第13話 トレッキングコースは危険な香り

 早朝の澄んだ空気を楽しみながら私たちは歩いた。


「へえ、結構広いんですね」

「コースは三本で、2は一番奥になります」

「そこに小川が?」

「ええ、驚きますよ。結構本格的なんです」


 木陰に入って幾分涼しい風に吹かれれば、ほてりもおさまり頭もクリアになる。私は自分を取り戻し、全神経を警戒モードに切り替えながら、奥の流れを目指した。

 やがて、せせらぎの音が聞こえてきた。水しぶきが白い輝きを見せる岩場にウィルが歓声をあげる。その無邪気さに思わずこちらも笑顔になってしまう。もちろん、彼に見られないようそっと横を向く。


「すごいな。広さこそないけど、高低差といいワイルドさといい、十分に楽しめますね。湖も悪くないけど、流れてるっていうのが本当にいい。動きが感じられると時間というものがくっきり浮かび上がってきて、でも有限の明示かというとそうじゃない。逆に無限を、永続性につながる夢を感じたりできる……」


 私は目を見張った。なんと言う解説……。不覚にも感動で相槌が遅れてしまう。瞬時に我に返ったはずだが、この人は何というか、そういうことにさとい。否定的に受け取ったのか申し訳なさそうに肩をすくめた。


「すいません。素晴らしかったもので、つい色々と」

「いいえ、いいえ。違うんです。さすがだなあと思って。ウィルの感性こそ素晴らしいです。それから言葉も。私の中でもやもやとしているものをちゃんと形にして伝えてくれたというか。優れた建築家のコンセプトというものが胸に響く理由、わかったような気がしました」


 慌てて言い募れば、ウィルは耳まで真っ赤にして照れた。


(っつ! 嘘……なんなのこのウブな反応は。待って待って、できる男だよね?)


 私は心の中で突っ込みながら、しゃがみこんで流れに手をひたすウィルの横顔を見つめた。


「ロティ」


 しばらくして立ち上がったウィルが左手を差し出した。


「こっちへ」


 せせらぎをバックに放たれた美声の威力。甘い、甘すぎる。グラグラと足元が危うくなるような気がして、私は思わず彼の手を握った。

 数日前によじ登った大岩の上に軽く引き上げられる。岩肌を打つ水音が大きくなった。時折、水しぶきが足元を濡らし、青葉の香りが流れとともに駆け抜けていく。嫌な気配はこれっぽっちもない。純粋な新緑の季節の真っ只中にいるのだと、心の底から感じられた。

 

「あのぉ……、ウィル?」

「もう少しこのままで」


 うっとりとそんな状況を堪能していたはずが、いつの間にか大岩の上に座り込んだウィルに抱え込まれていた。これは一体……。硬直したまま、私はなすすべもない。襲われた場合いかに敵を倒すかについては経験も知識もある。けれど、甘えられた場合いかにかわすかについては全くもってお手上げだった。

 その「もう少し」が早く過ぎることを心の中で念じるしかない。それなのに、その願いは虚しく砕けた。私はさらなる試練を強いられることになる。長い足の間に私を座らせ、腰に腕を回していたウィルが、なんと私の肩に頭をもたせかけて目を閉じたのだ。

 

(聞いてません! こんなオプション、聞いてませんから!)


 叫び出しそうになるのをぐっとこらえる。アーティストのリクエストに応えるのが職員の役目ならば、これが彼流のリラックスというのならば……請け負った私はやり遂げるのが筋というものだ。岩場の岩に一つになろうじゃないかと私は決心した。


 梢を渡る風の音、岩に砕ける水の音、遠く鳥のさえずり、そして耳元に感じる規則正しい息。

 ウィルは何も言わない。もちろん私も。さっきからどれくらいの時間が経ったのか、もうよくわからなかった。緊張を緩和しようと、私は水面もじっと見つめた。


(そうそう、永遠は瞬間の連続なのよね。これがウィルの言う有限でありながら無限を感じるもののなせる技か。うん、確かに気が遠くなりそうね。いや、それ違うから。ああ、解釈違いも甚だしい。なんだか思考能力も危うくなってきたみたい)


 第三者的に見れば、ウィルのそんな姿は映画の一コマのように美しいものかもしれない。でも私はもう、魂が口から抜け出しそうだった。

 今まで色々な任務を請け負ってきたけれど、これほどまでに生命の危機を感じたことはない。ナイフでも銃でも爆薬でも薬でもない。体温と吐息でここまで追い詰められるとは……。

