第13話 身元判明
三軒茶屋に来た理由は、猫曼荼羅教の寺院の視察だけではなかった。
今晩留美音の自宅に行き、お母様と会う際に、手ぶらで行くわけにはいかない。そこで相応しい手土産を買う必要があるのだが、彼女に場所を聞くと「白金台です」と言っていた。
つまり彼女のお母さんはシロガネーゼ。
俺の脳内シロガネーゼ奥様は、JR品川駅構内にあるオシャレなカフェでスイーツを食べながら、友達と談笑している。水ようかん詰め合わせでは太刀打ちできない。
そこで一晩悩んだ俺は、三軒茶屋某老舗のどら焼きを買うことにした。近くの二子玉川、略してニコタマの奥様方にも好評とネットに書いてあったからだ。店は三軒茶屋駅のすぐ近く。八個入りか十二個入りか、どちらを買うか迷ったが、留美音がすぐに食べてしまう光景が脳内に浮かんだので、十二個入りの箱を、贈り物用の包み紙に梱包してもらった。
三軒茶屋駅から東急田園都市線に乗って、渋谷まで二駅。だが、道玄坂の事務所に戻る必要も無いので、JR五反田駅まで山手線に乗って行った。
駅の近くの喫茶店に入り、時計を見ればまだ四時半過ぎ。ここで待ち合わせて留美音に案内してもらうことになっている。番地は?と彼女に訊いたら、「言っても分かりにくいところですから」という場所らしいので、「それじゃあ」ということになったのだが、訊いておくべきだった。
正直、緊張していた。俺が命令したわけじゃないが、かなり危険なことを彼女にさせているからだ。
「昨夜なんて、凶器を隠し持った殺人犯を彼女が蹴り倒しましてね、まあ、その殺人犯も夜更けに首を吊ったそうですが」
こんな話、女子高生の親に聞かせられる訳が無い。もっと無難な話は無いものか。
コーヒーカップを目の前に、頭を抱えて悩んでいると、携帯に着信があった。留美音からだ。
「今学校から出たところです。所長、今どちらですか」
「ああ、もう五反田に着いてるんだ」
「四、五十分でそちらに着きます。でも早いですね」
「うん、仕事が早く終わってしまったんで。ところでお母さんの名前、なんていうの?」
「久美子です。あたしは久美ちゃんって呼んでますけど」
「その、今更なんだけど、久美子さんに仕事の事はどう話してるの?」
「別に訊かれないから何も、それより久美ちゃん、所長の事に関心があるみたいです。あ、友達来たんでまた後ほど」
通話は切られた。そうか、久美子さんは俺に関心があるのか。そりゃあるよなあ、小さな事務所一つ構えてる男の所に娘が出入りしてるんだもんな、そりゃ色々知りたくなるだろうな、母親として。
「初めまして、私立探偵の萬屋万太郎と申します。浮気の調査を主にしています」
こんな自己紹介して、門前で追い返されないだろうか。
しかし俺は門前で追い返されなかった。白金台二丁目にある豪邸の女主人は、留美音に連れられて来た俺を見て、
「まあ、分かりにくいところにようこそ。娘がいつもお世話になっていると聞いております」と温かく迎えてくれた。表札に『斉藤』とあったので、おや?と思い見ていたら、留美音が四十前後になって落ち着いたらこんな感じ、という容姿の久美子さんは小声で、
「まだ財産分与が済むまでは」と言葉を濁した。離婚した元旦那の名字が斉藤なのか。
白金台二丁目の斉藤さん。思い当たることがあった。
久美子さんの顔を見た。斉藤久美子。会ったことは無いが、聞いた名前のような気がする。
しかしそれはとりあえず置いておいて、
「イザベル・アジャーニに似てるっていわれません?」と久美子さんに言ったら、
「萬屋さんこそ若い時の水谷豊に似てらして」と微妙なお世辞返しをされた。
「これはつまらないものですが」お土産のどら焼き十二個入りを差し出すと、久美子さんも喜んでくれたが、留美音が真剣な眼差しで、
「それ、あたしも食べていいものなのよね?」と俺に訊いたので思わず笑ってしまった。
天ぷらを塩で食べ、白ワインを飲みながらの夕食となった。私服に着替えて二階から下りて来た留美音は、オレンジジュースを飲んでいた。しかし天ぷらの量がすごい。おそらく久美子さんの別れた旦那が大食漢だったのだろう、と思っていたら母娘共に喋りながら食べること食べること。これで二人ともひょろっとした外見なので、彼女達の胃はどうなっているのだろうと密かに思った。
「萬屋さん、あまりお飲みにならないわね?」
「そういえば所長、警察署でケーキ食べてた」
「ケーキ。警察署で?」
「うん、恐い顔した警部さんに、ケーキの出前取らせてたよ」
「実は今朝も警部さんにケーキとコーヒーを御馳走になりまして」
「あら、お酒はあまり飲まれない方ですか?」
「そうですね、飲めない訳ではないのですが、妻と別れる前はケーキバイキングに付き合わせたりしてました」
「お煙草は、お吸いになります?」
「学生時代は吸ってましたが、今は吸わないです」
「探偵さんというと、バーボンを飲みながらキャメルの両切りをスパスパ吸って、休日はボクシングジム通い、というイメージがありますが、違うんですね」
「うーん、そういう人もいます。でも少数派ですね」
「変なこと言ってすみません」ほろ酔い状態の久美子さんが軽く頭を下げた。「お会いするまで、目つきが鋭くて強面で、やさぐれた感じの方かなと勝手に想像していたもので」
「久美ちゃん、だから言ってたでしょ?所長はしっかりした真面目な人だって」
「でも萬屋さん、お聞きしてよろしいかしら、どうして探偵になられたのですか?」
「はあ、親が世田谷に不動産物件を持っていまして、大学を卒業したら管理会社に就職する、という手もあったのですが、それじゃ親を絶対越えられないなと思いまして、自力で就職活動をした結果、大手の探偵会社に入社したのが始まりです」
「それで今は独立されて?まあ、ご立派ですわ」
「いやあ、実入りは少ないですよ」
「実はあたし、原宿でアンティークのお店を経営してまして」
「ほう、それはまたすごい」
「いえいえそれが、ロンドンに人形の買い付けに行ったりするものですから、経費が掛かってしまって」
「そんなに価値がある人形があるんですか?」
「うちは固定客で持っているようなものですが、売れれば、そうですね、外車一台くらいします。でも売れない月はバイトの子に報酬払って赤字ですの」
留美音は大人の話に入れなくなったからか、ちょっと不満げな顔をしていたが、やがて「ちょっとトイレ」と言い残して二階に行ってしまった。
彼女がいつ戻るか分からないので久美子さんに訊いた。
「私はいつまで、気付いていない振りをしていればいいのでしょう」
「ここまでいらしたら、それは分かりますよね。ええ、あなたの元奥様を誘惑したのは、私のかつての夫、斉藤茂雄です」
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