第3.5章 不協和音

第52話 氷結地獄+罪人


 サキがアリエルという名の契約者だと分かった同時刻、天界とは対の場所にあるコキュートスでは、悪魔同士の拷問という名の八つ当たりが行われていた。



「申し訳ございません! アスタロト様!」



 低ランクの悪魔の周りにはアスタロトを慕う毒蛇。悪魔の身体には生々しい傷があった。



「どうして! どうして!」



 怒りを握りしめている鞭に送り、悪魔を打つアスタロト。禍禍しい魔力が彼女の足を伝い、氷の地面に染み込む。



「どうしてわたしの目が見えないのよ! 未来は愚か、過去まで見えないなんて!」



 アスタロトの鞭が悪魔に当たる。それは同族の悪魔ですら苦しむ量の魔力が込められていて、悪魔に激痛を走らせた。怒りに任せて鞭を打つので、毒蛇も自分の危険を感じ取り、離れるように逃げた。鞭が空気を切る音が悪魔により恐怖感を与えた。


 光との戦闘が終わり、コキュートスに帰ったアスタロトはこれから先を見る為、自分の能力を使った。しかし、アスタロトの目に映ったのは、真っ暗な闇であった。可憐と出会ってからも全く見えなかったが、数日後にはここまでの未来が見えていた。


 しかし、今回はいくら見ても全く見えないのだ。しかも、前回見え無かった時とは違った。前回は何かノイズやモザイクが邪魔をして見えなかったが、今回は闇なのだ。闇はいくら取り払っても闇に変わらないのはアスタロトは熟知していた。


 それ故に先が見えない事に恐怖し、恐怖が苛立ちに変わり、たまたま見付けた悪魔に八つ当たりをしているのだ。



「申し訳ございません! 申し訳ございません!」



 自分は何も悪くないが、早くこの八つ当たりを終わらせたいがためにひたすら謝罪の言葉を述べる悪魔。しかし、不幸にもそれがアスタロトの耳に届く事は無かった。



「見えないと、見えないとわたしはあの方にとって不要な存在なのよ! 嫌! 嫌よ!」



 乱舞するアスタロトの鞭は、氷で出来たコキュートスの壁や岩を破壊した。それが自分に当たると想像した低ランク悪魔は情けない声を上げていた。



「ぜーったいに嫌!」



 アスタロトが今まで以上の魔力を込め、鞭を振りかざした。悪魔は自分の死を感じ取り、悲鳴を上げ、目を閉じた。鞭が空気を切る音。その後にくるのは何かが破壊される音のはずだった。


 しかし、アスタロトの鞭は何も攻撃せず、二人の間に入った人物の腕に大人しく巻き付いていた。それを見たアスタロトは先程の怒りを捨て、顔を真っ青にしてひざまずいた。



「も、申し訳ございません!」



 先程悪魔が連呼していた言葉を述べるアスタロト。彼女の視線の先には吹雪の姿。



「八つ当たりは美人を台なしにするぜぇ?」



 腕に絡む鞭を解く吹雪。アスタロトの魔力を最大限に纏った鞭だったが、吹雪には傷一つ無かった。鞭の先端を握り、吹雪は鞭をアスタロトに返す。


 二人の地獄長に先程まで八つ当たりを受けていた悪魔は震えていた。それを見た吹雪は退くように手を振った。



「さがれ」



 吹雪の言葉に悪魔は逃げるように立ち去った。それを確認した吹雪はアスタロトと視線を合わせるようにしゃがんだ。



「言っただろ? オレは過去や未来が見えようが関係ねぇ。無駄な事でオレたち側の契約者の数を減らすな」




 アスタロトを安心させるように吹雪は彼女の頭をそっと撫でた。彼女の口元から零れる腐敗した血が氷を汚す。



「嗚呼……! ありがたき幸せ……!」



 心の底からの言葉を述べるアスタロト。彼女の目尻には血で出来た涙があった。



「いいか、お前はこの地獄の主の為に存在しろ。他は何も考えるな。ただ、天界をぶっ壊す。それだけに集中しろ」



 アスタロトの返事を待たずに吹雪はアスタロトの顎を指先で支え、そのまま血まみれの唇に自分の唇を重ねた。


 錆びた鉄の風味が口内を支配する。数秒間の接吻が終り、アスタロトの唇から吹雪はゆっくりと自分の唇を離した。アスタロトから怒りや悲しみの感情が無くなり、代わりに歓喜が込み上げてきた。



「御意……」



 夢見心地なまま返事をするアスタロト。


 そんな二人を物陰で一人の地獄長がこっそり見てみた。美しい金髪に赤と青のオッドアイ。彼女は人間の命を善意で救ったという罪により、動きと魔力の量を拘束され、足枷で身動きがとれなくなっていた。



「リーダー……」



 長い間自分を慕ってくれた人間。それはスズの記憶の中では彼だけだった。無差別に向けられる笑顔や優しさ。そして信頼。それはスズの中では大切な宝物となっていた。


 弘孝に好かれたい。もっと信頼されたい。そのような想いが時を重ねるごとに膨れていった。


 それにより自分は罪を犯した。悪魔たるもの自分に利益が無い救済は道理に反する。頭では理解していたが、スズは罪を問われるよりも弘孝の涙を見る方を拒んだ。これが恋だと気付いた時にはスズは既にジンの魔力を吸い取り、既に罪人となっていた。罪人となったスズは無条件にコキュートスに幽閉されたので弘孝に別れの挨拶が出来なかったのだ。


