第7話 覚悟

 薄曇りの空に浮かぶ傾き始めた太陽の弱い光を背に受けて、僕はくさむらの影に隠れるようにしゃがんだまま息を潜めていた。

 緊張を解くようにゆっくりと大きく静かに息を吐くと、それが合図かのように僕の前方二十メートル程の所に石が落ちてきて、ガサッっと音を立てた。

 すると、右斜め前方十メートル程の所にある叢から茶色い耳がピンと立ち上がり、辺りを警戒するように右へ左へとせわしなく動き出した。


 僕が狩りを初めてどのくらいの時間が経ったのだろうか。

 正午過ぎに始めた狩りだけど、太陽が傾き始めたこの時間になっても一羽の獲物も手に入れられていない。もっと言えば一回もナイフを投げることが出来ていなかった。

 ハンナさんが石を投げてウサギの位置を炙り出し、僕がそっと近づいて仕留める手はずだったけど、何回やっても僕が近づいた時には、すでにウサギは跡形もなく行方を眩ませていて、未だにナイフを投げる事すら出来ていない。


 少し離れた木の陰から石を投げたハンナさんから、ハンドサインで「行け」と指示が出て、僕は今度こそと決意して音を立てないように慎重に歩みを進めた。


 石の落ちた場所とウサギのいる場所を結ぶ延長線上から、足音を立てずに中腰のままゆっくりと近づく。

 あと八メートル......あと七メートル......六メートル。

 僕が恐る恐る顔を上げると、叢から立ち上がるようにして僕に背中を見せているウサギが目に入った。


(いた―――今度こそ)


 僕は音を立てない様に立ち上がると、ゆっくりとナイフを振りかぶった―――その時だった。ウサギが急に振り向いて僕と目が合った。


 距離は約五メートル。今ナイフを投げれば確実にウサギを仕留められる。

 だけど僕の手は動かない。いや、動かせなかった。

 僕が投げたナイフでこのウサギは死んでしまう。

 ただここに居ただけで、僕のせいで死んでしまう。


 怯えの色を見せるウサギの目を見た瞬間、僕は急に怯んでしまっていた。

 そして、助けを求めるようにハンナさんに視線を移すと、ハンナさんの目は何も言わず黙って僕を、成り行きを見つめているだけだった。


(僕は......)


 たかがウサギ一羽だって数分前の僕は心のどこかでそう思っていた。

 だけど何の罪があって殺されるのだろう?弱いから?運が悪かったから?


(僕には......殺せない)


 ナイフを持つ手の力が抜けて行くと、それを感じたのか、ウサギが大きくジャンプして走り出した。

 僕は何も考えられずに走り出したウサギをただ見つめていた。その時だった。

 ドカッ!っという音と共にウサギが突然横に大きく跳ね上がる。


「!!」


 そして僕の目の前で地面に転がってピクリともしなくなった。

 驚いた僕がハンナさんに向くと、石を投げたハンナさんがゆっくりとこちらに歩いてきて、僕の横を素通りすると、息の絶えたウサギの耳を持って持ち上げた。


「ハンナ......さん!」


 分かっている。これは狩りなんだ。

 それでも、僕の発した声には無意識にハンナさんを非難する色が付いていた。


「もうすぐ日が暮れる。終わりだ」


 ハンナさんは僕の目を見ずに静かにそう言うと、黙って歩き出した。

 そう、狩りがどういうものか分かっていなかったのは僕だったんだ。


 ♢♢♢


 その後、アーベルとハンナはお互い一言も喋らずに夕日に照らされた森を抜けて家に帰った。

 家に着いてからも、ハンナは一言も喋らずに夕飯の準備をし、アーベルも用意された夕食には一切手を付けないで、ただ黙って椅子に座っていた。

 どれくらいそうしていただろうか?食後のお茶を飲んでいたハンナが呟いた。


「アーベル、辞めるか?」


 ハンナの口調はいつもの様にぶっきらぼうだが、怒っているわけではなくどこか優しさがこもっている声色だった。

 だが、アーベルはその問に答えずに俯いて沈黙していた。


「また狩りに出たいか?」


 ハンナの再びの問いにアーベルが俯いていた顔を少し上げた。


「......ったんです」

「ん?」

「僕は......分かってなかったんです」


 アーベルは少しづつ、振り絞るように声を出した。


「狩りがどういう物か、頭では分かっていたつもりだったけど、何にも分かってませんでした」

「......」

「ただ父さんや兄さん、ハンナさんの結果だけを見て、かっこいいなって思うだけで、実際何をしているかなんて考えもしなくて......あの時、僕がナイフを投げたらウサギの命を奪ってしまうと思った時、僕はどうしていいか分からなくって......」


 ハンナには初めからこうなるかも知れないという予想があった。

 初めて他の命を奪う事になった時、殆どの人間は自分がこれから行う行為について、強弱はあれど躊躇いや罪悪感を覚える。その罪悪感をその場で簡単に乗り越えてしまう人もいれば、人によっては一生乗り越えられない場合もある。


