第5話 二つの訓練
「四百九十八、四百九十九......五百!」
思いっきり振りぬいた棒を地面スレスレで止めると、僕は大きく息をついた。
僕がハンナさんの家にお世話になってから約半年が経った。
手に豆を作っては潰し、治らないうちに豆を作ってはまた潰し、いったい何度繰り返しただろうか。
三百回だった素振りも三か月前から五百回になっていたが、今では息を切らすことなく出来るようになっていた。
水汲みだってそうだ。
初めのころは半日以上掛かっていた水汲みも、ある日、素振りの応用だと気付いてからは桶の水を零す事も徐々に少なくなっていった。
要は素振りと同じように体の軸は常にぶれない様に心がけて足を運ぶ事で、今では全く零さずに二時間で終われるようになっていた。
固く厚くなってゴツゴツした自分の手のひらを見ると、半年前に比べて少しは力が付いたことが実感できる。
「大分振れるようになってきたじゃないか」
珍しく僕の素振りを見ていたハンナさんが、素振りの終わった僕に向かって声をあげて褒めてくれた。
ハンナさんは時々こうやって僕の素振りを見に来るけど、注意はしても褒めてくれるのは滅多にないので珍しい事だ。
「はいっ!ありがとうございます」
僕はハンナさんに褒められた事や、自分が少しは上達している事が嬉しくなって勢いよく返事すると、ハンナさんは少し考えるように黙っていたが、いつもの少し悪い笑みを浮かべて僕を見て言った。
「よし......じゃあ、今日から新しい訓練をしてもらおうか。新しい訓練は二つだ」
ハンナさんはそう言うと、僕について来いと言って、家から少し離れた小さな畑のある少し開けた場所まで僕を連れて来た。
そこは二十メートル四方程の広場で、真ん中に高さ三メートル程の風車が建っていた。
風車の上部には長さが違う十本ほどの棒が円を描くように突き出していて、それぞれの棒の先端には細い紐がぶら下がっており、紐の先には草で編んだ小鳥の様な物が結ばれていた。紐の長さもマチマチで、僕の頭より高い物もあれば地面ギリギリの物もあった。
「これは?・・・・・・」
ハンナさんは黙ったまま、またニヤッと笑みを浮かべると、風車にある留め金の様な物を外した。
すると、風車がギシリと鈍い音を立ててゆっくりと回転を始めた。
と同時に、円形に配置された棒もゆっくりと回りだし、紐の先端に付いている小鳥の編み物が風車の周りを飛ぶように周り始めた。
風の強さが変わるたびに時には漂うように、時にはツバメのように物凄い勢いで回ったりする。
「見ていろ」
ハンナさんはそう言うと、木の棒を片手にだらりと下げたまま、回り続ける小鳥の中に入って行く。
すると、ハンナさんの頭めがけて一羽の小鳥がすごい速度で飛んできた。
ハンナさんは少し体を反らしてその小鳥を躱すと、その瞬間物凄い速さで棒を振るった。
ハンナさんが振るった棒は小鳥に掠っただけなのか、チッっと小さい音を立てて通り過ぎていく。
だが、今度はハンナさんの背後を通るような軌道で飛んできた小鳥が膝の高さに飛んでくる。ハンナさんは反転して後方に飛び下がりながら片手で掬い上げるように棒を振るうと、その小鳥も小さく音を立てて通り過ぎて行った。
風の強さによって時には早く、時にはゆっくりと、次々に襲ってくる小鳥を、ハンナさんはダンスを踊るように淡々と躱し、剣を振るった。
そうして暫くすると、その動きに目を奪われていた僕の前にハンナさんがやってきて、僕に棒を渡して言った。
「こんな感じだ。今日から毎日、素振りの後に一時間これをやってもらう」
「一時間これを......」
「そうだ、私は小鳥を壊さないように掠らせていただけだが、アーベル、お前はちゃんと棒に当てるんだぞ。まあ、壊れたらお前に直してもらうがな」
そう言い残してハンナさんは家に戻ってしまった。
新しい訓練―――僕にハンナさんのような動きが出来るだろうか。
でも、やるしかない。ここに来てもう半年も経っている。
家族の皆は毎日僕の事を心配してくれているだろう。だから少し遠回りでも無事に旅が出来る力を身に付けないと。
それにこの半年で体力も剣の腕も上がったはずだ。少しはハンナさんのようにできるはず。
僕は棒をギュッと握ると飛び交う小鳥に向かっていった。
♢♢♢
「ハァハァ......終わりました」
一時間後、新しい訓練、僕は小鳥の風車と呼ぶことにした―――を何とか終わって家に戻った。
「そうか、どうだった?」
ボロボロになった僕の様子を見てハンナさんは感想を聞いてきた。
「あれは......難しすぎます」
実はハンナさんが顔色も変えず飄々とこなしていたので、僕にも少しは出来るんじゃないかと挑んだけど、結果は一羽の小鳥にも当たらなかったどころか、まともに躱すことも出来なかった。
凄い速さで向かってくる小鳥を何とか躱したら、躱した位置に別の小鳥が飛んでくるので、それだけでも棒を振るう余裕なんてなかった。
また、風の強さが変わるたびに小鳥の速度が急に早くなったり、逆に遅くなったりするのも大変だっし、風車とは関係なく、吹く風によって煽られた小鳥が急に浮き上がったり軌道を変えたりするのですぐに躱せなくなる。
更に僕の紫の左目は殆ど物が見えないため、左から来る小鳥は全く分からない。
だけど一番大変だったのは地面だった。
