第218話 鎮魂歌+降伏(1)

 光の質問に弘孝は一度視線を逸らしてからゆっくりと口を開いた。



「……。あぁ。これは、僕の意思では無い。サタンの意思だ。サタンが僕に、可憐を……殺せと言ってきた……」



 視線を光から可憐へと向ける弘孝。恋敵の腕の中で守られている想い人は、弘孝の言葉を待つように見つめていた。



「可憐を殺して……器だけを持ってこいと言っていた。僕はそれに反抗出来なかった……」



 嘘偽りの無いように弘孝は敢えて言葉を選ばずに言う。器という単語を聞いた時、可憐は僅かに目を見開かせた。自身でも何度か言っている言葉だったが、いざ他人がその事実を言うと、ここで唯一動いている可憐の心臓が締め付けられ、苦しめられた。



「契約者である弘孝君が言うから、これは嘘では無いよ。南風君……サタンだけが、契約者の中で唯一嘘を付けるからね」



 可憐の僅かな表情の変化を察した光が言葉を選びながらゆっくりと口にする。それを聞いた可憐は目の前の幼なじみに向かって口を開いた。



「弘孝……。私はあなたを信じるわ」



 この状況では予想外の可憐の言葉。それを聞いた弘孝は目を見開いた。




「可憐……」


「これは、弘孝が契約者だからという訳では無いわ。ただ、単に私は幼なじみである椋川むくがわ弘孝ひろたかを信じているだけ。貴方は私に嘘をついた事は一度も無いんだもの」




 可憐はそう言うと、弘孝に向かって微笑む。その笑みは慈悲深いものだったが、友愛のみで恋愛は込められていなかった。それを察した弘孝もまた、目の前の少女に向かって儚い笑みを浮かべる。



「その言葉だけで、僕は救われる」



 弘孝は儚い笑みを浮かべながらそう呟くと、視線を可憐から光へと向ける。突然の行動に、天使二人は一度自分の武器を強く握りしめる。



「んだよ。もうそんな力残ってねぇーだろ」



 三人のやり取りを見ていたジンだったが、弘孝の言動により、折れた剣を構える。しかし、弘孝は無抵抗に小さく笑った。



「あぁ。魔力以前に戦意も無い。僕は……想い人である可憐と一緒に居たいという思いで悪魔になる事を選んだ」



 自虐を込めたその笑みは、弘孝の指先から無意識に魔力を零させる。その量はどの契約者が見ても異常な量だった。



「その選択は正しいと思っていた。僕は、可憐をラファエルの運命から外せると思っていたからな。だが、それは間違いだったようだ。契約者の運命から逃れようとしなかったのは僕の方だったな」



 弘孝はそう言うと片手を光達に見せる。彼の手からは闇と毒を混ぜな魔力が無駄に溢れかえっていた。それがどのような意味なのか理解している三人は、目を見開いた。




「弘孝君! それは——」


「僕は悪魔だ。十地獄第一地獄“いと高きものどもの地獄”第一下層獄長モロク。大天使に慈悲をもらうつもりは無い。そして——」




 光の言葉を遮るように弘孝は意識的に魔力を身体から放出させる。それは、彼の黒い翼を魔力の色へと変えていた。



「サタンの命令を遂行出来なかったモロクは魔力を全て失い、いずれ消える……この勝負……」



 弘孝はそこまで言うと一度口を閉じる。そして、六枚の黒い翼を魔力と共に大きく羽ばたかせた。




光明こうみひかる。お前の勝ちだ」




 殺意や悪意を一切含まれていない魔力が弘孝の言葉と共に散る。それと同時に弘孝の指先が僅かに腐敗した。



「弘孝!」



 弘孝の身体の異常に気付いた可憐が名を叫ぶが、弘孝はそれを首を横に振る事によりそれ以上の言葉を失う。弘孝はそんな可憐に儚い笑みを浮かべていた。



「僕は可憐の現状しか見ていなかった。可憐の気持ちを無視して、地獄長になる事を選んだ。僕のエゴでしか考えずに動いた結果がこれだ」



 弘孝はそう言うと、再度翼を羽ばたかせる。その間も魔力は弘孝の身体から零れていた。



「光。お前も僕と近いタイミングで同じ現象が起こっただろ?」



 視線を可憐から光へと移動させる弘孝。突然の質問に光は一瞬だけ目を見開いたが、直ぐに儚い笑みへと表情を変えた。



「うん。初代のガブリエルがこれを利用して契約しろって言ってきたよ」



 光は胸元のネクタイに一度触れる。誰のか分からない血で汚れたネクタイは、僅かに緩んでいた。光もまた、僅かながらオレンジ色の魔力が手から零れ出ていたが、それに気付く者は誰もいなかった。



「僕はサタンに抵抗できず、光はガブリエルに勝った。この時点で勝敗は決まっていたはずだ」



 弘孝はそこまで言うと、零れている魔力を使い、指先に込める。彼の指先は鋭利な刃物のようになっていた。それを弘孝は自身の喉元にそっと触れさせる。それを見た可憐は慌てて弘孝に手を伸ばした。




「弘孝、あなた何をするつもりなの?」


「可憐。もう勝負はついた。僕の負けだ。これがどのような意味を持つのか、契約者とこれだけ関わった賢いお前なら分かるだろ?」




 儚い笑みを浮かべたまま、弘孝は可憐の手から離れるように数歩後ろへ移動する。それがどのような意味を持つのか分かった可憐は目を大きく見開いた。



「そんな……」



 可憐の脳裏に浮かぶのは天界で見たエンジェの姿。それは、記憶を取り戻した後に猛によって魂の解放をされるものだった。身体と記憶が契約者から人間へと戻る時、時間を本来の枠に取り戻そうと身体が腐敗し、猛によって魂を解放される。それが契約者としての終わりである事は理解していたが、自分の目の前から消える事実を可憐は受け入れる事が出来なかった。スカートの裾を強く握りしめ、溢れ出る感情を無理矢理どこかに流しこもうとしていた。


 可憐のスカートがシワだらけになったその時、弘孝と話す光と可憐の前に一人の契約者が現れ、口を開いた。



「待てよ。オレの事、忘れてるんじゃねーよな?」

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