第33話 進退窮まるとはこういうこと
「ああぁ、ウィル! よかった……目が覚めたのね。よかった! よかった……すぐコールするね」
そう言ったものの体が動かない。安心して一気に脱力してしまった。そうか、ボスもこうだったんだとぼんやり思う。いつもの敬語が吹き飛んでしまったことにも気がついたけれど、今更だろう。
ウィルの顔を見つつ大きく深呼吸すれば、ようやく頭が回り始めた。とにかく連絡しようとベッドサイドテーブルへ手を伸ばした瞬間、掛布の下から伸びてきた左手に腰を捉えられてしまう。
「そんなことはあと。謝罪の言葉よりキスがいいって言ったのに」
とんでもないことを言われているのはわかった。けれど状況が状況だ。私はひどく舞い上がっていて、考えるよりも先に体が動いてしまった。そう、私はウィルの頬にさっと唇を寄せたのだ。稚拙なものだったけれど、それでも常の私には考えられない大胆なこと。気の抜けた微笑みを浮かべつつ、私はこれで納得してもらえるだろうと微笑んだ。ところがだ。途端ウィルの瞳に光が灯った。口元が綺麗な弧を描く。
「ロティ? それじゃあ、全然足りないです。あぁ、痛い。あっちもこっちも痛い」
「ええっ、……ああ、ごめんなさい。私、どうすれば……」
「そうですね、もっとお礼があれば……もらってもいいですか?」
ウィルのしかめっ面に気が動転し、私はこくこくと頷いた。すると、これがさっきまで寝ていた人かと思うような素早さで彼は身を起こした。あっという間に胸の中に引きこまれてしまう。慌てて顔を上げれば、満面の笑顔が近づいてきて……温かいものがそっと唇に重なった。
十秒? 二十秒……? 硬直して目を見開いたままの私の前には綺麗な睫毛。
(長い、長いわ。ここもアッシュブラウンなのね。お肌も綺麗。やっぱり美食家だから? それともシェリルベルの蜂蜜に秘密があるのかしら?)
もはや完全なる現実逃避だ。意味もなく脳内で自問自答を繰り返し、私はただただ目の前のウィルだけを見つめていた。やがて温もりが離れ、触れるか触れないかの距離でふっとウィルが笑った。
「じゃあ、今日はこのくらいで許してあげます。続きはまた。やっぱりこの部屋を選んでおいてよかった。そこそこロマンティックでしょ。ロティにも気に入ってもらえると思ったんです。こういうのはムードが大切ですからね」
(えっ、続き? 部屋を選んでおいた? ムードが大切?)
疑問符の連打。しかし未だほとぼりは冷めず、私はぼんやりとウィルを見つめるばかりだ。
「ロティ、可愛いですね。ああ、たまらない。もうこのまま、この部屋で一緒に過ごしましょう。ベッド、二人で寝ても十分広いですしね。怖い夢を見ても僕がいれば安心でしょう?」
確かに。事故のあとはトラウマで夜泣きする子もいるし……なんて思ったものだから、思わずウィルの言葉に頷いてしまったけれど、はっと我に返る。
(待って! 私は子どもじゃない。いやいや、トラウマの話。もしかしてウィルがなの? 心に傷が?)
