第4話 樹君
一子さんの家の扉を大きく叩いた。呼び鈴も鳴らし、声もかけた。近所迷惑だと思うけど、後で事情を説明すればきっと近所の人も分かってくれる。
むしろ、もう分かってもらえているかもしれない。
「はい……玲君?」
おばさん、一子さんの母親が出てきた。良かった、帰って来てた。仕事で遅くなる日も多々あるから。
っと、今それどころじゃない。
「おばさん、一子さんが大変」
「大変って」
「とりあえず入って良いですか」
「え、えぇ」
「おじゃまします」
彼女の部屋の位置は分かっている。僕は靴を投げるように脱いで、家の中へ入って行った。
「一子、さん」
彼女の部屋に入った僕は、その光景に言葉を失った。
「っは……、一子、ね、気持ちい?」
ベッドの上に裸で寝ていた一子さん。
いつもの僕であれば一子さんの綺麗な体に興奮していたかもしれない。
けれど彼女の胸の先端に触れている樹君の手を見て、興奮なんて出来ない。
むしろ、怒りの方が勝って。
彼を無理やりベッドから降ろして、思いっきり頬をビンタしてしまった。
本当は拳で殴りたかった。何度も何度も、泣くまで殴っても許されると思う。
けど一子さんのために、つい手加減してしまった。
「……何で」
小声と共に涙を溢した樹君。
「何でって、ダメだよ、こんなの」
「何でだよ、何がダメなんだよ。今までずっと好きで、愛されたくて、でも我慢して。一子は普通じゃないから、普通の恋愛なんて出来ない。だから僕が我慢すれば、ずっと一緒にいられるって思ってた。なのに、何なんだよお前。いきなり出てきて、一子奪っただけじゃなくて、ボクらとも恋人になる? ふざけるのもいい加減にしろよ!」
僕も一子さんが好きだ。だから彼の気持ちが分からない訳じゃない。ましてや彼の方が彼女に手を出すなんて出来ない環境。
でも。
「だったら僕の事殴るなりなんなりすれば良いじゃないか。一子さんに手を出すのは間違ってると思うし、許さないよ」
そう言ってみたものの、樹君は僕を殴れないと思う。
一子さんは他人が傷つくくらいなら、自分が傷つこうとするタイプだ。仮に僕が殴られるのと樹君に抱かれるの、どちらかを迫られたら後者を選ぶだろう。
きっと樹君も、それは分かっている。だからこんな事をした。
本当に彼女の事が好きなら、彼女が傷つく事はしない。僕もそう。
「お前なんか嫌いだ」
「その顔で言われると傷つくよね」
「大っ嫌いだ!」
「分かってるよ。でも僕は樹君を嫌いにはなれない。全員の恋人だからね。悪い事したら止めるけど、思考回路は全部受け入れるよ」
「……っ、ほんっと嫌い、何なんだよ……ざけんなよ……」
その場に座り込んで、すすり泣きを続けた樹君。僕は黙って、その場に居続ける事しか出来なかった。
しばらくして、部屋が静かになった。もしかして寝ちゃったかな。
顔を覗き込もうとした、その時だ。
「……あれ、玲君? 何で、私の部屋に」
「い、一子さん!?」
まさかのタイミングで起きてしまった一子さん。スッと立ち上がり、生まれたままの姿で僕の前に立つ。
「うん、ん、えっ、な、何で私裸で、い、やぁあああ! 見ないで、見ないで!」
布団を引っ張って、全身を隠すように包まった一子さん。
小刻みに震えているのが布団越しでも分かる。起きて脱がされてたら、そりゃそうなるわな。
「一子……?」
青い顔したおばさんが、扉の前で口元を押えて立っている。
マズいな、僕がやったと思われてもおかしくない状況だ。
「一子、大丈夫? 一子」
「おかーさん……おかーさん……」
部屋の中に入ってきたおばさんは、布団ごと一子さんを抱きしめた。
そして僕の顔を見ながら、苦笑を向ける。
「来てくれてありがとう。でも今日は帰って頂戴。あとは家族の問題だから、ね」
