第18話 天界+魂

 可憐が目を覚ましたら、自分のベッドに上半身を預けて眠っているエンジェが視界に入った。エンジェを起こさないように可憐はそっと自分の上半身を起こした。あの時のような激痛は無かった。



「痛くない……」



 可憐の呟きにエンジェは目を覚ました。



「起こしちゃったわね。ごめんなさい」



 エンジェの頭を撫でる可憐。



「いえ、私こそ眠ってしまって申し訳ございません。その、可憐様、魔痕の方は……」



 慌てて立ち上がり頭を下げるエンジェ。可憐は魔痕を確認するため服を脱いだ。可憐の背中を見るなりエンジェは目を見開いた。



「魔痕が無くなっている……」



 可憐に魔痕を確認させる為に鏡を差し出した。首の魔痕はもちろん、背中の魔痕も綺麗に無くなっていた。



「あんなに濃かった魔痕が無い。四日ほどかかるって言っていたわよね」



 魔痕があった場所に可憐の指先が触れた。痛みは無く、刺青を入れていたような違和感も無かった。



「はい。しかも可憐様は人間です。前例が無いので定かではありませんが、回復魔法が使えないので天界の魔力との中和を考えたら四日以上かかってもおかしくない状況でした。それなのに一日で治るなんて……。どんなに回復魔法に優れた天使でもあのような魔痕をここまで治すには二日以上かかります」



 可憐の背中に触れるエンジェ。天使の彼女にも違和感は、感じられなかった。



「優美……」



 ふと口にした親友の名前。最後に見た黒い翼を持った彼女の姿が脳裏を横切った。


 それと同時に扉をノックする音と扉が開いた。六枚の翼が生えた青年が可憐の前に姿を現した。




「体調はどうだ」



「きゃ!」




 猛の姿を確認すると、慌てて可憐はシーツで身体を隠した。慌てふためくエンジェと状況を理解出来ずまばたきしながら部屋に入る猛。




「ミカエル様!」



「一色君! 私服着てないの! こっち見ないで!」




 可憐の言葉にやっと状況を理解した猛はため息をつき、二人に背中を向けた。その隙に服を着る可憐。



「人間の女体になど興味無い」



 数分後、可憐が服を着た事を確認すると可憐に近寄った。



「あなたは構わないかもしれないかもしれないけど、私は気にするの。ところで何の用」



 可憐と視線を合わせるように腰をおろす猛。エンジェは可憐が気付いた時には姿を消していた。



「起き上がれる程回復したか。その後、魔痕の様子はどうだ」



 猛に魔痕があった首もとを見せる可憐。跡形も無くきれいに無くなっていた首もとを見ると、猛は目を見開いた。



「ご覧の通り、きれいに無くなったわよ。普通ならばどんなに早くても四日前後かかるって聞いたけど」



 猛は一度深呼吸をし、息を止め、指先に魔力を集中させた。その魔力を可憐の首もとに近づけた。しかし、何も変化は起こらなかった。



「完全に魔力が浄化されている。いくら磯崎がラファエルの魔力を引き継いでいると言っても今の身体は純粋な人間だ。きっと何かの代償があるはずだ」



 猛の言葉に可憐は不思議と笑みをこぼしていた。微かに彼女の周りからエメラルドグリーンの光線が漏れる。



「代償ね。それが私にこの有り得ない現実を思い知らせる事だったりするのかしら」



 可憐は指先に意識を集中させた。すると、エメラルドグリーンの光りが微かながら可憐の指先に放たれていた。それを見た猛は目を見開いた。



「不思議ね。事を理解したらこんな事も出来るのね。本当、今まで思っていた常識が馬鹿みたい」



 猛は持っていた剣を可憐に向けた。コバルトブルーに近い紫色の魔力が炎のようになって彼の剣を包んだ。



「なぜ人間のお前が魔力を扱える。ガブリエルと契約した痕跡も無い。魔力を自由に使えるのは契約者である俺たちのみだ」



 可憐は向けられた剣に動じなかった。



「分からないわよ。私だってあなたたちの存在は認めてないのだから。いくらあなたが裁きの大天使ミカエルでも、身体は記憶を失った人間。同じ人間として私を斬るの?」



 可憐の言葉に猛は口角を上げた。その笑みは可憐が夢で見た大天使ミカエルの姿そのものだった。



「同じ人間? 残念ながら俺は唯一この天界の中で人間と契約せずに肉体を保てる契約者だ」



 蔑むように笑う猛。可憐はそんな猛を睨みつけた。



「やはり、あなたはあの時、ラファエルとウリエル、ガブリエルの魂を解放した後、あなたは自分の魂を解放せず、天界を守り続けたのね」



 睨みつけたと思ったら次の可憐の表情は穏やかな表情に変わった。瞳の色が黒からエメラルドグリーンへと変化していた。その表情は猛の脳裏に天界での戦争を終えたラファエルの姿を横切らせた。




