第14話 蜂蜜よりも甘い時間

「シェリルベルの蜂蜜……」

「ん?」

「ああ、母がよく買ってくれたのを思い出しました。食べたことありますか?」

「いいえ」

「やっぱり場所によるのかな」

「そうですね。蜂蜜の種類としては一般的ではないような……」

「そうか、そうかもしれませんね。家を出てからはすっかり忘れていて、街で探したこともなかったなあ」


 シェリルベルの蜂蜜というのは初耳だった。まあ、グルメではないから断言できないけれど、スーパーの棚に並んでいるのを見たことはないから、特産品扱いではないだろうか。しかしこんな可憐な花の蜂蜜、なんとも心くすぐられる話だ。


「ほら。ロティ、聞こえますか? ミツバチの羽音。この花はね、ミツバチが好のむ花の一つなんです。開花まではもう少しあるけれど、もう待てないって、そんな感じかな」


 ウィルの声に耳を澄ませば、確かに聞こえる。ブーンというその音は何とも可愛らしく、自然の豊かさを感じさせてくれる。


「それとね、ロティ。ミツバチのこの羽音に反応する花があって、聞くと花の蜜の糖度が上がるんです」

「え?」

「びっくりしました? でも本当なんですよ。シェリルベルもその一つ。だから僕の地元では養蜂所の近くに群生地があるんです。それでシェリルベルの蜂蜜。本当に美味しいんですよ」


 私はウィルの話に驚かされながらも、内側でひらめきを感じて震える思いだった。

 

(花が反応……、そうか、それだ! マローネ3も何かに反応するのかも!)


 自らがスイッチと言われているけれど、それを引き起こすものもまた必要だと私は思っていた。チップなら操作ができるけれど、花はどうやって……それが疑問だったのだ。

 もちろん、天才科学者による用意周到な作戦。そう単純な答えではないだろう。データを放り込んで割り出せるようなヘマはしないはず。そこには私たちを撹乱させる何かが潜んでいると踏んでいたけれど、今のウィルの一言でひらめいた。

 あまりに漠然としているけれど、それはきっと花咲く場所、自然界にいる何かだ。超音波を出すマローネ3に働きかけられるものとなると……自らが高周波を出す生物? そしてそれはこのスロランスフォードに特化したものではないだろうかと思った。

 ポーカーフェイスの下で思い巡らす私に、思いがけないウィルの一言が響く。


「昆虫の羽音といえば周波数ですよね。周波数って面白いと思いませんか? 自然界における生き物たちのコミュニケーションにも使われているし、美容や治療にも。大きな可能性を感じますよね」


 私は曖昧に微笑んだ。そう、ウィルの言う通りだ。しかし時にそれは危険なゾーンにも突入する。命あるものを結び付けたり癒したり、良き魔法使いのようだったものが、いつしかその領域を超えて相手を傷つけ破壊する悪魔のような力を持つようにもなるのだ。

 マローネ3はまさにそれを体現したもの。自然の中に馴染む美しさが惨事を引き起こす。それも、これまた自然の中に生きるものの力を無意識のうちに利用して。何という皮肉なことだろう。

 これから先は、花とセットで辺りの様子にも十分注意することだと私は自分の中にメモを貼り付ける。昆虫だろうか、鳥だろうか、とにかくある程度特定したほうがよさそうだ。

 そんなことを引き続きつらつら考えていると、岩場の方からグループが移動してくるのが見えた。そろそろ観光客が出てくる時間だ。移動したほうがよさそうだとウィルを振り仰げば、同じように思ったのだろう、彼も頷いている。


「外側の道も歩いてみましょう」


 ウィルの声で川辺に戻り、脇の小道を歩き始める。岩によじ登ったり水を飛び越えたりはないけれど、それでも結構急斜面だ。のんびり散歩道かと思いきや、野性味を感じさせるためにあえてきれいに整備されていないのだろう道に息が上がる。ここのところデスクワークが多くて体がなまったようだ。


「ロティ!」


 ぐらりと傾きかけた体をさっと支えられる。顔を上げれば笑顔のウィルがそこにいた。日々鍛えているのか全く乱れていない呼吸。ちょっと恨みがましく見てしまったのは許してほしい。


