第58話 狂想曲+目覚め



「可憐と出会ってから、君は、君らしくなくなった。それは、可憐が本物のラファエルにそっくりだから? それとも、他に理由があるの?」



 猛の胸ぐらを掴んでいた光の手がゆっくりと開いた。解放された猛だが、視線は光から反らさなかった。



「……」



 猛の黙秘に返事するかのように、光の目尻にあった涙が光の頬を通じて、猛のシャツを濡らした。



「ぼくは……可憐を失いたくないんだ。できれば、彼女は契約者にしたくない。欲の無い可憐に無理やりな願いを叶えて、他人の記憶で生きるなんてことをさせたくないんだよ。可憐は、人間として魂が終わって欲しいんだ……」



 崩れるようにしゃがみこむ光。行き場を失った彼の涙は再び彼の瞳を赤く染めながら人工的な床を濡らした。猛は光に視線を合わせるように膝を立てた。涙を流す光の姿は、ラファエルを失った時のガブリエルの姿そのものだった。



「磯崎が契約を望まなければ、契約者になることはない。しかし、磯崎の魂が悪魔に食われる可能性がある。魂を食われたら、二度と磯崎には会えなくなるぞ。突き放すような言い方だが、俺はそうやって契約者が契約を拒否し、魂を悪魔に食われた人間を何度も見てきた」



 光によって、乱れたシャツとネクタイを正すと、猛は光の頭をそっと撫でた。



「俺が必ず、お前を守る」



 猛の言葉は光には届かなかった。光の視線の先には、猛の上着を羽織った可憐が映っていた。親友を突然失い、放心状態になっている少女を自分は救うことが出来ないことに怒りを覚えた。


 ふと、可憐は我を取り戻し、顔をあげた。瞳が徐々に赤くなる光に気付き、猛が着せてくれていた上着を床に落としながら光の前にしゃがんだ。それは、可憐自身の意思ではなかった。脳と体が合っていない。まるで金縛りにあったような、または、誰かに操られているような感覚だった。



「可憐……?」



 可憐の姿が瞳に映った途端、光の瞳の色が黒に戻った。それを確認した可憐は微笑した。すると、今度は可憐の瞳から光りが消えた。



「良かった……」



 光に向けられる可憐の微笑。それは、可憐のものではなく、可憐の中で眠っている大天使ラファエルの笑みだった。



「ラファエル……」



 可憐から溢れるエメラルドグリーンの魔力。いつもの魔力とは違い、異様に慈悲深かった。



「あなたは、光明光です。完全なガブリエルは転生という手段を選んだ時点で消えました。あなたが光明光という人間を捨て、大天使ガブリエルとなるならば、少なくとも、次の天界戦争が起こるまでは転生を行わなくてもよいでしょう。しかし、それは、光明光という人格も全て無にするということです。慎重に考えてくださいね」



 可憐とは違う声色と口調。それは猛が求め続けていたラファエルそのものだった。可憐はそのままゆっくりとまばたきし、瞳に光りを取り戻した。



「可憐!」



 光が可憐の肩を掴んだ。



「光? 私、今何か言ったわよね?」



 光の手をゆっくりと自分のへ肩から退かす可憐。冷たい光の手は肩から可憐の背中にまわり、冷たい体のまま抱きしめた。



「それは君の言葉じゃないよ。可憐、ごめんね」



 光の言葉は可憐の耳には届かなかった。それは、光の体が異様に冷たかったからだ。優美の死体以上に冷たい生きている光の体。何度も触れた事があるのに感じてしまう冷たさに可憐は身震いした。



「離して……」



 先ほどから自分の体がおかしかった。話した記憶は無いが、話した感覚はある。それはまるで寝言を言ったような、二重人格にでもなったような感覚だった。初めて感じたこの感覚に可憐は抵抗感を覚え、冷静に一人で考えたかったのだ。


