第12話 小さな椅子

「院長先生、やっぱり私…昔の自分に向き合ってみようと思うんです…ここ2、3日気になってあまり眠れない感じで…。やめたほうがいいでしょうか…」

 元々おとなしいサチホだが、よほど悩んでいるのだろうか? 院長室に一人でやってきた…すると院長先生は、黙って部屋の金庫室の鍵を開け、中から小さな金属の箱を取り出した。そして場所と使い方を丁寧に教えて最後に言った。

「何かつらいことがあったら、いつでもここに帰ってきなさい。おいしいハーブティーをいつも用意しているからね」

「はい」

 そしてサチホは歩き出した。修道院の隣の、葡萄園の奥の、あの醸造所の方へと…。

 今日はいつもの新入生仲間はそれぞれの組で上級生たちと研修している。トパーズ組は超能力格闘技の実践トレーニング。セシルはいい汗をかいているに違いない。アデル達ルビー組は森の劇場で歌とダンスの特訓だ。その澄んだ歌声が時々葡萄園にも漏れ聞こえてくる。エメラルド組は今日は院長先生の植物園の世話だ。ここは修道院の敷地の中と同じで、身の危険は何一つない。でも見事なほどに独りぼっちだ。サチホは葡萄園の葡萄の生き垣を通り抜け、醸造所エの道を歩き出す、そうだ近くに小川があって…水車小屋も見える。そうだこの道だ。そして付きあたりに木でできた山小屋のような小さな家がある。院長先生もこの家だと言っていた。

 小さなステップを踏んで玄関の前に出る。あの金属の箱を開けると一枚のカードキーが出てくる。玄関に差し込む。

「お帰りなさい。空き屋モードになってから十一年3カ月の時間が経過しています。この期間、週に一度のロボットハウスメンテナンスのほかに来訪者はいませんでした」

 …そうだここは開拓者のためのオートハウス…誰かが外側に山小屋風の木の飾りをつけたんだっけ…誰だかは思いだせないけれど…。

 ドアが静かに開く。キッチンの横を通り、リビングへ歩いて行く。ロボットメンテナンスは凄い、どこもピカピカで、まるで時間を飛び越えて十一年前の世界に飛び込んできたようだ。

「冷蔵庫スイッチオンします。ちなみに中は今、カラです。自動製氷機能オン」

「エアコン自動運転開始します。あと2分で快適な温度になります」

 そうだ、ここが懐かしの我が家だ。ファミリー用のオートハウスだ。でも何かがおかしい…何かが違う。リビングの奥まで何気なく歩いて、そしてわかった。

「わあ、私の椅子だわ。でも、なんて小さいのかしら」

 そう、7才のサチホはもう十八になり、視線の高さがまるっきり違っていたのだ。サチホは大きく息をして、椅子に腰かけてみた。その、小さな椅子に。すると正面に置かれたマルチモニターのランプが光、声がした。

「瞳光彩認証、人相認証年齢補正の後確認されました。サチホさん、お帰りなさい。前回より十一年3カ月経過しています」

 そしてパソコン画面が起動し、ネットが開通し、長期間利用してなかったせいか、何かシステムの大幅なバージョンアップと更新作業が始まり、画面がいろいろなメッセージでいっぱいになり、でもそれもあっという間に終わった。

 画面にはいくつかのアイコンが並んでいた。

「あれえ、このイラストのアイコン、この間倒れる前に醸造所で見た女の人の顔だわ…いったい誰なのかしら」

 髪の長い、なかなかの美人だ。そのアイコンを何気なくクリックすると暗証番号を聞かれたが、思い突いた番号2100(ブドウエン)を入力するとおしゃれなマルチ画面が開いたのだった。この人の名前はロワーヌ。この星に農業開拓民としてやってきた家族の二代目で、両親とともに葡萄の栽培やワインづくりにかかわり、当時はそばのカナリヤ歌劇団でも活躍していたようだ。

「…こ、これは…」

 ロワーヌの日記のようなページが開く…。聞いたことのある名前が出てきて…ついあちこちを読んでしまう…。サチホがこの惑星を出るときに唯一持っていた生物図鑑、その作者森川博士のことらしい記述が目についた。


「森川が初めてうちに来た時のことをまだ昨日のことのように覚えている。

『葡萄の栽培の経験のある農家を探していまして…。』

夜遅くに両親のところにモシャモシャ頭のおかしな若者がやってきた。大学の生物学の研究者で、遺跡で発見されたワインの種を研究することになって、葡萄の栽培やワインづくりを教えてほしいというのだ。地球でワインの栽培や醸造をやっていた父親が、その熱心さを気に入り、そのうち男は毎日大学の研究室から葡萄園に通い、手伝いを積極的にしてくれるようになった」

「その男、森川は、そのうち醸造所の外れに開拓者用のオートハウスを借りて、住みこむようになり、陽気な性格も相まって家族の一員となった。オートハウスが葡萄園に合わないと回りを木で囲って、山小屋風に改造したりもした。それを見て、隣の修道院の院長先生が感心し、みんなに声をかけ、修道院の周りにもレンガの壁ができたんだっけ」

 ロワーヌは当時二十才だったが、研究一筋の彼にだんだん興味を持つようになる。

「その男、森川が凄かったのは、うちの父親に教えてもらったことを得意のイラストと楽しい文章で、その日のうちに入門書のようにまとめてしまうことだった。彼は十日いれば十日分のイラストマニュアルのようなものを書きあげて、どんどん自分の物にしてしまうのだ。私はそのイラストマニュアルが面白いと、つい見せてもらえるように頼み込んだ。葡萄だけでなく、ブレンドに使われている薬草の栽培、実際に森の中で薬草探しを始めると、その様子が全部、栽培マニュアルになったり、ラルゴアの森のイラストマップになったりして、そのうち私は世界一の彼の読者になった」

