第4話 新たな日常
僕が自分の力で旅が出来るようになるための訓練は翌日の早朝から始まった。
日の出前に起こされた僕は顔を洗った後にハンナさんの家の庭に引き出された。
「アーベルは森の近くに住んでいたんだったな。では狩りに出たことはあるか?」
「いえ、まだありません。春になったら連れて行って貰う約束だったけど......」
「武器は?何か習ったのか?」
「弓とナイフを少し」
僕がそう答えると、ハンナさんはそうか、とだけ言うと、近くにある大きな木向かい、手に持っていた長さ五十センチ程の木の棒を構えた。
そして木の幹に向かって思いっきり振り下ろした......ようだ。
ようだと言ったのは、僕にはハンナさんが振り下ろした木の棒が全く見えなかったからだ。
ガシッっと鈍い音がして、大きな木の幹が大きく抉れていた。
「凄い!......」
村では父さんも兄さんもハンスおじさんも含め、みんな弓かナイフか斧を使っていたのでこんな凄いスピードで木の棒を振る人は初めて見た。
スラッっとした細い手足なのにどうやったらこんな力を出せるんだろう。
僕が驚いていると、ハンナさんは僕の前まで来て木の棒を僕に突き出したので、僕は恐る恐るその棒を受け取った。
長さは五十センチ程だけど、僕の指が回らない位の太さがあって、腕にずっしりくる重さだ。
「生憎と私は剣しか教える事ができん」
「剣......ですか?」
「そうだ。だから今日から毎朝三百回、同じことをやれ」
「えっ?......同じことを?」
僕は驚いてもう一度大きく抉れた木の幹に目をやった。
剣なんて初めてだし、とてもじゃないけどこんな木の棒で同じことは出来そうにない。
「そうだ、だが、最初から同じようにできるとは思ってない。始めは木の幹に当てなくていい、ただしっかり力を込めて振りぬくことと、振りぬいた後に棒をちゃんと止めることに集中しろ」
素振りだけで良いんだったら僕にも出来そうだ。
僕は少しホッとしながら木の前に立つと見様見真似で棒を構えた。
「持ち方が違う!右手はこうだ」
言葉は荒いが、ハンナさんは僕の横に立って優しい手つきで棒の持ち方教えてくれる。
「そうだ、握りはしっかり、手首は少し柔らかく。足は肩幅に広げて右足を少し前に」
「こう、ですか?」
「そうだ。上半身を大きく回してもふらつかない様に膝を曲げて腰を入れろ。よし、振ってみろ」
「はい!」
僕はハンナさんの言う通りに構えると、思い切って棒を振ってみた。
「駄目だ、全然力が入ってない。全力で振るんだ」
「はい」
今度は思いっきり棒を振ると、棒は勢い余って地面にぶつかった。
「そう、今の勢いで三百回だ。ただ棒が地面に当たらないように、振りぬいた後に止めることを意識しながらだ」
ハンナさんの言う通りに全力で振りぬくと、やっぱり勢い余って地面に当たってしまう。だからと言って止めることばかりを考えていると全力で振りぬけない。
そして十回も振ると棒の重さが堪えてきた。
「これを毎朝三百回......」
「私は朝食の用意をしに戻るから......手を抜くのはお前の勝手だ」
ハンナさんはそう言い残すと家に入ってしまった。
手を抜くのはお前の勝手だ―――
今の言葉の意味は無理をするなという事だろうか?