 遠くから人の笑い声が聞こえてきて、はっと身を強張らす私にようやくウィルが顔を上げる。


「残念、時間切れですね。僕はこのままでも良かったんですが、ロティが恥ずかしそうだから、ここまでにしておきます」

「こ、ここまで?」

「ええ、今日は」


 何がここまでなのか、この先どうなるのか、聞きたいような聞きたくないような。私は前を向いて早口で言葉を紡いだ。


「と、とにかくリラックスできたのであれば……」

「満足にはまだ程遠いんですが、出だしは上々ですね。来週もまた、早朝の空気をこうして堪能しましょう」

「え? 来週もこうして……、えっ、は、い?」

 

 勝手に取り付けられる約束に驚いて振り返れば、至近距離にある鮮やかな二つの青を見つけてのけぞりそうになる。そこを微笑むウィルにやんわりと押さえ込まれ詰め寄られ、私に拒否権はなかった。


「さあ、次は何かな。確か入り口で花の話をしていましたよね」


 大岩を降りたウィルに続こうとしゃがみこめば、飛び降りるよりも早く、腰に回された腕によってそっと抱き下ろされる。そんな経験あるわけもなく、頭が沸きそうになったけれど、必死で表情筋を叱咤してお礼を言った。


「……ありがとうございます」

「いえ、こちらこそ。役得です」


 この好感度ナンバーワンは根っからの紳士なのか手慣れたプレイボーイなのか、ただただ純粋にお世話好きなのか。何にせよ、私の精神が予想以上に疲労困憊していることは間違いない。リラックスなどと言う希望は、完璧に消滅してしまったようだ。

 それでも、さすがに花という単語を聞けば感覚もリセットされる。そう、そうだった。この先は、万が一に備えて警戒モードを高めなければいけない。


「ええ、シェリルベルの群生地です。毎年、場所を替えるんですが、今年はコース2なんです。まだ蕾で、満開になるのは再来週あたりではないかと思うんですが……」

「シェリルベル、懐かしいなあ。ここでは夏に咲くんですね。……ああ、思い出しました。確か、スロランスフォードの夏の風物詩の一つとして紹介されてましたね!」


 オペラハウスの建設にあたり、様々な資料を読み込んだのだとウィルが説明してくれる。けれど頭は建設予定地の水のことでいっぱいで、どうやらその他のことは全て吹き飛んでしまっていたらしいと苦笑する。


「ロティがコース2をすすめてくれなければ見逃すところでした。ありがとう」

「いいえ、そんな。たまたまです」


 そう、たまたまだ。コースに何の花が咲くまでは知らなかった。さらにそこに今年はシェリルベルが加わるだなんてなおのこと。あの日、同僚たちに聞いてよかった見に来てよかったと、胸をなで下ろしながらふと気づく。

 これは任務だ。ウィルと一緒ではあるけれど、何よりも優先すべきは任務なのだ。それなのに舞い上がってしまっている。どうした、シャーロット・ティナ・オーウェン、しっかりしろ! ウィルに微笑みかけながら、私は心の内で自分を叱りつける。


 木立を抜けたあと、さりげなくウィルの前に出た。背中側に全神経を集中させて辺りの気配を探る。反応がないことを確認してウィルを花畑へと通せば、広がる光景に彼は満足そうに頷いた。

 さわさわと小さな花たちが揺れる音に振り返れば、数日前より「青」の印象は強くなっていた。やはり多くが開きかけているのだ。内側のより鮮やかな青がチラチラとこぼれ見えて、けれど恐れていた違和感はなかった。それでも来週どうなるかはわからない。観光客も続々増えてくるのだ。これは週末を待たず、また足を運ばなければいけないだろう。


「いいですね、ちょっと大きいからかな、青の濃淡がくっきり感じられて、とっても綺麗だ。僕の故郷ではこれは春の花。雪解けとともに咲いてたなあ。ロティのところは?」

「え? ああ、そうですね、うちでも春を告げる花でした。ここは雪が降りませんからね、このタイプを植えることができるんです。大きくて濃くて夏に咲いて……ちょっとした違いなのにこうも雰囲気が変わるなんて……おもしろいですよね」


 野に咲く花なんて……故郷なんて……そんなものが自分にあっただろうかという愚問はこの際ねじ伏せておく。今更言ったところで仕方がないことだ。今は目の前のシェリルベルとウィルに集中しようと私は気を引き締め直した。


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