第10話 堕落+契約

「おばあちゃん、もう体調は大丈夫?」


 ミルク粥を作り、優美は祖母にそれを食べさせていた。


 やせ細った祖母は血管に薬を投入され続けられていた。


「ごめんね、優美ちゃん。学校、行きたかったでしょ?」


 子犬が食べる量と変わらない量しか食べ物を口に出来ない祖母は、優美の頭をそっと撫でた。優美は食べさせていたミルク粥を机の上に置いた。


「大丈夫よ、学校くらい。まとめて勉強したら授業ついていけるし。おばあちゃんは自分の身体だけを心配して」


 祖母の命を繋ぐ点滴は一定のリズムを刻む。


「あたしがもっと頭がよかったらSランクに上がって最先端の医療をおばあちゃんに受けられるのに。ごめんね、おばあちゃん」



 優美は祖母の細く、弱った身体を壊さないようにそっと抱き締めた。祖母もそれに応えるように優美を抱き締める。



「優美ちゃんはいい子だから謝る必要ないのよ。あなたはお母さんそっくりね。優しくて、気遣いが出来て暖かいとてもいい子に育ってくれた。それだけで幸せよ。おばあちゃん」



 祖母が優美を抱き締める力が急に弱くなった。優美は慌てて祖母をベッドに安静にさせる。



「おばあちゃん!?」



 咳き込む祖母の手を握り締める優美。点滴の量を増やそうとすれば祖母が優美の手を握りしめ、阻止した。



「いいの、優美ちゃん。もういいの。逝かせて。優美ちゃんに伝えたい事言えたから。天国で優美ちゃんを見守らせて」



 優美に捕まるように起き上がり、祖母は優美を抱き締めた。



「いや……。おばあちゃん……。死んじゃ嫌だよ!」



 優美の涙が祖母の服を濡らした。祖母は笑っていた。



「人はね、死んだらみんな天国に行くの。そこで優美ちゃんのお母さんとお父さんと一緒に優美ちゃんを見守るからね。だから、優美ちゃんは生きて。優美ちゃん、大好きよ」



 祖母はそこまで言うと崩れ落ちるように優美から離れた。祖母の心臓は動いていなかった。



「嘘……。嫌だよ! おばあちゃん! あたしを置いて逝かないで! 一人になっちゃうよ!」



 優美が祖母の身体を揺らした。しかし、遺体は何も返してくれなかった。


 優美の泣き声が部屋中に響いた。慰める人間はいなかった。


 一時間程泣き続けた時、優美は背後に人の気配を感じた。



「可哀想な優美ちゃん」



 振り返ると、そこには七海が哀れみの目で泣き崩れる優美を見ていた。



「な、七海ちゃん?」



 黒の衣装で統一された七海はまるで、葬式帰りの少女のようだった。服装の色とは程遠い桃色の髪がより一層際立つ。


 祖母の亡骸に近づき、両手を合わせる七海。



「これで優美ちゃんは独りぼっちになっちゃったね。本当に独りぼっち」



 合わせていた両手を広げ、七海はその手を優美の頬にやった。


 次の瞬間、優美の脳内に祖母との記憶が鮮やかに蘇った。



「凄く優しいおばあちゃんだったんだね。両親が自殺してからずっと優美ちゃんを育ててくれたんだ」



 優美の耳元で囁く七海。優美の涙腺は崩壊していた。



「もしも、両親が自殺しないでおばあちゃんが生きていたら。こんな家庭だったんだよ」



 七海が魔力を優美に注いだ。優美の脳内に、七海が仮想した世界が浮かぶ。両親と祖母で夕食をとり、学校での出来事を話す優美。親友の話しをし、家族のリアクションを待っていた。



「やめてよ……」



 必死で声を出す優美を無視して七海は次々に叶わない夢を優美に見せ続ける。遊園地、ピクニック、家事手伝い。全て家族全員でする事が無かった優美が望んだ夢だった。



「でも、もう叶わない夢。あなたには手に入れる事は不可能」



 七海が優美の頬から手を離した。優美の脳内を犯していた七海の魔力は無くなった。



「でも、あなたはラッキーよ。優美。あなたは、わたしがいる。私と契約したら来世は必ず幸せな家庭に生まれる事が出来る」



「七海ちゃんと契約……」



 虚ろな目をした優美。光の言葉はもう頭から抜けていた。



「わたしにあなたの魂を預けてちょうだい。あなたは死んで、生まれ変わるの」



 更に耳元で囁く七海。彼女の身体からは禍々しい魔力が溢れていた。


「あたしが生まれ変わる……。幸せな家庭に生まれ変わる……」


 暗示にかかったように七海の言葉を復唱する優美。彼女の涙はもう枯れてしまっていた。



「優美、わたしと契約すると言って。そうすればあなたは救われる。わたしはあなたを救いたいの」



 再び優美の頬に触れる七海。今度は魔力を注がず、自分と視線を合わせるだけだ。



「あたしと契約して下さい。あたしの魂を捧げる代わりに、来世で幸せな家庭に生まれ変わる事を保証して下さい」



 優美の言葉を聞いた時、七海はゆっくりと口角を上げた。



「了解」



 七海が優美の顎を指先で触り、視線を合わせる。そしてそのまま自分の唇を優美の唇に重ねた。それと同時に七海の背中から黒い翼が生えた。黒い翼と七海の魔力が二人を包んだ。髪も桃色から服の色に近い暗い色となり、腰まで真っ直ぐと伸びる。