そう言われてしまっては、今の僕は大人しく帰るしかない。
心配ではあるけど、流石の樹君も母親の前では大人しくしてるだろう。幸い、僕がやったとは思われてないようだし。ここはご家族に任せよう。
「はい。よろしくお願いします……」
それだけ言って、僕は彼女の部屋を出た。
***
土曜日の正午。僕の家の玄関まで訪れた一子さん。
「こんにちは、昨日はありがとう。あ、一応今日だったんだっけ。ともかく、お母さんと……樹に聞いた」
「そう、ですか」
少し影のある表情をしていた一子さん。どんな話し合いがあったのかは分からない。聞かない方がいいやつ。話してくれたら聞くけど。
「でも樹を追い出す事は出来ないし、嫌いにもなれないの」
「分かってますよ。だから一子さんは僕に兄妹達とも付き合えって言ったんでしょう」
一子さんは頷いて、自分の家を指さした。
「他にも色々お話したいんだけど、いいかな」
「……はい」
少し躊躇ってしまった。やっぱり玲君と付き合わない、兄妹達と付き合うって言うのも無し! って言われたらどうしよう。
いや一子さんだし、断るならもっと丁寧な言葉遣いはしてくれるだろうけど。
どちらにせよ嫌だな。
とはいえ返事はしてしまったし。
覚悟を決めて、彼女達の家へおじゃまするとしよう。
「座ってて。今飲み物入れるから」
「ありがとうございます」
ピーっ。お湯の湧く音がした。
「もうちょっと待っててね。あれ、どこやったけ。前に買ったの。佳乃の時食べちゃったかな」
台所の戸棚を開ける一子さん。
「何か無いんですか」
「うん。見つからないから……普通のココアでいい?」
普通じゃないココアがあるのだろうか。
「大丈夫ですよ。昨日も同じもの、三葉さんと佳乃ちゃんから頂きました」
「そう?」
お湯をカップに注いでくれた。
「ごめんね、甘くないよ」
言うほど甘くない訳じゃない。
ソファに座る。しかも、隣に。
「……どう? 皆と仲良くなった?」
「元々皆知ってるんで、既に仲は良いと思います。樹君を除いて」
「あぁ、やっぱり」
「何とかして好かれるように努力しますけどね。一応恋人になる人なので」
「大丈夫そう?」
「大丈夫じゃないですよ。ニ依奈は良い奴だからまぁいいとして。樹君、三葉さんは男の人ですし。佳乃ちゃんに至っては五歳だ」
「そうでしょ、だから」
俯いた一子さん。
予想通りの答えが返ってくる前に、僕の気持ちを伝えよう。
「それでも、一子さんが皆と付き合えってんなら、僕は皆と付き合います」
顔を上げた一子さんは目を大きく見開いていた。
「……いいの?」
「はい。正直、皆込みで一子さんの事好きですし。一子さんが僕の事嫌いなら諦めますが、ただ兄妹達の事を思って僕を振るようなのであれば、僕は諦められない」
「あっ、えっと、違うの。確かに、兄妹達が心配だから、私は誰とも付き合えないと思ってるんだけど、玲君が嫌いって訳じゃなくて。出来る事なら恋人っぽい事もしてみたいと思うくらいには、その、玲君の事好きだから!」
顔を真っ赤にさせた一子さん。
僕は頑張ってすまし顔をしているが、内心嬉しすぎて今すぐ小躍りしたい。
「では一つご提案が。遊園地のチケット貰ったんですけど、良ければ明日どうでしょうか」
「……楽しそうだけど、どうだろ。人いっぱいだろうから」
「何かあったら、僕がカバーしますから。僕も恋人っぽい事してみたいと思ってますし、一子さんと行きたいなーって」
「うん……そうだね。このままじゃダメだしね。頑張ってみる」
出来れば頑張らないで楽しんでもらいたいんだけど。
それより小躍りしてもいいかな。
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