 ある干ばつの年、彼は葡萄が枯れてしまうと、近くの川から一人で小さなダムと水路を作り、葡萄園まで水を引いた。葡萄は彼が作った直接根に水やりをするシステムで、みるみる元気になった。だが、彼は完成直後、熱中症で倒れ、緊急搬送、気がつくと、看病までしてもらってかえってすまない、すまないと謝ってきたという。

 死ぬほど頑張って働いて、しかも葡萄たちをかしこく元気にして、倒れて、しかも少しも威張ることもない…当時二十才だったロワーヌは、その様子を見て、この人しかいないと運命的なものを感じ、猛烈にアタックを開始したらしい。

「私、森川さんと結婚します」

 そう周囲に宣言したロワーヌだったが、年齢も十以上離れ、研究に熱心だった彼は最初の一年は、まったく相手にしなかったという。それを陰から見ていた両親も娘を応援、さらに歌劇団も陰ながら彼女を応援、そしてロワーヌはありとあらゆる作戦を実行し、ついに研究一筋の彼も陥落となり、そしてここに、希代のおしどり夫婦が誕生となったのである。当時森川は三十二才、ロワーヌは二十一才、そして1年後に、一人娘のサチホが生まれる

「え? サチホ? 私じゃない?」

 いったいどういうこと…? あの醸造所の若い女の人は、自分の母親で…自分が唯一この惑星を出るときに持っていた大事な生物図鑑を作った森川博士がお父さんだったなんて…。

 でも、事実を知った今も、写真や文章を見れば見るほど、母と父のことは、まるでそこだけ暗い穴でもあるかのようになにも憶えていない、なにも出てこない。ただ、これ以上思い出すのはいけないことでは、引き返した方がいいような気もしてくる…。

 もう少し読んだら、わかるのだろうか…。

 とにかく二人は仲が良く、信じあっていて、喧嘩もまったくしなかった。結婚しても森川の忙しさは変わらなかったが、家事から農家の仕事、一年後に生まれた娘サチホの世話まで、森川はまめにこなしていく。

「…特に異星人の村めぐりをしていた時期は、週に1、2回しか家に帰れず、荒野やジャングルを毎日歩き回っていた時期があった。…森川は夜遅くにぼろきれのようになって帰ってきて、シャワーの後、バスタオルを渡しに行ったら、そのまま私の手の中で一度倒れかかり、そのあと、死んだように眠りに着いた。でも3時間ほどしか寝ていないのに、何も知らない娘が起こしに行くとちゃんと起きて遊んでやっていた。森川はうとうとしながらも世界一幸せそうであった。…娘があれはなに、これはなにと聞く。まだこの星には生物図鑑さえなかった。でもきちんと答えようとする森川。最初は、得意のイラストと文章で、葡萄園の周囲の植物や動物のパンフレットみたいなものを作っていたが。それがだんだん範囲と種類を広げ、近くの川やそのうちラルゴアの森にも広がり、大型の野生動物や異星人類まで収録されるようになった。さらにいろいろな分野の専門家と資料を交換するようなことも積極的に行い、ある日気がつくと、この惑星初めての総合的な生物図鑑になっていた。

「あの生物図鑑は…私のために…だから…」

 …でもそこまでわかっても、なにか肝心なことが思い出せない。

「ある日彼がぽつんと言った。

『おれ、生物学が専門なんだけれど、そうも言っていられなくなったよ』

当時異星人との交流に力を入れ始めた森川であった。そして大学の言語学の専門家をたずねて、また何か作り始めた。

『異星人類のための地球の言語、初級編』

防水太陽電池駆動のタブレットに入ったそれは、見るだけで言葉が覚えられる地球言語入門で、物に対する認識や概念が大きく異なる異星人たちにも理解してもらえるように、シンプルな操作で盛りだくさんな内容だった。パットビューンもミオラムスもこれで流暢にしゃべれるようになったという」

 そして幼いサチホの写真や動画もたくさんあった。美人のロワーヌ、探検服みたいな服を着てゴーグルをつけてニコニコ笑う森川博士…。あの巨大なガッツゴーンの大きな肩にちょこんと乗った自分の姿…でもどうしたのだろう、一番肝心なところが思いだせず、自分の両親だと言う実感につながっていかないのだ…。

「ああ、これこれ! そうだ、修道院の中にあの頃は幼稚園があったんだ。今はどこにあるんだろう…」

 当時の幼稚園の仲間の写真もけっこうあった。中には今も歌劇団にいるジェニーや、ぽっちゃりしたライアンの姿もあった。十一年して、またみんな同じ場所に戻ってきたのだ…そして、小学校の入学式…。そのうち文章はだんだん量が減り…惑星トレドは、騎士団戦争の時代へと突入していく。

「あれ、終わっちゃった…!」

 母の日記はある日を境に突然終わり、そこから後のことは何も分からなかった。そう、それが十一年前、いったいその時に何があったというのだろうか。

「私もジェニーもそのあとでこの星を去り、セシルやルドガーは、宇宙空間のコロニーにいたために帝国に連れ去られた」

 サチホは静かに椅子を立つと、懐かしの我が家を出て、またカードキーをかけ直し、ゆっくりと歌劇団の寮へと帰って行ったのだった。いろいろの事実がわかったけれど、何か一番大事なことは何も思いだせない。そこに行きつくには、まだ、大きな壁を越えなければならないようだった。

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