「ラファエル……」



「違う。私は磯崎可憐。ラファエルじゃないわ」




 首を横に振る可憐は、既にラファエルの面影は無かった。瞳の色も元の黒に戻っていた。



「お前は、誰だ」



 猛の言葉にため息をする可憐。




「言ったじゃない。私は磯崎可憐。日本国に住む元Cランク現Aランクの十七歳。それくらい古典的なあなたでも分かるはずよ」



「俺より古典的な契約者がお前の中に眠っていたと思っていたが、人違いか」



「え?」




 不意に猛が口にした言葉。それは可憐には理解出来なかった。



「何でもない。そうだ、磯崎、もう立てるか」



 猛は軽く首を横に振ると可憐に右手を差し出した。                      その手に自分の右手を乗せる可憐。



「体調不良はもう無いわ。薬も、栄養剤も投与していないのに不思議。エンジェは癌と同じようなものと言っていたのに」


 初めて自分の足を床につけた可憐。特に違和感は無く、自分たちが住んでいた場所と同じような感覚だった。



「磯崎、お前は契約者について知りたいか?俺たちの存在理由や人間との差。神に愛された契約者たちの腐敗した社会性。お前は全てを知る権利がある」



 差し出した手を握りしめ、可憐を自分の近くによせる猛。ふと、可憐の頬が赤く染まった。



「天使……」



 返事の代わりに握られた手を握りしめる可憐。それを確認した猛は反対の手を可憐の腰にあてた。

 そのまま可憐を横抱きにし、扉を開けた。



「えっ? 一色君?」



 足を少しばたつかせる可憐。しかし、猛はそれを気にせず可憐に扉の向かいにある世界を見せた。

 そこは、可憐が想像していた以上に悲惨だった。



「これは……」



 可憐の視界には神話にあるような空と雲の世界ではなく、過去の人間が作ったスラム街のような世界だった。以前可憐が夢で見た時は戦争で地面が全て亡骸で埋め尽くされていた為はっきり見えなかった。



「人間は俺たち契約者に絶対的な崇拝と希望を求め、神話や書物で人間たちが空想した世界を後世に伝える。文化が発展しているのは俺たち契約者ではなく、お前たち人間だ。血の洗い方は血で流すしか知らない、カニバリズムも終わらない」



 猛の歩く地面は腐敗した血の色をしていた。死体の臭いはしなかったが、ここで悲惨な惨劇が行われた事を表現するには充分すぎた。猛は可憐をそっと地面におろした。辺りを見回す可憐。



「なぜ私にこのような世界を見せるの。この事実を人間に伝えるの?」



 猛は首を横に振った。そして、遥か遠くにある岩で出来たモニュメントを指差した。



「あそこに天界と人間界、コキュートス全てに繋がるシフルールという場所がある。そこは特別な魔力が流れている。天界という別世界を理解した人間がそこに行き、契約者同等の魔力を手に入れたとしたなら、お前を無理にガブリエルと契約する必要性は無い。しかし、契約すればより強力な魔力を手に入れる事が出来る。まずはシフルールに行き、お前が魔力をコントロール出来るようにしてもらう」



 差された方に視線を送る可憐。古代人が作ったような簡単なモニュメントというのが第一印象だった。数十個の岩を、円をかくように並べてあるのが七メートルほどの高さであった。



「簡単に言えば、私を試しているのね。逆に、私がそこであなたたちと同じ魔力を得る事は出来なかったら、私は光と契約しなければならない。でも、私が彼との契約を拒んだら? 私を裁くの?」


 挑戦的な瞳で猛を見た可憐。しかし、猛はいつものように剣を出すのでは無く、別の方向を指差した。それにつられるように視線を移動させる可憐。そこには、人間界では負の遺産とされている牢獄そっくりなものが微かながら見えた。



「俺は魂を持つ人間を裁く事は出来ない。だから、お前がガブリエルと契約すると口にするまであの独房に閉じ込める。それだけだ。まあ、シフルールにより魔力をコントロール出来れば今は急いで契約しなくても構わないが」



 それだけ言うと猛はシフルールに身体の方向を向け、再び可憐を横抱きにした。そして、六枚の翼を広げ、飛び立った。



「飛んだ!?」



 足をばたつかせる可憐を眼力だけで静める猛。



「足を使って歩く契約者はほとんどいない。飛んだ方が早いだろ」



 納得するような素振りを見せ、動くのをやめる可憐。猛の言うとおり、空中を一直線で横切った方が歩いたら三十分はかかると可憐が勝手に見積もっていた距離だったシフルールが、数分で到着した。

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