いや、たぶん。
僕は再び教えられた通りに棒を構えて全力で振りぬいた。
♢♢♢
「終わりました......」
全力で三百回の素振りを終えた僕はヘロヘロになりながら家に入ってハンナさんに終わったことを告げた。
丁度朝食の準備が終わった所なのか、テーブルの上にはすでにお皿やコップが並んでいる。
「ああ、予想通り遅かったな」
椅子に座っていたハンナさんはチラリと壁掛け時計を見た後に、疲れ切った僕を見てニヤリと笑みを浮かべた。
「大体一時間って所か。その様子じゃ、ちゃんとやったみたいだな」
その後、手を洗ってから僕はハンナさんと一緒に朝食を摂ったのだけど、疲れで握力がなくなっていたせいでスプーンを持つ手がブルブル震えてしまった。
手のひらは真っ赤で少し水膨れが出来かかっているけれど、まだ破れてはいなかった。だけどそれも時間の問題だろう。
そんなことを思いながらも震える手で何とか朝食を済ませた。
「さてと、私は今日は狩りに出てくる。少し多めに獲物を狙いたいから帰りは遅くなるかも知れない」
朝食後、後片付けを手伝っているとハンナさんは今日は狩りに行くと言った。
僕は留守番らしい。
「その間、アーベルには水汲みをやっていてもらおうか」
「水汲み、ですか?」
水汲みなら村でもやっていたから大丈夫だ。
毎朝兄さんと一緒に水汲みをするのが日課だったからだ。
「そうだ、そこの樽を一杯にしておくのと―――」
ハンナさんは台所に置かれている大きな樽を指さしている。
あれならすぐ終わりそうだな。少しホッとしているとハンナさんは言葉を続けた。
「あとは、ちょっとこっちに来な」
そう言ってハンナさんは家を出て行ったので僕も慌てて付いていくと、家の裏手にある小さな小屋に向かっていった。
小屋の前に、台所にあった樽より一回り大きい樽が置いてあったので、アレにも水を入れるのか、ちょっと大変かも。と思っていたら、ハンナさんは樽を素通りして小屋の中に入ってしまった。
この樽じゃないのかな?
そんなことを考えながら、ハンナさんに続いて小屋に入る。
小屋の大きさは僕が寝ている部屋位の大きさで、床は土ではなく平べったい石が敷き詰められていて、東側の壁には大きな窓があり朝日が差し込んでいた。
そしてその窓の下は周囲より一段高く石仕組みがしてあって、その上に大人がすっぽり入れる程の大きさの厚い木でできた箱が置いてあった。
「この箱は?......」
「知らないのか?これは風呂だ」
風呂?聞いたことがない。ないけど、水が半分ほど入ったその箱を見て嫌な予感がする。
「えっと、まさか......」
すると、ハンナさんはニヤッと意地悪そうな笑みを浮かべた。
「そうだ、中の水を小屋の外にある樽に移した後、よく洗ってから水を八割ほど入れて置いてくれ」
八割といっても、風呂という物の大きさを見れば外の樽の何個分もの水が必要だろう。でも、井戸が近ければ午前中には終わるかもしれない。
そんな甘い考えを見抜いたように、ハンナさんは恐ろしいことを僕に告げた。
「ちなみに井戸は無いぞ。水汲み場はここから五十メートル程斜面を下った所にある泉だからな。そこにある桶を持って行って汲んでくるんだ」
風呂が何か分からないが、僕は初めて見た風呂が大嫌いになった。
♢♢♢
「はぁはぁはぁ......やっと......終わった......」
昼はとっくに過ぎて、太陽が西の空に駆け足で落ちていくような時間になった頃、僕は桶を放りだして小屋―――ハンナさんは風呂場と言っていた。の床に倒れ込んだ。
ハンナさんは水汲み場へ僕を案内した後、さっさと狩りに出かけてしまい、一人残された僕はとりあえず水汲みを始めたのだけど、想像以上にキツかった。
水汲み場は小屋の裏手の斜面を下って五十メートル程の場所にあり、朝の素振りでヘトヘトだった僕にとっては地獄のような作業だった。
苦労してやっと運んだ水も桶二つ程では台所の樽の一割程しか溜まらず、二つの桶を持ったまま足場の悪い坂を登る為、途中でよろけたりすると桶の水がこぼれてしまって登り切った時には桶に残った水が半分しかないなんて事にもなった。
こうして苦労してやっと水を貯め終わって倒れ込んでいると、ハンナさんが狩りから帰ってきたらしく小屋に顔を出した。
「終わったようだな」
「はい......何とか」
「良くやった。じゃあ、今日仕留めた獲物を捌くのを手伝ってくれ」
そう言ってまたニヤリと笑ったハンナさんはそのまま踵を返して小屋から出て行った。
その後、今日の獲物のウサギ五羽をハンナさんと一緒に捌いたのだけど、ウサギや鳥を捌くのは村でもやっていたのでこれは比較的簡単だ。