 なので、彼女は夢を通して弘孝に別れの挨拶をしたつもりだった。しかし、自分の口から出た言葉は違った。


 可憐の姿を借り、自分の気持ちを伝え、そのまま彼の前から立ち去る。それが彼女の目的だった。しかし、それは今では叶わない。このまま自分はどんな制裁を受けるのか。魂を解放され、この世をさ迷うのか。それとも、それすら赦されず、コキュートスで永遠の拷問を受けるのか。スズには想像すらつかなかった。しかし、覚悟は出来ていた。自分は弘孝の為に最大限に出来る事をした。それに後悔は無い。弘孝が幸せならスズは、自分が消えてもいいと思っていたからだ。


 愛おしい人を想っている途中、夢見心地なアスタロトを放置して、吹雪は気配を消し、スズの背後に立った。



「よっ」



 スズの肩に手を乗せる吹雪。スズが気付いた時には、彼女の悪魔の血が忠誠を誓う為にひざまずけと命令していた。



「あ、あの……」



 突然の出来事に大声を上げることすら出来ないスズ。しかし、体は勝手に吹雪へ忠誠を誓うように片膝を地面につけるように座った。



「そんな固くなんなって」



 笑う吹雪。彼の言葉とは逆にスズは姿勢を崩す事はなかった。それを見た吹雪は笑いを止め、真顔でスズに聞いた。



「人間とのままごとは楽しかったか?」



 吹雪の言葉にスズは目を見開いた。それと同時に彼女の脳裏を横切る弘孝の顔。



「……。制裁を受ける覚悟は出来ています」



 スズの右手が拳を作る。コキュートスの冷たい空気が二人を包み込む。吹雪はそんなスズを見て、蔑むように笑った。



「はっ。んな覚悟捨てろ。お前をリストラするほどこっちは裕福じゃねーんだよ」



 顔を上げろと吹雪はスズに命令すると、吹雪は自分の左手首に魔力で強化させた右手の指先を切るように当てた。魔力で強化された吹雪の指先は簡単に左手首に血を流させた。


 吹雪の突然の行動にスズは固まった。吹雪の血が指先を伝い、地面に落ちた。



「この血を舐めろ。そして誓え。お前の魂、全てをオレに捧げろ。オレへの誓いは第一地獄、地獄長への誓いだ」



 吹雪から滴り落ちる赤い液体。それはコキュートスの氷を溶かした。死体が腐った臭いがスズの鼻孔を刺激する。その臭いと吹雪が放つ魔力と威圧感は、スズに拒否権を奪った。



「御意……」



 吹雪の左手をそっと握るスズ。吹雪の血がスズの右手についた。悪魔の血は人間が生きられる以上の生命を保つ為、酸素に触れ、主から離れると腐敗してしまう。


 スズはゆっくりと吹雪の手首を自分の口元に近付け、舌を出し、溢れ出る腐敗した血を舐めた。口内を不快な臭いと味が支配した。嘔吐感などは無かったのは彼女も同じ血を体内に通わせているからであろう。スズが舐めたところから吹雪の血は既に流れていなかった。


 スズが吹雪の血を舐めるのと同時に、スズの目尻には涙がこぼれた。それは、弘孝に対する懺悔と後悔の涙だった。吹雪はその涙の意味を理解していたが、口には出さなかった。


 スズが吹雪の傷口を全て舐め終わる頃には、吹雪の血は止まっていた。


 口元から吹雪の手首をそっと離すスズ。彼女の口元には吹雪の血が付いていた。



「誓いをたてたお前に、もう一度だけチャンスをやる」



 そう言うと、吹雪は視線をスズに合わせるようにしゃがみ、彼女の耳元で何かを囁いた。スズにしか届かない言葉は彼女の目を見開かせた。



「お前なら簡単だろ?」



 吹雪の言葉にスズは本音とは違い、ゆっくりと頷いた。サタンへの忠誠を誓ったスズに拒否権は無かったのだ。



「それが出来りゃ、お前のその枷を外してやる」



 それだけ言うと、吹雪は自分の魔力を使い、スズの前から毒霧のようになって消えた。残されたスズは、吹雪が消えると崩れるように座り込んだ。彼女の目尻には涙が溢れ、頬を濡らした。



「ごめんなさい。ごめんなさい」



 自分が最も慕う人物に届かない謝罪を口にするスズ。コキュートスの冷たい空気がさらにスズの涙の量を増やした。



「私は……サタン様に命を捧げます」



 スズの指先に魔力が込められた。闇と毒に近い色をした魔力はスズの指先により、地面に彼女を中心に模様を描き出す。時々、彼女の涙が模様の邪魔をしたが、涙が先に蒸発した。


 スズの魔力は彼女を中心にまず、円を描く。円の中には不可解な模様。百年ほど前の人間ならば、これを魔法陣と例えるだろう。魔法陣を描き終わると、スズは、日本人では理解出来ない言葉を涙を流しながら呟いた。それと同時にスズの魔法で描かれた模様が光りだした。



「貴方への気持ちは体が朽ちても変わりません。リーダー」



 直後、スズの魔力が強く光り、スズを包み込んだ。数秒後、スズの姿は魔力と共に消えた。彼女の一滴の涙だけが、コキュートスの凍てついた床に凍らずに残っていた。




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