第9話 挑発
一階がコンビニのビルの二階に『永源ナーガヨガ道場』はあった。内部は思っていたより広く、雰囲気は道場と言うよりスポーツジムのスタジオという印象。お香の匂いがどこからともなく漂う。居合わせた受講生達は全員が三十代から四十代の女性だった。
俺と留美音はあらかじめ申し合わせた偽名「黒田健介」「黒田明子」そして偽の住所を、サリーのようなものを着た、ほっそりした年齢不詳の女性に差し出された訪問者帳に記入した。その女性は「ありがとうございます、どうぞおくつろぎ下さい」と言いつつ不思議な笑みを浮かべ、優雅な動きで踵を返し、事務所のような部屋の中に去って行った。
道場の隅に置かれたパイプ椅子に並んで座ると、受講者達の視線が留美音に注がれた。なんであなたのような俗物がここに?という上から視線だ。それも気にせず彼女はポーカーフェイスを崩さない。
しかし俺は公衆開始時間ピッタリに現れた永源道郎の姿を見て、思わず「あっ」と声が出そうになってしまった。グレーのゆったりしたマオカラージャケットのようなものを身にまとった彼の頭は、高校球児みたいな五分刈りだったから。
ちらりと横に座っている留美音の横顔を見た。特に驚いた様子も見せず、ポーカーフェイスを崩さない。
「ではまず仰向けになって下さい」永源道郎の指示に、受講者達が従い、ヨガマットの上に体を横たえた。
「手が重くなります、手が重くなります、呼吸が深くなります」
ヨガと言うより催眠術みたいだなと思いつつ黙って見ていると「はい、ゆっくり起き上がって」と永源道郎が指示を出した。それからは、下半身のストレッチのようなポーズから始まり、座禅のようなポーズから両手を上に上げたり、うつ伏せになって両手で足を持ったり、というポーズを道場長の実演に従って受講者がこなしてゆく。
片足立ちになって頭の上で合掌して三十秒停止、というポーズは、さすが道場長なかなかやるな、と感心させられたが、留美音がぼそっと「ヘタクソ」と呟いた。
静かな道場の中の事だから、小声とはいえ彼女の声は響いた。おそらくポーズの指導に熱心な永源道郎の耳にも入ったことだろう。しかし彼は当然のことながら、それを無視した。
レッスンも佳境に入り、手を頭の後ろで組み、頭と肘の三点でする逆立ちを永源道郎はこなした。彼の受講生達は壁に足を預けてやっているが、自力で逆立ちをしているのは彼だけだ。俺はなるほど、と思ったが、留美音がわざとらしく「プッ」と吹きだした。だが道場長の体面もあり、永源道郎がそれに目立った反応をすることはなかった。ただし、天井に伸びた爪先が一瞬揺らいだ。
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