手際がいいと僕をほめたハンナさんがちょっとつまらなそうにしていたのが不思議だったけど。
そして全てのウサギを捌き終わった頃には太陽は森の向こうに姿を消した後で、空に浮かぶ雲が真っ赤に染まる時刻となっていた。
「ふぅ~、終わったな」
「はい」
「それじゃあ、風呂に入るか」
「風呂って、今日僕が水を汲んできた?」
「そうだ。風呂の沸かし方と入り方を教えてやるからついてきな」
僕はまだ仕事があるのかとハンナさんに付いていくと、ハンナさんは小屋の窓の下にある小さな竈の前で立ち止まった。
「ここで火を熾すとアーベルが貯めた湯舟の水が温まる。十分温まったらその湯に浸かるんだ」
「湯に浸かるんですか?」
「そうだ。気持ちいいぞ」
村では冬の間は寒くて水浴びが出来ないので、時々お湯で温めた布で体を拭っていたけど、たくさんお湯を沸かしてその中に入ってしまうという事らしかった。
僕が水を張った箱を最初に洗ったとき二重底になっていて、下は鉄で出来ていたのはどういう事かと思ったが、そういう事だったんだ。
そしてハンナさんが手際よく火を熾して三十分程立つと、小屋の窓から湯気が立ち上ってきた。
「そろそろ良いだろう。アーベルが先に入れ。風呂場の入り口に木の板が敷いてあっただろう?あそこで服を脱いでから、手桶で体の汚れを良く流した後に湯舟に浸かるんだぞ」
「わっ、分かりました」
僕は言われるままに小屋の扉を開けると、小屋の中はランプに照らされた白い湯気が充満している。
僕は言われた通りに入り口の板の所で服を脱いで裸になると、湯舟のお湯を手桶ですくって何回か体を流してから恐る恐るお湯に浸かってみた。
「あ~、これ......気持ちいい」
疲れ切っていた体にお湯が染み込んで疲れを流していくような、何とも言えない心地よさだ。
すると、窓の外からハンナさんが声を掛けてきた。
「どうだ?お湯は熱くないか?」
「大丈夫です。熱くも無くぬるくも無く、すごく気持ちがいいです」
「そうか、じゃあ......」
すると、小屋の扉が開いてハンナさんが中に入ってきた。
「えっ!ちょ、ハンナさん?」
僕が驚いていると、ハンナさんはするすると服を脱ぎ始めた。
「えっ?えっ?」
湯気の向こうに裸のハンナさんがぼんやりと見えたので、僕はとっさに目を逸らし、窓の外を眺めるように顔を背けた。
「ちょっ、ハ、ハンナさん?いったい?」
「ハハッ!時間もないし今日は一緒に入らせてもらう」
「ちょ、一緒にって!」
ハンナさんは僕の話なんて聞く耳を持たないようで、湯舟の横に来て手桶でお湯を汲むと体を流し始めた、ような音がしてきた。
僕は窓の外に昇った大きな満月や黒く浮かび上がる森の木々に視線を逸らしているけど、意識はハンナさんの方向にしか向いていない。
何度かお湯で体を流す音が聞こえた後、窓に向いている僕の視界の端に、ハンナさんの日焼けをした細い足が入ってきたので、僕はお湯の中で精一杯体を縮めたけど、湯舟に入ってきたハンナさんの足が僕の足に当たってしまい、思わずビクッとしてしまう。
「はぁ~、気持ちいいな!やっぱり風呂は最高だな」
僕が焦っているのも知らず、ハンナさんは気持ちよさそうに呑気なことを言っている。
「ハ、ハンナさん、いったいこれは......」
「まあ、そんなに嫌がるなよ。若くなくて済まんが別にアーベルをとって食おうなんて思わないさ」
「いや......そういう事じゃ、他の人と、は、裸で......」
「別に今更恥ずかしがらなくてもアーベルの裸は昨日散々見たんだし気にするな」
「いや、だからそういう事じゃ!そういう事もですけど......」
裸を見られているのを知らないのも恥ずかしいけど、見られてるのを知っているのはもっと恥ずかしい。
抗議しようと少しだけ視線を前に向けると、ニヤッとしたハンナさんの顔が間近に見えたので、僕がまた慌てて視線を逸らすと、ハンナさんはフフッと笑って口を開いた。
「明日からしばらくは同じことをしてもらうからな」
「ええっ!明日も一緒にお風呂に!?」
「アハハッ!違う違う、素振りと水汲みだ」
「あっ!そういう......」
「何だ?アーベルがどうしても私と一緒に風呂に入りたいんだったら、これから毎日一緒に入ってやってもいいぞ?」
「い、いや、そうじゃなくて......」
結局その後、ハンナさんが僕を揶揄うのに飽きて先に出るまでお風呂に入っていた僕は、初めての風呂でのぼせることになってしまった。
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