第49話 塵街+親愛


 弘孝に出会う前のおぞましい記憶。それは、今の幸せすぎる生活により無意識に消去されていた。



「健気な両親だったな。娘が美味い料理食べて心の底から美味いっていう顔が見たいっていう涙涙 なみだなみだの契約内容だったぜ」



 言葉とは裏腹に笑う吹雪。アイはこの時、初めて殺意を覚え、立ち上がった。アイの負の感情が魔力となり、床に染みた。



「アイ! やめろ!」



 魔力が見えるジンが叫ぶが、両親の敵を目の前にしたアイには届かなかった。



「殺す、悪魔」



 アイの無感情な言葉は吹雪をさらに興奮させた。ゆっくりと吹雪に近づくアイにジンは吹雪の意図に気付いた。



「アイ! やつに躍らされるな! お前の魂もお前の両親みたいに悪魔に食われるぞ! それは誰も望んでねぇ!」



 ジンの叫び声。それはアイの耳に届いたらしく、アイは立ち止まった。



「ジン……?」



 振り返るアイ。その背後では両手に魔力を込めた吹雪がアイを魔力で苦しめようとしていた。



「アイ! 後ろ!」



 状況を第六感で察知したハルが叫んだ時には、吹雪は魔力をアイにぶつけるはずだった。


 しかし、吹雪の魔力はいつのまにか二人の間に入っていた猛の剣が全て受け止めていた。



「言っただろ。お前の相手は俺だ」



 猛の魔力は完全に回復していなかった。先程吹雪に突き飛ばされた時も、猛は吹雪の魔力を直接浴びていた。その魔力を相殺する前に自分からアイたちを庇うために魔力を自分が受けるという手段を取った。それにより、猛の体内にはさらに大量の魔力が蝕んだ。



「猛!」



 ジンの声に猛は息切れしながら答えた。



「お前たちが生きていなければ、弘孝の契約が無くなる。今の俺にとって、最も守らなければならない命はお前たちだ」



 それだけ言うと、猛は仕返しに自分の魔力を吹雪に流し込み、突き飛ばした。大柄な吹雪を数メートル飛ばすには、かなりの魔力を消費した。



「なんだぁ? じゃじゃ馬姫はここではイケメンナイトかよ」



 突き飛ばされ、壁にぶつかり背中にダメージを受けた吹雪だが、致命傷となる事はなく、いつものようにニヤついていた。



「おい、人間。そのイケメンナイトはオレのだ」



 剣を具現化させ、吹雪はゆっくりと猛に近づいた。猛もそれに応えるように剣を握りしめ、構えた。



「盗ったりしたら、たたじゃおかねぇからなぁ!」



 吹雪が剣を振りかざす。猛はそれを自分の剣で受け止めた。高い金属音は猛を不快にさせた。



「気持ち悪い……」



 嘔吐しそうな口元を必死で可憐は手で押さえていた。少しでも楽になるよう、弘孝が可憐の背中を撫でようと、背中に触れた途端、人間の体温では到底不可能な熱さが弘孝の手の平に伝わった。反射的に手を引っ込める弘孝。可憐の背中を見ると、そこにはシャツを着ていても分かるほど、どす黒い痣のようなものが透けていた。



「可憐……この背中は」



 朦朧とした意識の中、微かに聞こえた弘孝の声。それにより、可憐は今自分の身に何が起こっているか理解した。サタンの魔力を浴びたことにより、魔痕が再発したのだ。



「魔痕……」



 息切れしながら可憐は答えた。弘孝は一瞬で可憐の身に何が起こっているのか把握し、自分の魔力を可憐に注いだ。



「可憐! 意識を保て! 今僕が助けるからな!」



 弘孝が可憐に送る魔力はかなりの量だったが、それ以上に可憐の魔痕は強力で、焼け石に水だった。



「無駄だよ。コキュートスで一番強い魔力の持ち主から注がれた魔力なんだからねっ」



 優美は弘孝に魔力を使い、弘孝を可憐から突き放した。突然の魔力に弘孝も対応出来ず、可憐から離れた。



「さぁ、可憐。苦しいでしょ? あたしと契約したら、その痛みから解放されるのよ? その魔痕は綺麗な翼になって、魔力は今のより何倍も強くなる。何一つデメリットなんてないんだよ。さぁ、あたしと契約して、可憐」



 苦しみからの解放。それは今、可憐が最も求めている事だった。思えば、自分は間違っているのかもしれない。親友を敵に回し、見ず知らずの契約者に全てを託している。本当は優美の言っている事が正しいのかもしれない。