低い草に覆われた地面はうねるように凸凹していて、大きな石や木の枝もゴロゴロ落ちているし、所々には砂利が敷き詰めてあって異常に滑ったり、草に隠れて大きな穴が開いていたりして簡単に足を取られてしまうので何度転んだか分からない。
小鳥の動きを捉え、躱しつつ、どんな地形でも足を取られることなく移動しながら剣を振るって小鳥に当てる。
ハンナさんが飄々とやって見せた事が途轍もなく大変なことを、自分でやってみて痛感した。
「まあ、初めはそうだろうな」
「とてもできる気が......」
自分でも分かっている。こんな弱気じゃダメだってことは。
「アーベル、最初から上手く出来るやつなんていない。だが諦めるんだったら止めはしない。今すぐ麓の町まで送ってやる」
ハンナさんは少し寂しそうに、僕をじっと見つめてそう告げた。
「でも......」
だけど無意識にハンナさんに助けを求めるようにそんな言葉を口にしてしまう。
「が、一つ助言をしてやろう」
「助言?」
「初めは一羽の小鳥を躱す事だけに集中しろ。他の小鳥の事や棒で打つことは考えるな。目標の小鳥から目を離さず走り回れ。足を取られても転んでもその小鳥にだけはぶつからない様にしろ。それを繰り返せば足元を気にしないで動けるようになる」
「一羽だけ......」
「そうだ、それだけだ。......もしお前が、まだここに居る気があれば」
ハンナさんはそう言うと椅子から立ち上がり、背を向けて台所に立つと、弱々しく呟いた。
「居る気があれば......朝食の準備を手伝え」
そうだ、誰でも初めは初心者なんだ。最初から上手く出来るなんて自惚れてちゃいけない。でも諦めずに続けていればいつかは。
ハンナさんには迷惑かもしれないけど僕はまだ出て行く気はないんだ。
一羽だけに集中して。
僕は、はいっ。と返事をしてハンナさんの横に並んだ。
♢♢♢
朝食後、お茶を飲んでいたハンナは二つの新たな訓練のうちの残り一つを口にした。
「僕も、狩りに!?」
アーベルのびっくりした反応を見て、ハンナは首を縦に振った。
「そうだ。もう一つの訓練は狩りに出てもらうことだ」
アーベルにとって一つの目標でもあり、夢でもあった事、それは狩りに行くことだった。
父や兄と一緒ではないけれど、それでも昔からの夢が急に叶うと言われ、アーベルは思わず拳を握りしめて小さくガッツポーズをした。
「わっ、分かりました。行きます!行きたいです!」
そんなアーベルの様子を見てハンナは思わず苦笑するが、実はこれはアーベルの今後を決める試験であり、それを思ってハンナはすぐに真顔になった。
「アーベル、先に行っておく。これは......お前が狩りに出ることは、お前が自分の村に帰る為には必ずしも必要な訓練じゃない」
「必要じゃない?」
「そうだ。だが、この先お前がどういった人生を送るかは分からんが、いつかは直面する避けて通れない道だ」
「避けて通れない道?」
アーベルとしては、例えどれだけ時間が掛かっても無事に家までたどり着き、父や兄と一緒に狩りに行こうと思っているので、避けて通れない道と言われても当たり前のことでピンとこない。
そんなアーベルの疑問をよそに、ハンナは真剣に、淡々と言葉を続ける。
「今、この訓練、狩りをしなくても、今までの訓練を続けながらお前がもう少し大きくなれば世界を旅することは出来るかもしれない。だから狩りに出るかどうかはお前が決めろ」
ハンナはそう言うと、アーベルを見つめて黙り込んだ。
ハンナの真剣な様子に少し疑問を持ったアーベルだが、父や兄、ハンナさんも毎日気軽に狩りに行っているのだからと、気軽に返答をした。
「行きます!村に帰ったら毎日父さんや兄さんと狩りに行くって決めてるんです。だから狩りに行けるんだったら少しでも早く行きたいです」
「......そうか」
ハンナは少し黙った後、吹っ切れたように微笑を浮かべた。
「だったら、早く水汲みを終わらせて来い」
「えっ?狩りは?」
「バカ!水汲みが終わってからだ。じゃないと今日は風呂に入れないぞ。私は畑にいるから、終わったら声を掛けろ」
「わっ、分かりました!行ってきます!」
勢いよく立ち上がって家を出て行くアーベルの背中をじっと見ながら、ハンナは考え込んだ。
ハンナは実はアーベルが狩りに向いていない、いや、狩りが出来ないのではないかと思っていた。
その理由をさっき言おうと思ったが、多分アーベルは言葉では納得しないだろうと思い、アーベルの希望通り狩りに連れていくことにした。
迷うくらいなら、狩りに連れていくという事を言い出さなければ良かったのだろうか?
いや、とハンナは頭を振る。
さっきアーベルに言ったように、誰でも遅かれ早かれいつかは同じような問題に立ち向かう事が必ずあるだろう。
その時にアーベルがどう振舞えばよいのか、早めに見極めて導いてあげたかった。
多分アーベルの父と兄ならちゃんと寄り添ってあげられるだろう。
だけどそれでは遅い。アーベルが故郷の村に向かう旅の途中で必ずその問題が立ちふさがる。
そして、ハンナにもアーベルを狩りに連れていきたい理由があった。
ハンナはアーベルが出て行ったドアから台所の壁に飾られている古くて小さな赤い風車に視線を移し、小さく声を漏らした。
「あの子が今から立ち向かう二つの壁を無事に越えられるように......オリヴェル、お前も見守っていてくれないか」
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