第32話 塵街+市場
突然、風に地面と血の臭い以外のものが流れた。パンやチーズ。微かに果物の香りが可憐たちの鼻孔を刺激する。
「さ、ついた。市場だ。可憐は離れないように僕かジンの服でも握りしめとけ」
大きな布と木の棒だけで出来た簡易的なテント。その下に可憐の知らない様々な食材を並べている人々。それを眺め、必要な物を店の主人に伝え、現金と交換する客。そこは、先日大量の命が消えた場所と同じ場所にあるとは可憐には想像出来ないほど賑やかだった。
市場の賑やかさに見とれながらも、弘孝が足を進めたので可憐は離れないよう、彼の服の裾を握りしめる。店の主人は老若男女様々だった。
かびの生えたチーズを売る三十代の少しふくよかな女性。虫食いがあるりんごを売る筋肉質な男。干からびたパンを売る髪の長い若い女性。
Aランクでは全て廃棄されるような食材が市場で堂々と売られていた。それに何も疑問を持たず金を渡す客。
「可憐、可憐。今、金持ってるか?」
不意に耳元にジンの声が聞こえた。可憐はジンの質問に答える為に、ポケットの中に片手をつっこみ、手持ちを確認する。
Aランクでは、仮想通貨が一般的だが、ごく稀に現金が必要な場合がある。百年ほど前までは紙幣や硬貨なとが存在していたが、効率化を重視した日本の上位ランクでは、完全に仮想通貨へと金銭の価値観を移動させ、低ランクとの直接的なやり取りの場合や、システムエラーの場合の時のみ、そのものに価値のある金貨や銀貨が昔の硬貨の役割を果たす。
可憐はEランクでは仮想通貨は使い物にならないと予測し、自身が持つ現金を全て持ってきていた。ポケットに入れた手で金属の感覚を確かめる。金属が重なり合い、僅かに音を立てた。
「銀貨が三枚。銅貨が七枚ほど」
可憐の持っている金額を聞いたとたん、ジンは目を見開き、慌てて可憐の口を手で被った。
「ば、バカヤロー! そんな大金持ち歩くなよ! しかもポケットの中とかマジありえねー!」
ジンと可憐のやり取りに気付いた猛と弘孝が振り向いた。
「ここの物価は、金貨一枚で店の食べ物が全て買え、さらに釣銭がくるくらいだ」
ジンの言葉から察した猛が可憐に説明した。Aランクでは、金貨一枚で家族で少し贅沢な夕食が一度出来るくらいだった。
「そんな大金持ち歩いていたらいつ命が狙われてもおかしくねーよ」
可憐の口から手を離すジン。
「確かに。ランクが変われば物価が変わるのは当たり前。私が浅はかだったわ」
ポケットにある金貨を大切そうに握りしめる可憐。馬鹿にされると思っていたが、ジンは微笑するだけだった。
「分かればいいんだ。どっかの坊ちゃんも同じ事をして、こう言ったんだぜ。危険なら捨てようってな」
先程の微笑ではなく、ケラケラと笑うジン。それを見た弘孝が呆れるようにため息をする。
「今さら揚げ足を取るような事はよしてくれ。当時の僕は、あまりにも世間知らずだったのだから」
ため息の次は苦笑する弘孝。可憐が幼い頃の弘孝は、両親の言うことは最優先する単なるいい子であった。今は自分の意志を持ち、齢の近い少年少女たちをまとめるリーダーになっていたことに少し時間の経過を感じた。
「危険が少しでもあれば排除する。上の考えらしいわね。それに、この市場のように活気ついた所は無かったわ」
再度市場を見渡す可憐。ふと、肉屋の主の男と目が合った。男は出刃包丁を右手に持ち、左手で可憐を手招きした。
「そこのお兄さん。今日はいい肉が入ったんだ。どうだい?」
男の声に気付いたジンが可憐を連れて肉屋に近付いた。それを追うように猛も歩きだす。ただ、弘孝だけは、不満気な表情を浮かべていた。
「おっ、今日は新鮮な肉が揃ってるじゃねぇか」
ジンの存在に気付いた肉屋は、可憐とジンを交互に見るなりため息をついた。
「なんだ。ジンの連れかよ」