 もしアーベルが何の痛痒も感じないで嬉々としてウサギを仕留めていたら、ハンナは今後アーベルに戦うための技術を教えるのは止めようと考えていた。

 他者の痛みを、命を奪う事を一切考えることが出来ない、そんな人間が力を持っても碌なことにはならないからだ。

 だが、ハンナはアーベルに関してはその心配は殆どしていなかった。心配したのはその逆、乗り越えられないのではないかと心配だったのだ。

 この半年一緒に暮らして知ったアーベルの優しすぎる性格では、逆に命を奪う行為を行えないのではないかと。

 そしてハンナの予想通りアーベルは手を下せなかった。

 だから、ハンナはいずれアーベルが世界を旅する為に必要になる覚悟を伝えようと口を開いた。


「私も初めて獲物を仕留めた......命を奪った時の事は今でも良く覚えてるよ」


 ハンナは遠い昔の自分と今のアーベルを重ねるように宙を見つめて続ける。


「あれはちょうど今のお前くらいの時、父に連れられて初めて狩りに出た時の事だった。私は毎日練習していた弓の腕を父に早く見せたくてワクワクしていたことを覚えてるよ」


 ハンナはそこまで言うと、冷めきったお茶を一口飲んで、ただ黙って項垂れているアーベルに視線を移した。


「だけどな、父に指示された先にいたキツネ、白に近い綺麗な金色をした若いキツネに向けて弓を引いた時、今のアーベルと全く同じことを考えてしまったよ」


 ハンナの話を黙って聞いていたアーベルが顔を上げた。


「ハンナさん、も?」

「ああ、私は何とか矢を放ったんだが、そんな気持ちで当たるわけがない。矢は大きく外れてそのキツネはすぐに姿を消してしまった。その後、私が後悔したのはキツネの命を奪う事を躊躇ったことでもなく、父に良い所を見せられなかった事でもなく......狩りを遊びの様に考えて浮かれていた自分の愚かしさだった」


 ハンナが最後に口にした気持ちが今の自分と重なって、アーベルの目から涙が落ちた。


「ハンナさん、僕も......自分が......」


 ハンナは席を立ってアーベルの横まで来ると、涙を流しているアーベルの頭を優しく抱きしめ、静かに話を続ける。


「だが、その帰り道、落ち込んでいる私に父がこう言ったんだよ。命を奪うことは決して褒められたことではないかもしれない。だけど大切な者を守るため、自分が生きる為に必要だと思った時は命を奪う罪を背負う覚悟を持って刃を振るえ、真剣に向き合え。たとえそれが小さなウサギであっても、人間であっても。とな」


「真剣に......向き合う?」


 アーベルはハンナの暖かな胸に包まれながら、狩場に着いた時のハンナの纏う張り詰めた空気を思い出した。


「例えウサギ一羽でも真剣に......命を奪う覚悟に向き合う......」

「そうだ。お前の父や兄もお前たち家族の為に毎日命を奪う罪を背負って、向き合って、そうやって生きている。だから......」


 ハンナはそれ以上何も言わず、ただ黙ってアーベルを抱きしめていた。


(父さんや兄さんが通ってきた道)


 小鳥の風車のように最初は上手くいかないかもしれない、それでも僕は、僕にはやらなきゃいけない事があるから。だから前に進む覚悟をしないと。

 父や兄、ハンナが通ってきた道に進む決心がついたアーベルの目からはすでに涙は流れておらず、覚悟を決めた意思の光が宿っていた。


「ハンナさん......明日また、僕を狩りに連れて行って下さい」


 アーベルは力強く、静かな声で決意を口にする。


「分かった......」


 ハンナは自分が抱きしめている少年がまた少し成長したことを感じて、嬉しくも、寂しい気持ちを感じて、さらに強く抱きしめた。


「ハ、ハンナさん、ちょっと、くるしい!」


 ハンナの胸に埋もれて、恥ずかしさのあまり真っ赤になったアーベルは、抜け出そうと藻掻くが、ハンナはさらに強くアーベルを抱きしめる。


「今さっきまで泣いていたくせに、一人前に恥ずかしがりやがって!そういえば風呂がまだだったな。どうだ、久しぶりに一緒に入るか?」

「いっ、一緒になんて無理ですっ、それに僕やっぱり―――」


 そしてハンナが飽きるまでアーベルは揶揄われ続けることになった。


 ♢♢♢


 翌日、アーベルは人生で初めて狩りを成功させた。


 そして、二か月後には狩りの途中で出会った狼の群れをハンナの協力で撃退したことで、ハンナが考えていた二つ目の壁―――戦う覚悟、自分の命を刈り取られる覚悟もあっさりと乗り越えて見せた。


 ハンナは何時からか、日に日に成長を続ける少年を心から喜ぶ気持ちと、その喜びと同じくらいの寂しさを感じていた。

 自分が大切なものを失って初めて気が付いた、戦う覚悟の本当の意味にアーベルが気が付く時、アーベルの傍には誰が居るのだろうか?


 だけど今はまだいい。


 ただ、成長と共に少年がこの森から、自分から旅立っていく時がまた一歩近づいた事、それだけだ。


 ハンナはその感情を押し殺して、自分に向けられたアーベルの笑顔に笑い返した。

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