「可憐! 騙されちゃ駄目だ!」



 光の声は七海との戦闘で奏でられる音で可憐には届く事は無かった。仮に届いていたとしても、今の可憐ならば、光の言葉は不安材料の一つになったに違いない。



「優美……。助けて……」



 手を伸ばす可憐。優美はそれを悪魔の微笑みで握りしめた。




「可憐!」


「磯崎!」




 光と猛の叫び声は可憐の耳には入らなかった。弘孝は魔力を使いすぎて、あれから立ち上がる事も難しい状態だった。睡魔が襲い、まぶたが重い。しかし、今彼を支えているのは、目の前で苦しみ、悪魔と契約する寸前の可憐の姿だった。


 彼女が悪魔になったら、自分が契約者になった意味が無くなる。親友を失うのはもうたくさんだ。



「親友を失うのはもうたくさんだ……」



 自分の思考を口に出した時、弘孝はふと、ジンが魔痕に苦しんでいる時を思い出した。あの時も、自分は魔力を相殺しようとしたが、失敗した。絶望しかけた時、スズがジンの魔力を吸収し、彼の命を救った。それは、スズが悪魔であった為、出来た事。



「僕の半分はこの為にある」



 不意に思い付いた一つの方法。それは、弘孝もスズと同じように魔力を相殺するのではなく、魔力を吸収する。


光たちと同じ種類の契約者となった今では、それは不可能かもしれない。仮に成功しても、自分の中にサタンの魔力を吸収する事により、ウリエルとしての魔力が拒否反応を起こし、自分の命が危ないかもしれない。


 どう考えてもデメリットが多かった。しかし、弘孝はそれ以上考える事を放棄した。



「僕にしか出来ない可憐を守る方法」



 全ての思考を停止させ、弘孝は立ち上がった。目眩がするが、それが自分への危険信号だという思考すら弘孝は強制的に停止させていた。無理矢理走り込み、力だけで優美を突き飛ばした。男女の差により、優美は可憐から離された。



「可憐は僕にとっての光りだ」



 意識が朦朧としている可憐を後ろからそっと抱きしめた。そして可憐を貪るサタンの魔力を弘孝は自分の身体に流れるように誘導させた。



「ちょっと、あなた何を……!」



 弘孝が混血と知らない優美は自殺行為をしているようにしか見えなかった。


 優美の叫び声に戦っていた四人が一斉に動きを止めた。四人の視界には魔力を吸収する弘孝。



「おいおい、マジかよ」



 慈悲深い悪魔の魔力。その矛盾した光景に誰もが絶句した。



「思い付いたって普通は実行しないわ」



 七海の言葉に反論する者は誰一人いなかった。いくら自分が混血だからといっても、身体の半分は吸収した魔力に拒否反応を起こす。それが命に関わる事を契約者たちは理解していたのだ。


 しかし、光だけは違った。もし、自分が弘孝だったらどうするか。考えは弘孝と同じだった。自分は消えても構わない。自分以上の大切な人間を生かせる手段が一つでもあるならば、いくら危険でも、不可能に近くてもやっているだろう。



「弘孝君は本当に可憐を大切に思っているんだね」



 悪魔の魔力が二人を包み込んだ。しかし、それは、可憐を苦しめる事はなかった。魔力を中和させる感覚ではなく、不純物を取り除かれるような感覚。それは今までにない感覚で、身体が軽くなるのが分かった。



「弘孝……」



 可憐の目が開いた時、二人を包んでいた魔力が消えた。



「可憐!」



 自分の名前を呼ぶ弘孝の声に可憐は自分に何が起こっていたのかを思い出した。サタンの魔力に犯され、魔痕が再発していた。しかし、今は痛みや吐き気は無かった。



「私……確か……」



 自分の首を触ってみた。しかし、そこには痛みは無かった。きっとあの痣のような模様も無くなっているだろう。


 可憐の無事を確認した弘孝は更に強く抱きしめた。可憐の温もりを感じた。



「よかった」



 弘孝の涙腺はもう限界だった。ゆっくりと大粒の涙が弘孝の頬を伝い、可憐の服を濡らした。



「弘孝が助けてくれたのね。ありがとう」



 弘孝の腕を優しく掴む可憐。弘孝は愛しい少女をただ抱きしめる事しか出来なかった。弘孝の長い黒髪が可憐の太ももに触れた。



「お前が生きている事以外、僕は何も望まない」



 本当はこのまま可憐の唇に自分の唇を重ねたかった。今までの想いを可憐に伝えたかった。しかし、それは大天使ウリエルとなる運命を選んだ弘孝には許される事は無かった。


 そんな二人を見ていた吹雪は欠伸をした。弘孝とは違う涙が吹雪の目尻にはあった。



「はぁ。なんだオレたちはとんだ茶番を見に来ただけかよ。帰るぞ、アスタロト」



 吹雪の命令にアスタロトは光に背中を向けた。二人の行動に気付いた優美も可憐から離れ、吹雪に近付いた。



「御意」



 三人は自分の魔力を体中に包み込んだ。その隙間から可憐は優美の顔を捕らえた。そして、そこで微かに動く唇を可憐は見た。



「ごめんね、可憐」





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