肉屋のため息に笑うジン。
「連れで悪かったな。こいつはレン。オレの新しい仲間だ」
可憐と肩を組むジン。肉屋は可憐の顔を覗き込んだ。
「こりゃまた女みたいな男を仲間にしたな」
肉屋の皮肉に弘孝が答えた。
「悪かったな。女々しくて」
弘孝の長い髪が揺れる。背後から見たら背の高い女性にしか見えないだろう。弘孝は不満げに眉をひそめ、肉屋を軽く睨んだ。
「いいのか。お前はこの肉屋に性別がバレてしまっても」
遅れて肉屋に来た猛が会話に入る。猛の姿を確認したとたん、肉屋は顔色を変えた。小刻みに震え、猛を見る目が恐怖へと変わる。
「おい……。そいつ……。昨日の化け物じゃねぇか」
顔色が悪くなり、がくがくと震えだす肉屋。そんな彼の様子を見た猛はため息をついた。
「間違いではないが、安心しろ。もうここで人間を無駄に殺したりはしない」
猛の言葉に可憐は視線を彼の顔へ向けた。微かに肉屋の怯える姿を楽しむかのように釣り上がった口角。その姿は、どこと無く可憐の脳裏に南風を思い出させた。
「お願いだ。頼む、命だけは助けてくれ。ここの肉が欲しいなら全てくれてやる。金だってはした金だが全てやる。だから、どうか命だけは!」
肉屋の叫びは市場の賑やかさによって掻き消され、彼の言葉を聞き取れたのは可憐たち四人だけだった。
「おっ。まじで? じゃあ遠慮なく貰おうぜ、リーダー」
ジンは唇を舐め、店頭に並んだ肉を眺めた。可憐も肉を見てみた。そこに並んでいる肉は可憐の見たことの無い肉だった。豚肉にしては脂身が少なく、鶏肉にしては色が赤い。牛肉としてはやけに生臭く、繊維質だった。馬や蛙なども考えたが、どれも可憐の記憶には一致しなかった。しかし、これはどこかで見た事がある。それが、食卓だったか、書物だったのか思い出せなかった。
「止めとけ。このまま脅し取るつもりか」
弘孝の言葉にジンは素直に頷き、肉から離れた。そして、弘孝は可憐の手を引いた。
「恐怖心をつのらせて悪かった。彼は、僕たちのパーティーにいる間はこのランクの人間には手を出さない。約束する」
肉屋に微笑みかける弘孝。それは、見るもの全てを安堵させるかのように偽りの慈悲で溢れていた。
「行こう。今日の目的は肉ではない」
可憐は弘孝の言葉に頷き、空いている片手で猛の手首を握り、引っ張った。
肉屋から離れ、人混みをすり抜けながら可憐は猛を睨みつけた。
「何もあそこまで脅す必要は無かったじゃない」
小声で猛を叱り付ける可憐。それに気づいた弘孝が振り向いた。
「猛の判断は正しい。ダストタウンは無慈悲の世界。そこから慈悲が現れたらどうする。かなりの癒し効果があると思わないか」
微笑しながら可憐に話し掛ける弘孝。その顔は肉屋に向けた慈悲の笑みと同じだった。相手を思いやっているように見えるが、それは偽りで笑みの裏側はどこか儚かった。
「絶望から希望を与える。それが俺たちのやり方だ」
二人の会話に猛が割り込む。その絶望を作った張本人である彼の瞳には既に肉屋の店主は映ってなかった。
「そうね。ここで私の常識は通じない」
もう二度とこのような質問はしないわと付け足し、可憐は再び足を進めた。正直、悪魔のやり方と
変わらないのでは無いかと思ったが、口にすることは無かった。
ふと、光がこのランクに入る直前に言った言葉を思い出した。ここでは自分の常識は通じない。それは紛れもない事実で、可憐の精神を
十五分程歩いただろうか。青果市場の香りが徐々に消え、Eランクらしい、血と鉛の臭いがした。
「ここからが本番だ。僕はここから口数を減らす。可憐もレンとして振る舞ってくれ。詳しい説明はジンが会話を交えてする」
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