 自分の中に眠っているラファエルが何かを伝えたくて自分の身体を使い、代弁させられている。それ以外の答えは見つからなかった。今、契約者たちと一緒にいれば、またラファエルが目覚めるかもしれない。それは、可憐にとって快いことではなかった。


 自分が理解できることなら、自分の言葉で二人に伝えたい。そのためには、時間が必要だったのだ。

 可憐が少し強引に光を拒絶すると、光は意外にもあっさりと自分の腕を広げた。光自身も、なぜそうしたかは分からなかった。



「一人になりたいの」



 可憐の言葉に光は心臓に鉛を埋め込まれたような感覚になった。今まで以上の拒絶にただ可憐が自分の視界から消えるのを見届けるしかなかった。


 可憐が歩く度に靴と床がぶつかる音がした。それが徐々に小さくなり、完全に聞こえなくなったところで、光の瞳は赤くなった。



「ラファエルが目覚め始めている……」



 狂気が混ざった魔力を流す光に猛は光の両肩を掴み、壁に押し付けた。鈍い音が一度だけ鳴り、暫く沈黙が二人を支配した。その間、猛は光から視線を逸らすことは無かった。



「違う。目覚め始めているのはお前だ。ガブリエル」



 切れ長な目が光を捉える。光の赤い瞳に猛の姿が映った。



「ぼくの中でガブリエルが目覚めかけているのは以前の話しだよ。それに、魔力で抑えてるじゃないか」



 光の視線が猛から自分の左手首に移動する。魔力で出来たブレスレットはややくすんでいた。



「自分で制御出来ていないから、磯崎の中に眠るラファエルが目覚めているんだ。少しは自覚しろ」



 猛の視線が光からブレスレットに移動した。そのまま、猛は意識を集中させ、ブレスレットに魔力を注いだ。数秒後、ブレスレットは音をたてて切れ、光の手首から落ちた。



「何をするんだよ!」



 怒鳴る光に猛は無表情で抑えていた肩から手を放し、素早く光の両手首を掴み、再び壁に押し付けた。



「俺の簡単な魔力ですら耐えられないそれがガブリエルの魂を抑えられると思っているのか? ラファエルは、お前を助ける為に磯崎の体を借りて光が光でいられるようにしているんだ。以前自分で言っただろ? お前は光明光であり、大天使ガブリエルではない。自分で破ってどうするんだ」



 猛の言葉に光は体に電気が走ったような感覚になった。確かに、可憐がラファエルのようになるのは自分が暴走しかけた時だ。可憐の魂を消そうとしているのは自分だったと気付いた時、光の両足から力が抜けた。崩れる光に猛は慌てて手を放し、光を支えた。



「ぼくが……可憐を苦しめていた……」



 光の瞳がゆっくりと黒に戻る。それと同時に涙が頬を撫でた。



「気付けばいいんだ。光」



 猛がゆっくりと光の頭を撫でた。突然の行動に冷静さを取り戻した光は苦笑した。



「やめてよ。猛君らしくないな」



 光は床に落ちたブレスレットを拾い上げ、ズボンのポケットに入れた。そのまま猛の手を簡単に退けると、ゆっくりと立ち上がった。



「そうだな。俺も、お前と契約して少しおかしくなったのかもしれない」



 微笑する猛に光はわざとらしくため息をついた。



「そんな君もぼくは好きだよ」



 可憐の次にねと小さく付け足し、光はそのままこの場を後にした。



「気持ち悪いことを言うな!」



 猛の叫び声は光の歩くスピードを速めるのみだった。



「やだなぁ。本気にしないでよ」



 走る光に猛も全速力で追いかけた。


 その光景を影から一人の人物が覗いていた。




「お二人とも、もう少し事の重大さに気付いてくれませんかね」




 落ち着いた声色の持ち主は持っていた一輪の花の香りを楽しむと、病院を後にした。


 彼の歩いた廊下には一枚の白い羽が落ちていた。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る