爆弾発言が続いているというのに、もはや処理能力は飽和状態。思考はまとまらず、挙句にはウィルの精神状態を心配すると言う……。気がつけばウィルの胸元にすがりついていてなんだか必死だった。そんな私の耳元でウィルが囁く。
「いいですね。こうやってロティに密着されるとドキドキします。うん、病院もなかなかいいものですね」
鼓膜を震わせる美声に気が遠くなりかけた。けれどその言葉を反芻した瞬間、私は一気に覚醒する。ようやく現実が戻ってきたのだ。そう、ここは病院だった。
「ああっ! ああ〜! あのぉ、えっとぉ、これは……」
私が握りしめているのはウィルの薄い病衣。もちろんその下は素肌なわけで、発達したその胸筋に頬擦りせんばかりだったのだ。私は残された力を振り絞って離れようと試みたけれど、それはあえなく失敗に終わった。
あの大岩の上のように、それどころか今回は向き合うように、ウィルの長い脚の間に囲いこまれているのだ。逃げ場などなかった。ますますガッチリと拘束されて密着度は高まってしまう。
さらに、私がもがいたためウィルの病衣の襟元がはだけ、思わず撫で回したくなるような立派なものが、目の前にあらわれた。着任式の日に封印させたはずのオフ仕様の色気。それは今や絶大なる効果を発揮し、私はまたしても気が遠くなりかけた。
「ロティはガウンですか。残念です。まあ、東の塔から歩いてきたのですから仕方ありませんね。この病院の病衣は薄いですから。ガウンなしで歩くあなたを見た者がいたら万死に値しますね」
ボスがスカウトしたいと思ったのは、もしかしてその肉体以上にこの容赦ない思考だったのでは! 呆気にとられる私を脇目に、ウィルがコールボタンを押した。
「え!」
「大丈夫。今連絡しましたからね」
「いや。だったら、まずは離してもらってですね……」
「うん? 反対向きがいいですか?」
「いや、そうではなくて……」
なんて押し問答をしているうちに、しゃっとカーテンが引かれた。院長先生!
「ああ、ハモンドくん、よかった! 顔色もよさそうだ。もう心配ないね。うんうん。しかし本当にきみは強靭だねえ。確かに稀に見る逸材かもしれんな……。ああ、シャーロットさん、初めまして。リックの可愛いお嬢さんにお目にかかれて嬉しいよ。リックとはね、もう長いんだよ。優しいけど不器用だろう。子育てなんかできるのかと心配したけど、いやあ、素晴らしいお嬢さんじゃないか、安心したよ」
「えっと、それは、その……」
首を傾げて私を覗き込むウィルに、私はどうにかこうにか言葉を繋いだ。
「あの、なんというか、そう、総督には親元を離れてからずっとお世話になっていて……」
「うん、聞いたよ。そうだったんだってね。ちょっと意地っ張りな子だがよろしく頼むって言われたよ」
私は唖然としてしまった。知らなかった。そんな話まで出ていたなんて。
(……外堀が、埋められてる? ボス……何が覚悟を決めろよ!)
「そうかい。リックも太鼓判を押してるってわけか。そうだ、シャーロットさん、こっちの部屋に移ってくるかい? なあに、僕が一言いっておけば誰も他言はせんよ」
「い、いえ。それは……遠慮しておきます」
「ははは。まあ、そうだな。それはさすがにリックに怒られるか!」
「院長、僕もそう言ったんですが、振られたばかりで。ロティは慎しみ深いんです」
「そうか、そうか。まあ、今週いっぱいゆっくりしていきなさい。後遺症というのはね、実に厄介なんだ。侮ってはいけないよ。経過は慎重に観察すべきだ」
「はい、ありがとうございます」
ウィルと院長先生の会話がなんだか遠くで聞こえる。まさかウィルの腕に抱かれたままで、ボスの古くからの盟友にご挨拶する羽目になるとは思いもしなかった。もうすべてが予想外すぎて、本当に本当に……気絶してしまいたいほどだ。
「ハモンドくん、残念だが手首はしばらくかかりそうだ。そうだな三週間くらいは必要かな」
「そうですか、でも大丈夫です。仕事は左手でもできますから。日々のことはちょっと……慣れるしかないでしょうね。誰か手伝いに来てくれると助かるんですけど、ね、ロティ?」
「えっと、あの、その」
「そうだよ、シャーロットさん、いってあげるとい。こういうことね、気心の知れた人でないと何かとね」
「ロティ、そうしてくれると助かるなあ。それにきっとロティにも、積もる話があるだろうからね」
「……っつ!」
なんとも察しのいい人である。私は覚悟を決めるしかなかった。いや、もう決めてはあったのに、なんだかこれでは……。ちょっと悔しい気もしたけれど、このドタバタでずいぶんと気持ちが軽くなっていた。何一つ隠すことなくちゃんと話そうと、心からそう思えたのだ。
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