第197話 鎮魂歌+瑠璃唐草(3)

 視線を手のひらの花から可憐へと移す光。彼の黒い瞳に映る少女の頬は僅かに赤く染っていた。しかし、それが冬の寒さなのか、感情からなのか光には分からなかった。



「……。そうね。お父さんやお母さんが、この花が好きだったのかしら」



 光から視線を逸らす可憐。まるで話を逸らすような回答に、光はそのまま彼女の言葉を繋げるように口を開いた。



「ご両親とは、そんな話はしていないのかい? 名前の由来とか、小さい頃の話とか」



 ゆっくりと首を傾げながら話す光。そんな彼に可憐は首を横に振ることにより答えた。


 ネモフィラが埋め尽くす魔力の亀裂が徐々に大きくなる。しかし、それに気付いているのは、未だに光だけだった。



「そういえば、していないわ。不思議と、名前の由来や、過去を聞くのは、いけない事だと思ったのよ。お母さん達が元々、どのランクの人だったのかも、聞いていないわ。この手は、この国で生活する上でのタブーだと思っているのよね」



 小さなため息と共に光の質問に答える可憐。視線を自身の左手首に移動させる。そこには、既に動かなくなった機械が装着されており、機械独特の冷たさが可憐の手首を冷やしていた。


 光と出会って数ヶ月の間に、この国の理不尽さを目の当たりにした。最低ランクであるEランクと、Aランク以下の人間が、最上級の世界だと憧れるSランク。二つの世界を実際に訪れ、現実を目の当たりにした今の可憐は、上ランクへと移動する事が、無条件の幸せではないと実感していた。


 数分後には命が消えているかもしれない世界だが、生きている事を実感出来た世界と、安全と長寿を確約されているが、感情までを国に監視されている世界。数ヶ月前の可憐には、想像のつかなかったこの世界の現実に、思わずマフラーを強く握りしめていた。


 そんな可憐を見た光は、彼女の考えを察し、彼女の感情を上手く誤魔化すように小さく笑った。



「なるほどね。そう言われたら、仕方ないや」



 小さな笑みと共にこぼれた光の言葉。それを聞いた可憐は、ゆっくりとマフラーから手を離し、視線を光へと向けた。


 数秒の沈黙。その間も、魔力で作られた二人だけの空間には、亀裂が入り続け、現実へと戻る瞬間が近付いている事を伝えている。しかし、可憐は未だにネモフィラの美しさと光の儚い笑みに気を取られ、それに気付く事は無かった。



「……。さっきの光の質問に答えていなかったわね。こんなに綺麗な花が、私に相応しいって言ってくれた事。それは、光明光あなたとしての言葉だと分かったわ……。とても、嬉しかった……。こんなに可愛らしい花が、私に似合うと言ってくれて……」



 ネモフィラを見つめながら小声で呟く可憐。指先から感じる生花独特の質感が人間の肌の質感を思い出させた。


 可憐の言葉を聞いた光は、予想外の反応に、目を僅かに見開いた。しかし、そのあと儚い笑みを浮べると、目の前にいる少女に向かって優しく口を開いた。


「いつも言っているじゃん。ぼくは、愛の大天使ガブリエルでもあるけど、それ以前に光明こうみひかるであるって。ぼくが、可憐に言っている言葉は、全部ぼくとしての言葉だよ?」



 光の言葉を聞いた可憐は、視線をネモフィラから彼へと移す。そして、光をからかうように小さく笑った。



「さぁ。どうかしら。あなたが契約者として初めて私と出会った時、どこか薄っぺらいような感じがしたわ」



 視線が完全に光へと移った時、光が魔力で作り出した空間の亀裂が更に広がる。それを見た光は、この時間が終わりを告げている事を理解した。しかし、それを可憐に悟られないように、張り付いた笑みを無理矢理浮かべていた。



「薄っぺらいって……酷いなぁ。まぁ、でも、否定は出来ないかな。あの時のぼくは、君と一秒でも早く契約して、光明光ぼくと可憐としてではなく、ガブリエルとラファエルとしての関係を優先していたからね」



