

 けど、父さんや兄さんはどんな獲物でも弓で戦っているんだ。だから僕だっていつかは。


「......好きにすればいい......」


 ハンナさんは相変わらずに僕に背を向けたままそう呟いた。


「じゃあ......」

「その弓はお前に呉れてやる」

「僕にこの弓を?」

「ああ、但し私は弓を教えられないから自分で何とかするんだな」

「あっ、ありがとうございます!」

「あと一つ、条件がある。狩りに出る時は必ず剣も持って行くことだ」

「剣もですか?」

「そうだ、護身用のメインの道具はあくまで剣にしろ。弓はあくまで狩りの為の補助としてだ」


 ハンナさんが弓を嫌って剣に拘る理由は分からない。

 もし両方持つとなると、それなりの重量があって、獲物を追うときは大変かも知れない。

 だけど、これまで以上に訓練して剣も弓もハンナさんに認められるようになって見せる。


「分かりました!」


 僕はさっそく弓の練習をしようと思い、ハンナさんにお礼を言って家を出ようと

 すると、背後から再び声が掛かった。


「あともう一つだ」


 その声に振り向くと、ハンナさんも僕の方を振り返って、今にもニヤリと笑いそうな顔をしている。

 これはいつもの悪い予感しかしないやつだ。


「勝手に人の物を持ち出した罰は受けて貰うぞ」

「あっ!」


 そして僕の予感どおりにハンナさんはニヤッと悪い笑顔を浮かべて、僕に死刑宣告をした。


「今日は一緒に風呂に入って、旅の疲れを洗い流して貰おうか」


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