 徐々に七海から死人が放つ異臭が放たれる。唇は二人の物ではない血が溢れていた。


 魔力の量が増えるのに比例するかのように優美の容姿が変化した。着ていた服は溶け、代わりに魔力で出来た黒い服が彼女を包む。背中には七海ほどではないが、優美にも黒い翼が生えた。


 七海の唇から血が零れた。血の付いた床から蛇が顔を出した。舌を出しながら蛇は優美の首にゆっくりと巻きついた。

 七海が優美から唇を離した時、優美の魂はまだ優美の体内にあった。



「契約終了。悪魔誕生ね」



 七海が立ち上がった。目を閉じていた優美はゆっくりと目を開けた。



「あたしが……悪魔」



 優美の脳内に天空でのおぞましい記憶が流れこんできた。



「まさか、あなたがこのような存在になるなんて……。あの方のお考えは正しかったのね!」



 優美の黒い翼が羽ばたいた。アスタロトほどではないが、翼からは死人の臭いがした。アスタロトは優美の耳元で何かを囁いた。一度優美から離れ、血塗られた唇を舐める。



「あなたにはあの人たちを絶望させて欲しいの」



 アスタロトの言葉に優美は目を見開いた。



「あたしが…?」


「サタン様が復活したと天使たちが知れば、パニックするでしょうね。それにあなたがサタン様だったと知れば、磯崎可憐の絶望は比べものにならないわ」



 優美の頬を撫でるアスタロト。顔が近いため、口からする死人の臭いが優美の鼻孔を刺激する。



「御意」



 可憐という名を聞いて優美は一瞬ためらったが、脳内の他人の記憶がそれを妨げた。



「サタン……。十地獄第一地獄〝いと高き者どもの地獄〟地獄長のサタン。これが今のあたしの名前」



 アスタロトの使う魔力と似た色を基調としたフリル付きのワンピース。腰や胸部のデザインが優美の身体のラインを強調していた。


「やりましたわ! やっとお目覚めですね! サタン様!」


 アスタロトの黒い翼がバサバサと音をたてた。彼女の興奮度と比例するように異臭の濃さが上がっていった。


 優美はそんなアスタロトを無表情で見つめていた。



「明日が楽しみだわ。早くあの方に連絡しないと」



 くるくる回るアスタロト。彼女の闇と毒を混ぜたような色をした髪が遠心力により宙を舞う。



「では明日。おやすみなさい、優美ちゃん」



 アスタロトが翼で自分を包んだ。数秒後、七海の格好に戻ったアスタロトは魔力と共に姿を消した。


 残された優美は立ち上がり、辺りを見回した。視界には祖母の遺体があったが、自分とアスタロトの魔力によって、朽ち果て、ミイラのようになっていた。



「あたしが悪魔……」



 容姿で変わったのは翼だけだった。服も材料は分からなかったが、着心地は悪くなかったしデザインも優美好みだった。



「実感無いけど、おばあちゃんが死んで悲しいという感情が無くなったし、さっきの記憶もあるし、あたし、本当に悪魔になったんだ。光明君が言ったみたいに魂が抜かれるなんて無かったみたい。可憐の言う通り、ペテン師ね」



 優美は身体中に魔力が溢れるのを実感した。指先には黒よりも闇に近く、紫よりも毒々しい魔力が滴り落ちている。



「このまま魔力がただ漏れしていたらあたしの身体が持たないわね。人間に戻るには、翼で自分を包めばいいのかしら」



 アスタロトが七海に戻った時を思い出しながら、自分の翼を不器用に動かした。翼から魔力が流れるのを感じた。優美がゆっくり目を閉じると、まぶたの裏には悪魔の記憶が鮮明な映像として現れた。それに比例するかのように優美としての記憶に上書きされていった。


 数分後、毒々しい悪魔の姿は無く、そこには優美の姿があった。彼女の首に巻かれていた蛇は赤いリボンとなり、未だに彼女の首に巻き付いていた。



「この姿になったりあっちに戻ったりするのって本当に魔力使うなぁ……」



 優美は今までの悪魔としての記憶を整理した。天界への裏切りや、キリストへの誘惑―。神話の話がつい昨日の出来事のような感覚に優美は襲われた。



「魔力を回復するには人間の魂が必要」



 優美は床に不可解な模様を魔力で描き始めた。首に巻かれたリボンが蛇へと変わり、魔力で描かれた模様の上をなぞるように進んでいった。



「あたしの周りで魂を捧げられる人間の男は……」



 それだけ言うと、優美は笑みをこぼし、深い眠りについた。


 二時間後、隣の公共住宅で一人の少年が首を吊って命を絶ったのを、母親により発見された。

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