 張り付いた笑みと、咄嗟に思いついた言葉によって、光の声は可憐に本心ではないと理解させていた。初めて出会った時と同じ、張り付いた笑みは、可憐にため息を促していた。



「はぁ……。やっぱり。でも、天界に行った頃から何となくだけど、光の言葉があなたとして言っているのか、大天使ガブリエルとしての立場で言っているのか、分かるようになったわ。契約者としての制約や、命が五年以内に尽きる事を心配して、今まで私と契約をしなかった……」



 ため息を交えながら述べた可憐の言葉。しかし、その言葉の後半にはため息は消えていて、可憐の本心である事が誰が聞いても分かるものであった。


 それを聞いた光は、無理矢理作っていた張り付いた笑みが一瞬で崩れ去った。代わりに、目の前の少女を想う時にでる儚い笑みを浮かべていた。



「うん……。 正直に言うと、ぼくは可憐に契約者になって欲しくない。五年以内に可憐が終わってまうのは嫌なんだ。それに、記憶を失いながらも、こうやって人の輪廻から外れて、別の存在として死にながら生きる……。ウリエル……ジン君の転生を見て分かったと思うんだ」



 光のガブリエルとしての記憶の中に居るラファエルと、目の前の少女を比較する。瞳の色や背丈は違うが、雰囲気が似ている可憐は、愛の大天使ガブリエルに独占欲を覚えさせ、光明光に庇護ひごの感情を芽生えさせた。


 無意識に折り曲げている足を何度も入れ替え、光は朱色に染まりそうな瞳を押さえ込み、可憐を見ていた。光明光としての黒色の瞳に映る可憐は、先程の光の言葉に素直に頷いていた。



「そうね。ジンの声、口調だけども、考えは彼のものでは無かったわ。弘孝の事も完全に忘れているし……。本当に器という言葉がピッタリだったわ……。彼の言動と比較すると、光がどれだけあなたとしての言葉を述べているのか、ハッキリするわね」



 光の言葉に頷きながら話す可憐。彼女の脳裏に転生した瞬間のジンの光景が蘇る。容姿や声はジンそのものだったが、それ以外はまるで誰かに言わされているようなものだった。それに違和感を覚えていた可憐は、目の前の契約者がいかに、本来の天使としての感情を押し殺して、人間として自分と接しているのか理解した。儚い笑みを浮べる光に、思わず視線を逸らす。


 今までの言葉が光としての言葉と理解した事を悟られないように、再度ネモフィラに視線を移したその時だった。ネモフィラの周りの魔力に亀裂が入っている事に可憐は気付いた。そして、それと同時に、光が悪魔に存在を知られないように魔力で隠していることを思い出し、それが終わりを告げていた事を悟った。



「この亀裂……! 弘孝が来てもおかしくないと言う事よね?」



 可憐の言葉に、光は無言でゆっくりと頷く。一度立ち上がり、可憐の真横に座っていたものを、身体ごと可憐の正面に向けて座り直した。



「そうだね。ぼくたちの魔力がこの亀裂から漏れ始めているから、完全にこの魔力が消えた瞬間、弘孝君が現れても可笑しくないよ」


 一度深呼吸をし、光は言葉を区切る。そのあと、ゆっくりとまばたきをすると、可憐を見つめた。



「可憐。これから先に言う言葉は、本当にぼく、光明光としての言葉として受け止めて欲しい」



 亀裂から風が入り込むような音が二人の耳を支配する。これから、目の前の契約者と、幼馴染だった悪魔が対立するというのに、妙に冷静な光に、可憐はマフラーを強く握りしめる。



「何よ、急に。時間が無いのだから、早く言いなさいよ。他にも契約者としての制約があるのかしら」



 可憐の言葉に、光はゆっくりと首を横に振り、黒い瞳に少女を映す。



「違うよ。これは、ぼくがただ、可憐に伝えたい事なんだ。ぼくのエゴでしかないから、これから先、どうするかは、可憐が決めて欲しい」



 そこまで言うと、光はゆっくりと深呼吸をした。魔力の亀裂が限界に近いと言っても過言では無いほど大きくなる。


 魔力の空間が完全に崩壊する数秒前に、光は儚い笑みを浮かべながらゆっくりと口を開いた。



「可憐、君が好きだ」

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