「すいません、僕のペースで歩いてしまって。辛かったでしょ、さあ、つかまって。ちょっとゆっくり行きましょうか」


 私たちは歩調を緩め、時には立ち止まって流れを見たりしながら湖まで歩いた。さっきから繋がれたままの手が熱い。かなり恥ずかしかったけれど、なぜだろう、力強くて安心する。気がつけば素直に甘えていた。それでもなけなしの理性で警戒モードは発動中だ。

 トレッキングコースに今のところ不安要素はない。しかしいつ何時変化するかわからない。一日も早く花の種類と引き金になる生物の特定をしなくては……。


「ああ、さっきの話の続きですけど、ミツバチが飛ぶ光景っていいですよね。可愛らしい。時々、集団でいなくなったり巣に帰れなくなったりするじゃないですか、あれには心が痛みますよね。電磁波とかね、人の影響も大きいんじゃないかと思うんです。それを考えればここの生態系はよく守られている。実は、オペラハウス建設にも色々と注意事項がついていたんです。それがまた、大いに納得することばかりで……オファーを引き受ける理由の一つになりました」


 私はまたもや驚きの中にいた。この人は一体何者だ。さっきから恐ろしく参考になることを次々と投げかけてくる。私は心の中で拍手を贈らんばかりだった。もちろんウィルにはこれといった意図はないだろう。無邪気に私と世間話を交わしているだけだ。

 けれどそれは私の中でつながっていく。昆虫が日常と違う動きを見せた時、そこには超音波が発信されている可能性もあると言うことだ。パズルが埋められるが如く、核心に迫る手応えがあった。

 

 コースが終わり、湖のほとりに出れば、きらめく水面を背景にカラフルなカートが並んでいた。トレッキングコースにやってきた観光客用のお土産屋だ。どんなものがあるか、情報収拾を兼ねてのぞいてみようと近づけば、ウィルが嬉しそうな声をあげた。


「ロティ、蜂蜜ですよ。シェリルベルの蜂蜜!」

「え? 本当ですか?」

「おはようございます! はい、そうです、シェリルベルの蜂蜜です! いかがですか?」

「わあ、懐かしいなあ。これはここで採れたものですか?」

「いいえ、残念ながらそれはまだ。これは惑星ナウエンビッシュのものです。同じものをいつかここでも作りたいと言う希望を込めて販売しています」

「なるほど、たくさん咲けばそれも可能ですよね。ここは気候もいいし、環境もいい。良い蜂蜜が取れそうです。僕、小さい頃によく食べたんです。大好きなんです。じゃあ、それとそれを」


 買い物するウィルの後ろ姿をちょっと離れたところで微笑ましく見守りながら、私はシェリルベルの記憶を探る。しかし何一つ思い出せなかった。当たり前だ、野原を駆け巡る楽しい幼少期など私にはない。けれど寂しくはなかった。今日の美しさを代わりにしよう、その思えたからだ。

 そうこうしているうちに笑顔のウィルが戻ってきた。「話題に出てすぐにご対面とはなんともタイミングが良かったですね」そう言いながらウィルが手に提げていた袋から小さな包みを取り出した。


「ロティに」

「え? いいんですか? ありがとうございます」

「いいえ、こんなものでよかったらいつでも。まさか初めてのプレゼントが蜂蜜になるとは思いませんでしたが、悪くないですね。思い出を共有できるような気がして嬉しいです。爽やかで甘すぎず、色々な使い道があるんですよ。メモが入っているそうですから、後で読んでみてください」


 思い出を共有……。その言葉に空っぽだった場所が鮮やかに色づいていくような気がした。思わずポーカーフェイスが緩んで、ちょっと困ったように微笑んでしまった私に、ウィルが弾けるような笑顔を見せる。

 こんな風に優しい気持ちが詰まった贈り物は久しぶりだ。私は思わず胸元を握りしめた。ウィルと関わるたび、忘れてしまっていた感覚が呼び起こされる。ちょっと恥ずかしくて、でも嬉しくて……。この人には偽物の笑顔なんて見せたくない、そう思ってしまう自分がいた。


「ロティ、お腹すいたでしょ。どこかで美味しいパンでも食べませんか?」


 魅力的なウィルの提案に私は計算なしで微笑んだ。心の底から嬉しかった。ウィルがまたそっと手を差し出してくる。私も素直に握り返した。もう急流も急斜面もなかったけれど、私たちはトラムストップまで、手を繋いだまま湖のほとりの道を歩いた。


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